非二元をはじめとするスピリチュアルな真理についての教えでは例外なく、わたしたち人間の自我(エゴ)つまり自分が自分であると思っているところの自分というものは幻想であると説いています。
つまり、「わたしは存在しない」というわけですが、もう少し丁寧にいうと「世界から独立した、ひとつの完結した存在であるところの『わたし』なるものは存在していない」ということになります。今回の記事では、このこと、つまりエゴは本当に幻想なのか? わたしがいないとはどういうことなのか? ということについて考えてみたいと思います。
まず、世界ということですが、ここで言っている「世界」とはもちろん物理的な環境である地球のことになりますが、こと人間に関していうなら、世界とは世間のことと同じと考えてもよいでしょう。世間とはもともとは仏教用語ですが、人間が生きている世の中、精神的な要素もふくめた社会のことと考えてもらってよいと思います。
さて、下の画像をみてください。ジグソーパズルですが、個々のピースが一人ひとりの人間を表していると思ってください。一人の人間はほかの四人の人間とつながっています。そして、その四人もまたそれぞれ四人とつながっています。これはもちろん話を簡単にしているわけで、実際には一人ひとりがもっとたくさんの人とつながっていることでしょう。こうした人と人のつながりの全体像が「世間」ということになるわけです。
この中のピースを一つだけ取り出してみました。これを仮にあなただと考えてみてください。ジグソーパズルのピースはどれも似たような形ですが、実際には一つとして他のピースと同じ形のものはありません。すなわち、この形状があなたの個性であるということになります。
今度は、あなたを取り囲んでいた他の人たち(つまりあなたの家族や友人、知人、仕事仲間などです)を取り出してみました。彼らもまた、一人ひとりがユニークな個性を持っています。
でもここでこの絵をよく見てみてください。ここにはあなたは不在です。不在であるにも関わらず、あなたがいるべき場所にはあなたの形をした空白があります。
人間は誰でも、生まれて死ぬまでの間、ほかの人と関わりあって生きていきます。その中で、たくさんの人から様々な影響を受けます。その影響によって、少しずつあなたの個性が形作られていくのです。
誰でも名前を持っていますが、生まれたばかりのときは、まだ自分がその名前の人物であるという認識はとうぜん持っていませんね。まわりの大人(多くは両親ですが)から、〇〇〇という名前で呼ばれていくうちに、〇〇〇という言葉がどうやら自分(という概念もまだここではありませんが)のことを指しているようだと気づきはじめます。
並行して、大人が与えてくれる食べ物や飲み物に、好ましい味とそうでない味という区別が生まれてきます。また、心地よく感じる状態や、不快な肌触りといった感覚のバリエーションも記憶されていきます。やがて、こうした味や感覚といったものを「好み」として選択している主体という感覚が、この子供の中に生まれてきます。この主体感覚と〇〇〇という言葉がどこかの時点でリンクされることで、行為の主体である〇〇〇という存在が生まれます。すなわちこれが、「わたし」という概念のはじまりです。
「わたし」はその後も成長していきます。幼稚園や学校に通うようになると友達や先生といったほかの人間や、テレビや本、ゲームなど生活のさまざまな要素からも「わたし」は影響を受け続け、その形(個性)を変えていきます。そしてある程度の年齢、およそ思春期から青年期にかけて、その人のパズルのピースはおおむね完成します。
つまり、どんな人間であれ、その人が自分の個性であると思っているものは実のところ、その人を取り巻くほかの人間や、その人が育った環境といったものの影響によって形作られているのであり、自分自身でデザインしたものではないということです。ですから、ある出来事に対してあなたがどのように反応するかも、こうした過去の影響によって決まっているのです。あなたは自分自身の頭で考えて毎回判断しているつもりでしょうけれども、その「自分自身の頭」というものが実は過去の影響によって形成された思考回路のことなのです。
これが上の絵の、本当の意味です。すなわち「あなた」はあなたを取り巻くほかのピースの形状によって規定されているということです。これが、エゴが幻想であるということです。あなたという自我には実体はなく、あるのは過去によってプログラミングされた反応の集積だけなのです。これが、あなたはいない、ということです。
あなたという存在が幻想であるなら、あなたを取り巻くほかの人たちもまた幻想です。彼らもまた、(幻想でしかない)あなたも含めたほかのピースの形状に、その個性を規定されています。
そして、誰もいなくなりました。これが、本当の世界(世間)の姿です。
世界=世間には誰もいません。ピースとピースのつながりの形だけが幻として見えています。これが仏陀が説いた「縁起」というものです。
縁起(えんぎ、梵: pratītya-samutpāda, プラティーティヤ・サムトパーダ、巴: paṭicca-samuppāda, パティッチャ・サムッパーダ)とは、他との関係が縁となって生起するということ[1][2]。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す[1]。
ところで、すべての人の人格やそこから生ずる行動が、ほかの誰かとの関係によって決まっている(宿命論)のならば、誰にどんな責任があるのでしょうか? たとえ人を殺したとしても、それはその人にはどうしようもなかったことだと言えるからです。強いて言えば、その人が殺人を犯すにいたったのは、その人に影響を与えたすべてのものに責任があると言えますが、そのすべてのものもまた、ほかのすべてのものから影響を受けています。つまり、誰にも、あるいは何にも、どんな責任もないというのがアドヴァイタ・ヴェーダンタ(非二元論)の立場です。ただし、どんなことにも結果が伴います。人を殺せば法によって裁かれたり、あるいは復讐を受けて殺されるかもしれません。しかしそれは、行為の結果という話であり、責任という話ではないということです。
このことについては、あらためて別の記事で考えてみたいと思います。