in SPIRE 内なる声をきく

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真理について要点を整理する(ふたたび非二元とはなにか?)

この In Spire では、これまでに様々な本を読んだり色んな人に尋ねたりして真理を探求してきた人々に、直観的な理解が起こるように促すことを目的として様々な話を書いてきました。ですから基本的に想定している読者は、すでに何年もかけて知的探究やヨーガや瞑想などの肉体を用いたサーダナ(行)を積んできて「ひと通りのことは知っている」方々ですが、基本的な用語や概念にはなるべくその都度に説明を加えたり、本論的な内容に入る前に「なぜこの話をするのか」という理解をもたらす導入部を設けて、これらの記事をたまたま目にした読者にも、霊的な探求心が芽生えることを期待しています

 

今回はこれまでに書いてきたことのまとめとして、そしてまだ書いていないことへの足がかりとして、真理についてさまざまな要点を整理して述べていきたいと思います。記述方法としては、根源的な真実からはじめ、わたしたちが生きているこの世界がどのように出来上がっているのか、人間とはなにか? そして悟りとは? という順序をとります。すべての人はすでに出来上がっているこの世界に唐突に放り込まれます。このため、なぜ世界がそうなっているのか、そしてなぜ自分がこうなっているのかを正しく知ることができず、誤った理解のまま人生を生きています。ここでは、このことを明確にしていきます。それでは、はじめていきましょう。

 

(ちなみにかなり長くなります)

 

現れる前

なにかがあらわれるとき、その前には「あらわれていないこと」があります。まったくなにもあらわれていないとき、顕現していないもののすべてがあります。この顕現していないもののすべて、すなわち絶対的な非顕現には、存在も非存在もありません。あるのは、存在/非存在の可能性だけです。この可能性を「気づき」と呼ぶことができますが、可能性の時点では気づきはそれ自体に気づいていません。

 

存在・意識・歓喜(サット・チット・アーナンダ)

気づきがそれ自体に気づくためには、対象となるものが必要です。対象となるということは「存在している」ということです。なにかが存在しているということは、それが「認識(意識)されている」ということを同時に意味しています。

 

すなわち『存在=意識』であり、存在とは意識のことであり、意識とは存在ということです。なお、意識とは実存ではなく観念ですから、存在するすべては観念であると言えます。

 

そして、非顕現の気づきにとって「存在=意識」は自らを知るための表現ですから、それ自体が非顕現である気づきにとって喜び(歓喜です。個人的な喜びのことではありません。これは誤解されている人が多いと思います。

 

ヒンドゥー教でサット・チット・アーナンダと言われるのはこのことで、これがこの世界の本質です。この世界、とわたしたちが認識しているもののすべては非個人的な意識であり、意識がすべてを存在させていると同時に、存在しているすべては誰のものでもない意識なのです。

 

唯一の主観である「I(わたし)」

意識がその中に現象を起こすたためには「空間」と「時間」という機能が必要です。この機能によって意識というスクリーンに見かけ上、なにかが体積をもってあらわれ、それが動くことが認識可能になります。これが現象です。すべての現象は意識の中にありますが、それが意味するのは「すべての現象は非顕現である気づきによって気づかれている(認識されている)」ということです。

 

つまり、この世界は『非顕現の気づきという唯一の主体』によってのみ認識されているということです。それ以外に、この世界には真の主体といえるものは存在しません。そして同時に、認識されている世界のすべては認識している非顕現の気づきが顕現したものですから、「観ているものと観られているものは同じ」ということになります。

 

この唯一の主体こそが、「真我」と呼ばれるものであり、賢者が用いる際の「わたし」の正体です。ホーキンズ博士はこれを「I(大文字の i )と呼んでいました。

 

「目は目それ自身を見ることができない」という言葉がありますが、この言葉は「真の主体はそれ自体を認識することができない」ということと「ゆえに認識される対象物は真の主体ではありえない」ということを意味しています。真の主体はそれをなんと呼ぶとしてもその名前(名前で呼べるものは対象物ですから)のものではないし、その本質を言葉で説明することもできないのです。そしてまた、わたしたち人が「これが自分だ」と思っている(認識している)もののすべては単に見かけ上そのように見えるだけの偽の主体であるということを示唆しています。このことはあとでまたとりあげます。

 

意識と心の違い

意識は存在とイコールですが、存在という観念はその中に「非存在」という観念を内包しています。言い換えると、「存在していないなにか」が意識の中に存在しているということです。したがって、意識は非存在を存在として無限に生み出していきます。この働きが空間と時間の中で展開されていくとき「進化」という見かけ上の現象が起こります

 

すべてのものは意識ですから、石や水も意識です。意識です、という表現ではしっくりこなければ、石や水も意識のあらわれであると言ってもよいでしょう。しかし、すべてのもの(=存在)の本質は意識であるということから逸れないようにご注意ください。

 

さて、意識の働きによってこの世界にはさまざまなものが無限に生み出されていき、そしてその中で進化という現象が起こります。やがて惑星と呼ばれるものができ、その表面に生物が出現します。すべての生物は意識のあらわれですから、すべての生物には意識があります。しかし、すべての生物が意識を持っているという表現は誤りです。なぜなら、意識を所有するどんな実体も存在しないからです。生命が意識をもつのではなく、意識の中に生命があらわれるのです。

 

おさらいになりますが、意識があるということは「存在している」ということです。これを忘れないでください。

 

生物は進化を繰り返して、より複雑で精妙な知覚を備えた体を獲得していきます。知覚が優れた生物ほど、意識のスクリーン上にあらわれる感覚的情報の量が多くなります。この情報量がある閾値を超えるとそれは『自らが存在している感覚(存在の感覚)』となっていきます。

 

この『存在の感覚』こそが『心』とわたしたちが呼んでいるものです。すべての存在には意識がありますが、心を持つのはある程度高等な生物だけです。

 

ミツバチや渡り鳥の個体にはこのような『存在の感覚』すなわち『心』はまだほとんどありませんが、犬や猫はあきらかに自分が存在しているという感覚、すなわち心をもっています。それはたとえば犬や猫は飼い主が他の個体を自分よりも可愛がると拗ねたりすることから分かります。

 

この『存在の感覚』こそがあらゆる二元性のはじまりです。したがって犬や猫も二元性にとらわれていると言えますが、ここから先は人間の場合で話をすすめていきます。

 

非二元とはなにか?

『自分』が存在しているという認識は、『自分以外のもの』が存在しているという認識を同時に生み出します。このことで自分と世界、自分と他者(他の生物個体)という区別がなされますが、そもそも知覚というものは「あるものを認識する(意識の焦点をあてる)ために、『あるもの』と『あるもの以外』を区別する」メカニズムなのです。

 

このように自分と自分以外であったり、あれとあれではないこれ、熱いと熱くない(冷たい)と、物事を二方のいずれかという形で認識していくとき、そこにあらわれている性質を『二元性』といいます

 

これでお分かりのように、この二元性はこの世界の本質ではなく、人間や犬猫の意識の中に心という自己存在の感覚があらわれたことによってはじまった錯覚なのです。二元性は錯覚ですから、「非」二元というのが真実なのだよ、というのが非二元という言葉の意味するところです。

 

すべては観念であり、観念は人を巻き込んでしまう

先に述べてきたように、この世界のすべては非顕現の気づきという真の主体が認識している対象物ですから、人間も犬も猫も認識の主体ではありません。認識の主体でないということは、行為の主体でもありませんから、『自分』というものはただの観念にすぎません。これは心もまた観念であることも意味しています。

 

犬猫と比べて人間の肉体にはさらに優れた知覚が備わっています。この知覚が言語を生み出しますが、言語のはじまりは「モノの名前」です。名前の本質は二元性であり、言語の本質もまた二元性です。人間は自らの名前をもっていて、違う名前をもった他の人間と言語を用いてコミュニケートします。ですから、人間は犬や猫よりもさらに深く強く、二元性に巻き込まれているといえます。

 

「(個人的な)わたし」という観念

犬や猫などの高等な動物には心、すなわち自分が存在しているという感覚がありますが、「わたし」という明確なアイデンティティは人間だけがもっています。言語を用いることで人間は「わたし」に様々な属性や情報をつけ加えていきます。そうして「あなたは誰ですか?」と聞かれたときに「わたしは○○という名前で、△△の者であり、□□という人生を送ってきました」というアイデンティティ(観念)が確立されていくのです。

 

ここで確認ですが、「あなたは誰?」と聞かれたときに思い浮かぶ「わたしは○○という名前で、△△の者であり、□□という人生を送ってきました」という答えは本当にあなたは誰? という問いの答えになっているでしょうか?

 

 

ここが肝心なので、よく考えてみてください。

 

 

 

 

実はこの答えは、あなたの肉体と心と、それらが経験してきた時間の別名に過ぎないのではありませんか?

 

あなたには肉体を所有している感覚がありますね? そして、その肉体が感じるさまざまな知覚情報をあなたは受け取っています。その知覚情報をもとにさまざまなことを考えて判断したり、怒ったり笑ったりする心もあなたは持っています。しかし、それらのことはすべて、意識の中で認識されている(=観念である)ということにお気づきでしょうか?

 

さらに整理します。あなたは肉体を認識しています。あなたは知覚を認識しています。あなたはさまざまな機能(思考、推論、判断など)とコンテンツ(印象や感情)を持った心を認識しています。

 

それでは、この認識している『あなた』とはなんでしょうか? 認識されている対象物は認識の主体ではあり得ないのですから、肉体や知覚情報や心は認識の主体、すなわちあなたではありません。そうすると、あなたとはなんであり、それはどこにいるのでしょうか? 本当に存在しているのでしょうか? もっと言うと、本当に『あなた』が認識しているのでしょうか?

 

 

 

 

(続きを読みになる前にここでしばし熟考してみてください)

 

 

 

 

あなたとは「あなたという観念」であり、この観念は肉体の感覚や知覚情報や心の機微といったもの(これらもすべて観念です!)とまったく同じに、意識のスクリーン上にただあらわれているのです。

 

ふたたび唯一の主観とはどういうことか?

すべてを観ているのは真の唯一の主体である非顕現の気づきです。つまり、あなたの肉体や知覚情報や心を認識しているのはこの非顕現の気づきなのです。あなたがあなただと認識しているすべては、実は非顕現の気づきによって「認識されているもの」であるということが真実です。真相は、観念の集合体である心の機能が「あなたという観念」を作り出し、それが心自身と肉体を操縦している主体であると錯覚させているのです。

 

ここからは、真の主体のことを仮に神と呼びます。もちろん真の主体とは絶対である非顕現の気づきのことですから、そこには神はおろか、他にいかなる属性も呼び名もありません。しかし言葉で説明する上であくまで方便として用いるなら「神」という言葉はむしろ分かりやすいかもしれません。

 

観照とは?

神はすべてを認識している唯一の主体です。神はすべてを認識していますが、認識されているすべてもまた、神からあらわれた可能性が表現されたものです。すなわち、神が神を観ているというのが、真理です。ですから、人は自分を実存するものとして認識していますが、実際には、神によって目撃されているのです。これが観照ということです。神によって、神であるわたしが観られているのです。観ているものと観られているものが同じですから、本当には、ただ「観られる」ということだけがあるのです。

 

直観的な理解(悟り)

このことを知的に理解することは不可能です。なぜなら、知的な理解とは、心の機能である知性を用いて行われる思考によってなされる理解だからです。神によって認識されている対象物である心や知性や思考によって、認識している主体である神を把握することはできないということです。

 

唯一可能なのは、ありのままをそのまま観ること、すなわち直観的な理解です。そして、この直観的な理解が起こり、意識の視座が偽りの主体である肉体と心(これを肉体精神機構と呼びます)から、神へと移動する(戻る)ことを『悟り』と呼びます

 

悟りは、覚醒や目覚めと呼んでも構いませんが、直観的な理解ののち、意識の視座が完全に神の座へと定着した場合のみを悟りとし、そうでない場合と区別することも可能です。

 

なぜ一体化が起きるのか?

意識の視座が肉体精神機構と一体化していることは、人がこの世界で生きていき、さまざまな経験をするために必要なことです。必要なことだから、生まれてきた赤子の意識はすべて、遅かれ早かれ肉体精神機構との一体化を一度はします。そして、ほとんどの場合、その一体化は肉体精神機構が終わるとき、つまり肉体が死ぬときまで続きます。肉体が死ぬとき偽りの主体である個人的な意識(心)は肉体を去り、全体性(非顕現が顕現としてあらわれたすべて)の中に帰っていきます。しかし、意識それ自体ははじめからずっと存在し(なぜなら存在とは意識そのものだから)ており、消滅することはありません。ですから、誰も生まれていませんし、誰も死なないのです。

 

余談:輪廻転生、幽界、天界

余談になりますが、そもそも実存する個人などないのですから、肉体が死んだあとに天国へ行ったり地獄に堕ちたり、いずれまた生まれてくる誰かなど、いません。ですから「魂という人間の本質は不滅で、この魂が肉体の死後に天国や地獄を旅して、いずれまた肉体をもってこの世に生まれてくる」という輪廻転生の観念には誤りがあります。とはいえ、輪廻転生そのものがないということでもありません。

 

これにはいくつかの説明が可能ですが、簡単にいえばわたしたちがこの世と呼んでいる世界では、肉体精神機構という乗り物に非個人的な意識が一体化しているのですが、この世にはこの世の因果律が存在し、そのメカニズムの中では魂という概念なしに輪廻転生(のように見えるもの)は成立するのです。これについては以前の記事で詳しく述べていますので、まだお読みでない方はぜひ目を通してみてください。

 

 

また、天国や地獄といったものがあるかないかと言うと、そうしたものも観念としては存在しています。観念だからといっても、想像上のものに過ぎないということではありません。ここでは簡単に述べますが、非個人的な意識が一体化する乗り物は肉体だけではないということです。それを霊体と呼ぶか、あるいはアストラル体やコーザル体などと呼ぶかはそれも観念しだいなのですが、要は肉体が機能を停止したあとにも意識が一体化し続けられる媒体があれば、個人的な意識(偽の主体であり、幻想ですが)は継続することが可能です。

 

たとえば仮にアストラル体というものがこの世での死後に肉体から離れるとします。このアストラル体は非物質(この世でわたしたちが知覚できる素材ではない)でできているのですが、そのためアストラル体が存在しているのはこの世ではなく、アストラル界(幽界)となります。アストラル界の他に天界や神界というような世界がもしあるのなら、そこに行くにはアストラル体とはまた異なるボディが必要になるかもしれません。

 

そして、アストラル界や天界、神界というものがあるのなら、その世界の住人たちがいるかも知れません。仮に存在するとしても、言えることは彼らもまた、なんらかの乗り物と一体化した非個人的意識である偽りの主体、観念としての存在であるということです

 

このように考えれば、この世とあの世を行き来しながら何度もの人生をこの世で経験するという、輪廻転生のシステムは存在しえます。が、何度も言っているように、これらのすべては観念であり、幻想です。この世のような精妙なシステムが観念としても存在しているのですから、同様に精妙な異世界があっても不思議ではありませんね。

 

しかしながら、肉体による一回の人生に比べれば遥かに長い時間を経験できるとしても、それはあくまで偽りの一時的な主体が経験していることですから、いずれ最後には必ず全体性へと帰っていくことになります。その意味で、不滅の魂というものは存在しません。ただし、アストラル体やその他の肉体以外の乗り物のことを魂と呼ぶのであれば、それはそれで問題はないと言えるでしょう。それもこれも、観念に過ぎません。

 

 

なぜ人は苦しむのか?(なぜ人生は苦しいのか?)

長い余談でした。話は戻りますが、必要なこととはいえ、肉体精神機構と一体化することによって人は自らを独立した行為の主体であると錯覚するため、自分の為したことには責任があると考え、また他者に対してもそのように考えてしまいます。本当は考えるというより、そのようになっていると自然に思われるのです。

 

また、自分はこの肉体だと考えているため、その肉体が病気になったり老いていくことを憂い、肉体の死を自らの消滅であると恐れます。

 

そのため、人生は苦しみに満ちた深刻なものになります

 

実際には実体のある個人というものは存在しません(誰も生まれていませんし、誰も死にません)から、誰にもどんな責任もありません。ただ、これはその肉体に起こった行為に結果が伴わないということではありません。もしその時代の法を犯せば罪に問われるでしょうし、不摂生をすれば病気にもなるでしょう。しかし、繰り返しますが、それを苦にする個人は幻想なのです。

 

悟りが起きるとき、肉体精神機構との一体化は解体され(偽の主体には解体「する」ことはできません)ます。

 

このとき『誰も生まれてもいなければ死ぬこともないのだから、どんな責任もあるはずがない』ということが直観的に理解されるため、悟った賢者は苦しむことがありません(肉体的な苦痛はもちろんあります)。

 

探求をする人々は、自分は苦しみ(に満ちた人生)に束縛された存在であると考え、この束縛から開放されたいと願っています。それが悟りを求める理由です。しかしながら真実はというと、束縛されている自分というのは幻想であって、したがって開放される自分というものもありません

 

起こることは、そうした幻想が打ち砕かれて、本当の自分とは、束縛からの開放を求め続けてきたこの肉体精神機構を見ていた神としての非個人的意識であったことが明らかになることです。

 

人生は生きるのではなく、生かされるもの

悟りが起こると、どんなことが起きても、その瞬間にその場にいる肉体精神機構に与えられた役割を適切に行うことと、やりたいことをやって生きるということになんの矛盾もなくなります

 

なぜなら、人間とは全体性という神の働きの中で「生かされている」だけの存在であることが明らかになるからです。もちろん、その中で喜んだり悲しんだり考えたり遊んだり働いたりします。見かけ上は普通の人となにも変わることがありません。ただ、誤った一体化は常に見破られているので、出来事に深刻に巻き込まれていくことがなくなるのと、真実と真実でないものの区別がなされるようになるだけです。

 

悟った賢者は意図して他者を傷つける(肉体的にも精神的にも)ことはしなくなるでしょう。なぜなら、他者は存在しないからです。かといって、賢者がみな人類を救おうという壮大な使命を掲げたり、あるいは仙人のような生き方をするわけではありません。それどころか、そのような賢者はごくまれでしょう。ただ、基本的にみな親切で普通の人よりは思いやりがあって優しいはずです。そして、それがその賢者の肉体精神機構の役割であるのなら、人々に教えるでしょう。

 

以上、簡潔にまとめるつもりが長くなってしまいました。しかしながら、大切なポイントは網羅できたと思いますし、それぞれのポイントはこれ以上簡単には説明出来ない程度に噛み砕けたと思います。理想的には、これまでの記事をひと通り読んでからこの記事を読んでいただくのがベストだと思います。また、この記事を読んでから、以前の記事にあたっていただくことも悪くないでしょう。その人その人のタイミングと動機によって、どうとでも読めるようにはなっているはずです。

 

わたし自身も、こうしてアウトプットすることによって、さらに理解が深まりました。ありがとうございます。