in SPIRE 内なる声をきく

あなたの世界を再構築するための情報です

思考は止められない、という話

こんにちは。まだまだ暑い日が続いていますが、大阪では朝のうちはすこし涼しくなってきて、秋の訪れを感じられるようになってきました。

 

前回の記事では意識レベルの上昇に伴って知覚がどのように変化していくか、ということについて、わたし自身の経験していることを書かせていただきました。この記事では主に視覚についてとりあげて説明しましたが、おなじような変化は聴覚にも生じています。ただ、味覚や触覚というものはその性質上、焦点が拡大していく様子はあまり感じられませんね。

 

さて、その記事のなかでわたしは思考がどこからかやってくるもので、決して自分でそれを考え出しているわけではない、ということも知覚できるようになってきました」と書いています。こう言うと、おそらくほとんどの人は「そんなわけあるか!」と感じることでしょう。それはそうでしょう。わたしもずっと思考は自分の頭で生みだしているものだと、なんの疑いも持たずに生きてきましたから。

 

しかし、これについては比較的簡単に検証してみることができます。まず、本当に自分の頭で、あるいは自分の意志で思考を生みだしたりコントロールしたりできるのであれば、その逆のこと、つまり「なにも考えない」ということも簡単にできるはずです。はい、それではやってみてください。10秒間でよいですから、まったくなにも考えないようにしてください。

 

できましたか? できないはずです。できたと思った人は「なにも考えないぞ」という思考を見逃しているだけです。

 

それでは次のチャレンジはこうです。

 

「猫のことは考えないでください🐈」

 

できますか? できませんね? どうやったって、🐈のことを思い浮かべてしまいますね。そんなのずるい! と感じましたか? だって猫って言われてからそれを考えるなって言われたって無理やんか! と思いましたか? そうですよねえ🙂

 

ここで言いたいのは「それを考えるなって言われたって無理やんか!」ということです。つまり、思考をコントロールすることはできないということです。お分かりでしょうか。

 

以前 note の記事に、このように思考について調べてみるためのインストラクションをすこし紹介しましたが、それをこちらにも載せておきますので、ぜひ試してみてください。

 

なにかを思い出そうとして思い出せないということがあります。これについて熟考してみてください。思い出す、というとき、あなたはなにをしているでしょうか? 脳の中のどこかに存在する記憶のデータを検索しているのでしょうか? そんなことをどうやって脳に指示しているのでしょうか?

また、そのとき思い出せなかったことが、しばらく時間をおいて、ふと思い出されるということもあります。このとき、ふと思い出したことについて、あなたはなにかしたのでしょうか?

なにかを急に思いついたことはありませんか? アイディアが突然うかんできたことはありませんか? インスピレーションが湧いたことはありませんか? こうしたとき、あなたはそこで、なにをしましたか? なにかしていましたか?

これらについて考えてみてください。これが調べてみるということです。そして次に、こうしたことと、普通に「考える」ということとを比べてみてください。そこに違いはあるでしょうか? もしも、どこにも違いがないのだとしたら、どういう結論になるでしょうか?

 

いずれにしても、意識レベルが高まっていくにつれて気づきが増していくと、思考があらわれるその瞬間が分かるようになってきます。ヴィパッサナー瞑想をやっている人は、浮かんできた思考や感情や感覚にラベリングするよりも、それぞれの思考や感情や感覚が「浮かんでくる」その瞬間を精密に捉えるように取り組んだほうがよいです。ラベリングは「気づいている」感は得られますが、やればやるほど分離を強めていくので、わたしはお勧めしません。存在するすべては意識であり、意識が存在するすべてなのに、ラベリングをやっている限りは観察している意識があり、「それとは別に」観察されている思考や感情や感覚といった「あれこれ」が存在するということになり続けるからです。

 

さて、それではこの思考はいったいどこから「やってくる」のでしょうか。ひとつの考え方としては「潜在意識」からという答え方ができるでしょう。これは間違ってはいないと思います。でも、潜在意識とはなんなのかについての本質的なことは実はなにも分かっていないのが現状の科学です。

 

とはいえ、思考が潜在意識とわたしたちが呼んでいるものを「経由して」顕在意識に浮上してくることは確かだと思います。なぜなら、それは知覚できるからです。そのことをこれから説明していきますが、その前にひとつ指摘しておくと、たしかに思考は潜在意識を経由してやってきますが、潜在意識という場において思考が生成されているのではないということです。

 

では、思考はどこで生まれて、それから潜在意識をくぐり抜けるのかというと、それはメンタル体です。メンタル体はアストラル体とともに人間の霊的な体で、この物質次元における肉体だけでは人間は生きることができません。メンタル体は思考、知性を司っていて、アストラル体は感情、情緒を司っているとされていますが、もちろん、これらの話は科学的にはまったく証明されていません。

 

しかし、わたし自身は20年くらい前に当時合法ドラッグとして流通していた 5meo-DMT という、いわゆるDMTよりも強力とされるサイケデリクスを試したことがあるのですが、その際にアストラル体とメンタル体のいずれか、もしくは両方の一部(頭の右上30センチくらいのところ)に穴が開いてしまった経験があるので、こうした微細身体(オーラボディ)が実在することを知っています。この経験について詳しくは書きませんが、この穴が開いたことによって、肉体から離れた場所に知覚が発生したのです。それは触覚に近いもので、実際それから一ヶ月くらいはそのあたりに手をやるとゾワゾワする感覚がありました。ちなみに、これはあまりよろしくない状態だったと思いますが、実際にはなにも問題は起きませんでした。むしろ、その後のわたしにとっては貴重な霊的体験のひとつだったと言えます。

 

話がそれてしまいましたが、いずれにしてもメンタル体やアストラル体はこの物質次元ではない場に存在しているので、そもそもそれらを科学的に検知することも今のところは不可能ですし、そこでどのようにして思考や感情が生み出されているのかを知ることはなおさら無理です。

 

しかし、メンタル体で生み出された思考がどのようにして顕在意識に浮上してくるかは、ある程度推測できることです。まず、メンタル体やアストラル体からの情報エネルギーは、肉体の青写真であり、霊的なエネルギー供給用のボディともされるエーテル体へと、チャクラを通してやってくるものと思われます。そしてエーテル体から、やはりチャクラと経絡(あるいはナーディ)を通じてそのエネルギーが肉体へと届けられます。このエネルギーを思考や感情という形に解釈して顕在意識に展開するのは肉体の全細胞に存在しているDNAと、脳です。

 

DNAは単なる遺伝情報の記憶媒体ではなく、人間存在をこの物質次元に存在させるためのアンカーであり、さらにより高い次元からのエネルギーを情報として受け取るための受信機でもあると、様々なチャネリング情報などから、わたしは思っています。脳も同様に受信機であり、また同時に、人間の知覚をこの物質次元の周波数帯域に限定するためのリミッターでもあると考えています。ここではDNAはおもに感情を、脳は思考を受信していると考えてください。

 

脳がリミッターであるという考えについてはもうすこし説明しておきましょう。一般的には、脳があるからこそわたしたち人間はその感覚器官から受け取った情報をもとに世界を解釈し、認識できるのだと考えられています。これは確かにその通りなのですが、裏を返せば、感覚器官と脳が処理できる周波数帯に存在するものしか、わたしたちは認識できないということです。犬の嗅覚が人間の何十倍も優れているということをみても、匂いにおいて犬の鼻は人間の鼻よりも、広い周波数帯の情報を受信できるということが分かりますね。

 

DMTやシロシビンなどのサイケデリクスを摂取した際に、別の次元の存在と出遭うことがしばしば報告されています(わたしも報告しています)が、それが意味しているのは、サイケデリクスは一時的にこの脳やDNAのリミッターを多少緩めてくれるということです。アストラル界や天界はこの物質次元とは異なる周波数帯にあるものの、さりとてそんなにかけ離れた次元でもないので、脳やDNAに課されていた制限が緩まると、そこを一時的に垣間見ることができるわけです。

 

ラジオの周波数ダイヤルを回すといくつもの異なる放送にチャンネルを合わせることができますね。つまり、いくつもの放送が同時にわたしたちのいるこの場所に混ざりあったりぶつかりあったりすることなく存在しているわけですが、生身の肉体ではもちろんそれを検知できません。しかし、ラジオのダイヤルを合わせばそれらは言葉や音楽といった情報をもつ「世界」として視聴できるようになります。これと同じように、普段は目にも見えないし触ることもできませんが、アストラル界や天界はこの物質次元と織り重なるようにして常に存在しているのです。脳やDNAは、いわば物質次元だけにチャンネルをあわせたラジオといってもよいでしょう。

 

ですから、人間の体はつまるところ、アストラルや天界を認識できないように「設計」されているというわけです。肉体そのものが物質次元に人間存在を固定するための装置であり、その要となっているのがDNAと脳です。

 

また話を戻します。こうして見てきたように、脳はそもそもが受信機なのです。正確には受信機であり、かつ解読機(デコーダー)でもあります。メンタル体から受信したエネルギーを言語情報(思考)に解読するのが脳の役割です。

 

ここで、意識に水面があり、水面下を潜在意識、水面の上を顕在意識であると想像してみてください。

 

メンタル体からやってきた思考の元になるエネルギーはこの水の底、つまり潜在意識の最深部から浮かび上がってきます。そして、水面に近づくにつれてすこしずつ思考という形態に変換されていくのですが、このエネルギーが水面から飛び出たとき、その人の顕在意識には思考が言語化された状態で浮かんでいるわけです。

 

気づきの度合いの低い人、意識レベルでいえば400台以下の人は、ほとんどの場合、浮上してきたこの思考に、自動的に一体化してしまいます。この人にとっては今しがた説明した意識の水面は認識されておらず、ただただ思考があらわれ、あらわれると同時にそれと一体化しているため、まさに自分がその思考を作り出しているという経験をしています。これはあくまで比喩ですが、この状態の人の意識の水面は非常に波立って荒れています。そして、ある思考と一体化している間にも、他のいくつもの思考が水面から浮上してきていて、ひとつの思考が再生終了したり、なにかのきっかけで中断されても、すぐに他の思考と一体化してしまいます。

 

こういう状態のことをよく「自動思考」といって、自動思考が止まらないことで苦しい、辛い、眠れないといった話がされていると思いますが、この「自動思考」という言葉は誤りです。なぜなら、すべての思考は例外なく自動的にやってくるものだからです。逆にいえば、自動ではない思考などはありません。これは冒頭のところでお話した通りです。正しくは「思考と自動的に一体化してしまうこと」を止められないことが問題になっている、というわけです。

 

頭の中で特定の歌のフレーズが鳴り止まないということがあると思います。音楽も記憶としては思考の一種ですが、これがガンガン鳴っているときはそれと一体化しているわけです。そんなときでも、誰かと話したり、特定の用事を思い出したりしているときなどは、この歌は一時的に鳴り止んでいますね。が、話を終えたり、用事についての考え事が終わると、またその歌がはじまります。

 

そこでなにが起きているのでしょうか?

 

歌の思考は水面の上(つまり顕在意識)でずっと再生されているのですが、突如浮上してきた別の思考に一時的に一体化を譲り渡します。しかし、その間もバックグラウンドでは歌の再生は続いているのです。そして、別の思考が終わると、また一体化する権利を取り返すのです。これは実際にそういうときによく確認して調べてみると誰でも分かります。ここで指摘できるのは、気づきのない状態の顕在意識においては、いくつもの思考が同時に自動再生され続けているということです。

 

ところが意識レベルが500を超えてくると、この水面がおぼろげにですが認識されはじめます。もっとも、実際に意識のスクリーンに水面が見えるようになるということではなく、潜在意識から顕在意識側に思考がやってくる、ということが実感できるようになるという意味です。

 

これによって、思考があらわれてそれと一体化するまでにほんのすこしの「間」が生まれます。この間があることによって、自動的には思考と一体化しないことが起こりはじめます。ときには一体化していない素の思考データがいくつも認識されることもあります。このとき、いずれの思考とも一体化しないことはもちろん、任意の思考データを選んでそれと一体化するということも可能になります。

 

奇跡講座的な表現をすれば、この「間」聖霊として神の恩寵が流れこむのです。

 

さきほどの歌の例でいえば、自動的に一体化してしまっているときに、この歌を終わらせることはやろうとしてもできません(一時停止は可能です)。歌が再生されつくすことによって、その思考エネルギーがゼロになって、はじめて歌は終わります。しかし、このレベルでは歌の思考データと一体化しない選択ができる可能性があります。一体化しなくても水面上には浮上してしまっていますからバックグラウンドでは再生されていますが、それは無視できますので実際にはそれで悩まされることはありません。

 

もちろん、より低い意識レベルの人においてもこういうことが偶発的に起こることはあります。それを一瞥体験とみなしてもよいでしょう。

 

それはともかく、このレベル(500~539)ではうっかりするとまだまだ自動的に思考と一体化してしまうことはしばしばです。そしてさらに言うと、このレベルではまだ意識の水面は穏やかとまでは言えない状態です。

 

もっと意識レベルが上昇(540~)すると、この意識の水面はほとんど静まり、なめらかな透明のガラスのようになっていきます。もちろんこれも比喩で、別の表現をすれば潜在意識と顕在意識の境界がなくなっていくということです。この状態に至ると、いままでは水面から顔を出すまでその中身が分からなかった思考エネルギーを水面下に観ることができるようになっていきます。

 

つまり、まだ思考として明確に言語化されていないデータの存在を検知できるようになるわけですが、この状態のデータはまだ弱々しく、ただ気づいてやるだけでその力を失います。思考が形をなすまえに、それを水の底に押し戻すことができるようになる、と表現してもよいでしょう。そして、さらに意識レベルが上がるにつれ、これは意識しなくてもできるようになっていきます。賢者あるいは覚者の意識状態とはこれが徹底されているものだと思ってもらえばよいです。

 

この状態になると、浮上してくる思考データの数そのものがどんどん減っていきます。ですから、低い意識レベルの状態のように、水面上(顕在意識)にいくつもの思考が同時に再生されているというようなことはなくなります。しかし、それは賢者が思考しないということを意味しているわけではありません。ここもよく誤解されているところですが、賢者も思考します。ただし、基本的にその思考とは一体化しません。一体化しなくても、思考を再生させることはできるからです。なぜなら、思考はそもそも自動再生するものだからですね。

 

賢者が話すとき、その口から出る言葉は思考の産物です。それは他のどんな人とも同じです。でなければ話すことも書くこともできませんし、そもそも生活できません。違うのは、賢者の意識には「えーと、そうだなあ、なんて言おうか……」というような「混乱した思考」はほとんどあらわれないというところです。探求者の質問に賢者が答えるとき、そこには口から出る言葉とほぼほぼ同じ内容の思考があらわれています。もちろん、賢者にも答えられないことはありますが、その場合も「うーん? あれれ? おや、これはちょっとワシにも分からんなあ」という思考はなく代わりに「それは分かりません」という思考がやってきて、それをそのまま口にするのです。

 

これが賢者の「明晰さ」と呼ばれるものの正体です。ノイズのような不必要な思考が顕在意識のワーキングメモリ※を占有することがなくなるにつれ、やってくる絞り込まれた思考は研ぎ澄まされていきます。また、不必要な思考は過去に蓄積された心の傾向(ヴァーサナー)によるものですが、これらは顕在意識にのぼる前に沈めていくことを繰り返すうちに、やがて消滅します。

 

※顕在意識のスペースは広大ですが、それでも無限ではありません。また個人差も大いにあります。それはともかくワーキングメモリの比喩は、有限のスペースに、ほとんど無意味でパワーの小さい思考が無数にあるか、それとも真理を反映したとてつもないパワーを持つシンプルな思考がひとつだけあるか、という対比を説明するものです。真理からダイレクトにやってくる聖なる思考を意識上に展開するためには、余計な雑念がなくなってスペースが空くことが必要です。しかし、真理はいつでもわたしたちを照らしているため、無駄な思考の数々が静まれば、その反映であるパワフルで明晰な思考は当たり前にやってきます。

 

ですから、賢者においても、やってくるべき思考を(一体化することなくですが)ただ受け入れているだけです。もちろん、いま書いたように、やってくる思考の質は非常に洗練されたものになります。それは賢者の意識には、真理からくる光を妨げ覆い隠すものがないからです。でも、賢者においてさえ、形になった思考を止めることはできません。できるのは、それが形になるまえに沈めることだけです。

 

余談ですが、ジルボルト・テイラーが経験したのは左脳の機能不全です。このとき彼女は思考が止まっていたのではありません。思考はありましたが、それを言語化するデコーダーが故障していたのです。この状態で彼女は一種の至福を味わったようですが、さりとてその状態のままで生きていくことはできなかったでしょう。人間が人間として機能するうえで左右の脳は両方不可欠です。自動思考が止まらないことを左脳のせいにするのは、完全に間違っているわけではありませんが、ここまで読んでいただいたなら、それが本質的にはちょっとズレた見方であることがお分かりいただけたかと思います。

 

より大事なのは左右脳が高い次元で統合されることです。そもそも左脳と右脳というものの見方は、「肉体と意識」という分離のうえに「左脳と右脳」という分離をつみかさねてしまっているので、その観点で話を進めている以上、どこまでいっても分離から抜け出すことはできません。それゆえ、自動思考という発想や、思考を止めたいというような誤謬に陥っていることにも気づけないのです。

 

さて、今回はこれまでで一番くそ長い記事のひとつになってしまいました。読んでいただいた方にはお礼を申し上げますが、これを読んだせいでさらに余計な思考に巻き込まれることになりませんようにご注意くださいませ😌

 

それではまたお会いしましょう。