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非二元ってどういうことなの?

ここ数年で、スピリチュアルな本や話題に、非二元という言葉がよく出てくるようになってきたと思います。非二元はノンデュアリティと英語で呼ばれることもありますが、最近になって誰かが言いだしたわけではなく、1000年以上前のインドにいたシャンカラが唱えたとされているアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)にはじまりますが、さらに遡るとその起源はウパニシャッド哲学にも見られます。非二元は真理を言い表した概念であるとされ、これが体得されることを悟りと考える向きもあります。以下は、Wikipediaの不二一元論の項目の引用です。

 

不二一元論は、ウパニシャッド梵我一如思想を徹底したものであり、ブラフマンのみが実在するという説である。

人の個我は、その本体においてブラフマンと同一であるが、人が経験する現実では多数の個我があるように見える。これは無明(アヴィディヤー、無知)の力のせいで、無明によって人は迷い、自分という中心主体があるのだと思う。これが輪廻から抜け出せない原因である。現象界の万物の本体は平等であるが、高下・善悪などの様々な違いがある[2](差別相、しゃべつそう)。これは無明によるものであり、真実には存在しないマーヤー(まぼろし)のようなもので、仮にあるように見える虚妄である。ブラフマンだけが唯一で不二の実在者であり、これが真実である。個我がブラフマンと同一で、現象界が実在しないマーヤーであると悟ることで(明知)、無明は退けられる。これにより個我による縛りはなくなり、解脱が果たされる。[3]

 

これを読んで分かる人は、以下を読む必要はないかもしれません。でも、ほとんどの人は「頭ではなんとなく理解できるような気がするけど、仮にこの通りであるとして、だからなんなの?」と感じると思います。実際のところ、覚醒や悟りという事象は、この非二元の真理とされるものを頭で理解することではなく、覚醒した人、悟りを得た人には、世界はそのように体験されるというものです。ですから、頭でもし理解したとしても、それは覚醒でも悟りでもありません。しかし、頭でちゃんと理解できたなら、その人は悟りに近づくことは間違いないのです。それに、非二元とはなんなのかがきちんと分かれば、それだけで人生の見え方は大きく変わっていきます。悟らなくても、悟りにまでは至らなくても、少なくとも普通に暮らしていく上で、非二元を理解していれば悩まなくても済むこと、苦しむ必要のないことというのはたくさんあります。今回は、私なりに、なんとか非二元ってどういうことなのかを説明し、それを理解するとどうなるのかについて書いてみたいと思います。うまく書けるかどうかは分かりませんが。

 

まず考えてみたいのは、なぜ『非』二元という言葉なのかということです。あるいはなぜ『不二』一元論なのかということですね。これは、「二つではなくて一つなんだよ」ということです。「二つではなくて」の「二つ」とは、複数ということであり、個々バラバラということを言っています。『みんなこの世界は個々に独立した無数の存在で構成されていると思っているけど、それは違う』というのが非二元という言葉の意味するところです。不二一元では『すべては個々バラバラではなく、一つであるのが真理だ』という意味になりますが、まあどちらも同じことではあります。

 

すべてはひとつである、という言葉はスピリチュアルな文脈ではよく目にされると思います。人によっては「そうなんだよねー」と簡単に同意できる概念なのですが、別の人にとっては無理なこじつけであると感じるでしょう。『だって「わたしはわたし」であり「あなたはあなた」じゃないか。体をみても、どこかヒモの様なものでつながっているわけではない。心でつながっていると言われてもそれは見えないし、本当につながっているのなら、なぜこんなに分かりあえないのか? そんなふわっとした話を信じている人たちと自分は人種が違うよ』といったところでしょうか。

 

ここで、個々バラバラということについて考えてみましょう。たしかにわたしたち人間は、それぞれが別々の肉体と心を持っています。わたしの体はあなたの体ではなく、あなたの体はわたしの体でもありません。世界を見渡すと、あの石やこの木、あそこの山やその動物、といったように、すべては別個の存在として認識されます。熱いという感覚と冷たいという感覚は別のものだし、幸せな人も不幸な人もいます。この問題はその問題とは別の話だし、あの件とこの件は関係がありません。あれとこれは関係や関連はあるかもしれないけど、あれそのものと、これそのものは別々のものです。これが個々バラバラということです。なにもおかしいところはありませんよね?

 

しかし、なぜ人間には世界はこのように認識されるのかを理解すると、こうした世界の見方は絶対的な真実ではないことが分かります。人間がこうした認識の仕方をするのは、人間が世界を知覚するやり方に依存しています。分かりやすくいうと、五感と五感から得られた情報をもとに思考するという人間のやり方が、こうした世界観を生んでいるのです。言いかえると、人間の世界認識は五感をもとにした知覚によって制限されているということになります。

 

たとえばある人が足元にある物体を見ます。触ると硬い手触りがあり、ごつごつしています。匂いはしません。舐めることはしません。放り投げるときに、重さを感じます。手から離れると、手触りは消えます。こうして彼はその物体を五感で味わいながら、これは過去に知りえた石というものであることを認識していますが、実はこのとき同時に、石ではないものも意識下で認識しています。なにかを石と認識するには「石ではないもの」が必要なのです。「これ」となにかを指さすとき、彼の中には、「これ」と「これ以外」が認識されています。なぜなら「これ」を規定するには「これではないもの」が必要となるからです。これが二元論というものです。上に書いた世界認識は、すべてこの二元論によって成り立っています。

 

二元論というと、善悪の概念がよく引き合いに出されます。これも、なにかを善とみなしたときには同時に善ではないものがあるということになり、それを悪と呼んでいるに過ぎないのです。そして、この二元論のうちで、もっとも根源的なものが「わたし」という概念です。人間は自分自身の存在を「わたし」という他の誰かではない確固たる存在であると認識しています。「わたし」が存在するとき、「わたし以外のもの」が同時に存在することになります。それは別の肉体をもった人間であったり、道端の石であったり、可愛がっている犬であったりします。こうして人間は「わたしとわたし以外のもののすべてがいるところ」を世界として認識します。そしてさらに、世界という認識は「この世界」と「あの世界」を生み出します。このようにして、人間は世界を分裂させていきます。これが個々バラバラという見方を生み出す仕組みです。

 

このことを別の角度から説明すると、五感による人間の認識はすべて「なにかに焦点をあわせる」ことによって可能となる仕組みであると言えます。目でなにかを見るにはそれに注目する必要があります。誰かの呼びかけに反応するためには、その声を聴き分ける必要があります。頬に触れた風を感じるには、そこに意識をあわせなくてはなりません。いずれも、感覚をどこかにフォーカスさせることで、それを認識しています。「わたし」というのも焦点ですし、「あの問題」というのも焦点です。そして、なにかに焦点をあてるとき、焦点と焦点以外のものがあるということになります。

 

ここで重要なことを述べます。

 

焦点をあわせる(フォーカスする)とは、「全体」の中の「部分」に着目することである

 

これまで述べてきた話の中にはあえて「全体」という概念を持ち出しませんでした。なぜなら、人間の感覚認識は部分に注目するようになっていて、意識しなければ全体というものは想定されない、ということをここで示すためです。「これとこれ以外」「わたしとわたし以外」は「これ」や「わたし」を認識するために必要なのですが、「これ以外」や「わたし以外」の方は意識下で認識されているため、情報としては切り落とされています。つまり、人間にとっての現実は、焦点のあたっている事柄に含まれる情報だけで構成されているということです。これのどこが重要なのかというと、

 

人間は常に、不十分な情報しか受け取れず、それをもとに感じ考え、判断し、行動している

 

ということになるからです。アインシュタイン『我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルでは解決できない』と言ったそうですが、そうすると問題を作ったときよりも上の次元の考えでなければ解決できないということになります。これをいま述べていることで説明するなら、どんな問題も、それが問題と認識されるときには、必ず事象全体の一部を切り取っていると言えます。すなわち、問題とは情報の不足であると言いかえてもよいでしょう。ですから、『ある問題を解決するためには、それよりもより全体に近い(情報の多い)レベルで考える必要がある』ということになります。

 

非二元を理解するとは、つまるところ、われわれは全体を把握することができない生き物だと気づくことと言えます。そう気づくことにより、なるべくより大きな枠組みで物事を捉えてみようと試みることができるようになります。これは一種のトレーニングです。ある問題に取り組むときには、まず問題そのものをどれだけのフレームで規定するかを考えるべきです。闇雲に広げ過ぎては手の付けようもなくなりますが、最初に想定したものより一回り拡げてみるだけで、物事はだいぶスムーズに運ぶようになるでしょう。人間関係においても、「わたし」というところを「わたしたち」や「われわれ」と言いかえるだけで、あとに続く言葉と行動は違ってくるはずです。自分の人生というとき、自分ひとりのものと考えるか、家族や友人といった身近な人々の人生と有機的に絡み合ったものと捉えるかで、その味わいは変わるでしょう。

 

完全な全体性を認識できるようになる境地が悟りです。そのようになれば、人類全体に影響を与えるような発想ができるのかもしれません。でもべつに悟らなくても、ほんの少し全体を意識して、認識を拡大するだけで、人生は好転します。なぜなら、全体に近づけば近づくほど、それは調和しているということだからです。