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どこまでを自我(自分)と捉えるべきか? :意識における個別性の構造について

(画像があるのでスマホではブラウザでの閲覧をおすすめします。はてなアプリでは拡大表示ができません。できればタブレットやパソコンでご覧ください)

 

すべてはひとつである。これが真理です。

 

ここから「分離はない」ことや「行為主体の不存在」「世界の見かけは幻想である」といったことが言われます。すべてがひとつであるなら、分離した行為の主体たる個人は存在しませんし、そのような個人がそれぞれに人生を送っているように見えるこの世界は当然ながら幻想というしかありません。このことについては、これまでの記事において様々な観点からお話してきましたので、ここではさらに踏み込むことはしません。というより、すべてはひとつである以外に真理と呼ぶべきものはありませんので、それ以上に踏み込んだ話というものはないのです。

 

しかしながら蛇足として述べておくとすれば、すべてはひとつであるというとき、そのひとつであるすべてのものとは「意識」です。意識(consciousness)とは「気づき」のことで、なにかがなにかに気づくということを意味する言葉ですが、量子論によれば物質が存在しているのは観察されている(=気づかれている)からだということが分かっています。すなわち、この世界が存在している基盤は気づきであり、意識であるということです。また、意識が存在の基盤(究極のコンテクスト=源泉=神)であるということは、意識には複数形はあり得ないということを示しています。なんであれ、なにかが複数ある場合、それは分割されたコンテント(中身、内容)であり、コンテントである時点でそれは幻想なのです。

 

コンテクストとコンテントという概念はデヴィッド・R・ホーキンズ博士の「 I <わたし> 真実と主観性」の中で詳しく述べられています。わたしのこれまでの記事において「焦点とそれ以外」という言葉を使っていることがありますが、焦点とはコンテントのことで、それ以外がコンテクストのことです。人間の知覚はコンテントを想定しないと考えたり話したりできないようになっているのですが、これが二元性という幻想を生み出す根源的な理由です。もういちど整理すると、コンテントとはコンテクストという全体性から部分を切り出した(分割した)ものなので、それは真理ではないのです。つまり幻想であるということです。

 

さて今回は、このコンテントの幻想性を考えるうえでおそらく最も重要と思われる「わたし」という概念について取り上げたいと思います。この「わたし」という概念については以下の記事でもいちど書いていますが、そこでは「わたし」が幻想であるということを示すにとどまっています。

 

merciful.hatenablog.com

 

あらためてこの「わたし」について取り上げるのは、一つには用語の定義をここで整理しておきたい(理由は次回の記事で説明します)のと、もう一つには、一口に幻想とはいっても、この「わたし」、つまり自分という観念には複雑な構造があり、この構造を理解したうえで用語をただしく使い分けないことには、話が通じないからです。

 

用語の定義の問題は、この記事においてもすでに生じています。というのも、ここまでのところで用いている「わたし」と、ホーキンズ博士の著作の表題における <わたし> は、同じものを指していないからです。「わたし」は一般的に人々が自分を指していう主語としての「わたし」です。しかし、博士がこの本のなかで用いている <わたし> とは唯一無二の真の主観性という意味でのわたしです。言い換えると、<わたし> とは神のことであり、源泉のことであり、ひとつである意識のことです。ちなみにホーキンズ博士の原著においては「わたし」は小文字の i として表現され、<わたし> は大文字の I となっているようです。

 

すべては一つの意識ですから、見かけ上、人間は個個別別に存在し、それぞれが独自に思考しているように見えますが、本当はこの一つの意識であり源泉である神だけがすべての肉体精神機構を用いて思考しているのです。これが自由意志はないということです。

 

さてここで、自由意志のない「わたし( i )」のことを、自我とあらためて呼びなおすことにします。もちろんこれはエゴと呼んでも構わないのですが、日本語においてエゴと言うときには自我のもつ自己中心性という性質が強調されがちなので、あくまで幻想としての個別性、個人性と一体化している意識という意味だけを持つ用語として自我を採用することにします。また、自分という言葉を用いるときは、この自我がそれ自身を指しているものと理解してください。すなわち、自我も自分もほぼ同じと思っていただいて差し支えありません。

 

一般的に自我(自分)というとき、それはいわゆる顕在意識のことを指していると言えます。これに対して潜在意識は、それ自体がまだまだ詳しくはなにも分かっていないのですが、意識の個別性ということを考えたとき、この潜在意識も間違いなくその肉体精神機構に属するものですから、自我の構成要件であると言えるでしょう。では、自我は顕在意識と潜在意識の合計で、それですべてということでしょうか? いえいえ、自我はそんなにちっぽけなものではないのです。

 

ここで、ハイアーセルフという概念をみてみましょう。ハイアーセルフは日本語でいうなら「高次の自己(自我)」となりますが、高次の自我ということはそれに対応する低次の自我というものを前提にしているわけですね。ここでは高次の自我とはなにか? ということはちょっと置いておいて、先にこの低次の自我について明確にしておきましょう。さきほど顕在意識と潜在意識について触れましたが、これは心理学的な分類です。では顕在意識にせよ潜在意識にせよ、それらはどこからやってくるのか? というとき、心理学は医学的なところに根拠を求めるよりありません。すなわち、それは肉体の脳にあると。

 

もちろん、物質的な観点でいえば、この説明は間違っているというわけではありませんが、すべては一つであるという話をしているわけですから、それらの説明もまたコンテントであり、幻想であると考えなくてはいけません。では幻想ではない観点はというと、それが霊的な観点です。これは重要なことですが、霊的なこと、つまりスピリチュアリティとは「すべては一つである」ということであって、それ以外の意味で使われているスピリチュアルはすべて誤りです。

 

すべてである一つのもののことを神と呼ぶことについては、これをお読みの方にはすでに十分ご理解いただけていると思いますが、ここでこの「すべてである一つもの」の別名に「スピリット」を加えてみてください。スピリットは霊のことです。キリスト教的な説明をすれば神と霊(聖霊)と神の子は三位一体、つまりおなじものです。つまり、神がすべてである一つのものであるなら、スピリットはすべてが一つであることの象徴とみなせるわけです。エセスピリチュアルがスピリチュアルと呼んでいるものはすべてコンテントでしかありません。

 

話を戻しましょう。霊的な観点では、この顕在意識と潜在意識を生み出しているのはアストラル体とメンタル体であるという説明がなされます。アストラル体もメンタル体も、肉体とは別に存在している人間存在の体(ボディ)であり、肉体が物質界に存在しているように、アストラル体はアストラル界、メンタル体はメンタル界と呼ばれる次元密度(周波数帯)に存在しているとされています。また、順番的にはメンタル体の基盤の上にアストラル体が存在し、アストラル体の基盤の上に肉体が存在しています。(肉体が存在するためにはエーテル体と呼ばれる肉体の青写真が必要ですが、ここではエーテル体については省略します)

 

アストラル体は感情や情緒を司り、メンタル体は論理的な思考を司っています。そしてアストラル体から発生した感情や、メンタル体が生み出した思考を、肉体の脳やその他の器官が受信して、それを物質界に表現しているのです。

 

この肉体+アストラル体+メンタル体という構造は、物質界において、ある時間のある場所で人間という存在が機能するためのものですが、この構造のことをここで「転生体」と呼ぶことにします。人間の魂は輪廻転生を繰り返していると言われていますが、個々の転生体には通常、別の転生の記憶はありません。おなじ魂のべつの転生の記憶を持っているのはより高次のコーザル体であるとされています。つまり、コーザル体は複数の転生体を束ねて統括している体ということができるのですが、その意味でいけばコーザル体こそが人間の魂であると言ってもよいかもしれません。また、個々の転生体を統括している立場から、転生体の自我になんらかのメッセージを思考や感情という形で伝えることも当然可能でしょうから、その意味ではコーザル体をハイアーセルフだとみなすこともできます。

 

つまり、コーザル体=魂=ハイアーセルフというわけですが、これでもまだ正確ではありません。より正しくはコーザル体=魂=ハイアーセルフ(の一部)となります。ここで図を用意しましたのでご覧ください。

 

 

低次の自我(ロウワーセルフ)と高次の自我(ハイアーセルフ

※最近、専用ペンで絵を描いたり手書きのメモをとれるAndroidタブレットを買いました。この図はそれで描いた第一弾です。今まではパソコンでワープロの作図機能を使って図を描いていましたが、めちゃめちゃめんどくさかったのでやめました。

 

この図はここまでの説明を可視化したものです。霊的なボディ(微細身)について描かれた様々な絵がありますが、どれもこれも肉体の外側にアストラル体とメンタル体とコーザル体が描かれていると思います。もちろん、それは間違ってはいないのですが、その表現だとコーザル体が複数の転生体を包摂していることが伝わらないのですね。もちろん、この図にしても概念図であり、コーザル体は時空を超えたところで存在しているわけなのですが、このように表現したほうがより実相には近づけると思います。

 

さて、コーザル体は転生体の自我にとっては確かにより高次の自我といえます。しかし、ではコーザル体は神と直結しているのかというと、どうやらそうではないようなのですね。ここでさらに別の図をご覧ください。

 

 

意識の個別性の構造

 

このピラミッド型の図における、下の二段の部分が個々の転生体における自我の構造です。ここまでの説明では触れてきませんでしたが、転生体の自我(ロウワーセルフ)はさらに低次の自我と高次の自我として区別することができます。低次の自我とは大雑把にいえば意識レベル500未満の自我のことであり、高次の自我は500以上の自我ということができます。アストラル体(感情体)はアストラル界に存在していると書きましたが、アストラル界の意識レベルは上限が500です。つまり、アストラル体に支配された感情そのものや感情混じりの思考によって構成されている自我は意識レベル500よりも低い領域にあるということです。メンタル体が活性することによってアストラル体が賦活されると、無条件の愛や慈悲といった高次の感情が表現されるようになりますが、そのようになった自我は意識レベル500以上で測定されます。

 

この図においては、転生体の自我における意識を区別するために低次の自我と高次の自我という用語を用い、なおかつ高次の自我をハイヤーマインドと呼びました。よって、コーザル体における自我をそれらと区別するために高次の自己ハイヤーセルフとしてあります。ハイヤーマインドはあくまで転生体の自我のあり方の一つですからハイヤーセルフとは異なります。しかしながら、低次の自我に比べるとより強くハイヤーセルフからの影響を受けているということはできるでしょう。

 

図のピラミッドの三段目はコーザル体の領域です。ここでは高次の自己としていますが、個人性、個別性を帯びているという意味では高次の自我と呼んでも構いません。コーザル体の意識においても「自分」という感覚は当然あるはずですからね。

 

さて、ピラミッドの一番上は「無限の集合意識」となっています。集合意識とはコーザル体のさらに上位の体といってよいものですが、この領域になるともはや「体」という表現は適切ではないかもしれません。ただ、言えることはある集合意識を一つのユニットとすれば、このユニットが集合したさらに大きな(上位の)集合意識があり、この構造は無限に続いているということです。そして、その無限の構造の全体を指して神と呼んでいるわけですが、神はすべてであるがゆえ、そこにはどんな個別性も個人性もありません。逆にいえば、わたしたちには想像もつかないような超々高次の集合意識でさえ、そこには個別性や個人性がかすかにせよ、存在しているということになります。

 

それを表しているのがピラミッドの左にあるオレンジ色の下向きの矢印です。下にいくほど個別性、つまり分離の度合いが高まります。転生体である物質界のわたしたちは個別性MAXというわけですね。また、分離の度合いと意識レベルは反比例の関係にありますので、ピラミッドの上部へ行くほど意識レベルは高まっていきます。それを示しているのが紫色の上向きの矢印です。

 

このような構造はもちろん単なる観念であり、実際にはわたしたちの想像と理解を超えるような仕組みになっているとは思いますが、さりとてわたしたちなりに真理を理解するためには、これで問題はないでしょう。いずれにしても、真の主観性である神の意志がこのピラミッドの構造を貫通して、もっとも低層にいるわたしたち人間の自我へと思考や感情という形で現れているのだということをご理解いただければ幸いです。ではここで、同じ概念をまた別の図でみてみましょう。

 

 

マインドマップの正しい使い方ではありません

 

先の図と基本的にはおなじことを描いていますが、宇宙全体の意識のマップという意味ではこちらの方が分かりやすいでしょうか。先の図では集合意識と呼んでいますが、集合意識とは魂の集合のことですから、集合意識=集合魂です。集合意識ではなく集合魂と呼ぶことによって、意識の個別性・個人性が継続していることもイメージしやすいかもしれません。実際、個別の魂(コーザル体)のすべてが神とつながっている(ひとつである)のです。この図はそのつながりを表現しています。

 

このつながりから、コーザル体のみならず、より高次の集合魂のこともハイヤーセルフとみなせることが分かります。例えばですが、過去性を思い出したりするときはコーザル体の意志を受信していると考えることができますが、神の啓示と考えるしかないようなインスピレーションはそれよりも遥かに高次の集合魂から降りてきているということです。もっとも、そのどちらも元を正せば神の意志ですけどね。ただ、神には個人性がありませんから、転生体の自我に降りてくるメッセージはすべて、個人性を帯びた意識(自我)であるコーザル体から高次の集合魂というハイヤーセルフ領域のどこかからやってきたという形をとるわけです。

 

これで、意識における個別性の構造については、わたしが説明できることのおおよそは書けました。最後にひとつ、余談をしてこの記事を終わりたいと思います。

 

ラマナ・マハルシが教えた真我探求(アートマ・ヴィチャーラ)という技法があります。これは日本では(日本語に翻訳された書籍では)「わたしは誰か?」と問いなさいというものとして伝えられています。しかし、ラマナ・マハルシが実際に言っていたのは「わたしは誰か?」ではなく「わたしとはなにか?」を問いなさいというものでした。このことについては他でも書いていますが、これは通訳ミスによって生じた違いです。なぜわたしがこのことを知っているかというと、それはラマナ・マハルシに実際に師事していたラメッシ・バルセカールが著書においてそう述べているからです。

 

それはともかくとして、「わたしは誰か?」と問い続けたら、なにが導かれるでしょうか? これはとても簡単な話で、誰かと問うている以上、答えは誰か個別の存在になるはずですね。つまり、この問いでは「この現在の自分ではない本当のわたし」なるものを探してしまうわけです。その本当のわたしとは、過去生のいずれかにおける自分のことであったり、あるいはその上位にあるコーザル体、つまり自分の魂のことであったりします。というより、誰か? と問う限りはそういった答えにしかなり得ないのです。それはつまり、先ほどのマインドマップ図においてハイヤーセルフの領域とした部分のどこか、というわけです。

 

しかし、すでに説明した通り、その誰かがどれほど高次の集合魂のことであったとしても、それはコンテントなのです。コンテントであるということは、それは幻想だということでもあります。したがって、「わたしは誰か?」と問うやり方では、真我であるところの神にはたどり着けないことが自明となりますね。つまり、この問い方は真我探求ではないということです。

 

一方、「わたしとはなにか?」と問うとどうでしょうか? わたしとはなにか? という問いは、正確には「このわたしという感覚、観念の正体はなにか? それはどこから来ているのか?」ということです。つまり、わたしという自我はどのようにして発生しているのか? わたしはわたしのことをいつどのようにしてわたしであると認識しはじめたのか? 認識しはじめる瞬間があったとするなら、それ以前のわたしはわたしではなかったのか? などなどと深く考えていくものであり、特定の誰かを探すものではありません。

 

この「わたしとはなにか?」という問いによって得られる最終的な答えが、ここで紹介したピラミッド型の図やマインドマップに表現された「意識の個別性の構造」の全体像です。この全体像が得られることによって、はじめてその全体そのものであるところの「神=真我」が見つかるわけです。真我の意識はハイヤーセルフ領域を貫いて自我へと到達するため、ハイヤーセルフからのメッセージを真我のメッセージとみなしても間違いではありませんが、この全体像を理解しているといないとでは、受け止め方がまったく違ってしまうのですね。

 

次回の記事では、この真我から降りてきたメッセージの実例を紹介したいと思います。それでは、読んでくださってありがとうございました。