in SPIRE 内なる声をきく

あなたの世界を再構築するための情報です

霊的成長と知覚の変容について

ものの見方について、視野が広いとか狭いとかいいますね。これはものごとをどれだけのフレームで捉えられているかということ、もしくはどれくらい様々な角度から捉えられているかということを視野に喩えているわけですが、実際に人の肉眼の視野の使われ方は、その人の基本的なものの見方と対応しています。

 

ものごとの細部に拘り、全体性を意識することができない人は普段から中心視野だけを使って世界をみています。一方で、周辺の視野を使ってより大きなフォーカスで世界を見ている人は、その頭の中でもものごとを全体的に把握しようとする傾向があります。

 

前者はより分離傾向が強く、論理的・分析的で疑い深く、人によっては自己中心的な性格が前面に出ていることがあります。後者はより統合的かつ調和的で、直観的です。当然ながら、後者の傾向が強まるほどその人は高い意識レベルで測定されるでしょう。

 

この in SPIRE と note では、ホーキンズ博士の推奨する霊的な訓練法をベースにしたワークを2種類提案しています。

 

merciful.hatenablog.com

 

note.com

 

これらはいずれも知覚の焦点を緩めることによって現実の背景にあるコンテクスト(文脈)を感じることを通して、やがてはコンテンツとコンテクストの両方、すなわち全体性を直感することを狙っているものです。それらの記事をすでに読まれている方はこのまま読み進めていただいて結構ですが、未読の方はぜひ先にこれらの記事を読んでみてください。

 

さて、ここからはこれらのワークとその原理についてご理解いただいていることを前提に話をしていきますが、冒頭に書いたとおり、そもそも人の視野の用い方にはその人の意識レベルがある程度反映されています。これが意味するのは、意識レベルの違いが視覚にも違いをもたらすということです。

 

視覚は人間の知覚のひとつであり、かつもっとも重要なものと言ってよいでしょう。ですからここでは視覚について話していますが、意識レベルが反映されるのは視覚だけではありません。人間の知覚のすべては、意識レベルとともに変化します。知覚が変化すると、世界や人やものごとの見え方、感じ方、受け止め方もそれにあわせて変わります。

 

こうしたことはなにも悟りや覚醒といった非常に高い意識レベルの領域に限定されたことではありませんが、この領域における知覚のあり方と、400台より下の領域におけるそれとでは大きく違ってきます。一方、400台より下のそれぞれのレベルでの違いは、いずれにしても冒頭に書いた視野が広いとか狭いといった表現の枠に収まるものです。

 

わたしはギャンブルと薬物の深刻な依存症から完全に脱した経験をもっていますが、この経験をした人の意識レベルは540以上に測定されるそうです。このことから、意識レベル540を超えた人の知覚がどのようなものであるか、わたしは経験的に述べることができますが、依存症からの離脱に先立つ時期にはおそらく意識レベル500から539の領域を経験していたと思われますので、そこから話していきましょう。

 

というのも、個人的な感覚においても、知覚の変容に多少なりとも気づいたのはこの時期のことだからです。つまり、おそらくですが意識レベル500が知覚における大きな跳躍のポイントであるはずです。

 

意識レベル500は愛の領域であるとホーキンズ博士は述べていますが、もうひとつ霊的なことへの理解がはじまる領域でもあります。霊的なことへの理解とはつまり、目に見えることだけがこの世界のすべてではないということが分かるということですね。より高いレベルでは、むしろ目に見えるものの方こそ幻想であることが理解されていくのですが、500から539までの段階ではまだそういう風には思えません。

 

それでもこの世界には「もっとなにかあるはず🤔」という感覚は確実に生じはじめています。この時期に霊的な情報に触れると、その内容がすんなり受け入れられたり、場合によっては非常に触発されたりしますが、それはすでに自分の知覚がそのように世界を見るように変化しつつあるからです。

 

このとき、本人がそのことにはっきりと気づくほどではないかもしれませんが、その人の肉眼の視野の用い方は以前よりもかなり広くなっているはずです。

 

ここで具体的にどういうことが起きているのかをみていきたいのですが、その前にまず、意識レベル499までの知覚のあり方について詳しく説明しておきましょう。

 

~499 までの意識レベル領域での知覚

 

たとえばその人が誰か他の人を見るとします。視野が狭い人(=意識レベルが相対的に低い人)は、他者を見るとき、その全体像ではなく特徴的なディティールに目が行きます。基本的に目が行くのはその人がどんなアトラクタフィールドに影響されているかで決まってきますから、欲望の領域にいる人は性的な魅力に関わるディティールが真っ先に目に入りますし、社会的な領域の人は相手の地位や収入や能力が表現されているディティールを気にします。

 

ここで言えるのは、欲望の領域の人(125)と社会的な領域にいる人(200~300台)では後者の方が意識レベルが高い分、おなじようにディティールに目が行くといっても、性的特徴というシンプルな事実よりも、服装や装飾物といった身なりや物腰の雰囲気といったことのほうが比較するとより広い視野で観察されているということです。

 

ここでいう視野は、実際にそれを用いて他者を見ている肉眼の視野と、見たものからどういった情報を読み取るか、すなわちものの見方という意味での視野の両方があてはまることに注意してください。

 

意識レベル300台上部から400台にもなってくると、他者を見るときの視野はさらに広くなり、見た目から得られる情報が飛躍的に増えていくとともに、細部よりもその人の全体像の方にフォーカスするようになっていきます。その分、偏見がすくなくなり、相手の人物の様々な面を包括して受け止められるようになるでしょう。

 

どんな人にも色々な面があります。粗野にしか見えない人物が思いもよらない優しさを持っていたり、野心的なリーダーが実はひどく臆病だったりします。視野が狭いと、自分自身の低い意識レベルによって限定されたものしか外部の世界に見ることができません。視野が広まるにつれて、同じ人物が併せ持っているいくつもの面を同時に見ることが可能になっていきます。

 

ただし、ここが重要なのですが、意識レベル499までの領域では、肉眼で捉えられるものしか見ることができません。もちろん観察したものから推理すれば、その場に見えていないことまで知ることはできます。でもそれはあくまで目に見えているものを元にした情報であって、元になったものが見えていなかったら知ることのできないものです。

 

このように、意識レベル499以下の領域においても、各意識レベルにおける知覚のあり方は大きく違っています。しかし、多くの人はその一生をほとんど変わらない意識レベルで過ごしますから、世界の知覚の仕方が人によって大きく異なっていることを知りません。しかも、この領域での差異は先ほども述べたように「視野が広い/狭い」とか「観察眼がある/ない」といった表現の幅に収まるものですから、人々がお互いの知覚に違いがあることに気づく機会もほとんどありません。

 

意識レベル500~539の領域の知覚

 

さて、ここまでを踏まえて意識レベルが500に到達すると、知覚はどのように変化するのでしょうか?

 

先ほども触れましたが、意識レベル500は霊的なことへの理解がはじまる段階です。ところで、霊的なこととはなんでしょうか? あるいは霊性とはなんでしょう? それは一言でいうなら「すべてはひとつである」ということです。非二元とは「ふたつではない=分離はない」ということを言っているのですが、つまり非二元の教えの核心がこの「すべてはひとつである」というものです。それどころか他のどんな霊的な教えも、それが本物であるならば、その核心は「すべてはひとつである」ということにあります。

 

ラメッシ・バルセカールは自らの教えの核心は「存在するすべては意識であり、意識は存在するすべてである」というものだと言っています。つまり、すべての教えの核心が指し示している「すべてであるひとつのもの」とは「意識」であるということをラメッシは指摘しているのですが、ここから「わたしたちが見ているこの世界のすべてのものは、一なる非個人的な意識が見かけ上の分離として形をもって現れたものである」ということが言えます。

 

すなわち、わたしたちが見ている形のあるこの世界は見せかけの幻想であり、その本質は意識であるということです。意識は純粋な気づきであり、存在の基盤です。意識には境界も限界もありません。ちなみに一般的に人々が意識と混同している「心」とは、意識というスクリーンにあらわれた知覚の集合体のことですから、当然これには肉体という(見かけ上の)境界が存在しています。

 

意識レベルが500になるとこのこと、つまり、すべてはひとつであること、あるいは、すべてはひとつの意識であることが分かりはじめるのです。それが分かるようになるのは、その人の知覚がそのことを認識できるようにと変化するからです。意識レベル499までは見えることにまでしかその視野は及びませんでしたが、500を超えると、その人の知覚は霊的な視野に置き換わりはじめるのです。

 

霊的な視野とは、あなたの自我に代わって、いま述べた一なる非個人的な意識があなたの視覚を通して世界を目撃するということです。この一なる非個人的な意識のことは、「神の目」と呼び替えたほうがおそらく分かりやすいでしょう。つまり、意識レベルが500になると、その人は「神の目」を通して世界を見るようになるということです。

 

神の目ですから、その目に形のあるこの世界のものごとは幻想であると見抜かれます。そして、その見かけ上の幻想の背後には「すべてはひとつである」という本質があることも神の目には自明です。

 

とはいえ、まだこのレベルでは神の目は開きはじめたばかりで、明確にこのように知覚できるわけではありません。この段階のわたしには、人やモノやコトのすべてがなにか見えないもので繋がっているように「見えて」いました。見えないものが見えると書くと矛盾していますが、実際そんなように知覚していました。逆にいえば、すべてが全部バラバラという風にはもはや見えなくなっていたのです。また、繋がっているというこの知覚からは愛の感覚が湧きおこったものでした。

 

この神の目である霊的な視野は肉眼の視野が広まって焦点がなくなっていくことによって開かれるわけなのですが、このとき同時にいわゆる「第三の目」と呼ばれている6番目のチャクラも活性化しているようです。「パワーか、フォースか」の改訂版には各チャクラの意識レベルが記載されていますが、第三の目は525となっています。このことから、意識レベル500から539の領域は第三の目の影響下にあって知覚が霊的な性質を帯びはじめると理解してよさそうです。

 

意識レベル540~の領域の知覚

 

意識レベルが500を超えたのがいつのことだったのかははっきりとは分からないのですが、父親が亡くなったときにはじめて意識の高まりともいえる変化を感じたことから、その頃のことだったと考えています。意識レベル540を超えたのはそれから約6年後のことで、けっこうな金額の借金を返し終わった頃です。このときにわたしの依存症は完全に消え去ったのですが、それからほどなくして、知覚がさらに大きく変わりました。

 

その時期にホーキンズ博士の『 I<わたし> 真実と主観性』を初めて読んだのですが、そこに書かれていることがすんなり読めてしまって驚いた記憶がいまでもあります。このあたりのことは以前の記事に詳しく書いていますが、いま思い起こすと、この本に書かれているような高い意識レベルの領域の真実を腑に落とせるほどには、当時すでにわたしの知覚は進化していたのだと思えます。

 

前の段階では「すべてが繋がっている」ように見えていたのですが、この頃には「繋がっているのではなくて、最初から一つである」というように見えはじめました。頭の中の理解が『 I<わたし> 真実と主観性』によってより高いものへとアップデートされたことも関係しているとは思うのですが、以前は感じられた「見えない絆」のようなものがどこにも感じられなくなりました。

 

また、いつもそのように見えたわけではありませんが、その頃からたびたび、目の前にいる人がその人自身の意志で体を動かしたり話したりしているのではなくて、まるで精巧にできたアンドロイドが自動的に活動しているように見えるということが起こるようになりました。人の多い場所でそれが起きると、一人ひとりのアンドロイドが一見バラバラに動いているようでいて、その実、その場のすべての人(だけでなくすべてのもの)がなんらかの秩序のもとで複雑に絡み合った一つの大きな動きを作り出しているように見えるという、とても不思議な光景を目撃することもありました。

 

はじめのうちはちょっと戸惑いましたが、分離という幻想を知覚できるようになると、分離した個人の自我はまさにアンドロイドに搭載された高性能なプログラムのようなものに見えるわけです。また、すべてはひとつであることを知覚するということは、全体性のダンスを観ることとイコールです。

 

また、やはりこの頃から、思考がどこからかやってくるもので、決して自分でそれを考え出しているわけではない、ということも知覚できるようになってきました。最初は統合失調症になってしまったのかと思いましたが、そうではありませんでした。やがて、思考だけでなく、自分の体の動きも、自分の意志に先立ってすでに動いていることが分かりはじめました。歯磨きのような単純にみえて実は複雑な行動をしているときの自分をよく観察してみると、わたしが言っていることがお分かりになるかもしれません。

 

そしてこの頃から、わたしの肉眼の視野は特になにかを注意して見る必要がないときは基本的に視野全体を使ってものごとを観るようになっていました。つまり、すべてがひとつに見えるという知覚は、実際に視野にあるものすべてを分割(どこかに焦点を置かず)せずに見ていることから生じているのです。

 

現在の知覚

 

それから現在までは、基本的に大きくは変わりません。強いていえば、それぞれの知覚の解像度が上がった気がします。なかでも、すべてはひとつであるということは、常に知覚されています。それゆえ、こうしてなにかを書くときも、必ずその観点、すなわちすべてはひとつであることが前提となり、そこからブレることはもうありません。

 

人が自動的に動いている感じは偶発的に起こるものではなく、そのように見ようとすると見えるようになりました。このように見ているときは自分自身もその例外ではなくなり、見えているのはわたしの肉眼の視野にある映像なのですが、見ている自分の意識は体の中だけではなく外側にも広がっているように感じられます。といっても、いわゆる体外離脱のように身体から抜け出しているのではありません。意識が肉体という境界を超えて外側へとにじみ出ているという表現が近いです。わたしが提案している IF というワークはこの自分の知覚をもとに考えたものです。

 

これに伴って、自分の身体の後ろ側方向にもなんらかの知覚が得られるようになりました。もちろん、背後にあるものが見えることはありませんが、気配というか、そこにはちゃんと空間と事物が存在しているのだということが、以前よりもはっきりと知覚できます。

 

また、視覚的な知覚ではないですが、洞察力は高まったと思います。境界がないのであれば、自分の思考も他者の思考も区別なく観ることができるはずです。テレパシーという能力はそういうものが前提になっているはずです。もちろんわたしにはテレパシーは使えませんが、親しい人、具体的には同居している母親の考えることは表情などみなくても分かるようになりましたし、とくに親しくなくても顔を見れば、その人の思考や感情がまるで漫画の吹き出しに書いてあるかのように読み取れてしまいます。

 

もちろん、どんなことでもお見通しというわけではありませんが、その人が嘘を言っている場合はたぶんほぼ確実に分かると思います。キネシオロジーテストそのものは意識レベル600で測定されるようですが、これが意味しているのは、意識レベル600の人物は虚偽を見抜けるということです。

 

終わりに

 

さて、今回は意識レベルの高まりとともに知覚がどのように変化していくかについて書いてみました。最近 note で親しくさせていただいている方がACIM (A Course in Miracles = 奇跡講座)の学習者で、海外のACIM教師の動画を翻訳された記事をずっと書いておられるのですが、その記事を読ませてもらっていると、そこには知覚という言葉がたびたび登場することに気づきました。

 

merciful.hatenablog.com

 

この「非二元ってどういうことなの?」という記事が、わたしが自分の理解を最初に文章化したものと言えますが、ここでわたしは人間の知覚について説明するところから、話をはじめています。真理がなぜ探求して見つけなければならないものになっているのかというと、それは人間の知覚が真理を覆い隠してしまっているからです。ですから、悟りや覚醒や意識レベルの上昇ということはすべて例外なく、知覚が変わることによって起きる事象です。

 

ということは、悟りや覚醒について教えるということ、あるいは真理とはなにかを伝えるということにおいて、知覚について言及することは避けられないわけです。その意味で、ACIMの教えは根本的に信頼のおけるものであることを知ったと同時に、わたしもこうして知覚について、あらためて念を押す形でとりあげておく必要があると思った次第です。

 

いろいろな人がいろいろな教えを説いていますが、知覚については、その人の知覚がそのようになっていないかぎり、語ることができません。その人が知覚についてなにを語っているか、あるいは語っていないかを調べれば、その人の話を聞くべきかどうかの判断がつくことでしょう。

 

それでは、またお会いしましょう。