in SPIRE 内なる声をきく

あなたの世界を再構築するための情報です

輪廻転生という概念をどのように理解するべきか

わたしたち人間には魂というものがあり、魂は肉体が死んでも滅びず、この世を去ってあの世へと行き、そしてまた新たな肉体に宿ってこの世に生まれてくる。そして魂はこの生まれては死に、また生まれてくるということを何度も何度も繰り返している―

 

こうした考えを『輪廻転生』と言いますが、今回はこの輪廻転生について、これをどのように理解すればよいのか? ということを考えてみたいと思います。輪廻転生という現象について、現在のわたしたちにはそれが本当にあるのか、それともないのか、を判断する決め手はありません。それでも人類が何千年も前からそのようなことがあると考えてきたという事実だけをとってみても、この概念が人間にとって重要なものであることは明白です。輪廻転生(とその原理ともいえるカルマ)があると考えることによって、人は運命を受け入れやすくなり、また、この人生をよりよく生きようと思うきっかけともなるでしょう。

 

今回は、いきなり結論を書いてみます。

 

わたしの理解では、輪廻転生は間違いなくあります。しかし、個人的な行為者としての「わたし」というものが幻想であるということとまったく同じ意味において、輪廻転生もまた幻想です。『わたしの理解では、輪廻転生は間違いなくあります』とわたしが言うとき、この「わたし」は幻想なのですが、わたしにとっては間違いなく「わたし」は存在しています。ですから、これとまったく同じ意味において、わたしにとって輪廻転生は存在するのです。

 

この説明ですべてが理解できる人は、すでに輪廻転生から自由になっている可能性があります。つまりそれが解脱ということですが、二元性と二元論という人類が囚われている幻想は、幻想とはいってもそれは神が用意したゲームでもありますから、非常によくできています。解脱というのは、このゲームを卒業するということです。つまり、もうこのようなよくできた幻想のゲームから学べることは学びきったということです。輪廻転生は、このゲームを構成する基本的なシステムですから、このゲームがゲームであることを見抜いた瞬間、輪廻転生というシステムも見破られます。

 

つまり、輪廻転生というものは、目覚めが進んでいくプロセスのどこかで、その本質が理解されてしまうものと言えます。逆にいうと、その段階まで意識が進化しないことには、どのようにしても本質的には理解できないものです。とはいえ、たとえ表面的な知性による理解であるとしても、その理解はやがて本質的な理解へと成長していきます。探求者がいて探求をするのは、そのために他なりません。

 

そこで、いまわたしが述べた結論をもっと丁寧に説明していきたいと思いますが、その前に、さらなる結論を述べておきます。わたしたちが輪廻転生という概念について考えるとき、前提となっているのは『肉体として生まれてくるときが人生のはじまりで、肉体が死ぬ時が人生の終わり』ということです。この前提があるから、「死んでも」また「生まれてくる」という話になっているということがお分かりでしょうか? ですが、輪廻転生があるとするなら、その主体である不滅の魂こそがわたしたちの本質的な存在であり、その観点でいうなら、人間は生まれてもないし、死んでいくこともありません。

 

ちょっと話が飛躍しますが、魂というものは神であるところの全体性が個別化した一側面ということができます。全体性が全体性それ自身を観察するために自らを無限に分割したのが個別化された意識、すなわちわたしたちの魂です。魂はそもそも全体性の一部ですから、生まれも死にもしません。

 

しかし、この魂が実際に個別性をもち、独自の経験をしていくためには、なにか形のあるものに宿る必要があります。形のあるものといっても、それはわたしたち人間のような生き物の肉体だけとは限りません。それ以前には鉱物や植物、そして動物といったものに宿ってきましたし、人間のあとには、より高次の進化した形態に宿ることになります。つまり輪廻転生というのは、この魂の旅路における、人間形態の時代の部分だけを指しているのです。

 

つまり、人間の世界における輪廻転生というゲームから卒業しても、それで終わりというわけではありません。単に、人間として生まれてくるゲームが終わるだけです。魂と呼ばれるものが具体的にどういうものであるのかは、わたしにも分かりません。ただ、ここが重要なポイントになりますが、魂という個別の意識は輪廻転生というシステムを利用してさまざまな経験をしますが、輪廻転生をしている主体は魂ではなく、エゴです。そして実は、エゴとカルマは同じものです。エゴは幻想の自己のことですから、正確にいうとエゴが輪廻転生の主体という表現は正しくありません。ですから「輪廻転生とは、カルマがエゴとして肉体をもって現れては消えていくシステムである」と言い直しておきましょう。このことが腑に落とせれば、幻想のゲームのエンディングはもうすぐそこと言えるでしょう。

 

それでは、ひとつひとつ考えていきましょう。まずはWikipediaにある仏教における輪廻転生についての見解を引用してみます。

 

無我でなければそもそも輪廻転生は成り立たないというのが、仏教の立場である。輪廻に主体(我、アートマン)を想定した場合、それは結局、常住論(永久に輪廻を脱することができない)か断滅論(輪廻せずに死後、存在が停止する)に陥る。なぜなら主体(我)が存在するなら、それは恒常か無常のどちらかである。恒常であるなら「我」が消滅することはありえず、永久に輪廻を続けることになり、無常であるなら、「我」がいずれ滅びてなくなるので輪廻は成立しない。このため主体を否定する無我の立場によってしか、輪廻を合理的に説明することはできない

 

これはなにを言っているのかというと、要するに輪廻転生には主体などあるはずがない、ということです。この論旨では我というものを否定していますが、ここで否定されている我とは自我(エゴ)です。エゴはそもそも存在していないので、恒常か無常かは実はどうでもよいことになります。いずれにしても仏教は「無我」の立場をとっているのですが、それは「輪廻転生には主体というものがない」ということです。

 

先に述べた通り、魂は輪廻転生の中にあるエゴ(肉体精神機構)を借りて、この物質密度の世界を経験します。しかし、魂というものはエゴのような主体感覚ではありません。ここが難しいところですが、魂を人格のようなものだと考えてしまうのは、それを考えているわたしたちが自らの存在のあり方を投影しているからで、魂がどのようなものであるかは、わたしたちには理解のしようもないのです。ですから、ここではひとまず魂は輪廻転生の主体ではないと念を押しておきます。

 

そうすると、「主体のない輪廻転生というシステムではいったいなにが起こっているのか?」という話になります。それが先に書いた、カルマがエゴとして肉体をもって現れては消えていくシステムというものになります。これについて、ラメッシ・バルセカールがこのようなことを言っています。

 

(ラメッシ)「あなたはある目的のために創造されたコンピュータ・プログラムをもっていて、入力する瞬間にどんな出力になるかを知っています。意識は、それが創造したコンピュータを知っているので、思考を通じて入力を送り、まさにどんな行為が起こるかを知っています。ですから、何十億という他の行為といっしょになって、これらの行為がその瞬間の機能の全体性を作り上げることでしょう」

(質問者)「それがカルマですか?」

(ラメッシ)「はい、そうです。カルマとは行為を意味し、因果関係を意味しています。それは個人的行為者、個人的実体とは何の関係もありません。なぜなら、行為者としての個人的実体は誰もいないからです」

 

「意識は語る ラメッシ・バルセカールとの対話」 P.402

 

ラメッシは行為者の不在、つまり自由意志を持った行為者であるあなたは存在しないということ、行為は全体性の機能としてただ起こるべくして起こるにすぎない、ということを言っています。そして、そのことを「カルマ」だと断言しています。さらに別の箇所ではこう言っています。

 

(質問者)「解体(=解脱 わたし注)はいくつかの生を通じて起こると、あなたは言いましたか?」

(ラメッシ)「はい、そのとおりです。しかし、あなたが挫折を感じる前に言っておきたいと思いますが、あなたが今ここにいるという事実、こういった学習に興味をもつのはある肉体精神機構だけという事実が、霊的進化のこの段階はこの肉体精神機構の中で突然起きたわけではないということを示しています。明らかにこの肉体精神機構の中でこの進化が起こるためには、それを通じてこの進化のプロセスが起こり続けた多くの肉体精神機構の生があったのです」

(質問者)「私は混乱しています。昨晩私たちは、エゴは肉体といっしょに死ぬことについて話しませんでしたか? それでは、一つの肉体から次の肉体へ行くエゴ以外の何かがあることになります」

(ラメッシ)「はい! しかし、それはエゴではありません。それは意識です。新しい肉体精神機構が創造されるたびに、意識はそれ自身を分離したエゴと一体化するのです」

 

「意識は語る ラメッシ・バルセカールとの対話」 P.406

 

肉体精神機構とは肉体とこころの総体であり、ラメッシはこれをエゴと呼んでいます。したがって、「あるエゴが霊的な学習に興味を持つという進化が起こるためには、このような霊的進化のプロセスを経験してきた他の多くのエゴの人生があった」という風に読めます。ポイントは、エゴはその肉体精神機構そのものであって、それは死んだらそれでおしまいというところです。しかし、あるエゴ(肉体精神機構)から別のエゴへと移行するなにかがあるとラメッシは認めます。これが個別化された全体性の一部としての意識、すなわち魂ということになります。

 

ここのところをもう少し詳しく考えてみます。「あるエゴが霊的な学習に興味を持つという進化が起こるためには、このような霊的進化のプロセスを経験してきた他の多くのエゴの人生があった」ということですが、これは「霊的進化を目指してきた過去の数多くの肉体精神機構に起こった行為が、新しく生まれてきた肉体精神機構を霊的な学習に駆り立てるカルマとなっている」ということです。

 

このようなケースで生まれてきた新しい肉体精神機構は、それを生み出すカルマとなった肉体精神機構たちの持っていた性質を受け継いでいると言えます。この新しい肉体精神機構を仮にAとします。そしてこのAを霊的な学習に駆り立てるカルマを作った肉体精神機構が3体(実際にそれはもっとたくさんいたかもしれません)いたとして、それぞれBとCとDとします。

 

例えばの話ですが、ここでAが受け継いだのは、Bのカルマから60%、Cからは30%、Dからは10%というような比率であったとします。そうすると、AはBからもっとも多くのものを受け継いでいますから、AはBの生まれ変わりとみなしても、さほど見当違いではないかもしれません。あるいはAが退行催眠などを受けて過去生を思い出すようなことがあったなら、直近の前世がBであり、その前がCで、さらに前がDだ、という風な思い出し方をするかもしれません。もっとも、時間というのも幻想ですから、どれが時代的に本当に古い肉体精神機構であったかどうかは、ここでは問題にしません。

 

あるいはAを生み出したカルマがBからKまでの10人の肉体精神機構からそれぞれ10%ずつ受け継いだものであったなら、Aにとってははっきりとした前世というものはないと言えるかもしれません。

 

いずれにしても、エゴというのはそもそも存在していないのですから、そのエゴに過去生などもあるわけがないのです。しかし、エゴはいわば過去のエゴ(肉体精神機構)に起こった行為(カルマ)が束になって生まれてくるようなものですから、エゴである当人にとっては、自分はなにがしかのものを過去から受け継いでいると感じることは自然なことでもあります。でも、死んだエゴがまた別の肉体に生まれてくるのではなく、あるエゴにとって、過去に似たようなエゴが存在したということなのです。

 

ただし、Cという肉体精神機構が生んだカルマをBが90%受け継いで、さらにBのカルマをAが90%受け継いでいる、というようなケース(実際にはこういう感じが多いと思います)では、これらABCは同じ人間の生まれ変わりとみなしても差し支えはないでしょう。差し支えはないのですが、本当にそうなのかというと、そうではないということです。

 

ですが、エゴであるわたしたちにとっては、生まれ変わりと感じられるなにかはあると言えます。ただし、エゴであるわたしたち自身が、エゴが幻想であるということを見破ったときには、生まれ変わりは単なるストーリーでしかなくなります。このときが解脱であり、解脱した肉体精神機構は、もはや霊的進化に関わる主要なカルマは残しません。そのあと、魂がどこへいくのかは、わたしにも分からないことです。

 

以上、輪廻転生については、これだけで語り尽せるものではありませんが、今回はここまでにしたいと思います。もちろん、わたしの書いたことが完全に正しいということはできませんが、これを読んだ方が理解を深めるための材料を提供することはできたかな、と思います。