ひとりひとりの人間は、リズミックな波動で表現される純粋な情報からできている。その波動は、量子たちの無限小のヴァイブレーションからはじまって、原子、分子、細胞、器官、生体、家族、部族、民族、国家、文明、そしてそれを超えたものへと永遠にひろがる共鳴のヒエラルキーをもつのである。
G.レオナード『サイレント・パルス 宇宙率との遊星的共振』
こんにちは、お久しぶりです。
このブログについての予備知識となる10冊、というタイトルでこれまで記事を9つ書いてきましたが、これがその続きであり最後のものとなる10冊目の紹介になります。前回の記事はこちらになります。
9冊目の紹介から実に5年近くも経ってしまいましたが、これは単に続きを書くことをわたしが忘れていただけです。もっとも、そもそも最初から10冊を選んで予定していたのではなく、だいたい10冊くらいは紹介できるだろうという想定で書いていたので、この10冊目にどんな本をとりあげるかもはっきりとは決まってはいませんでした。
それから5年近くが過ぎて、最近ふとそのことに気づいたのですが、ちょうどこれからこのBLOGで書いていこうと考えていたことの取っ掛かりといえる内容が書かれた本を見つけましたので、今回これを10冊目として紹介したいと思います。
これまでこの In SPIRE では意識の覚醒について、それがわたしの身にどのようにして起きたかということや、それが起きると知覚(つまり、世界の見え方)がどう変わるのかということ、それから、そもそものところで意識とはなにか? 現実とは? といったことをさまざまに書いてきました。そのなかで悟りや非二元といった概念にも触れることで、いわゆる探求者と呼ばれる方々の知りたいことをある程度まで網羅できたかな、と思っています。
こうした話というものは、そのつもりになれば手を変え品を変え、いくらでも語ろうと思えば語ることは可能です。そのような話をもっと読みたいと考える読者の方もいらっしゃるかもしれませんし、わたしにしても日々のなかでこんな伝え方もありだなあと新たに思いつくことはしばしばです。
しかしながら、それはキリのないことで、探求者の探究にいつか終わりがくるべきであるように、教えることにもどこかで区切りがくるべきだとわたしは考えます。
そこで、今後はこれまでとはやや趣きの異なることをテーマにして新たに書いていこうと思っています。具体的には「波動や周波数といった観点からみた宇宙と人間や現象、または共感・共鳴・共振・同調」といったことや「多次元世界や次元密度、なかでもアストラル界について」などなど、です。note の記事とは違って、こちらのBLOGでは降りてきたインスピレーションを文章化しているため、この通りに書くことになるのかどうかあらかじめ保証することはできませんが、おおむねこういう方向性となるはずです。こうして挙げてみるとオカルト的な内容ばかりですが、オカルトとは「隠された」という意味ですから、その点でオカルトで間違いはありません。
意識が覚醒すると、あるいは悟りが起きると、この世界のすべてが幻想であることが自明となります。なぜ自明と言い切れるかというと、他ならぬ自己の存在からして幻想であることに気づいてしまうからです。しかしながらこれには誤解の余地があります。幻想というのは人間の通常の知覚を通して認識される二元性にもとづく世界像が実相とは異なっているという意味であって、この世界のすべてが実際には存在しない夢幻であるということではありません。これまでの記事では、このことを説明してきたつもりでいます。
さて、あらためてこの世界についてですが、夢幻ではなく確かに実存しているとは言うものの、その存在の仕方の根底からいって実にこころもとないものです。物質の基礎といえる原子の中は真空のがらんどうです。大雑把な表現にはなりますが、がらんどうをいくら寄せ集めても中身はスッカスカのはずなのに、それが鉄とか鉛といった重い物質を作り上げているというのは実に不思議なことです。また、最近では、この世界は何者かによって作られたコンピューター上のシミュレーションなのではないかという仮説もでています。細かいことはここではとりあげませんが、そのようなことを真剣に考える人がいるくらい、この世界にはどこか謎めいた面が存在しているのです。
今後わたしが書いていくのはこちらのこと、つまり、この世界がとても不思議で、かつ巧妙に作られていることについてです。これまで書いてきた意識についての話はわたしにとって自明のことでしたから、そこには推測や仮説といった要素はほとんどありませんでした(すべてが事実として正確であるとまではいいません)。しかし、これから書こうとしていることに関しては、わたしにとっても手探りであり、なにかひとつでも言い切れるようなことはないかもしれません。二元性という幻想について見破ることができたからといって全知ではありませんから、知らないことは知らないし、分からないことは分かりません。
しかしそれでも書いていこうと思うのは、率直にいって、この世でやるべきことがもう、そういうことくらいしかないからです。ですので、これはわたしの趣味の話といってもよいかもしれません。そういうものでもよろしければ、今後もおつきあいくださいませ。
なお、これから書いていくことを理解していただくためには、これまでの記事に書いてきたことをしっかりと頭に入れておいていただく必要があるでしょう。できればあらためてすべての記事を再読しておいていただくことをお勧めします。次の記事が出るのはまだ当分先のことになりそうですから、時間は十分にあると言えるでしょう。
そして、それに加えてこれから紹介する『サイレント・パルス 宇宙律との遊星的共振』もぜひお読みください。この本の内容は、これまで書いてきた内容とこれからの内容の橋渡し役的な知識の一つとなると思います。
ここから本題です
さてここからようやく本題となります。まずは、記事の冒頭に引用した文章をもういちど見ていただきます。
ひとりひとりの人間は、リズミックな波動で表現される純粋な情報からできている。その波動は、量子たちの無限小のヴァイブレーションからはじまって、原子、分子、細胞、器官、生体、家族、部族、民族、国家、文明、そしてそれを超えたものへと永遠にひろがる共鳴のヒエラルキーをもつのである。
この文章にあるとおり、この本では、人間存在の本質をその人固有のパルス(脈動)として捉えています。また、人間だけでなく、この世界のすべてのものも同じように固有のパルスをもっていて、それぞれがそれぞれのパルスを全宇宙に向けて放射しているとみなすなら、これらの放射のひとつひとつが他のすべての放射とであうことになります。
このとき、宇宙全体を三次元の動的なフィルムであるとみなすなら、そこには全宇宙の情報が刻まれた干渉縞が写りこんでいるでしょう。すなわち、宇宙は巨大なホログラムとみなすことができるというわけです。ここではホログラムについての説明はしませんが、ホログラムについては以前の記事で紹介した『投影された宇宙―ホログラフィック・ユニヴァースへの招待』という本にも詳しく書かれていますし、Wikipedia などで調べてみてもよいでしょう。
宇宙がホログラムであるのなら、この宇宙のどの一部分を切り取ってみても、その部分のなかに宇宙全体の情報が含まれているということになります。
人体は小宇宙と言われることがありますが、人間の体もまさに宇宙の一部分ですから、そこに宇宙のすべてがその大きさなりの解像度で存在しているということで、実際のところ、たとえば脳の神経細胞のつながり(シナプス)を可視化したものと、宇宙の大規模構造(グレートウォール)の想像図はほとんど見分けがつきません。
G.レオナードはこのように人間を宇宙ホログラムを構成する部分として捉えることによって、奇妙な、ある意味超自然的ともいえるいくつかの現象を説明しようと試みています。
例えば、会話を撮影したフィルムの1コマ1コマ(1秒に48コマ)を分析することで、話者が発する言葉の微小単位(短音節)と話者の体の微小な運動が完全に同調しているだけではなく、聞き手の体の微小運動も、話者に「遅れることなく」完全に同調していることがわかっている(ウィリアム・S・コンドン博士の微小分析)のですが、これなどは話者の心と体、あるいは話者と聞き手を個個別別のものであると考えた場合、どうしても説明ができないのです。
しかし、すべてが波動ないしはパルスであって、このパルスが宇宙ホログラムの干渉縞を織りなしているとするなら、見かけ上は別々のものにみえるあれやこれやもすべて、全体性の中で完璧に演じられるダンスやオーケストラであるというわけです。また、いわゆる遠隔視実験についてもこの観点から考察されていて、こちらも面白いです。
さらにレオナードは、われわれ人間はホログラムの一部分であると言う一方で、この「部分」というものはどれをとっても同じ取るに足らない部分ではない、とも説きます。
わたしの主張は単純だ。もしアイデンティティが存在しなければ――つまり、全宇宙がたんに一体として存在し、その<一体>のどの部分にも全体が反映されているだけならば、本当のちがいはどこにもなく、したがってどんな関係もありえない。そして、もしどんな関係も存在しないことになれば、どんな物体も、事件も、物質宇宙も精神宇宙もありえない。
彼がここでいうアイデンティティとは、最初にふれた人間存在の本質的なパルスのことであり、いわゆるエゴのことではありません。レオナードはそのような表現はしていませんが、魂の波長というような意味でしょう。このアイデンティティが姿を表すとき、その人は宇宙と真に一体になっていると言えます。この本では合気道家のフロー現象や元複葉機乗りとその恋人に起こった奇跡のようなシンクロニシティ、すべてがうまくいくと知っていたとおりに重要な会議を乗り切ったビジネスマンの話、デュエイン・エルギンという研究者の実験での驚くべきできごとなどを紹介しながら、そこでなにが起きているのか、そして、なぜそれが起きるのかについて考察しています。
いずれも興味深く面白いエピソードなので詳しくは本書をぜひ読んでいただきたいのですが、ここではこれらの現象に共通している要素としてレオナードが言及していることを引用します。これは先に挙げたデュエイン・エルギンの実験の部分になります。
一九七三年から一九七五年にかけて、デュエイン・エルギンという研究者がスタンフォード研究所で一連の驚くべき実験をおこなった。厳重に遮蔽された敏感な磁力計に、意志の力だけで影響を与えようという試みである。この装置は磁場の変化を測定し、自動的に紙にその変化を記録してゆく。最初の数回の実験はだいたい同じような手順にしたがった。エルギンは磁力計から数フィート離れ、しかも記録装置の見えるところにすわるか立つかし、その装置にむかってあらんかぎりの意志力をむけて、それに影響をあたえようと試みる。かれは二〇分から三〇分のあいだ努力を続けたが、針はほとんど直線を描いて動かない。成果なしである。とうとう疲れはて、腹を立てたかれはこうつぶやいた。「もうあきらめよう。」
すると、かれが明け渡したその瞬間、針は磁場の変化をしめしはじめるのである。そうした変化はけっしてささいなものではなかった。ときには、針が目盛りからはみだしてしまうことさえあったのだ。ふつうの方法でこのような結果を得るためには、地球の磁場の一、〇〇〇倍くらいは強い力が必要となる。それに、物理的な距離もエルギンの力をさまたげることはなかった。一度など、かれは数マイル離れた自宅から磁力計に強い影響力をおよぼすことができたのである。
(中略)ここで、私たちは一つのパターンがあらわれはじめているのを見る。磁力計とうまく連動しているときのエルギンの状態――それは「焦点をもった明け渡し」とでも呼べるだろう
最後にでてくる「焦点をもった明け渡し」という言葉が、この不思議な現象の数々に共通している要素になります。
明け渡しという言葉からピンと来た人は、もうかなり理解が進んでいますね。わたしの観点では、いわゆる一瞥体験やピーク体験、フロー現象、シンクロニシティや不思議なくらい物事がうまくいくという体験などはすべて、本質的にはおなじことです。
そこで起きているのは一時的にエゴが弱まり、五感を通さず直接的に(=直感的に)物事を体験するということです。このとき、わたしと物事という分離はなくなり、Aが起きたからBが起きてCになったという線形的な因果律ではなく、ただのABCというありのままの現実とわたしが一つになります。レオナードに言わせるなら、その人の真のアイデンティティであるパルスが宇宙と共鳴している、ということになるでしょうか。
この宇宙との共鳴は「焦点をもった明け渡し」があるときに起こるのではないかとレオナードは考えています。これは「エゴによる動機ではない、その人の本質的なところからくる意志によって焦点化された明け渡し」というように言い換えてもよさそうです。わたし自身の経験ではそれほど劇的なものではありませんでしたが、それでも「もっといい人間になりたい」という真のアイデンティティを求める意志と同時に人生のどん底といえる状況のなかでエゴが完全に降参する(=明け渡し)ということが確かに起きていました。
明け渡しは意図してやろうとしてもなかなかできるものではありません。ゆえに、バクティ(帰依=明け渡しの道)、ジュニャーナ(智慧の道)、カルマ(行為の道)と呼ばれる悟りに至るための3つの道のうち、バクティは一番困難な道であるとわたしは考えています。とりわけ、現代社会で暮らす人にとってバクティは事実上、ほぼほぼ不可能でしょう。
しかしながら、ジュニャーナであったと自認しているわたしにおいても、きっかけとして起きたことは明け渡しでしたし、おそらくですが、ジュニャーナやカルマのヨーガの純然たる成果として悟りが起きるという事象よりも、偶発的に起きる明け渡し(強制的な明け渡しといってもよいかもしれません)によって目覚めるケースのほうが遥かに多いのではないでしょうか。
ただ、これが今回のポイントなのですが、この本を読めば、明け渡しといってもそんなに大げさなものばかりではないということが分かるはずです。実際、この本で紹介されているエピソードのような事象は、大なり小なりほとんどの人が人生において一度は経験しているはずです。明け渡すというのはつまるところ、エゴが現実をどうこうしようとするその働きを放棄するということです。エゴにとってはエゴ自体が存在していることより大切なものはありません。
ですから、正攻法でエゴを抑えこもうとしても、それは必ず失敗します。でも、この本のエピソードなどを参考に、ピーク体験やフロー現象が起きやすい状況を作ってそこに自らを置くことによって「焦点をもった明け渡し」が偶発的に起きるように誘導することは可能です。
わたしがこれから書いていく予定の内容は、この本でレオナードがいうところのアイデンティティに目覚めていく旅でもあります。これは悟りの向こう側の話のようでもありますが、アイデンティティを体験する機会、すなわち自らのパルスを感じる経験を重ねていけば、気がついたら悟っていたということにもなるはずです。
この本の巻末には、レオナードが考案したいくつかのワークが収録されています。これらのワークの目的はもちろん、自らのパルスを体験することです。ということは、焦点をもった明け渡しを引き起こすことも狙いの一つになっていると言えるでしょう。なかでも<中心への回帰><ソフト・アイ>という最初の2つのワークはおすすめです。
とくに<ソフト・アイ>はわたしが提唱している IF (直感的フィールド)と本質的にはおなじものです。ソフト・アイになれば直感的フィールドの中にいることになりますし、直感的フィールドを展開しているときはソフト・アイになります。ポイントはどこにも焦点を置かないことです。この本のソフト・アイの解説を読んだうえでわたしの IF に関する記事を読み返すことで、さらに理解が深まるはずです。
焦点をもった明け渡しを誘うワークとしては、もっともっと簡単で単純なものとして、「めちゃくちゃ筋トレをする」とか「めちゃくちゃ走る」とかでも実はアリです。山を登る(ハードに)のもよいですし、クラブで夜通し踊るとかも結構よいでしょう。もっとも、一番大切なことは「いかなる意志を焦点とするか」です。これをお読みのみなさんがこの記事を読む動機がその意志であればよいと、わたしは思います。
それではまた次の記事でお会いしましょう。読んでくださって、ありがとうございました🙂