しばらくの間、風邪をこじらせたり、身辺にいくつかの変化があったりして、なかなかゆっくりと記事を書くことができませんでした。このblogのひとつひとつの記事はすべて一日で書き上げていますが、長いものだと半日はかかってしまいます。それだけの時間とそれに費やすエネルギーが充実しているときにだけ書くようにしていますが、そういうときは書く内容の方から自ずとやってきます。
やや込み入った概念について書く場合や、図解表現を用いる方が望ましいというような場合には、事前にメモやホワイトボードを使って構想をまとめますが、基本的には書こうとしているテーマ(最終的にそれが記事のタイトルになります)があるだけで、書きはじめるまではどんな内容になるか、自分にも分かっていません。また、書いてみてから、こんな文章が自分の頭から出てくるのかと不思議に思うこともよくありますし、実をいうと、書いている当人が書き上げるまでよく理解していなかったはずのことまでアウトプットされてきます。
ですから、わたしはこの作業を、一種のチャネリング(お筆先)のようなものだと思っている部分もあります。チャネリングというとバシャールのような地球人よりも進化した宇宙人や、天界といわれるような高次元の世界の存在からのコンタクトというイメージで語られることが主ですが、チャネルとはそもそも経路や通路という意味の言葉です。ですから、そのような存在とつながる(次元間の)経路が開かれることによって起きる現象ということなら、よく知られているような公開チャネリングばかりがチャネリングではないと言うこともできるでしょう。それはともかく、では、この次元間の経路というものは、果たしてどこにあるのでしょうか? それがいわゆる「いま ここ」と呼ばれるものです。
スピリチュアルな文脈においてよく用いられる「いま ここ」という概念ですが、今回はこのことについて考えてみたいと思います。
誰かと話をしていて普通に「いま」「ここ」というとき、そこにはなんの問題もないはずです。話をしているこの瞬間が「いま」であり、話をしている場所が「ここ」であることに疑いをいれる人はいないでしょう。それなのに、なぜあえて「いま ここ」ということが問題にされるのでしょう。
一番難しい答えをいうと、時間と空間は切り離せないものであり、物質があり、それが変化したり移動したりすることが時間であり、同時にそれが空間ということになります。そして物質が変化したり移動したりして見えるのは人間の知覚による作用です。すなわち、時空という概念自体が人間特有のものの見方に過ぎないのであって、本質的には時間(=空間)は存在しません。したがって、本当は今この瞬間という永遠だけがある、というのが真理なのです。過去、現在、未来という風に流れていく時間軸という幻想から自由になるとき、それが「いま ここ にある」ということになりますが、このとき人間は二元性から解き放たれ、真に自由な目で世界を見ることができるようになれるのです。
この説明を読まれて理解できた方は、以下を読む必要はないかもしれませんね。しかし、せっかくなので最後までお読みいただければと思います。
さて、なぜ「いま ここ にある」が問題になるのでしょうか? それを考えるには、「いま ここ にいない」を考えてみるとよいでしょう。ラメッシ・バルセカールはよく「(思考に)巻きこまれる」という話をします。まずはそこから見てみましょう。
(ラメッシ)考える心は、個人的思考の連続であり、私が水平的思考と呼んでいるものです。ラマナ・マハルシは「思考の集まり」と言い、それはどちらの場合も、「巻きこまれること」を意味しています。水平的思考とは、巻きこまれることです。
中略
(ブレンダン:質問者)あなたが「肉体精神機構」という言葉を使うとき、心を意味してはいないのですか?
(ラメッシ)「肉体精神機構」という言葉は、肉体と、そして普通の人の場合は機能する心と考える心を意味し、賢者の場合は機能する心だけを意味します。
中略
(ラメッシ)こういった理由で、私は心には二つの面があるという考えをもっているのです。一つは、サルの心――考える心――質問し、答えを提供し、そして、これらの答えにさらにまた質問するということをえんえんと続ける心です。これがサルの心、私が考える心と呼んでいるものです。
心にはもう一つ別の側面もあり、私はそれを機能する心と呼んでいます。フレディ(質問者)が自分の人生を生きるのに必要なのは、機能する心です。機能する心は、状況のある瞬間に、なされるべきことをやることにだけ集中します。なされている仕事が必要かどうかさえ、関心がありませんし、結果にも関心がありません。それは、ただなされている仕事をやることにだけ集中していて、「誰」がその仕事をやっているのかには関心がありません。
『誰がかまうもんか⁈ ラメッシ・バルセカールのユニークな教え』第5章
「巻きこまれる」とは水平的思考ということですが、これについてはエックハルト・トールが『ニュー・アース』の中で述べている「水平の時間」ということと同じです。水平の時間とは過去や現在、未来という時間軸のことです。
つまり、水平的思考とは、たとえば過去のことをくよくよと思い返してああでもないこうでもないと考えることや、現在の状況について分かるはずもないことをあれこれ考えてそれを未来へと投影し、まだ起こってもいない出来事を恐れたり悲しんだりすることです。
また、とりとめのない妄想や空想の類もこの水平的思考といえます。このような水平的思考に巻きこまれている状態が、心が「いま ここ にいない」ということです。「いま ここ にいない」とき、その人は延々と思考に巻きこまれ、答えの出ない悩みの中で苦しみ続けることになります。
またここでラメッシは「考える心」と「機能する心」という心の二つの面について触れています。この考えはラメッシの教えの中核となる重要な部分でもあります。「考える心」はいま述べてきた水平的思考のことです。いわゆる普通の思考はほとんどがこの「考える心」です。
さらにラメッシは普通の人の肉体精神機構(文字通り肉体と心の総体のことですが、ラメッシはこの肉体精神機構とエゴをイコールで考えています)とは「肉体と考える心と機能する心」を意味し、賢者(悟りの起こった人)の肉体精神機構とは「肉体と機能する心のみ」であると述べています。
そして「機能する心」については
『機能する心は、状況のある瞬間に、なされるべきことをやることにだけ集中します。なされている仕事が必要かどうかさえ、関心がありませんし、結果にも関心がありません。それは、ただなされている仕事をやることにだけ集中していて、「誰」がその仕事をやっているのかには関心がありません』
と言っています。勘のよい人ならもうお分かりかと思いますが、これが「いま ここ にある」ということなのですね。ですから、悟りのある賢者は常に「いま ここ にある」のだと言えますし、賢者が水平的思考に巻きこまれることはないとも言えます。この「考える心」と「機能する心」について、さらに別のやりとりを見てみましょう。
(ラメッシ)考える心は観念化する心、「自分」です。悟りのあとに不在なのは考える心、それ自身を他者から区別する「自分」です。観念化する考える心は記憶を引き出し、恐れ、希望、野心を投影する心で、それは悟りのあとでは不在です。残るのが機能する心です。
(質問者)ということは、機能する心は、適切な言葉がないのですが、それが機能する「倫理」の枠組みをもつことができないのでしょうか?
(ラメッシ)はい。機能する心は起こっていること、それがしていることだけに関心があります。
中略
(質問者)でも、機能する心も判断の働きをもっていて、これはトマトで食べられるもの、あれは石で食べられないものと判断します。
(ラメッシ)そのとおりです。それゆえ、機能する心は考える心がまさにやることもやるかもしれません。でも、考える心は過去か未来かのどちらかで働きます。それは過去の思い出に浸り、未来へ投影します。機能する心は現在の瞬間に関心があります。それが大きな違いです。機能する心はそれが現在の仕事に関係することでないかぎり、過去や未来には関心がありません。
(質問者)わかります。でも、それは記憶を利用します。
(ラメッシ)確かにそうです。もしそれが何かをしていて、こう言ったとします。「前回これをやったときはうまくいかなかった。だから私は間違いを訂正しなければならない」。それもまだ機能する心です。機能する心は記憶を頼らなければならないものですが、それは未来へは何も投影しません。それは手元の仕事の範囲内でのみ、記憶に頼ります。
「意識は語る ラメッシ・バルセカールとの対話」第4章
ここで重要なのは「機能する心」も過去つまり記憶を参照はするけれども、それは機能するために必要な判断のために用いられるだけで、未来へ投影することはないということです。ほかの箇所でラメッシも述べていますが、「機能する心」と「考える心」を完全に分離することはできません。そのため、「機能するために考える心」という概念を覚えておいてください。
たとえば賢者が旅行に行くとします。賢者であっても旅行にはもちろん行くでしょう。旅行に行かない賢者ももちろんいます。旅行に行くためには「計画」が必要です。例えば何月何日の何時の飛行機に乗って、三日目にはここへ行くので、このホテルを予約しよう、というようなことを決めていく必要があります。
これを行っているのは「考える心」ですが、この「考える心」は未来において賢者が機能するために必要なものではあっても、それがなにかを未来へと投影することはありません。これが「機能するために考える心」です。ここを明確にするなら、いわゆる「考える心」は「考えるために考える心」であると言えましょう。
さて、わたしたちが「いま ここ にある」とき、すなわち「機能する心」で動いているときとは、どのような状況でしょうか? それはたとえば職人が熟達した仕事に没頭しているときであったり、音楽に酔いしれてダンスしているときです。あるいは祈りや瞑想も、「考える心」が働いていなければ、その瞬間は「いま ここ にある」と言えるでしょう。
こうした瞬間は、誰にでも経験があるものです。問題は、その瞬間が圧倒的に少ないこと、逆にいうなら、ほとんどの時間を「考える心」に「巻きこまれ」て、「水平的な時間」に囚われて生きているということです。ポイントは、生きていくのに「考える心」は必要がないということです。逆に、「機能する心」こそが人生を生きていくために必要なのであって、「考える心」に巻きこまれている時間は「機能できていない」というところです。ここがラメッシの話の要点です。
なお、「考える心」に巻きこまれているのを「水平的な時間」と呼ぶわけですが、そうすると「機能する心」だけで動いているとき、つまり「いま ここ にいる」ときには、「時間に垂直に立っている」と表現することができます。水平的な時間とは、言い換えるとこの物質的世界に意識をフォーカスしているということです。時間に垂直に立つということは、「多次元に意識を開く」ということになります。最初に述べましたが、「いま ここ」がチャネリングの起点であるとは、そういう意味でした。
ちなみに、これを書いているときのわたしの心はおおむね「機能するために考える心」になっていますが、日常的にはまだまだ「考える心」に巻きこまれていることがあります。もっとも、巻きこまれていることにはすぐに気づくので、時間的な比率でいうなら、いまのわたしはほとんどを「機能するために考える心」と「機能する心」で生きています。
いかがでしたでしょうか? 「いま ここ」とはどういうことなのか、読まれた方の理解がすこしでも深まれば幸いです。