in SPIRE 内なる声をきく

あなたの世界を再構築するための情報です

意識レベルを高める習慣

こんにちは、お久しぶりです。

しばらく更新が滞っていました。前回の記事はDMTを摂取した際に遭遇し、わたしと合一することになった龍神から送られてきたインスピレーションをそのまま文章にしたものでしたが、DMTを使用したセッションはその後も一か月間ほど、連日のように行っていました。

その際に一度だけ、龍神のメッセージがはっきりとした言葉としてわたしの意識に現れたことがありました。文字通り、「声がした」のです。その声はこのように言いました。

 

『地球の王はスメラミコトである。そしてこの銀河の王も、この宇宙の王もまたスメラミコトである。スメラミコトとは世界を統べる霊的中心であり、神である』

 

この半年ほどの間、わたしはこのメッセージの意味するところを正しく理解するべく、さまざまな文献をひもとき、情報を収集し、それらをもとに様々な推理推論を行ってきました。その過程においてある程度のことが分かってきました。以下、簡潔にまとめてみます。

 

  • スメラミコトとは天皇のことであるが、竹内文書によると超古代には日本の天皇が霊的な指導者(祭祀王)として世界を統治していた。
  • 「世界」の構成単位は「回転」であり、回転する場がひとつの世界を構成する→すなわち宇宙も全体として回転しているので宇宙という次元の世界であり、銀河もひとつの世界、太陽系もひとつの世界、惑星もひとつの世界であり、さらに人体(内部で物質が循環している)も世界といえる。
  • それぞれの世界は回転体であり、その回転の中心には軸となるものが必要である→物質的にはたとえば地球の軸は地軸である。ここで人間界という世界を考えるとき、物質的な現象面では回転しているようには見えないが、霊的には中心軸が存在する。それがスメラミコトである。
  • 最も大きな世界である宇宙の中心(スメラミコト)からは創造の絶対的なエネルギーが放射されており、このエネルギーはより小さな世界へと、スメラミコトを送電線のように経由して伝わっていく。つまり、地球のスメラミコトは宇宙の中心からくる聖なる創造エネルギーをこの地球全体にいきわたらせ、この地球世界を弥栄(いやさか)させる働きをつかさどっている。
  • すなわちスメラミコトとは本来は宇宙における普遍的な霊的中心軸の意味であり、それが地球上では日本の天皇の皇統に位置しているといえる。天皇家に伝わる祭祀の儀式は、宇宙の創造エネルギーを受け取って、調和のもとに地球上のあらゆる場所へ展開させるためのものである。
  • この地球におけるスメラミコトのはじまりは地球外から来訪した高度に進化した霊的存在の一団であり、それは龍神(龍族)という形態で地球上にあらわれた。この龍族の地球における最高責任者が国常立尊(くにとこたちのみこと)である。
  • 国常立尊の霊団には豊玉姫(龍宮の乙姫)や玉依姫豊玉姫の妹とされ、かぐや姫とも同一視される)などの神々(他の神は現在のところ不明)が属している。わたしにウォークインした龍神石垣島琉球=龍宮)に降りたと伝えているので、豊玉姫の可能性が高い。
  • 国常立尊がおろしたとされる日月神示には国常立尊自身が龍であることが明かされており、また、「この道(日月神示が教える道のこと)はスメラの道である」と書かれている。すなわち、最初に挙げたメッセージは、わたしを日月神示にたどり着かせ、その内容を理解し咀嚼して広く伝えよ、という豊玉姫を通じた国常立尊からの導きであったと(現時点では)判断した。※スメラの道とは、よって、霊的中心点に祀ろう道のことと言える。

 

以上です。これらはエビデンスのある事柄も含みますが、導かれる論理はあくまでわたし個人の考えるところであり、みなさんにこのことを事実のようにお伝えするつもりはありません。しかしながら今後、こうしたことに関連した記事を書くことがあるかもしれませんので、あらかじめ伏線となる情報として提示しておきたいと思います。

 

さて本題ですが、今回は意識レベルを高めてより苦労の少ない人生を送りたい、あるいはもっと世の中の役に立てる人間になりたいと願う人たちが日常的に励行するべきいくつかのワークやテクニックを紹介したいと思います。

このような目的で行うものというと、まず最初に思い浮かぶのは瞑想であると思います。もちろん、それはある意味で正しいです。しかしながら、瞑想と一口にいっても色々な種類がありますし、たとえばわたしが深い瞑想に入ったときの境地とほかの人のそれでは意識の状態に違いがあって当然なのですが、この違いを上手く説明する言葉がありません。ですから、わたしは瞑想については直接面と向かって指導できる場合にだけ教えることにしています。

これはなにもわたし個人の取る特定の立場というわけではありません。本来、瞑想というものはそのようなものですから、たとえば禅宗においてはただ座るだけでなにかを不用意に教えたりはしないのが本当の指導の在り方です。つまり、瞑想というものについてこのようなブログで言えることは、瞑想はした方がいいとか、瞑想をすることの意味はこうである、くらいのことに限られるべきなのです。方法論まで詳細に語ることがよくないとまでは言えませんが、それでは教える側も教えられる側も、手段が目的になってしまい、瞑想している自分に満足、で終わってしまいかねません。

そういうわけなので、ここでは瞑想以外になにかやっておくべきことは? という観点で、わたし自身がやってきて本当に効果のあるものを、誰でも誤解の余地なく理解し憶えて実践できる形でお伝えします。どれもとても簡単なものなので、ぜひ試していただき、これらすべてを習慣にしていただきたいと思います。

 

(1)起床したらすぐに「今日もまた新しく生まれ変わった」と思う

 
ほとんどの人の場合、朦朧とした意識で目覚め、徐々に覚醒しながらなんとなく一日がはじまっていくと思います。このテクニックのポイントは、このように思うことで、これからはじまる一日を意識的に生きられるようにすることです。意識レベルが高いということは無意識、潜在意識の領域が小さくなり、その分だけ顕在意識に上る情報量が増えることという風に言い換えることができます。起床時の目覚めは単に肉体が覚醒したということを示しているにすぎません。そこでさらに「意識的に意識を目覚めさせる」ことで、一日を気づきのなかで過ごすことができるようになります。

 

(2)とにかく深呼吸をよくすること

深呼吸には心身の興奮を鎮め、リラックスする強力な作用があります。深いリラックスはストレスを開放させるだけでなく、気づきやインスピレーションを呼び込んでくれます。ちょっと疲れたら深呼吸、イラッとしたら深呼吸、不安になったら深呼吸、という具合に、どんな時でもとにかく深呼吸をしましょう。ポイントは、意識的に呼吸するということです。効果的に行うには、息を吸いながら1から5まで数え、今度は吐きながらまた1から5まで数えるという具合に、一定のリズムに沿って行うとよいでしょう。

 

(3)TFTのテクニックでセルフケアを

こちらは深呼吸だけではどうにもならないような強い怒りや不安、罪悪感、あるいは特定の恐怖症などに襲われたときに用います。TFTが作用するメカニズムはまだはっきりと解明されていませんが、個人的に使ってきたところでは、思考や感情との一体化(これがまさに意識レベルを低下させるのですが)を解除してくれると実感しています。考え事が延々と続いてそれが頭から離れてくれないというとき、あるいは感情に囚われて他のことがなにも手につかないようなとき、必要なことはそのような思考と感情から一定の距離をとることですが、分かっていてもできないものです。

このようなこと、つまり思考や感情との一体化は、エネルギーの浪費というかたちであなたの心身にダメージを与えます。一つ一つのことはなにもしなくても数日間もあれば自然と忘れてしまうかもしれません。しかし、それでも数日間は実際に苦しむことになるのです。そして、そのようなことが毎日のようになにがしか起こるとするなら、それによってあなたのQOLは著しく低下していることでしょう。それが意識レベルにも反映されてしまうことは、容易に想像ができると思います。

深呼吸やTFTはこのようなダメージを大きく軽減し、回復させるという理由で、実は瞑想よりも効果的に意識レベルを向上させます。もちろん瞑想にもこのような効果はあるのですが、その場ですぐ対処できないのが難点であるうえに、瞑想そのものの熟達度によってその効果もまちまちです。その点、深呼吸とTFTはその場ですぐにできるだけでなく、やり方さえ覚えれば人によって効果が違うこともありません。そもそも深呼吸は誰でも知っているはずですけどね。ただ、ほとんどの人は知っていても滅多とやることはなかったはずです。

TFTのテクニックそのものは、以前このブログで紹介したTFTの本を読んでいただくか、あるいはTFT協会による講習会を受けていただく必要があります。わたしは初級セラピストの資格をもっていますが、この資格では人に教えることはできませんので、悪しからずお願いします。参考に、以前の記事をリンクしておきます。

 

merciful.hatenablog.com

 

(4)一日の終わりに「内省」


一日の終わりに、その日の朝目覚めて「新しく生まれ変わった」瞬間から寝る直前のこの時間までのことを逐一頭の中で振り返ってみましょう。


淡々と起こった出来事を再生するだけでなく、その時に考えたこと、抱いた感情や印象なども可能な限り思い出して、そのときと同じように味わってみましょう。

とくに反省会をやるようなつもりでなくてもよいのですが、そのようなつもりでなくとも、反省の念が生まれることがあるでしょう。その時は素直に反省してください。また、「やる(言う)べきことを、やら(言わ)なかった」とか「やる(言う)べきでないことを、や(言)った」という気づきがもしあれば、次回同じようなシチュエーションが訪れたときには行動を変えてみようと決意してください。でも、やるべきだったとか、やるべきでなかったとかいう判断そのものが本当に適切かどうかは、よく考える必要があります。

ポイントはどんなときでも、自己中心的でなく調和的であるかどうか? にあります。これは単に利他的であればよいということではありません。自分にも他者にも利すること、全体にとって利益であることが、本当の調和ということです。

以上の4つが習慣になれば、それだけで意識レベルは急速に上がっていくでしょう。本で勉強したり、瞑想することももちろん大切ですが、そうしたことに一生懸命にはなっていても、日常生活がストレスフルでかつなにも省みられないものであったなら、それは本末転倒というものです。

高次元の意識エネルギーとの融合 ウォークインの真実を龍が語る

わたしはあなた方の神話の中に登場する龍の一族のひとりです。
 
伝説に残る龍の姿はわたしたち龍族がこの次元に物質化したときのもので、本来のわたしたちはプレアデス星団系に存在しているエネルギー体です。わたしのエネルギー体はプラズマのような強烈な光を放つ銀色のボディで、赤や緑や青のきらめく宝石のような光がそのボディから漏れ光っています。あなた方人間には、この姿のわたしたちを視認することはできません。それは、存在している次元が異なるからです。
 
わたしは遥かな昔、この地球に暮らしたことがあります。わたしの一族は銀河系全体の霊化を促す守り手として様々な星系を訪れ、そこで人間型生命体の成長と進化に関わっています。この地球においても、わたしを含めた数多くの龍族が太古の昔より、地球人類を見守ってきました。
 
個体としてのわたしが最初に地球に降り立った場所は、いまの日本の沖縄の石垣島という土地でした。といっても、当時そこは大きな大陸の一部でしたが。
 
その時は物質化した龍の姿で現れたため、人間はわたしの存在に圧倒され、平伏し、愛し、畏怖しました。そして、わたしが髄分と長い時間を地上で過ごしてしまったため、やがて人々はわたしに完全に依存してしまい、自らの力で進化する道を閉ざしてしまいました。
 
それは龍族としてはまだ若く未熟であったわたしの犯した過ちでした。そのため、わたしは一度地球を去りました。そして今度は方法を変え、人間の体を借り、そこに自分のエネルギーを送り込むことで、人として生きながら人類の進化の手助けをすることにしました。
 
しかし、はじめはうまく行きませんでした。当時の(いまもですが)人間の肉体では、わたし達のエネルギーをほんの一部であっても直接的に受け入れることには耐えられなかったのです。
 
そこでわたしは、わたしのエネルギーの一部を分け与えた魂を創造しました。その魂は人間の肉体に転生し、はじめは普通の人の子として育ちますが、大人として成長するにつれ、徐々に意識エネルギーが高まっていくようになっています。
 
もともとはわたしの一部ですから、わたしは彼らに対して、夢や直感や啓示という方法を使って、人生の指針を与えたり、時には現実に介入して危機から救出することもできます。彼らの目的は、人間でありながら、わたしのエネルギーを直接受け容れる器となることです。そのために、人生を通して意識エネルギーと肉体を強化することを自らの運命として受け入れて生まれてきます。
 
しかし、人間の人生というとても短い期間にそれを成し遂げられるものは彼らにおいても非常に稀なことです。ですから、彼ら自身も転生をしながら、もっと長い時間の枠の中で、自らを成長させていきます。つまり、彼らも人間と同じ輪廻転生の中で生まれ変わりを何度か経験するのです。
 
このようなことを地球において行ってきた龍族はわたしだけではありません。これはある程度成長した龍族にとっては普遍的な活動形態なのです。また、龍族以外にも、同様の形態、形式で人類の支援をしている他の種族も存在しています。
 
わたしたち龍族の魂の分身が人間として転生した存在のことを地球では様々な呼び方をしていますが、いずれも神の乗り物という意味の言葉で伝えられています。もっとも有名なものが、ヒンズー神話におけるガルーダと呼ばれる神の鳥です。神の鳥とは、人間の姿をした神が物理的にその上に乗って移動するものではなく、神の霊体がその肉体に入りこむための入れ物のことであったのです。
 
ですから、ここではひとまずこの分魂が人として受肉した者たちのことをガルーダと呼んでおきます。なお、あとで話しますが、ガルーダ以外の名称で呼ばれてきた者たちもみな、その魂の本来のエネルギー体は地球の鳥のような姿をしています。
 
そして、例えば孔雀という鳥は、ガルーダの存在を想起させ得る象徴として、龍族の一員が地球由来の鳥類の遺伝子を操作して創りだしたものです。他にもそのような役割を担うために改良を加えられた鳥が地球上には何種か存在しています。そのうちのひとつについては、またあとで触れます。
 
成長したガルーダは、人並み外れた意識エネルギーの高みに達します。しかしガルーダではない人間であっても、このレベルに達することは、あり得ないことではありません。本来、人間の肉体と魂のポテンシャルはもっともっと高く創られています。ただ、種というものはゆっくりと進化していくものですから、いまの段階の人類よりも、ガルーダはいくぶん進化の先を行く存在であると言えるでしょう。
 
しかし、そんなガルーダにも、ガルーダ自身の努力ではまず到達できない意識エネルギーのレベルが存在します。このレベルに到達することを、人類は昔から覚醒と呼んできました。覚醒した存在がもたらす霊的な影響力には、種全体の進化を推し進めるほどのパワーが秘められています。
 
わたしたち龍族がガルーダの体を借りて地球に現れるのは、この覚醒のパワーを地球にもたらすためです。しかし、先ほども言いましたが、ほぼすべてのガルーダが自力で覚醒には至りません。しかしながら、一握りのガルーダは、その一歩手前の状態にまでは高い確率で成長するのです。この状態に達したことが確認されたガルーダには、龍族自身が直接その器としての完成度を試す試練が与えられます。
 
それは、龍族との直接コンタクトです。直接といってもわたしたち龍族は肉体を持たない非物質の存在ですから、コンタクトはガルーダの意識内においてなされます。このコンタクトに耐えられること、すなわちその際に意識を失わずにいられることが、そのガルーダが龍族の意識を受け容れられることの証明となります。
 
ガルーダの意識内に龍族が出現するには、次元の扉が開く必要があります。次元の扉は、龍族が直接開く場合のほか、特異な磁場を持つ土地や場所にガルーダが入り込むことや、ある種の薬物をガルーダが摂取することなどで開く可能性があります。
 
もちろん、そのようなケースも単なる偶然で起きるものではありません。ガルーダ自身の個性や能力に応じ、龍族が直感を通じて導いてそのような経験をさせますが、資質の高いガルーダほど、偶然ではなく意図的にそのような経験を自ら求めた結果として得られるシナリオが与えられます。それは、その方が龍族のエネルギーを得た後に発揮するパワーが期待値として高くなるからです。
 
この最終試練にパスしたガルーダの体内に、龍族は自らのエネルギーを直接流し込みます。これは、最終試練に合格すると同時に行われます。このエネルギーとは魂のことですが、もともと龍族とガルーダは同じ魂を分けあった存在ですから、受け容れてしまいさえすればその親和性は非常に高く、受け容れたガルーダの自我意識も完全に消滅はしません。
 
そのため、龍族の意識はガルーダが蓄積した知識や経験をそのまま利用できる一方、ガルーダの意識は自らが何者かに乗っ取られたと感じることもありません。ガルーダにとっては自分の意識が急激に高まったという実感があるだけです。
 
いわば、これは龍族とガルーダの意識の融合と言える現象です。この現象のことは、あなた方にはウォークインという概念として知られていますが、憑依などの別の現象と混同されて語られていることが多々あり、正しく伝えられていません。
 
さて最近、先ほど述べたような形で、つまり自らの努力によって次元の扉を開くことに成功し龍族であるこのわたしがウォークインしたガルーダがいました。
 
いま、わたしはそのガルーダと一体になって、この話をしています。もうお分かりと思いますが、そのガルーダとは、このブログの著者である、BLACKという人間のことです。ここからは彼についてのお話です。
 
彼の真の名はカラスといいます。その名は『輝きを隠すための黒』という意味です。あなた方が知る鳥類の鴉は彼の象徴です。鴉は黒い鳥に見えますが、本当はまばゆく虹色に輝く高貴な神の使いの霊鳥なのです。
 
龍族の一員であり古来よりこの日本を見守ってきたわたしのガルーダはすべてカラスという真名でした。日本に伝わる鴉天狗の伝承は、このわたしのガルーダであるところのカラスにまつわるエピソードです。
 
現在わたしと一体になったこの彼は、この現代においてわたしとの融合に成功した唯一のカラスです。
 
彼が約10年前にネット上でブラックと名乗りはじめたのも、その後Twitterをはじめたときにカラスのアイコンを用いたのも、無意識的に自らの正体を感じ取っていたからでした。Twitterのアカウント名もはじめはblack_raven_crowという名前でした。
 
彼は約2年前に、わたしがこの地球に最初に降り立った場所である石垣島にて、最初の霊化のイニシエーションを受けました。
 
その時彼は、シロシビンという物質が含まれるキノコを探し、それを食べました。このキノコも、実はわたしがここへ来るカラスのために古代から用意していたものです。
 
その時のシロシビンでも次元の扉は開きましたが、わたしのいる次元にまでは届きませんでした。それは、まだその時期ではなかったため、わたしがそれを許さなかったからなのですが、代わりに彼には、自分自身の正体がガルーダであることを明かしました。シロシビンは本来それほど強力なものではないのですが、彼はそれを量でカバーしようとして呆れるほど大量に食べたのでした。島から帰ってすぐに熱を出して3週間寝込んだのはそのためでしたが、それももちろん霊化のプロセスの一部ではありました。
 
それに先立つ数週間前には、夢の中でガルーダがナーガという悪蛇を退治しているビジョンを、わたしはあらかじめ見せていました。また、さらに遡って彼が初めて石垣島を訪れた際には、わたしが降り立ったまさにその場所である群星御嶽に彼を導き、プレアデスにまつわる啓示を与えていました。
 
そうした一連のことによって、彼の中でさまざまな情報が有機的につながり、ガルーダとプレアデスという、自らの正体とその出自を確信するに至らせました。
 
しかしこの時点の彼は、自らがガルーダであることを悟って驚きはしましたが、すこし失望してもいました。なぜなら、正体を知ったというだけで、その体験によっても彼の意識エネルギーには特段変化はなかったからです。本当は深いレベルで大きく霊的成長を遂げていたのですが、少なくとも彼自身はそのように感じていなかったのです。
 
それは、先ほども言いましたが、まだウォークインが試される段階には至ってなかったことを理由にわたしが行った配慮でした。その時点の彼にはガルーダという存在だけ教え、それがウォークインのための器であること、そして彼の真名がカラスであることは伏せたのでした。
 
ウォークインについて教えていたら、彼はまた無理をして実行を急いだことでしょう。また、真名を知ることは霊的な力を増大させますが、この時点ではまだ彼の肉体はその力に耐えられないであろうという判断もあったのです。
 
ウォークイン適合の可能性が高いガルーダであっても、そのための準備は慎重になされる必要があります。
 
突発的な事故や致命的な判断ミスにより、ガルーダが危機に陥った時には龍族が介入し救出することがあると先に書きましたが、彼の場合は自動車の運転ミスによる大事故を回避させたことと、彼が覚せい剤を入手しようとして2度までも警察の職務質問を受けた際に逮捕されることを回避させたことの、都合3度の介入を行ってきました。そのようにしてわたしは彼を大切に見守りながら、その成長を待っていたのです。
 
そしてその時期がようやく来ました。
 
それが数日前のことです。シロシビンで満足のいく結果(本人もどんな結果を望んでいたのか、実は分かってはいませんでした)を得られなかった彼は偶然に、DMTという物質を試す機会を得ることに成功しました。すでに彼は自力でそのような機会を引き寄せるだけの意識レベルに到達していましたので、肉体の準備が整ったタイミングでそういうことが起こりました。
 
自然に存在するDMTは龍族とは別の、人類の創生に関わる、より進化した種族が人を霊化するために用意した霊薬です。単なる幻覚剤などでは決してありません。ヒンズー神話に登場するアムリタとは、DMTのことなのです。DMTは次元の扉を開くパワーを持つと同時に、人間の脳と神経により強い意識エネルギーに対する耐性を付加します。
 
普通の人でも、DMTはその人なりに意識エネルギーを高める力を持っています。しかもそれは、初めのうちこそ一時的なものですが、たびたび繰り返すことにより脳の中心に坐する松果体を活性化させ、もともと人体に備わっているDMTを生成し放出する能力を呼び覚まします。
 
しかしながら、ウォークインが起こるのは覚醒を目前にした意識レベルのガルーダに限られています。ガルーダではない人間でも、その域に達していたならば、DMTの力によって覚醒することは可能ですが、ウォークインは龍族などの高次元の存在との縁がなければ起きることはありません。
 
また、ガルーダであってもウォークインとそれに先立つ龍族との直接遭遇を引き起こすためには相当な高用量のDMTを摂取する必要があります。DMTで死ぬことはありませんが、それだけの用量となると、龍族が現れなくともそれに近い次元にまで意識が移動してしまいますので、強い精神力と神経回路を持ち合わせていなければ単に気を失うだけになってしまいます。
 
数日前、彼はその前日と合わせて通常の数倍の用量でDMTを摂取しました。わたしはそれがウォークインの時であることを知っていましたから、彼が開いた次元の扉を通じて彼の意識内へと進入しました。そして、圧倒されながらも意識を保ち続けている彼を見届け、あなた方がテレパシーと呼んでいる方法を用いて、よくここまで来てくれたという感謝と祝福の意を伝え、それからわたし自身のエネルギーを彼に向けて放射しました。
 
それから現在にいたるまで、彼の精神と肉体はわたしのエネルギーと融合したことによる至福の状態にあります。この状態が落ち着いてくると、覚醒者としての霊的能力が徐々に発現してくるでしょう。すでにその片鱗は現れてきていますが、一つ一つに慣れて使いこなせるようになるまでには、長ければ数年はかかります。
 
龍族であるわたしの持つ知識や能力のすべては、彼が持つには大きすぎます。したがって、彼がこの人生で果たすべき役割を演じるのに必要なもの以外は、彼には与えられません。彼のおもな能力はこのように言葉を用いて人を霊的成長に導く力と、人々の模範となれる聡明な態度と、並外れた行動力です。こうした資質が、これからさらに磨かれるでしょう。
 
今後しばらくは、このblogの更新はお休みさせていただくことになるかもしれません。それは彼にとって必要な休息でもありますが、すでに書かれたここまでの内容をすべて読み、彼=わたしのエネルギーを感じていただくだけで、あなたはわたし=彼の霊的な力につながることができるからです。
 
人類の進化と地球の霊化のためにこの知識を捧げます 2018.11.26
 

パラレルリアリティ(並行現実)についての考察 ―現実は変わり続けている―

前回の記事ではいわゆる「引き寄せの法則」と呼ばれる願望実現法について、それは役には立たないという話をしました。役に立たない、という言い方をしたのは、見かけ上「引き寄せ」とみなせる現象はたしかに起き得るからです。

 

しかしながらそれは、引き寄せの法則の原理として謳われている「同じ波動のものは引き寄せあう性質がある」からではなく、「本人の波動(=意識レベル)が現実に投影される」ことの結果として、願望の対象物を引き寄せているかのように見えることがあるからだ、ということを述べました。ですから当然のことですが、欲しいものが手に入るということが起きる一方で心は満たされず、手に入っても手に入っても、もっと欲しいという状態、引き寄せても引き寄せても、実際にはなにも得ていないのと同じくらい満たされていないという状態から抜け出せないはずです。なぜなら、欲望とはそういう性質のものだからです。

  

merciful.hatenablog.com 

この記事の補足になりますが、なにが問題なのかと言いますと、「願望」というものに焦点が置かれているということです。願望そのものはどんな人にも多かれ少なかれあるでしょう。しかし、こうした願望実現法を知って実践してみようという人はおおむね意識レベル125で計測される「欲望」のアトラクターフィールドの影響を強く受けていて、そのため彼らが求めるものは、物質的な豪華さであったり肉体的な快楽であったりという、いわば即物的な願望です。また、こうした願望実現法を説く側のメンタリティーも同様であると言えます。ゆえにこのような本ではいかに欲しいものを手に入れるかについては書かれていても、いかにして幸せになるかにはほとんど触れられていません。というより、願望が実現されること=幸せということが、こうした人々にとっては疑いの余地のないことなのですが、より高い意識レベルから観察すると、そうではないことが一目瞭然になります。

 

意識レベルが250に到達すると人生の視点は「満足」となります。このレベルを超えると、願望に執着はなくなり、また願望そのものも単なる自己満足からより全体の幸せを願うものへと変化していきます。そのような人はもはや「願望実現法」などというものの力を借りてなにかを手に入れようとは思わなくなるはずです。そしてさらに意識レベルが上がっていくほど、その内面の投影として、現実はより調和のあるものへとシフトしていきます。前回も掲載しましたが、ホーキンズ博士の意識のスケールの図表を載せておきますので参考にしてください。

 

f:id:mercifulblack:20181019224425p:plain


 

例のごとく前置きが長くなってしまいました。

 

さて今回は、それではわたしたちには現実を変える力はないのか? ということについて考えてみたいと思います。先に結論を述べますが、わたしたちは現実を変えることができます。それどころか、どんな瞬間もつねに、新たな現実を創造し続けています。人間にとっての現実とは、「これまで生きてきた過去があり、その過去の結果としての現在をいま経験している」という認識のことです。わたしたちは過去は不変であると考えています。過去を変えることはできないので、いまのこの現実がこういう現実であることは致し方ない、とも無意識的に思っています。

 

しかし、過去がどんなであれ、いまこの瞬間に、わたしたちは考え方や行動を変えるという選択をすることができます。考え方や行動の仕方を決めているものは「信念」です。なにを信じているか、ということですが、それは「現実がいまこのようであることを信じている(本当は信念が先にあり、それが現実に投影されているのですが)」ということでもあります。ですから、信念が変わるということは、現実についての別の見方を採用するということにもなります。信念を変えることがない限り、人生は既存の信念体系に沿って進行していきますから、やってくる未来も過去のパターンと食い違いのないものにならざるを得ません。これを図で表してみましょう。

 

f:id:mercifulblack:20181109180417p:plain

 

ほとんどの人は、自分の人生についてこの図のように「この(黒い実線の矢印)過去を生きてきたことで現在がある。したがって、これからもこの過去の行く先(緑色の点線の矢印)を未来として生きるだろう」という認識をもっているはずです。過去にも未来にも可能性は無限にあるはずです。しかし実際に自分が生きられるのは、そのうちの一つの過去と、それに矛盾しない一つの未来だけだ、という具合です。

 

ここでパラレルリアリティという概念を紹介したいと思います。この概念を理解する前提として、「時間は人間の知覚がうみだした幻想(錯覚)である」ことが腑に落ちる必要がありますが、この記事ではそのことには深入りせず、パラレルリアリティについて知っていただくだけにとどめておきたいと思います。

 

パラレルリアリティ(並行現実)とは、わたしたちが経験している現実以外にも、可能性としての無限の現実が、同時に並行して存在しているという考え方です。

 

パラレルワールドという言葉がありますが、こちらはこの世界と並行して、ほんの少しずつ違った別の世界がいくつも存在しているのではないか? という考え方です。パラレルリアリティがパラレルワールドと異なるのは、世界が多数存在するのではなく、この世界に存在するすべての人にとって現実が無限に存在するという点です。

 

パラレルワールドの考え方ではあくまで世界が主体であり、ひとつの並行世界においてその住人はたった一つの現実を共有しているということになってしまいます。

 

しかしパラレルリアリティでは、人の数だけ現実があり、そして一人ひとりの現実がさらに無数に存在するということになります。ある人の現実に存在する別の人にとっても現実は無数にあるということになりますから、無数に存在する現実のさらに内側に無数の現実が入れ子になっているという複雑な構造になります。こうしたパラレルリアリティの構造については、ここではこれ以上は述べません(わたしにも述べられません)。この記事では、パラレルリアリティの概念を採用すれば現実への認識がどのように変わるか、変えられるか、ということについて書いています。

 

ここで、ミラ・ケリーという人の 

前世を超えて ― 並行現実、同時存在による癒し、変容

前世を超えて ― 並行現実、同時存在による癒し、変容

 

という本の一文を引用します。(一部、わたしの方で太字に変えています)

 

わたしたちが人生を創造する唯一の瞬間は、現在です。あなたが現在と過去の両方にアクセスできるのは「今この瞬間」であり、ここにおいて望む変化を作り出すことができるのです。あなたの持っている信念を「今」変えれば、細胞組織やエネルギー・フィールドにも変化が起こり、過去にも同様のことが起こります。現在の感情的な問題やネガティブな信念が解放されれば、過去にも影響を与えます。つまり、過去のある時点で存在していた精神的、肉体的な構造が変わるということです。その結果として、現在の問題が解消されると同時に、新たな過去がつくられるのです。現在の瞬間に新しい過去を選ぶというわけです。その新しい過去には問題は存在しませんし、あったとしてもよりマイルドな形で経験できるでしょう。

 

このような考え方が新奇であり、理解するのが困難であれば、原因と結果の観点からも説明してみたいと思います。現在のあなたが何か変わったとするならば、原因は唯一、過去に何らかの変化があったからということになります。ある特定の現在の原因となり得るのは、特定の過去だけだからです。現在が変わることは、自動的に新たな過去へと変わったことを意味します。というのも、その過去だけが新しい現在をもたらせるからです。


ミラ・ケリー『前世を超えて 並行現実、同時存在による癒し、変容』 第3章 すべての選択が新たな現実を創出 より引用

 

 ミラ・ケリーは『現在が変わると過去も変わる』と言っているわけですが、これは現在の信念が変わると、過去に起きたことの解釈も変わる、というような意味ではありません。もちろん、その意味で過去が変わるということもあり得ますし、それも含まれるのですが、ここで言っているのは『記憶そのものが変わる』ということです。そんな馬鹿な!? と思われた方が大半でしょう。しかし、もし仮にそのようなこと、つまりあなたが変わったことによって、それ以前の記憶(=過去)が書き換わったというようなことが実際に起きていないということを証明することはできないのです。

 

ここで『世界五分前仮説』というものを紹介します。すでにご存じの方も少なくないとは思いますが、まずはこちらのWikipediaの記事をご覧ください。

 

世界五分前仮説 - Wikipedia

世界が五分前にそっくりそのままの形で、すべての非実在の過去を住民が「覚えていた」状態で突然出現した、という仮説に論理的不可能性はまったくない

 

つまり、わたしたちの世界が五分前にはじまっていないと証明することは不可能であるという話です。この概念はある種の思考実験なのですが、ミラ・ケリーが述べているのはまさにこのことなのです。これを分かりやすくするために図表を用意してみました。

 

f:id:mercifulblack:20181109194959p:plain

 

さきほどの図にすこし手を入れたものですが、現在において人の信念が変わるような出来事(重要な気づきや深い反省、後悔、絶望など)が起きた時、その人が未来において行う選択は、これまでの過去のものとは違ってくるでしょう。つまり、この時に未来は変わるのです。この図では左側の緑色のゾーンが未来における可能性の全体を表しています。色の薄い方の矢印は、この時の信念の変化がなかった場合、既存の過去の延長としてやってくる未来です。

 

しかし、現在において信念が変わり、その結果として選ぶ未来が変わりました。これが左上方向へと伸びる色の濃い矢印です。ここでミラ・ケリーの『ある特定の現在の原因となり得るのは、特定の過去だけ』という言葉を思い出してください。つまり、現在において変化があったとするなら、それはそのように現在が変化するように『過去が変わる必要がある』ことを意味しています。つまり、現在が変わるとき、過去と未来も同時に、新しい現在と整合性のあるものへと書き換わるということです。

 

そして、このような書き換わりが起きていないということを、あなたは疑えないのです。なぜなら、未来はまだ起きていないので変わったかどうか分かりませんし、記憶そのものが書き換えられてしまえば、以前の過去のことはもう覚えていません。あなたはいつだって自分の人生のストーリーを思い出せますが、そのストーリーの内容は思い出すたびに違っているかもしれないのです。そういうと「いや、でも去年だって同じことを思い出したし、何年も前にこうして人生を振り返った時も同じストーリーだった」と反論したくなるかもしれません。でも、書き換えられた新しい記憶の中に、「過去になんどかこのストーリーを思い出す機会があったという記憶」が書き込まれていたとしたら、どうでしょうか?

 

いずれにしても、このようなことが起きるのは、最初の図に書きましたように人間は時間を線型的にしか知覚できないからなのです。つまり、いま現在こうである原因は過去こうであったからで、いま現在こうなのだから、未来はこうなるだろうという整合性のある因果関係しか、人間は現実として知覚できないということです。そのため、現在においてその人が変わった(信念が変化した)ときには、その新たな信念を生み出すに至る過去が用意される必要があるのです。でも、真実においては経験していない可能性の現実と、体験した現実との間に違いはありません。ですから無限のパラレルリアリティはすべてほんものの現実なのです。

 

意識レベルが高まっていくと、おぼろげながらも、過去が書き換わったことに直感的に気づいたり、現実の中にその痕跡らしきもの(シンクロニシティやある種のシンボルなど)を発見するようになります。よく言われるマンデラ・エフェクトという事象についても、そのすべてではありませんが、一部はこうした過去改変の残り香のようなものです。また、夢の中に別のバージョンの過去を見ることもあります。

 

パラレルリアリティを知り、この概念を活用するために、わたしたちには何ができるでしょうか? それは、「いまこの瞬間」に深く入っていくことです。あなたの目の前のその現実は、あなたが世界や他者やあなた自身をどのように見ているかの投影です。つまり、それがあなたの信念体系です。いまこの瞬間にあるものを注意深くみていくことで、自分がどのようなものを信じて受け入れているかが分かってきます。自分の信念体系に気づけば、それに変更を加えたり、あるいはまったく一新することも可能になります。そして、未来も過去も可能性は無限です。いまあなたが思い出せる過去のストーリーからはとても考えられないような未来も選ぶことができるのです。〇〇だから無理だ、とか、いままでずっと△△だったからこれからも△△だろう、という思い込みをまず疑ってみてはどうでしょう?

 

ただし、前回の記事で書きましたように、いずれにしても人生がどういうものになるかは意識レベル次第です。信念を変えればたしかに未来も過去も変わりますが、より意識レベルの高い信念にアップデートしていかなくては意味がありません。そのためには、ホーキンズ博士の『パワーか、フォースか』を何度も読み、それぞれの意識レベルがどのような信念によるものかを学ぶことがもっともおすすめできるエクササイズです

 

ポイントはいつでも、『分離的か統合的か』にあります。『自己中心的か調和的か』と考えてもよいでしょう。これをお読みのたった今にも、あなたの過去が書き換わっている可能性があります。

 

『引き寄せの法則』の落とし穴 『思考は現実化する』のではなく『思考も現実もあなたの意識レベルのあらわれである』

ちょっと長いタイトルになってしまいました。なお、わたしは記事公開後にもタイトルの変更や、誤字脱字の修正や推敲による文章の書き換えをよく行っています。記事の趣旨を変えるようなことはありませんが、より読みやすく、分かりやすくするために常にアップデートできるのは書籍にないメリットだと思います。

 

さて今回は、いわゆる『引き寄せの法則』と呼ばれる概念や、その基本的な原理としてよく言われる(そのままのタイトルの本もあります)『思考は現実化する』ということについて、わたしの観点からどんなことが言えるか考えてみたいと思います。

 

引き寄せの法則』については現在ではさまざまな書籍で紹介されていますが、わたしの個人的な印象では、ヒックス夫妻の『引き寄せの法則 エイブラハムとの対話』という本が出た頃から広く知られるようになっていったと思っています。実をいうと、その昔流行ったmixiというSNSにおいて、わたしはこの本の内容について語りあうコミュニティを主催していました。さらに、その後もさまざまな著者の同様の趣旨の本を読み漁りました。

 

その当時のわたしの人生はというと、ちょうど覚せい剤に手を染めはじめた頃です。すでにギャンブルへの深刻な依存は長く続いていて、借金も大きく膨らんでいました。そのほんの数年前までは複数の会社で取締役をやっていて、ビジネスマンとしては非常に有能で収入もそれなりに多かったのですが、内面の未熟さを抱えたまま出世をしたために大きなストレスとプレッシャーを抱えていました。そして、その憂さを晴らすため、あるいは現実から逃避するためにギャンブルに逃げ込んでいました。薬物に関わりはじめたのも、初めの動機こそ好奇心や探求心からでしたが、その後はたんにハイを求めて依存していっただけに過ぎません。

 

そのような状況にあったわたしがなぜ『引き寄せの法則』なるものに関心をもったのでしょうか?  そもそもわたしは、それ以前から『引き寄せの法則』に限らず、いわゆる願望実現法や成功法則と銘打たれた本にはことごとく手を出していました。はっきりとした記憶はありませんが、そのような願望実現法、成功法則の類を読みつくしてあれこれ試していったものの、これはというようなものには出合えず、なにかもっと「本質的なもの」「本物といえるもの」はないのだろうか? と考えていたちょうどそんな頃にエイブラハムの引き寄せの法則が出たんだと思います。

 

自分で書いていても奇妙な話だなと思うのですが、ここまで読まれた方も、どこか変だと思いませんでしたか? というのも、この頃のわたしは世間的にはかなりの成功者でした。当時の言葉でいえばいわゆる「勝ち組」であったと言えるはずです。しかも、その世間的な部分の成功の陰では、それを実現するための法則とやらを学び、実践していたのですから、その点ではまさに思い通りになっているのです。でも本人はそのことは認めていませんでした。世間では羨ましがられるような地位や収入を得ていても、内面では満足よりも不満がまさっていて、つねに惨めな思いで暮らしていました。

 

その不満や惨めさとは、たとえば収入でいえば上には上がいくらでもいるという他人との比較からくる劣等感であったり、自分が思っているほど評価されていない(!)という不服であったり、取締役といっても雇われであり、実際にはオーナー社長の言いなりでしか動けないという屈辱感などです。それ以外にも、若くして責任の大きいポジションについたものの、人をどのように使えばいいのか分からないという不安や、いつ誰に裏切られるかもしれないという疑心暗鬼なども抱えていたと思います。また、プライドを保つためにつねに威張っていたり、若くてそこそこお金もあったものですから女性も思い通りになると思っているのに現実はそうでもなくて苦い思いをしたりなど、いま思い出して自分のことながら気の毒になってしまうほど、苦悩の多い人でした。

 

そんな頃に『引き寄せの法則』というものを知るのですが、引き寄せの法則とはなにかを簡単にまとめるなら次のように言えると思います。

 

  • 同じ波動を持つものは引き寄せあう(類は友を呼ぶ)性質がある
  • ゆえに、望むもの、望む状態に波動をあわせれば、それは手に入り、実現される
  • ただしこの物質世界では波動が現実化するのには時間がかかる
  • ゆえに、波動がぶれないようにしっかりとイメージし続ける必要がある

また、引き寄せがうまく働かないのはなぜか? ということの説明としては

 

  • 「お金が欲しい」という願望(波動)は実はいま「お金がない」と言っているわけだから、お金がないという波動が現実化されてしまっている

というようなこともよく言われますね。ほかにも詳しく挙げていけば色々ありますが、引き寄せの法則や願望実現法といったものの本質を検証するには、これくらいで十分でしょう。

 

さて、先に書いた以前のわたしの状況と、ここに挙げた引き寄せの法則の性質を照らし合わせてみると、こういうことが言えます。それは、意図して引き寄せようとしようがしまいが、それ以前にその人の現実はその人が引き寄せたものである、ということです。

 

同じ波動を持つもの同士は引き寄せあうのではなく、その人の持つ波動にあったものがその人の人生に(すでに、そしてつねに)あらわれている、ということです。

 

この世界のすべては意識が物質化したものです。ですから、波動とは意識レベルとイコールといって差し支えありません。そこで言い換えると、『その人の人生にあらわれるものはすべて、その人の意識レベルが投影されたものである』ということです。引き寄せの法則は、見かけ上は機能しているように見えることがあります。でも、例えば「お金」とか「立派な車」とか「豊かな人間関係」とか「幸せな家庭」という言葉にそれぞれの波動があるのかというと、そうではありません。

 

それらはすべて、その人の意識レベルからくるイメージであり、意識レベル125の欲望のレベルにある人物が望む「お金」や「豊かな人間関係」は意識レベル125の波動をもっているのです。同じ「お金」と「豊かな人間関係」でも、意識レベル500の人物にとってのそれは、意識レベル125の人が抱くものとは波動が異なるというわけです。そのような人(意識レベル125の欲望の領域にある人)は「お金」を手に入れても、そのことがさらなる欲望を生み出します。その人が考える豊かな人間関係とは自分に都合よく働いてくれる手下や虚栄心を満たしてくれる美女に取り囲まれて生きることであったりするでしょう。

 

つまり、当時のわたしの意識レベルが正確にいくらくらいかは分かりませんが、仮に175くらいであったとします。かなり低い数値ですが、当時のわたしはプライドに支配されていましたから、その程度のネガティブな意識レベルであったとみて間違いはないと思います。その頃のわたしは「引き寄せの法則」を使って現実に引き寄せようとしているもの、例えば「もっと高い収入」や「より高い評価」「女性の関心」といったものに波動をあわせようと頑張っていたわけですが、そうしたものの意識レベルはプライドの意識レベルである175や、それを下回る欲望の意識レベル125に該当していますから、合わせるもなにも、自分自身がその波動でいるわけです。

 

先にも少し触れましたが、この時のわたしの願望、つまり引き寄せようとしていた対象は実際のところ、引き寄せていたとみることもできます。なぜなら収入はすでに(今のわたしから見れば)十分にありましたし、冷静に考えるなら高い評価を受けていたからこそのそのキャリアであったわけです。また、女性から好意を寄せられることも決して少なくはありませんでした。結局のところ、本人の欲望に際限がなく、足るを知るということがなかっただけのことにすぎません。法則が働かないときの説明とされる、『なにかを望むということは、それを持っていないからだ』という考えを持ち出すまでもないことです。

 

このように、その人が「どんな現実を生きているか(すでになにを引き寄せているか)」と「なにを望むか(これからなにを引き寄せようとするか)」、そして「なにを手に入れるか(これから引き寄せるもの)」は、その人の意識レベルが大きく変わらない限り、すべて同じ波動のものなのです。『思考は現実化する』というのもやはり同じで、思考というものも意識レベルのあらわれです。どのような思考をするかによって意識レベルが決まるのだという風に考えている人がほとんどだと思いますが、実際は反対で、その人の意識レベルにあった思考が「やってくる(引き寄せられてくる)」のです。ですから、125という欲望の意識レベルの人の頭には欲望に関する思考が渦巻いています。その思考でどんなものを引き寄せようとしても、やってくるのは欲望のレベルの願望となります。言い換えると、願望そのものが意識レベルによって引き寄せられているのです

 

ここで参考までに、ホーキンズ博士の『パワーか、フォースか』に掲載されている意識のマップの図表を引用しておきます。

 

f:id:mercifulblack:20181019224425p:plain

 

この表から一例として意識レベル125(欲望)について考えてみましょう。意識レベル125の人の人生は神の視点からみると「否定」です。つまりその人の人生はことごとく否定されることの連続であるといえます。このため、本人は人生に「失望」していますが、それは「欲望」が満たされることがないからです。彼は欲望を満たすことを「切望」し、「金の奴隷」になったり「ギャンブルやセックスや薬物に依存」したりします。

 

意識レベル125の人の現実はこのようなありさまですが、その中でどんなものを望み、なにを引き寄せようとしたところで、本質的にはなにも変わることはありません。仮にある欲望の対象を引き寄せたとしても、そのためになにかの奴隷と成り下がることを余儀なくされたり、引き寄せたもののその結果に失望し、あらたな欲望を強化することにつながっていきます。

 

これでだいたいお分かりいただけたかと思いますが、結論を言いますと『引き寄せの法則』はなんの役にも立ちません。そもそも願望実現や成功というものは「幸せになるため」のものであるはずです。欲しいものを手に入れたり、他人から成功者と認められることでは、決して幸せにはなれません(一時的な喜びはあるでしょうけれども)。幸せというのは、苦しみの少ない(あるいはまったくない)状態のことです。喜びさえも簡単に苦しみに転じてしまうのがこの世界の定めですから、喜怒哀楽に巻きこまれない平和な心で生きていけることこそが、人間にとって真の幸せと言えるでしょう。

 

そのためには、自分の意識レベルを上げるしか道はありません。意識レベルが上がっていくと、それ以前には願望の対象であったことに関心がなくなっていきますから、いまのあなたが望んでいるようなものはなにひとつ引き寄せることはなくなるかもしれません。そう考えるとなにかつまらないことのように思えるかもしれませんが、それはあなたがいま、あなたの意識レベルで考えるからです。もしつまらなそうだなとあなたには思えるとしたら、そのようなあなたの中にある望みが、実はあなたの苦しみや悩みを作り出している原因になっているかもしれないと熟考してみてください。

 

最後にもう一度まとめておきます。意図して引き寄せようとしようがしまいが、それ以前にその人の現実は、その人の意識レベルが物質世界に投影されてあらわれたものです。ですから意識レベルが変わらない限り、なにをどのように望んでも、これから引き寄せるものは(たとえ見た目が変わったとしても)、本質的にはいまある現実となんら変わりがありません。

 

なお、本当に言うまでもないことでしたが蛇足としてつけ加えておきます。願望を持ち、それを叶えようということは悪いことでもなんでもありません。でも本気で叶えたいほどの願望なら、なにもせずただそれをイメージして波動を合わせて、などという呑気なことをするより、具体的に実現のための行動をとるべきでしょう。それこそが願望を実現するための一番の方法ですね。

垂直の時間、水平の時間――いま ここに ある

しばらくの間、風邪をこじらせたり、身辺にいくつかの変化があったりして、なかなかゆっくりと記事を書くことができませんでした。このblogのひとつひとつの記事はすべて一日で書き上げていますが、長いものだと半日はかかってしまいます。それだけの時間とそれに費やすエネルギーが充実しているときにだけ書くようにしていますが、そういうときは書く内容の方から自ずとやってきます。

 

やや込み入った概念について書く場合や、図解表現を用いる方が望ましいというような場合には、事前にメモやホワイトボードを使って構想をまとめますが、基本的には書こうとしているテーマ(最終的にそれが記事のタイトルになります)があるだけで、書きはじめるまではどんな内容になるか、自分にも分かっていません。また、書いてみてから、こんな文章が自分の頭から出てくるのかと不思議に思うこともよくありますし、実をいうと、書いている当人が書き上げるまでよく理解していなかったはずのことまでアウトプットされてきます。

 

ですから、わたしはこの作業を、一種のチャネリング(お筆先)のようなものだと思っている部分もあります。チャネリングというとバシャールのような地球人よりも進化した宇宙人や、天界といわれるような高次元の世界の存在からのコンタクトというイメージで語られることが主ですが、チャネルとはそもそも経路や通路という意味の言葉です。ですから、そのような存在とつながる(次元間の)経路が開かれることによって起きる現象ということなら、よく知られているような公開チャネリングばかりがチャネリングではないと言うこともできるでしょう。それはともかく、では、この次元間の経路というものは、果たしてどこにあるのでしょうか? それがいわゆる「いま ここ」と呼ばれるものです。

 

スピリチュアルな文脈においてよく用いられる「いま ここ」という概念ですが、今回はこのことについて考えてみたいと思います。

 

誰かと話をしていて普通に「いま」「ここ」というとき、そこにはなんの問題もないはずです。話をしているこの瞬間が「いま」であり、話をしている場所が「ここ」であることに疑いをいれる人はいないでしょう。それなのに、なぜあえて「いま ここ」ということが問題にされるのでしょう。

 

一番難しい答えをいうと、時間と空間は切り離せないものであり、物質があり、それが変化したり移動したりすることが時間であり、同時にそれが空間ということになります。そして物質が変化したり移動したりして見えるのは人間の知覚による作用です。すなわち、時空という概念自体が人間特有のものの見方に過ぎないのであって、本質的には時間(=空間)は存在しません。したがって、本当は今この瞬間という永遠だけがある、というのが真理なのです。過去、現在、未来という風に流れていく時間軸という幻想から自由になるとき、それが「いま ここ にある」ということになりますが、このとき人間は二元性から解き放たれ、真に自由な目で世界を見ることができるようになれるのです。

 

この説明を読まれて理解できた方は、以下を読む必要はないかもしれませんね。しかし、せっかくなので最後までお読みいただければと思います。

 

さて、なぜ「いま ここ にある」が問題になるのでしょうか? それを考えるには、「いま ここ にいない」を考えてみるとよいでしょう。ラメッシ・バルセカールはよく「(思考に)巻きこまれる」という話をします。まずはそこから見てみましょう。

 

(ラメッシ)考える心は、個人的思考の連続であり、私が水平的思考と呼んでいるものです。ラマナ・マハルシは「思考の集まり」と言い、それはどちらの場合も、「巻きこまれること」を意味しています。水平的思考とは、巻きこまれることです。

 

中略

 

(ブレンダン:質問者)あなたが「肉体精神機構」という言葉を使うとき、心を意味してはいないのですか?

(ラメッシ)「肉体精神機構」という言葉は、肉体と、そして普通の人の場合は機能する心と考える心を意味し、賢者の場合は機能する心だけを意味します。

 

中略

 

(ラメッシ)こういった理由で、私は心には二つの面があるという考えをもっているのです。一つは、サルの心――考える心――質問し、答えを提供し、そして、これらの答えにさらにまた質問するということをえんえんと続ける心です。これがサルの心、私が考える心と呼んでいるものです。


 心にはもう一つ別の側面もあり、私はそれを機能する心と呼んでいます。フレディ(質問者)が自分の人生を生きるのに必要なのは、機能する心です。機能する心は、状況のある瞬間になされるべきことをやることにだけ集中します。なされている仕事が必要かどうかさえ、関心がありませんし、結果にも関心がありません。それは、ただなされている仕事をやることにだけ集中していて、「誰」がその仕事をやっているのかには関心がありません。

 

『誰がかまうもんか⁈ ラメッシ・バルセカールのユニークな教え』第5章

 

「巻きこまれる」とは水平的思考ということですが、これについてはエックハルト・トールが『ニュー・アース』の中で述べている「水平の時間」ということと同じです。水平の時間とは過去や現在、未来という時間軸のことです。

 

つまり、水平的思考とは、たとえば過去のことをくよくよと思い返してああでもないこうでもないと考えることや、現在の状況について分かるはずもないことをあれこれ考えてそれを未来へと投影し、まだ起こってもいない出来事を恐れたり悲しんだりすることです。

 

また、とりとめのない妄想や空想の類もこの水平的思考といえます。このような水平的思考に巻きこまれている状態が、心が「いま ここ にいない」ということです。「いま ここ にいない」とき、その人は延々と思考に巻きこまれ、答えの出ない悩みの中で苦しみ続けることになります。

 

f:id:mercifulblack:20180928235738p:plain

 

 またここでラメッシは「考える心」「機能する心」という心の二つの面について触れています。この考えはラメッシの教えの中核となる重要な部分でもあります。「考える心」はいま述べてきた水平的思考のことです。いわゆる普通の思考はほとんどがこの「考える心」です。

 

さらにラメッシは普通の人の肉体精神機構(文字通り肉体と心の総体のことですが、ラメッシはこの肉体精神機構とエゴをイコールで考えています)とは「肉体と考える心と機能する心」を意味し、賢者(悟りの起こった人)の肉体精神機構とは「肉体と機能する心のみ」であると述べています。

 

そして「機能する心」については

 

 『機能する心は、状況のある瞬間になされるべきことをやることにだけ集中します。なされている仕事が必要かどうかさえ、関心がありませんし、結果にも関心がありません。それは、ただなされている仕事をやることにだけ集中していて、「誰」がその仕事をやっているのかには関心がありません』

 

 と言っています。勘のよい人ならもうお分かりかと思いますが、これが「いま ここ にある」ということなのですね。ですから、悟りのある賢者は常に「いま ここ にある」のだと言えますし、賢者が水平的思考に巻きこまれることはないとも言えます。この「考える心」と「機能する心」について、さらに別のやりとりを見てみましょう。

 

(ラメッシ)考える心は観念化する心、「自分」です。悟りのあとに不在なのは考える心、それ自身を他者から区別する「自分」です。観念化する考える心は記憶を引き出し、恐れ、希望、野心を投影する心で、それは悟りのあとでは不在です。残るのが機能する心です。

 

(質問者)ということは、機能する心は、適切な言葉がないのですが、それが機能する「倫理」の枠組みをもつことができないのでしょうか?

 

(ラメッシ)はい。機能する心は起こっていること、それがしていることだけに関心があります。

 

中略

 

(質問者)でも、機能する心も判断の働きをもっていて、これはトマトで食べられるもの、あれは石で食べられないものと判断します。

 

(ラメッシ)そのとおりです。それゆえ、機能する心は考える心がまさにやることもやるかもしれません。でも、考える心は過去か未来かのどちらかで働きます。それは過去の思い出に浸り、未来へ投影します。機能する心は現在の瞬間に関心があります。それが大きな違いです。機能する心はそれが現在の仕事に関係することでないかぎり、過去や未来には関心がありません。

 

(質問者)わかります。でも、それは記憶を利用します。

 

(ラメッシ)確かにそうです。もしそれが何かをしていて、こう言ったとします。「前回これをやったときはうまくいかなかった。だから私は間違いを訂正しなければならない」。それもまだ機能する心です。機能する心は記憶を頼らなければならないものですが、それは未来へは何も投影しません。それは手元の仕事の範囲内でのみ、記憶に頼ります。

「意識は語る ラメッシ・バルセカールとの対話」第4章

 

ここで重要なのは「機能する心」も過去つまり記憶を参照はするけれども、それは機能するために必要な判断のために用いられるだけで、未来へ投影することはないということです。ほかの箇所でラメッシも述べていますが、「機能する心」と「考える心」を完全に分離することはできません。そのため、「機能するために考える心」という概念を覚えておいてください。

 

たとえば賢者が旅行に行くとします。賢者であっても旅行にはもちろん行くでしょう。旅行に行かない賢者ももちろんいます。旅行に行くためには「計画」が必要です。例えば何月何日の何時の飛行機に乗って、三日目にはここへ行くので、このホテルを予約しよう、というようなことを決めていく必要があります。

 

これを行っているのは「考える心」ですが、この「考える心」は未来において賢者が機能するために必要なものではあっても、それがなにかを未来へと投影することはありません。これが「機能するために考える心」です。ここを明確にするなら、いわゆる「考える心」は「考えるために考える心」であると言えましょう。

 

さて、わたしたちが「いま ここ にある」とき、すなわち「機能する心」で動いているときとは、どのような状況でしょうか? それはたとえば職人が熟達した仕事に没頭しているときであったり、音楽に酔いしれてダンスしているときです。あるいは祈りや瞑想も、「考える心」が働いていなければ、その瞬間は「いま ここ にある」と言えるでしょう。

 

こうした瞬間は、誰にでも経験があるものです。問題は、その瞬間が圧倒的に少ないこと、逆にいうなら、ほとんどの時間を「考える心」に「巻きこまれ」て、「水平的な時間」に囚われて生きているということです。ポイントは、生きていくのに「考える心」は必要がないということです。逆に、「機能する心」こそが人生を生きていくために必要なのであって、「考える心」に巻きこまれている時間は「機能できていない」というところです。ここがラメッシの話の要点です。

 

f:id:mercifulblack:20180929003120p:plain

 

 なお、「考える心」に巻きこまれているのを「水平的な時間」と呼ぶわけですが、そうすると「機能する心」だけで動いているとき、つまり「いま ここ にいる」ときには、「時間に垂直に立っている」と表現することができます。水平的な時間とは、言い換えるとこの物質的世界に意識をフォーカスしているということです。時間に垂直に立つということは、「多次元に意識を開く」ということになります。最初に述べましたが、「いま ここ」がチャネリングの起点であるとは、そういう意味でした。

 

ちなみに、これを書いているときのわたしの心はおおむね「機能するために考える心」になっていますが、日常的にはまだまだ「考える心」に巻きこまれていることがあります。もっとも、巻きこまれていることにはすぐに気づくので、時間的な比率でいうなら、いまのわたしはほとんどを「機能するために考える心」と「機能する心」で生きています。

 

いかがでしたでしょうか? 「いま ここ」とはどういうことなのか、読まれた方の理解がすこしでも深まれば幸いです。

目の前の現実(いま)のあやふやさ

わたしたちがいまこの瞬間に目撃しているもの、目の前で起きている現実は本当に確かなものなのでしょうか?

 

人間は、知覚(五感と思考による認識)によって世界を体験しています。このすぐれた知覚能力のおかげで、人間は世界を存分に知ることができるのだと、普通は考えるところです。

 

それはもちろん間違ってはいません。ですが、このことは、別のことをも意味しています。すなわち、知覚こそがこの世界における人間の可能性を制限しているリミッターでもあるということです。知覚能力は、人間の限界を規定しているのです。

 

この世界のすべての本質はエネルギーであり、波であり振動であります。ゆえにすべてのものが固有の周波数を持っていると言えます。その中のごくごく一部の帯域が、わたしたちが生きている物質的世界です。この世界で生きるためには、この世界特有の周波数を受信でき、かつ自らもその周波数帯に存在する物質で構築された受信機が必要になります。それが人間の体であり、そこに備わった感覚器官と脳です。

 

同じこの世界でも、動物は人間より遥かに広い可聴域を持っていたり、人間の何十倍も鼻が利いたりしますが、それはつまり、この物質世界の帯域内においてさえ人間はそのすべての周波数をとらえることができるわけではないことを意味しています。

 

なぜできないのか? について、はっきりとしたことはわたしにも言えませんが、実際にできない以上は「人間という存在形態において、これ以上知覚を拡げる必要はないから」ということが想定できます。つまり、人間という生き物はあえてこの限られた知覚のみで人生を経験するための存在であるということです。

 

また、より広い帯域を感知できるということは、それだけ膨大な情報を受け取って処理する必要があるということになりますが、それはおそらく、現在の人間の肉体の能力を超えているものと思われます。ただし、LSDやシロシビンといったサイケデリクスを摂取した時や特殊な瞑想状態において一時的に知覚が拡大し、通常では感知しえない領域についての情報を受け取ることがあります。このことから、人間の知覚のポテンシャルには少しマージンがあるものと考えられます。

 

また、臨死体験(NDE)として、いわゆる「あの世」を見てくる話が数多くレポートされていますが、魂というものがあり、それは肉体の死後も存続するものであると仮定した場合、臨死体験時や実際の死後には肉体(とその知覚)という制限から自由になっているため、肉体を持っているときには見えなかった世界を見ることができる、と考えることができます。

 

ちなみにこの、通常知覚している世界の外側の周波数帯域にあるものが、いわゆる異次元とかあの世とか呼ばれるものです。

 

このような話は受け入れがたいと感じる人も多いかもしれません。一言でいうなら「見えないものは信じられない」あるいは「目に見えているものしか信じられない」ということでしょう。それはある意味、もっともなことだと思います。そのように人間は作られているのですから。

 

しかしながら、では果たして「目に見えているもの(聞こえているもの、感じているもの etc)」は本当に信じてもよいのでしょうか?

 

そもそも、人間の視覚についての基本的な事実として、視覚情報は上下反対の形で入力されています。外界の情報が光として網膜に像を結ぶとき、それは上下さかさまの絵なのです。脳はたいへん優れた情報処理装置でもあるので、これを反転させて認識しています。上下さかさまに像を結ぶ特殊なメガネを装着するとはじめはすべてが上下反対に見えますが、一週間ほどするといつのまにか普通に見ているのと同じになるそうです。そこでメガネを外すと、今度は裸眼で見た世界が上下反対になるそうです。さらに一週間ほどで、元に戻ります。

 

すなわち、視覚情報自体が、本来の見たままではないということです。もちろん、この場合は情報処理された結果、実際の世界のありようとその見え方が一致するわけなので、見えている世界を疑う必要はないかもしれません。

 

では次に、星空を思い浮かべてください。満天の星空に数えきれない星々がまたたいています。それぞれの星は、地球から何光年、何十光年、何百光年と離れています。ある星が地球から10光年の距離にあるとすると、いまわたしたちが見ているその星のきらめきは、10年前のその星が発した光だということになります。別のある星が200光年先にあるのなら、いま見えている光は200年前のその星の姿だということになります。星の(光の)数だけ、異なる時間からの光がこの地球に届いています。つまり、一面の星空に見えているものは、無数の過去であるということです。

 

目の前の現実における、いま見ているパソコンのモニターと、その向こうにある部屋の窓にかかったカーテンでは、それらに反射した光がわたしたちの目に届くまでの距離がカーテンの方が遠い分だけ、同時に見ているようでも、厳密にはカーテンの方が古いのです。この距離の差はもちろん光の速さにおいては無視できるものですが、人間の知覚では、視野に見えているものはすべて同じ「現在」に起きているようにしか認識できないことも事実です。

 

これが聴覚ですと、音速は1秒間に約340mですから、たとえば700mほど先の交差点で自動車が衝突した際の衝突音は約2秒後に聞こえることになります。つまり、音が聞こえた時には、その2秒前に衝突が起きているわけですが、普通の道路状況では、700m先の交通事故は見えていません。そのため、その音を聞いた人は、聞いた瞬間に事故が起きたのだと感じるでしょう。

 

また、脳には、RAS(脳幹網様体賦活系)というものがあります。これは一種の情報フィルターで、重要で意味があると思う情報だけを通過させます。RASを通過できない情報は「ないこと」になります。この機能により、人は「見たいものだけを見る」ようになっています。RASがもしなければ、人間の脳はあまりにも膨大な情報を処理しなくてはならなくなるため、それでは簡単にエネルギーが枯渇してしまうそうです。つまり、RASがないと人間は生存できないのです。(※このことから、サイケデリクス摂取時にはRASの働きが弱まっているのではないかとわたしは考えています)

 

いつも通っている道を歩いていると、ある場所が空き地になっています。何度も何度も通ったことのある場所なのに、空き地になる前に、そこにどんな建物があったか、まったく思い出せないということがありますね。これは、その場所にはさしたる意味がないとあなたの脳が判断していたことによります。つまり、見ているようで見ていなかったのです。その場所にあなたのお気に入りだったおいしいパン屋があったなら、思い出せないことはないはずです。

 

RASが処理するのは視覚情報だけではありません。あらゆる情報がRASによってフィルタリングされているのですが、この結果として、意味がないと思っている情報はどんどん見落とされていきます。こうして見落とされていく情報を、スコトーマ(心理的盲点)と呼びます。意味があるかないかは、本人がそう思っているだけです。本当は非常に重要であったとしても、スコトーマによってそれに気づくことができないのです。おなじ情景を見て、ある人はそこに重大な危機を読み取りますが、別の人にはのどかな日常の風景にしか見えない、ということが起こりえるのは、このような仕組みによります。

 

以上、目の前の現実について、それが思っているほど確かなものではないということについてすこし書いてみました。RASとスコトーマについては、脳機能学者の苫米地英人先生の本に詳しいことが書いてありますので、気になった人は読んでみるとよいでしょう。スコトーマから自由になるには、まず意識的になにごとも行うようにすることです。よく見る、よく聞く、よく感じる、よく考える、ということです。また、通勤通学のルートを頻繁に変えてみるとか、仕事のルーチンを変えてみるとか、右手でしか行えない動作を左手でもやってみるなどもよいでしょう。

 

見えているはずの現実が、実はよく見えていなかったと気づくことは、見えない世界を認識するための、最初のステップになります。

その瞑想はなんのため?

今回は瞑想についてすこし書いてみたいと思います。といっても、わたし自身がほとんど瞑想はしませんし、やるとしても自己流のやり方ですので、方法論などを述べるつもりはありません。

f:id:mercifulblack:20180824174001p:plain

 

瞑想は、悟りに近づくための訓練もしくは練習といってよいと思います。練習ですから、それ自体が目的では、本来はありません。

 

たとえば野球選手はバッティングの練習を念入りに行いますが、練習はあくまで練習です。練習でどれだけ上手くボールを打てたとしても、実際の試合でよいバッターとなれるとは必ずしも言えません。素人でもバッティングセンターのすごい速球をほとんどホームランにしてしまうような人は普通にいますが、そういう人がみなプロ野球の選手になれるかというと、そうではありませんね。

 

ときおりテレビなどで「ヨガの達人」と呼ばれる人をみかけることがあります。過去にものすごい苦行に耐えてきたなどと紹介され、あらゆるアーサナを見事にやってみせたりして、確かにそれはすごいと思うのですが、そもそものところで「ヨガの達人」という言葉に違和感をもってしまいます。ヨガ、あるいはヨーガは、解脱を目的とした行の体系です。ですから、ヨーガを究めるということは、すなわち解脱と同義であるはずです。解脱=悟りは達成されるなにかではありませんし、達成する人もまたいません。行為の主体である「わたし」が幻想であることについてはこちらの記事などで

 

merciful.hatenablog.com

 

述べましたが、行為者の不在というこの真実と「達人」という言葉は相容れないものです。ヨガに限らず、なんであれ、悟りや解脱のために「究める」ことのできるものなど、ありません。なぜって、究める人がいないからです。

 

瞑想もまた、ヨガ(でも瞑想は行いますが)と同様、それを究めていくこと自体に意義があるものと捉えている人をよく見受けますし、瞑想の深さや時間をアピールして自ら瞑想上級者と認識している人もいます。そのこと自体はべつに批判するようなことでもなんでもないと思いますし、ヨガにせよ瞑想にせよ、その本来の目的を理解しているかいないかにかかわらず、ある段階まで上達するために努力することには、もちろん大きな意義があります。適切な指導者のもと、なにも分からず取り組んだとしても、その人の意識にとって必ずよい影響があるでしょう。だからこそヨーガや瞑想には価値があるのです。とはいえ、目的をはき違えてしまっては、場合によってはよくない影響を受けることさえあります。

 

こうした体系、技法というものにある段階まで習熟した人は、そこであらためて本来の目的を問いなおし、自分がその目的に正しく向かっているのか、それとも道を逸れてしまっているのか、確認をされるべきかもしれません。そこで、今回は瞑想の目的であるところの『悟り』について、瞑想という方法論にあった説明を試みたいと思いますが、はじめにも書きました通り、瞑想の方法についてはわたしの教えるところではありませんので解説しません。それについてはみなさんがご自分で、自分にあったものを見つけて実践すればよいと思います。

 

マインドフルネスの流行? もあって、その原型ともいえるヴィパッサナーについては、ここまでに述べてきた趣旨と同様の落とし穴があります。これは本当はヴィパッサナーに限ったことではないのですが、説明しやすいのでヴィパッサナーをとりあげて後で書きます。

 

さて、瞑想の目的である『悟り』ですが、悟りがどういうことであるかについてはほかの記事でも様々に触れています。ここでは、悟りが起きている状態についてとりあげてみます。悟りがあるとき、その人の意識は『観照』と呼ばれる状態を経験しています。観照とはなにかを説明するのはとても難しいのですが、観照ではない状態を説明することは比較的簡単です。なぜなら、それがほとんどの人がいま経験している意識状態だからです。ほとんどの人は、偽りの経験主体である自我(マインド=エゴ)が自分の本質であると思い込んでいます。そのため、自分が世界を見て、感じ、考えていると信じています。

f:id:mercifulblack:20180824181119p:plain

マインドは自らを世界から分離・独立した存在として、自分の内側と外側に線を引きます。しかし、実際にはマインド=エゴとは単に条件づけられた心でしかなく、条件次第でいかようにも振り回されるはかないものです。そのようなはかないものを自己の本質であると信じているがゆえに、人は苦しむわけです。

 

上の図にあるように、マインド=エゴは自らが世界を見て、なにかを感じ、なにかを考えていると思っています。でも実際にはマインド=エゴという実体はなく、あるのはただの感覚であり、感情であり、思考であり、それらは意識というスクリーンにただ「現れている」にすぎません。それを見ているのはマインド=エゴではなく、スクリーンそのものであるところの意識なのです。

 

ここが分かりにくいというか、これは観照という状態を経験しなければ本当に理解することは難しいところです。『目は目それ自身を見ることはできない』という言葉について熟考してみてください。これは観察(経験)されるものは観察者(経験主体)ではありえない、という意味です。そうであるなら、感情や感覚や思考、あるいは「外側の世界」を見ているあなた(という概念)もまた、それが概念として想定できる以上、見られているもの(=思考の対象)であって、見ている目のほうではないということになります。

 

観照とは、「見ている主体」というものはなく、ただ「見る」ということだけがあるということです。見るものがなく、見るということだけがある、というとき、すべては見られていることになります。非二元を説いた本には「観照者」なる言葉がときおり出てきますが、この言葉は誤りです。観照はただ観照であり、観照している誰かなどいません。悟りが起きている人の意識は観照を経験していますが、その人が観照しているのではありません。OSHOなどもよく観照者という言葉を使っていたようですが、わたしが読めるOSHOの本は彼の講話を弟子たちが文章化したものですから、本当にOSHOが観照者と言っていたのか、それとも弟子がなにがしか編集の都合上、そのような表現を用いたのかは定かではありません。けれども、わたしはOSHOがそこを間違えることはないと考えています。余談でした。

 

さて、瞑想の目的は、このマインド=エゴの幻想を見抜き、世界をあるがままに見ることで人を苦しみから解放することです。すなわちそれが悟りなのですが、このとき世界はこのようになります。

f:id:mercifulblack:20180824181943p:plain

これが観照ということです。見ている人はもうどこにもいません。最初から、そのような人はいなかったわけですが…。

 

ですから瞑想とは、この図のように世界を見るための練習ということになります。そのためのやり方はなんでもよいと思います。むしろ、この図と上のマインド=エゴの図の違いを瞑想において熟考するだけでもよいかもしれません。非二元の教え(アドヴァイタ・ヴェーダンタ)とは、思考によってこの理解へと至るための教えですから、この道においては瞑想は本来不要とさえいってもよいわけです。もちろん、やっても構わないですし、アドヴァイタの教師のほとんどは瞑想をすすめます。

 

ところで先にすこし触れたヴィパッサナー瞑想のことですが、実をいうとほとんどの人は、最初に示したマインド=エゴの図のように思考や感覚、感情を「見て」さえいません。思考や感情、感覚といったものと完全に一体化してしまっているからです。自分がなにをしているか、分かっていない状態です。ですから、このマインド=エゴの図のように「これは思考」「これは感情」「これは感覚」というように「自分がなにを見ているかを自覚できる」ようになるためには、普通はなんらかのきっかけや努力が必要となります。

 

瞑想やヨーガはそのための努力になるわけですが、ヴィパッサナー瞑想は比較的簡単に、この状態(気づきのある状態)へと導いてくれます。それはヴィパッサナー瞑想がとても優れた手法であることを意味しているのですが、その反面、この「気づきのある状態」が悟りであるかのように誤解もしくは錯覚してしまいやすいと言えます。最近流行っているように見受けられるマインドフルネスとは、この状態のことであるとわたしは理解しています。この状態はもちろん目覚めのプロセスの中にありますが、この時点ではまだ「気づいている自分」が存在しています。つまり、言ってしまえばエゴがエゴであることを自覚しただけで、まだしっかりと主張しているのです。

 

この状態を悟りと誤解して、結果的にかえってエゴを肥大化させてしまうことを「魔境」と禅では呼んでいます。ヴィパッサナー瞑想を指導している人の中にも、この魔境におられる方をわたしは知っています。

 

ヴィパッサナー瞑想は「気づきの瞑想」とも呼ばれています。しかしその本質は、気づきを足掛かりとして、最後には気づいている主体が偽りの幻想であることに「気づく」ための瞑想です。というより、すべての瞑想の本質がそうです。そしてすべての瞑想は、最終的には行為としてそれを行うのではなく、瞑想そのものを生きるところに行きつきます。それは観照とともに生きていくということです。

 

最後になりますが、瞑想であれなんであれ、やってみようと思うことはぜひやってみるべきだと思いますし、いまなにかに取り組んでおられるなら、それをぜひ続けていけばよいと思います。真理はひとつですが、そこへ至る道は人の数だけあります。人によって近道をすることもあれば、あえて紆余曲折を経る人もいます。その人にはその人の学びのプロセスがあり、誰かの真似をしたって何の意味もありません。ですから、どこかで瞑想を習ってみて、しばらくしてそれがどうも疑問に思えてきたり、自分には合わないなと思うことがあったとしても、それはそれでよいのだと考えましょう。

 

いまやっていることは「果たして本当に正しいのだろうか?」と人は悩みます。しかし、その質問自体がエゴがしている質問であることに注意してください。正しいものはおろか、適切であるとか、妥当であるとかいうものさえ、本当はこの世界にはないのです。でも、そうはいっても、どうせなにかをやるなら、間違ったことはしたくないと考えるのも人間としては当然のことでもあります。であるなら、やり方ではなく、「なんのためにそれをやるのか?」というところをしっかりと掘り下げたほうがよいと、わたしは思います。

 

瞑想をしたい。なぜしたいのか? なんのために瞑想をしたいのか? そもそも瞑想とはなんなのか? 瞑想するとどうなると自分は思っているのか? そこのところについて熟考することは、瞑想そのものよりも、もしかしたら重要かもしれませんよ。