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その瞑想はなんのため?

今回は瞑想についてすこし書いてみたいと思います。といっても、わたし自身がほとんど瞑想はしませんし、やるとしても自己流のやり方ですので、方法論などを述べるつもりはありません。

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瞑想は、悟りに近づくための訓練もしくは練習といってよいと思います。練習ですから、それ自体が目的では、本来はありません。

 

たとえば野球選手はバッティングの練習を念入りに行いますが、練習はあくまで練習です。練習でどれだけ上手くボールを打てたとしても、実際の試合でよいバッターとなれるとは必ずしも言えません。素人でもバッティングセンターのすごい速球をほとんどホームランにしてしまうような人は普通にいますが、そういう人がみなプロ野球の選手になれるかというと、そうではありませんね。

 

ときおりテレビなどで「ヨガの達人」と呼ばれる人をみかけることがあります。過去にものすごい苦行に耐えてきたなどと紹介され、あらゆるアーサナを見事にやってみせたりして、確かにそれはすごいと思うのですが、そもそものところで「ヨガの達人」という言葉に違和感をもってしまいます。ヨガ、あるいはヨーガは、解脱を目的とした行の体系です。ですから、ヨーガを究めるということは、すなわち解脱と同義であるはずです。解脱=悟りは達成されるなにかではありませんし、達成する人もまたいません。行為の主体である「わたし」が幻想であることについてはこちらの記事などで

 

merciful.hatenablog.com

 

述べましたが、行為者の不在というこの真実と「達人」という言葉は相容れないものです。ヨガに限らず、なんであれ、悟りや解脱のために「究める」ことのできるものなど、ありません。なぜって、究める人がいないからです。

 

瞑想もまた、ヨガ(でも瞑想は行いますが)と同様、それを究めていくこと自体に意義があるものと捉えている人をよく見受けますし、瞑想の深さや時間をアピールして自ら瞑想上級者と認識している人もいます。そのこと自体はべつに批判するようなことでもなんでもないと思いますし、ヨガにせよ瞑想にせよ、その本来の目的を理解しているかいないかにかかわらず、ある段階まで上達するために努力することには、もちろん大きな意義があります。適切な指導者のもと、なにも分からず取り組んだとしても、その人の意識にとって必ずよい影響があるでしょう。だからこそヨーガや瞑想には価値があるのです。とはいえ、目的をはき違えてしまっては、場合によってはよくない影響を受けることさえあります。

 

こうした体系、技法というものにある段階まで習熟した人は、そこであらためて本来の目的を問いなおし、自分がその目的に正しく向かっているのか、それとも道を逸れてしまっているのか、確認をされるべきかもしれません。そこで、今回は瞑想の目的であるところの『悟り』について、瞑想という方法論にあった説明を試みたいと思いますが、はじめにも書きました通り、瞑想の方法についてはわたしの教えるところではありませんので解説しません。それについてはみなさんがご自分で、自分にあったものを見つけて実践すればよいと思います。

 

マインドフルネスの流行? もあって、その原型ともいえるヴィパッサナーについては、ここまでに述べてきた趣旨と同様の落とし穴があります。これは本当はヴィパッサナーに限ったことではないのですが、説明しやすいのでヴィパッサナーをとりあげて後で書きます。

 

さて、瞑想の目的である『悟り』ですが、悟りがどういうことであるかについてはほかの記事でも様々に触れています。ここでは、悟りが起きている状態についてとりあげてみます。悟りがあるとき、その人の意識は『観照』と呼ばれる状態を経験しています。観照とはなにかを説明するのはとても難しいのですが、観照ではない状態を説明することは比較的簡単です。なぜなら、それがほとんどの人がいま経験している意識状態だからです。ほとんどの人は、偽りの経験主体である自我(マインド=エゴ)が自分の本質であると思い込んでいます。そのため、自分が世界を見て、感じ、考えていると信じています。

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マインドは自らを世界から分離・独立した存在として、自分の内側と外側に線を引きます。しかし、実際にはマインド=エゴとは単に条件づけられた心でしかなく、条件次第でいかようにも振り回されるはかないものです。そのようなはかないものを自己の本質であると信じているがゆえに、人は苦しむわけです。

 

上の図にあるように、マインド=エゴは自らが世界を見て、なにかを感じ、なにかを考えていると思っています。でも実際にはマインド=エゴという実体はなく、あるのはただの感覚であり、感情であり、思考であり、それらは意識というスクリーンにただ「現れている」にすぎません。それを見ているのはマインド=エゴではなく、スクリーンそのものであるところの意識なのです。

 

ここが分かりにくいというか、これは観照という状態を経験しなければ本当に理解することは難しいところです。『目は目それ自身を見ることはできない』という言葉について熟考してみてください。これは観察(経験)されるものは観察者(経験主体)ではありえない、という意味です。そうであるなら、感情や感覚や思考、あるいは「外側の世界」を見ているあなた(という概念)もまた、それが概念として想定できる以上、見られているもの(=思考の対象)であって、見ている目のほうではないということになります。

 

観照とは、「見ている主体」というものはなく、ただ「見る」ということだけがあるということです。見るものがなく、見るということだけがある、というとき、すべては見られていることになります。非二元を説いた本には「観照者」なる言葉がときおり出てきますが、この言葉は誤りです。観照はただ観照であり、観照している誰かなどいません。悟りが起きている人の意識は観照を経験していますが、その人が観照しているのではありません。OSHOなどもよく観照者という言葉を使っていたようですが、わたしが読めるOSHOの本は彼の講話を弟子たちが文章化したものですから、本当にOSHOが観照者と言っていたのか、それとも弟子がなにがしか編集の都合上、そのような表現を用いたのかは定かではありません。けれども、わたしはOSHOがそこを間違えることはないと考えています。余談でした。

 

さて、瞑想の目的は、このマインド=エゴの幻想を見抜き、世界をあるがままに見ることで人を苦しみから解放することです。すなわちそれが悟りなのですが、このとき世界はこのようになります。

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これが観照ということです。見ている人はもうどこにもいません。最初から、そのような人はいなかったわけですが…。

 

ですから瞑想とは、この図のように世界を見るための練習ということになります。そのためのやり方はなんでもよいと思います。むしろ、この図と上のマインド=エゴの図の違いを瞑想において熟考するだけでもよいかもしれません。非二元の教え(アドヴァイタ・ヴェーダンタ)とは、思考によってこの理解へと至るための教えですから、この道においては瞑想は本来不要とさえいってもよいわけです。もちろん、やっても構わないですし、アドヴァイタの教師のほとんどは瞑想をすすめます。

 

ところで先にすこし触れたヴィパッサナー瞑想のことですが、実をいうとほとんどの人は、最初に示したマインド=エゴの図のように思考や感覚、感情を「見て」さえいません。思考や感情、感覚といったものと完全に一体化してしまっているからです。自分がなにをしているか、分かっていない状態です。ですから、このマインド=エゴの図のように「これは思考」「これは感情」「これは感覚」というように「自分がなにを見ているかを自覚できる」ようになるためには、普通はなんらかのきっかけや努力が必要となります。

 

瞑想やヨーガはそのための努力になるわけですが、ヴィパッサナー瞑想は比較的簡単に、この状態(気づきのある状態)へと導いてくれます。それはヴィパッサナー瞑想がとても優れた手法であることを意味しているのですが、その反面、この「気づきのある状態」が悟りであるかのように誤解もしくは錯覚してしまいやすいと言えます。最近流行っているように見受けられるマインドフルネスとは、この状態のことであるとわたしは理解しています。この状態はもちろん目覚めのプロセスの中にありますが、この時点ではまだ「気づいている自分」が存在しています。つまり、言ってしまえばエゴがエゴであることを自覚しただけで、まだしっかりと主張しているのです。

 

この状態を悟りと誤解して、結果的にかえってエゴを肥大化させてしまうことを「魔境」と禅では呼んでいます。ヴィパッサナー瞑想を指導している人の中にも、この魔境におられる方をわたしは知っています。

 

ヴィパッサナー瞑想は「気づきの瞑想」とも呼ばれています。しかしその本質は、気づきを足掛かりとして、最後には気づいている主体が偽りの幻想であることに「気づく」ための瞑想です。というより、すべての瞑想の本質がそうです。そしてすべての瞑想は、最終的には行為としてそれを行うのではなく、瞑想そのものを生きるところに行きつきます。それは観照とともに生きていくということです。

 

最後になりますが、瞑想であれなんであれ、やってみようと思うことはぜひやってみるべきだと思いますし、いまなにかに取り組んでおられるなら、それをぜひ続けていけばよいと思います。真理はひとつですが、そこへ至る道は人の数だけあります。人によって近道をすることもあれば、あえて紆余曲折を経る人もいます。その人にはその人の学びのプロセスがあり、誰かの真似をしたって何の意味もありません。ですから、どこかで瞑想を習ってみて、しばらくしてそれがどうも疑問に思えてきたり、自分には合わないなと思うことがあったとしても、それはそれでよいのだと考えましょう。

 

いまやっていることは「果たして本当に正しいのだろうか?」と人は悩みます。しかし、その質問自体がエゴがしている質問であることに注意してください。正しいものはおろか、適切であるとか、妥当であるとかいうものさえ、本当はこの世界にはないのです。でも、そうはいっても、どうせなにかをやるなら、間違ったことはしたくないと考えるのも人間としては当然のことでもあります。であるなら、やり方ではなく、「なんのためにそれをやるのか?」というところをしっかりと掘り下げたほうがよいと、わたしは思います。

 

瞑想をしたい。なぜしたいのか? なんのために瞑想をしたいのか? そもそも瞑想とはなんなのか? 瞑想するとどうなると自分は思っているのか? そこのところについて熟考することは、瞑想そのものよりも、もしかしたら重要かもしれませんよ。