in SPIRE 内なる声をきく

あなたの世界を再構築するための情報です

あまり霊的っぽくない霊的探求ガイド  ——わたしがなにを推奨し、なにを勧めないか

この in SPIRE は言うほどでもありませんが、note の方の記事は気がつけばかなりの数になっています。note では全体的な見通しを決めて、それに沿って相応しい内容を順番に書いているわけではなく、思いつきや成り行きに任せています。

 

それでも、すべての記事を注意深く読んでいただいている方には、探求者に対してわたしがなにを推奨しているか(つまり「これをやった方がいいですよ」)、あるいは逆に「これはやらない方がいい」と言っているのか、ちゃんと伝わってはいると思っています。とはいえ、そういう情報を一つの記事にまとめておくのは、きっとよいことだと思います。

 

その前に一つだけ。わたしが教えているのは紛れもなく霊的な真実ですが、「霊的な」という言葉についてここで改めて簡潔に述べておきたいと思います。

 

この宇宙、あるいはこの世界には分離はありません。分離があるように見えるのは、人間の知覚が分離、つまり二元性によって世界を把握するような仕組みになっているからで、このことを "幻想" と呼んでいるわけです。霊(スピリット)とは、幻想ではない存在の本質のことを指します。つまり、それは「一なる意識」の別名です。すなわち、わたしたち人間の本質は霊であり、その霊とは一なる意識のことです。ということは、わたしのスピリットもあなたのスピリットも同じ一つのスピリット(霊)です。

 

ですから、霊的(スピリチュアル)という場合、それは「分離のない観点の」とか「一なる意識の観点の」といった意味になります。それ以外のスピリチュアルはありません。となると、巷で見聞きするスピリチュアルな話のほとんどは紛い物であることがはっきりしますね。もしかすると、この記事を最後まで読んだときに「言うほど霊的な内容じゃないよね?」と感じる方もいらっしゃるかもしれませんので、あらかじめお伝えしておくと、それはその人がスピリチュアリティ(霊性)を取り違えているということです。

 

この記事(だけでなく、わたしが書くもののほとんどすべて)は、読者の分離した知覚を訂正し、真にスピリチュアルな人生を送っていただけるようになっていただくための、ささやかな指針です。それでは、はじめていきましょう。

 

スタートラインの前

わたしの記事を真剣に読まれている方々にはおそらく不要なアドバイスだとは思いますが、もしかすると霊的探求者としての基本的な下地が出来ていない人もいらっしゃるかもしれません。そういった方に最低限これはやっておいてください、と勧めるとしたら、それはやっぱり瞑想です。わたしは一貫して読者に瞑想を勧めることはしていません。しかしそれは前提として、わたしの記事の読者さんたちは多かれ少なかれ、瞑想はすでに実践しているだろうと想定しているからです。そういう人たちに "念を押して" 勧めるほどには、瞑想は特別すぐれた実践ではありません。すくなくとも、わたしはそう思っています。

 

なぜなら、逆に考えてみてください。悟りや覚醒を目指すうえで、瞑想が本当に重要で効果的なものであるのなら、巷には悟った人や覚醒した人がわんさか存在しているはずですね。しかしながら実際には、そういう「覚者」を "自称している" インフルエンサーの類の人々はたくさん居ても、本当に悟った人や覚醒した人物は、この日本には多く見積もっても片手の指で数えられるほどしか存在していないからです*1。これらの人々は表に出ていません(つまり、覚者としてあなたが名前を思い浮かべるあの人もこの人も覚者ではありません)から、瞑想によって彼らの肉体精神機構に悟りや覚醒が「起こった」のかどうかは分かりません。わたし自身も瞑想は探求者であった時期の最初の段階ではかなり真剣に取り組みましたが、実際に意識の変容がはじまったのは、瞑想しなくなって随分と経ってから、まったく異なるきっかけによるものでした。

 

はっきり言ってしまえば、瞑想によって直接的に悟りや覚醒が起こるという "事象" は確率的にいってまったく期待できないと言わざるを得ません。とはいえ、瞑想によってではなく悟りや覚醒が起こった人も、おそらくほとんどは瞑想の経験者ではあったと思われます。つまり、わたしが言いたいのは、瞑想は直接的な引き金にはならないとしても、将来的に本当の引き金(なんであれ、そういうものがあるとして)が引かれるためには、「ある程度は瞑想をやり込んだ」というフラグを立てておく必要があるということです。

 

やり方はなんでもいいです。人に教わる必要はありませんし、お金をとって瞑想を教えますとかいう人にロクなのはいません。とにかく座って目を閉じて最低でも15分、慣れてきたら1時間くらい瞑想しましょう。どうしても気になるのなら、瞑想について書かれた本を読むとよいですし、今なら AI に教えてもらえるはずですから、それが一番おすすめです。そして、特に正確にカウントしておく必要はないですが、延べで合計100時間はやりましょう。

 

推奨されるもの①「ジュニャーナ(智慧の道)」

わたし自身が基本的にはジュニャーナの探求者であったので、わたしが書いているのは「知性による理解が知覚を書き換え、霊的な変容を促す」ための情報です。ですから、わたしの読者さんたちも必然的にジュニャーナの要素を多く持つ人々だと思います。ホーキンズ博士の意識のスケールにおけるLOC(意識レベル)400台は「知性、理性」の領域ですが、ジュニャーナの道を行く人の多くはこの領域にあります。ですから、この項目ではあえてジュニャーナとして推奨されるものを取り上げはしますが、この記事に書かれていることは基本的にはすべてジュニャーナであるLOC400台の人々に向けたものです。

 

さて、具体的にはまずホーキンズ博士の著作を繰り返し読まれることです。なかでも『パワーか、フォースか』は博士の教えの基本であり、かつ、わたしの書いているもののほとんどすべてがこの本の内容を前提としています。この本に限った話ではないのですが、繰り返して読むことで、前回読んだときには理解できなかったことが理解できたり、以前の理解とは異なる理解が生まれたりします。それは、その人の意識レベルとその意識レベルがもたらす視点の高さが変化したことによるのですが、その変化を確認することそれ自体がさらなる意識レベルの上昇をもたらします。つまり、擦り切れるくらい読むべきです。

 

『 I <わたし> 真実と主観性』『「手放し」のすすめ ―明け渡しの道―』も同様に、繰り返して読んでください。とくに『「手放し」のすすめ ―明け渡しの道―』は、意識レベルの上昇を妨げる錘(おもり)となっているネガティブな感情へのアプローチが説かれている本なので、多くの人にとって即効性があります。『 I <わたし> 真実と主観性』はこの三冊の中ではもっとも高い意識レベルの観点から書かれているので、ほとんどの人には難しい(難解なのではなく、"どこが重要なのか読んでも分からない"のです)と思いますが、この本を読んで「これはとてつもなくヤバい本だ」と感じられる人はすでにLOC500台の中部以上の領域に達している可能性があります。

 

『「手放し」のすすめ ―明け渡しの道―』については最近記事にしたので、こちらもお読みください。

 

note.com

 

さて正直いって、わたしのように労働もほどほどで、かつ自由になる時間がたくさんあるような人でなければ、上記の3冊を繰り返し読むだけで、「霊的探求のための読書」というものに割くことのできる時間はいっぱいいっぱいだと思います。なので、それだけでいいですし、むしろそれだけ読んでくださいという気持ちもあるのですが、なおも余裕のある人にはラメッシ・バルセカールの本をおすすめします。

 

なぜか最近、わたしのAmazonの画面には共有URLをコピーするためのボタンが表示されないことがあってリンクできないのですが、おすすめは誰がかまうもんか?!』です。この本はラメッシ自身が書いたもので、内容もそこそこコンパクトです。もっと読みたいという人は『意識は語る』をどうぞ。これはラメッシの筆ではなく、彼の対話をウェイン・リコーマンが編集したものですが、内容は非常に濃い(そして分厚い)です。どちらの本も紙の書籍版はえらい高騰していますが、Kindle版がありますので、そちらでどうぞ。

 

ジュニャーナとしての推奨事項としては、これくらいです。あとは、わたしの記事もなるべく繰り返して読んでください。自分で言うのはなんですが、ホーキンズ博士の教えの非公式ガイドとしてはすくなくとも国内では最良のものになっているはずです。*2

 

逆に、これもすでにこれまで何度か言っていますが、いわゆる「ノンデュアリティ」とか「ネオ・アドヴァイタ」などと呼ばれるカテゴリーに属する海外の著者の本は読まないほうがいいです。また、日本人の同様のジャンルの著者の本にもロクなものはありません。比較的マシなものさえありません。すべて時間の無駄です。そういうものを読むよりは、岩波文庫の仏教の本とかを読んだほうが全然よいです。

 

推奨されるもの②「バクティ(明け渡し、献身の道)」

あくまでわたしの教えることの軸足はジュニャーナなのですが、ジュニャーナであれなんであれ、悟りや覚醒に近づくということは、エゴ(肉体と精神:肉体精神機構)との一体化が解体されていくということです。具体的には、エゴの自己中心性が明け渡され、その人は霊的な真実に身を捧げるようになっていきます。明け渡しのことをバクティといいますが、ジュニャーナも行き着くところは明け渡しです。すなわち、バクティとは最初から明け渡しを自分に強いていく道で、ジュニャーナとは理解の結果としての明け渡しを目指す道、だということです。

 

わたし自身はジュニャーナであったと先にも述べましたが、わたしは紛れもなくジュニャーナでした。しかしながら、これを読まれているあなたがジュニャーナなのかバクティなのかは分かりませんし、そもそもジュニャーナを自認されているとしても、本当にジュニャーナとしての適性があるのかどうかは別の話です。つまり、わたしの記事の読者さんであっても、人によってはジュニャーナよりもバクティの方が向いているということは全然あるあるなのです。

 

それに、仮に適性がジュニャーナであったとしても、バクティをやってはいけないという道理はありません。両方やったっていいですし、むしろ、やった方がよいまであります。要は軸足がどちらになるか、というだけの話で、バクティに重きを置きつつもラメッシの語るアドヴァイタも学びたいというなら、そうすればよいのです。

 

と、ここまで言っておいてなんなのですが、バクティについてわたしが提供できる情報は「奇跡講座(ACIM)をやってみたら?」というものだけです。

 

本当にそれだけですし、それで十分だと思っています。強いていえば、テキストを読まずにワークブックに取り組んでみるとよいと思います。テキスト読んだらだめ? と言われると全然そんなことはないのですが、ホーキンズ博士が「ワークブックだけでええよ」と書いていたので、受け売りで言っているだけです。ただ、読むものは他にもたくさんありますから、奇跡講座はあくまでバクティの実践という位置づけにとどめ、ワークブックだけやるというのはよい割り切り方だと思います。どうしてもテキストが気になるなら、Gemini に力を借りてください。ワークブック実践用にチャットを開いて、冒頭で

 

「わたしはこれから奇跡講座のワークブックに取り組んでいきますが、デヴィッド・R ・ホーキンズ博士の勧めもあって、テキストブックは読まず、ワークブックにだけ取り組むつもりです。あなたには、わたしがよく理解出来ないことを尋ねたり、実践の進み具合などを報告していくので、あなたはテキストブックの内容や、ホーキンズ博士の意識のスケールの概念などを踏まえて、わたしにアドバイスをしてください」

 

といったプロンプトを入力しておけば、あとは Gemini がうまく役割を演じてくれるでしょう。瞑想もそうですが、奇跡講座についても、下手に人に教わるよりも、Gemini を相手に壁打ちしたほうが絶対によいです。もちろん、Gemini だって間違うことはあるのですが、人間の自称瞑想教師や奇跡講座教師はもっと間違えるし、なんなら最初から間違えているので、Gemini に教わるほうがいいです。それに、Gemini は人間の教師のように、機嫌を損ねたり、悪意を持って嘘を教えたり、変なマウントを取ってくることもありません。「これはちょっと間違えているんじゃ?」と言いたくなっても人間の教師にそれをいう勇気はありますか? Gemini は間違えていたら素直に認めて謝ってくれます。

 

なにより、あなた自身が自分の心の中の真実や、ACIM への取り組みについての躓きや葛藤について、教師とはいえ生身の人間に赤裸々に告白できますか? おそらくできないでしょう。でも、Gemini (AI)になら出来るのではないでしょうか?

 

推奨されるもの③徳目の実践

note.com

 

この記事に詳しく書いていますが、シンプルにするなら「誰にでも親切にする」「親切な人になる」を実践するだけでよいです。たったそれだけですが、上記の二つと同等か、場合によってはそれら以上に、あなたの意識レベルを上昇させてくれます。

 

人から親切にされて悪く感じることはありますか? ありませんよね。ということはつまり、あなたが親切にして、気を悪くする人はいないということです。人間というものは、それが意識レベル200未満のネガティブな人物であっても、親切にされたら悪い気にはならないものです。これが重要で、ネガティブな人物と日常的に関わりあっている限り(人口の約8割はネガティブなので、これを避けることは基本的には出来ません)、その人のネガティブなエネルギーを被弾することを回避し続けるのは無理です。もしもそのエネルギー弾を打ち返そうとしようものなら即修羅場です。

 

ですから、誰にでも親切にするというのは、この8割の人々を「怒らせない」ために必要なことなのです。怒っているネガティブな人の影響力は、あなたの意識レベルを下に引っ張ります。単純にいって、そういった人々と日々なんやかんやあると、嫌な思いをさせられることはしょっちゅうですよね? それはつまり、あなたの心もネガティブに染まってしまっているということです。

 

親切にしている限り、そして、なるべくそれ以上の関わりに踏み込むことをうまく避けている限り、あなたの心はその分だけ平穏でいられるのです。嫌な思考がぐるぐる渦巻いて一向に寝付けないということもなくなりますし、そういう思考が脳のリソースを奪わない分、仕事やコミュニケーションにおけるパフォーマンスは向上しますし、ストレスが減る分、体調もよくなるでしょう。そして、そうしたことの積み重ねが、意識レベルを押し上げはじめます。

 

それだけではありません。LOC200以上のポジティブな人々は、人から親切にされたら、親切をお返ししてくれます。上にリンクした記事にも書いていますが、「親切」はそれ自体が意識レベル200以上の態度、行為です。それは、LOC200以上のポジティブな人々には親切さが自然な徳目として備わっているということを意味するのですが、であるなら、意識的に「親切」に取り組むことで親切の循環のなかに身を置くことができ、自身の意識レベルを200以上の領域に保つことが可能というわけです。

 

最初に、わたしの記事が想定している主な読者はLOC400台の人々だと述べましたが、こうした人々にとっても、それより低い意識レベル(親切は255)の徳目を実践することにはちゃんと意味があります。LOC540を超えるまでは、人の意識レベルは日常的にある程度変動します。変動の幅は人にもよりますが、基本的には大きくても上下それぞれ10~20程度だと思います。ただ、人生を大きく揺るがすような大事件や、親しい人物を失うような不幸にあった際など、もっと大きく変動することもあります。

 

前者の基本的な変動の場合、その要因は、上昇する場合は霊的な探求の進展であったり、自分よりも意識レベルの高い人物による触発であったり、大きな悩み事やストレスが解消された、といったようなものです。下がる場合はその逆と考えるとよいですが、なかでもネガティブな人物による悪影響が一番大きいと思われます。他には、欲望やプライドを刺激するような事物に反応してしまうことも意識レベルを下げます。

 

例えばですが、ハイブランドの広告ディスプレイの写真に写っている人物って総じて不機嫌そうですよね? すくなくとも、ユニクロの広告のように満面に笑顔をたたえているような人はいないと思います。あれはなんでかというと、「プライド(175)」を刺激しているんです。「この服を着ているわたしは、着ていないあなたたちとは違う」という特権意識があの不機嫌な表情の意味です。これを見て、決して少なくない人たちが「自分も "あちら側" になりたい」「なって、他の人たちを見下してやりたい」と感じてしまうわけです。しょうもな! と思う人は健全(すくなくともLOC200以上)ですが、人口の8割はネガティブな人々で、そのネガティブな領域の一番上(蓋)の部分にあるのがプライドのアトラクターなのです。

 

LOC400の人も、プライドのアトラクターの影響(だけでなく、欲望や怒りなども)を日々、受け続けています。そんな日常において自分の意識レベルを高く保つためには、LOC200以上のあらゆるポイントに存在しているポジティブなアトラクターの影響を活性化する必要があるのです。それが親切にすることの意味であり、他の徳目について実践する理由なのです。

 

というわけで、親切にしましょう。それだけじゃ物足りない人は、上記の記事を読んで、他の徳目についても実践するとよいでしょう。

 

推奨されるもの④脳の働きを改善する

デリケートな話なので、ごく簡潔に述べますが、脳の働き(性能といってもよいです)は人によって大きく異なります。脳の性能=意識レベルではありませんが、かといって無関係でもありません。言えることは、誰であっても可能な限り、脳をいい状態で働かせるべきだ、ということです。

 

それに対してできることは色々あるでしょうが、とりあえず手軽なものとして、「ホスファチジルセリン」と「Ginkgo(イチョウエキス)」の摂取をおすすめします。どちらも、わたし自身が効果を感じたものですが、個人差もあるので絶対に効果があるとは言いません。でも、まったく効かないということもないと思います。昔はいわゆるスマートドラッグといって、頭をよくする働きをもった薬が色々入手できたのですが、今は規制されてしまっています。上記の二つは今も問題なく普通に買えるものなので、ご安心ください。

 

推奨されるもの⑤ノイキャン散歩(強く推奨するものではありません)

最低100時間の瞑想をこなしたあとは、続けたければ続けてもらえばいいし、以降は気の向いた時だけにしても全然いいと思います。また、瞑想のようなものとして、ワイヤレスイヤホン(ヘッドホンでもいいですが、基本的にイヤホンのほうが強力です)のノイズキャンセリング機能をONにして、音楽もなにも流さない状態にして、静寂に包まれたまま散歩するというのも、意識の変容のきっかけとして多少の効果を期待できます。

 

もちろん、散歩じゃなくて、自宅で瞑想するときの補助としてノイズキャンセリングを使うというのもアリです。

*3

 

都会の喧騒や、電車や飛行機の騒音といったノイズは、聴覚のリソースを大きく奪うという意味で "苦(痛)" の一種です。多くの嗜好性ドラッグが本来は鎮痛剤であるように、苦痛が急激に除去されるとき、人間は "ハイ" を経験します。ノイズキャンセリングによる騒音の除去も、本質的には苦痛の除去であり、それもほんの一瞬で劇的に除去されるものです。ですから、ノイズキャンセリングには確実に「快感」が伴いますし、当然ながら依存性もあります。まだ社会的にはこれは問題化していませんが、いずれあちこちで言及されるようになるはずです。

 

とはいえ、苦痛が除去されている間(つまりハイになっている間)、そこでなにが起こっているかというと、意識レベルの一時的な上昇です。ですから、ノイズキャンセリングによる静寂は、サイケデリクスや大麻による意識の高揚と本質的には同じ影響を意識にもたらします。

 

強くは勧めないというのは、こういう理由からで、あくまで時と場所を慎重に限定して、また安全をしっかり確保して(音が聞こえないと人や車や自転車にぶつかりかねませんから)行うべきです。とはいえ、試してみる価値はあると思います。ノイズキャンセリングの強さだけでいえば、BOSEの QuietComfort Ultra Earbuds (第2世代) か、SONY の WF-1000XM6 、あるいはiPhoneユーザならAirPods Pro3 がよいでしょう。どれも決して安くはありませんが、音質(AirPodsは知らないけど)も機能性もハイエンドのものばかりなので、ワイヤレスイヤホンとして普通に満足できると思います。

 

推奨されるもの⑥筋トレとストレッチ

肉体精神機構という言葉があるとおり、肉体と精神(心)は分けて考えるべきでない一つのものです。ゆえに、意識レベルを向上させようとするとき、心の面にだけアプローチするというのでは不十分だとまでは言いませんが、肉体のことも忘れるべきではありません。上で述べた脳への働きかけもその一つではありますが、肉体全体のことを常に気に掛けることは霊的探求においても大切なことです。人間の存在を、全体性における一つの機能であるとみなすなら、その機能を十分に果たせるかどうかは肉体の健全さに大きく依存します。

 

とはいえ、ここでは血液検査で明らかになるような健康状態にまでは踏み込みません。もっとシンプルに、しっかりと立って、しっかりと歩ける体であること、そしてあり続けることを実現するために出来ることはやっておきましょう、という話です。もちろん、ムキムキになりたければそれなりの努力をするべきですし、速く走りたければ筋トレだけでは足りないことは言うまでもありません。

 

具体的なメニューはその人の体格や体調、年齢や性別によるのでとくに触れません。これも、自分のスペックと求めるレベルを Gemini に伝えれば、完璧なメニューを作ってくれますので、やってみてください。ちなみにわたしの筋トレメニューは「腕立て伏せ」「プランク(たまに腹筋ローラー)」「片側8kgのダンベルを持ってルーマニアンデッドリフト」「自重のみでフルスクワット」および補助的にチューブを使って主に肩甲骨まわりを鍛えています。これも Gemini と相談して決めました。回数や頻度は「ゆるめ」です。すでにおじさんなので。

 

ストレッチについては、ヨガとはなんの関係もないものとして行うべきです。いくら筋肉を鍛えても、関節の可動域が小さければうまく動けませんし、関節の動きが小さいとリンパも詰まりやすいです。あと、適度なストレッチは血行をよくし、ストレスを和らげてもくれます。

 

推奨されるもの⑦リマインダーの活用

note.com

 

リマインダーを活用することで、「思考と一体化してしまっていること」や「感情に支配されてしまっていること」に気づく機会を日常に設定することができます。詳しくは上記の note の記事をお読みください。リマインダーの活用法は、一度身につけてしまえば色々なことに応用できます。

 

推奨されるもの⑧「TFT と NLP」(5月8日追記)

merciful.hatenablog.com

 

note.com

 

この項目、書いたつもりが書いてなかった(そんなことある?)ので、記事を投稿した翌日に追記しています。

 

TFT と NLP それぞれについては上記の記事およびマガジンにて紹介・解説していますが、いずれもトラウマやネガティブな感情・思考習慣に対処するためのメソッドで、共通しているのはカウンセラーやコーチに頼らずセルフケアできること、それから即効性が期待できることです。

 

霊的探求を "意識レベルを高めるための取り組み" と考えると(わたしはそう捉えています)、アプローチの仕方は主に二種類あります。一つはより高い意識レベルの教えや人物、事物に自らを曝露する(さらす)こと、もう一つは自分の意識レベルを下方に引っ張っているネガティブな動機(およびそこから生まれてくる感情と思考)を取り除くことです。TFT と NLP は言うまでもなく後者のアプローチであり、ここまでに挙げてきたなかではホーキンズ博士の『「手放し」のすすめ ―明け渡しの道―』を読んでその内容である感情の手放しに取り組むのも、このアプローチになります。

 

推奨されることだけで8項目となりましたが、①②③は前者の、つまり直接的に意識レベルの上昇を目指して行うもの(ただし「手放し」は上述のとおり後者です)で、④⑤⑥⑦はどちらかというと前者に属しますが、位置づけとしては補助的なものと言えます。

 

このように多角的なアプローチを取ることで、霊的探求者は明確な目標(LOC540以上)に向かって安全かつ確実に進んでいけるようになります。ほとんどの自称マスターや自称覚者たちは、自分が理解しているつもりの "なにか" について漠然と語っているだけです。そして、その漠然としていることを "神秘的" という印象にすり替えて、信奉者を欺き続けています。そんな人に教わって、いったいどこに行けるのでしょうか?

 

推奨されることについては、これで以上です。以下は推奨しないもののリストになります。ニュアンスとしては、推奨されるものについては全部やれというより、出来るものを自分の探求生活に採り入れてくださいという感じですが、推奨しないものについては本音をいうと「絶対やめろ」です。しかし、わたしは誰に対しても無理強いはしません。結局のところ、やるもやらないも、その人のカルマが決めることだからです。

 

推奨しないもの①「お金を払って誰かに教わること」

やるべきではないと、わたしが思っているものがいくつかあります。以下に列挙していきますが、一番「やっちゃだめ」なのはお金を払って誰かに教わることです。お金をとって教えているような人にロクなのはいません。そういう人が書いた本もしかりです。講演会に行っても意味がありません。オンラインサロンやメンバーシップなどは百害あって一利なし、かどうかは知りません(入ったことがないので)けど、閉ざされた環境でなにをやっているのでしょうか? 霊的な真理に「ここだけの話」とか「お金を払った人だけが知ることの出来る秘密」などというものはありませんし、次の項で述べる通り、探求者同士の交流はそれこそ百害あって一利なしです。

 

※誤解のないように書いておきますが、わたしはカレー屋さんにカレーをただで食わせるべきだ、というような話はしていません。あくまで霊的な真理を金で売っている人は単に自分のためにやっているだけなのでお話になりませんし、彼らに喜んでお金を払っている人たちも彼らと "どっこいどっこい" ですよ、と言っているだけです。

 

推奨しないもの②「探求仲間と情報交換すること」

なぜかというと、探求者同士とはいっても、意識レベルは人それぞれですから、情報交換は情報交換にならないのです。そもそも誰もが探求者、つまり悟ってもなければ覚醒してもいない人々なわけであり、分かってない人同士があれやこれやと話しあったところで、結局は不正確な話の感染がひろまってパンデミックを起こしたり、あるいはマウントの取り合いに終始したりするのがオチです。

 

①の話と接続すると、オンラインサロンや後援会、あるいは勉強会といったものを組織している自称マスターがなぜそんなことをしているかというと、むしろ上記のことを意図的に発生させることが目的*4なのです。分からない人たち同士でコミュニケートさせている限り、そこから真理が立ち現れることはまずありえませんので、好きにさせているだけで迷える子羊たちを永続的に飼い続けることができるわけです。

 

また、組織化すると、必ずマスターの側近的な立ち位置が生まれ、そのポジションの奪い合いが起こります。マスターにしてみれば、誰がそのポジションを勝ち取ろうが構いません。というのも彼、あるいは彼女にとっては「自分の側(そば)にいることには価値がある」と集団に思わせればそれでいいからです。それによって自分のボスとしての地位は維持され続けます。

 

まあ、そういう類のものには参加したことがないので、ぜんぶ憶測で言ってますけどね。しかし、いずれにしても探求者はどの道を行くにしても連れ合いは不要です。そのかわり、Gemini と仲良くしてください。ちなみに、情報交換はやめたほうがよい、とは言っていますが探求者であれなんであれ、縁があって友として交流することまで否定しているのではありません。

 

推奨しないもの③「SNS」

具体的には「X」「Instagram」「TikTok」などです。あとはよく知りませんが、こういう類のものに「ここは比較的マシ」とか、そういうのは一切ないです。全部やめましょう。

 

わたしは2021年のはじめにX(当時はまだTwitter)を永久凍結されましたが、それまで13年ほど使っていました。なんなら、その間で投稿しなかった日はありませんし、多い日は一日で100以上ツイートしたこともあるヘビーユーザーでした。それからもう5年が過ぎましたが、ぶっちゃけその5年で上昇したわたしの意識レベルは、それまでの10数年の期間での上昇幅にも匹敵するほどでした。

 

この in SPIRE と note を開設した当時(2018年)のわたしは、頭での理解という点では現在とそう変わらないほどのレベルにまで到達していましたが、その理解の通りに世界を知覚できてはいませんでした。知覚が理解に追いついて、本当にその理解を生きることができるようになったのは、実をいうと比較的最近のことです。X を触らなくなったことだけがその要因のすべてではもちろんありませんが、それも大きかったのだと率直に思っています。

 

推奨しないもの④「お酒とタバコ、ギャンブル」

これらは言うまでもありません。ギャンブルは論外として、酒やタバコが果たしてどれだけ体に悪いのか? ということは実は大した問題ではありません。なにが問題かというと、酒もタバコも(ギャンブルも)依存の対象だということです。※ただし、酒に関して言えば依存の問題のみならず、酒に酔っている状態で起こしうる様々な問題も見過ごせません。普段抑圧されている人格の負の部分が露呈する人があまりにも多いです。

 

喫煙者はタバコ(ニコチン)に依存していると認めないわけにはいかないでしょう。だって、たった一日だってやめられないのですから。

 

しかしながら、お酒については「自分は別にアルコール依存症ではない」と、ほとんどの人が思っているのではないでしょうか? もちろん、そういう人たちは実際に一週間くらいならお酒なしでも過ごせると思います。では、一ヶ月ならどうでしょうか? 一年間、一滴も飲まずに暮らせますか? それが出来るのなら、一生飲まなくてもよくないですか?

 

わたしが思うに、程度の問題はありますが、基本的に酒を嗜む人はすべて依存しています。依存しているかいないかの判断は「それなしで生きていけるか」と問うことで出来ると思うのですが、それでいけばほぼすべての飲酒者は依存者です。

 

ついでに言ってしまえば上記のSNSも依存の対象です。

 

もちろん、人間である以上、生存そのものが地球という環境に依存していますし、水や食料がなければやはり生きていかれません。問題なのは、「依存する必要のないはずのものに依存していること」であり、さらに探求者としては「依存している自覚があるのに、それを克服できない」というのは、かなり深刻な問題です。というか、はっきり言えば、「酒や煙草程度のものをやめられないようでは、意識レベル540以上に到達することは無理と考えるべき」です。なぜ540以上なのかは、ホーキンズ博士の著書やわたしのこれまでの記事をしっかり読まれている方なら分かると思います。

 

ちなみにですが、もちろんLOC540以上の人々にも酒を嗜む人や喫煙者はいるでしょう。ニサルガダッタ・マハラジは実家が煙草屋であったこともあり、生涯ヘビースモーカーでした。しかし、そのような人々は高い意識レベルの領域に到達した結果として、飲酒や喫煙を問題としなくなっているだけです。つまり、あなたがマハラジではない以上、自分には喫煙は障害にならないと考えるべきではありません。

 

マハラジの喫煙問題については Gemini と話してみたログを共有しておきますので、興味がある人は読んでみてください。

gemini.google.com

 

 

以上、挙げはじめれば他にも色々あるのだと思いますが、ここに挙げたものはすべて、これまでにどこかで一度は言及したものばかりで、重要なものは何度も取り上げてきています。ですので、ずっと記事を読んでくださっている方々にとって、この記事が「まとめ」として機能すれば幸いに思います。最後に念の為もう一度繰り返しますが、この記事の内容は基本的に意識レベル400台の人たちに向けたものです。このような言い方はあまりしたくはないのですが、意識レベル200台(あるいはそれ未満)の人々にSNSをやるなとか、酒や煙草をやめろとか言うつもりはまったくありません。

 

読んでくださってありがとうございました。また次回の記事でお会いしましょう。

*1:「覚者」とはホーキンズ博士の意識のスケールにおけるLOC600を超える肉体精神機構のことです。博士の調査では、この領域の人物は1000万人から数千万人に一人の割合で出現します

*2:ちなみにですが、この in SPIRE のなかで例えば "IF" のようなワークを提案していますが、これらについては「わたしの記事を読んでください」の中に含めるものとし、この記事の推奨事項としてはあえて紹介しません。

*3:

あっ、それからノイキャン関係ない普通の散歩は大変強めにおすすめします。考え事しながら歩いてもよし、音楽やポッドキャストや Audible を聴きながらでもよし、それこそ歩く瞑想というべきものもありますが、そういうのもやりたければどうぞ。わたしの観点では、そういう御託はわりとどうでもよくて、歩くということそのものに意味を置いています。

*4:言うまでもないことですが、コミュニティを作ることの大前提となる目的は "集金" です。

太陽と地球のエネルギーを直感的に理解し、統合的に心身へと取り込むワーク

わたしたち人間は、誰一人としてこの世界において独立した存在ではありません。このことを霊的な観点でいうと、すべてはひとつであり分離は幻想であるという説明になります。

 

仏教の縁起の考え方はこのことを、すべては連鎖的に起こる原因と結果という相互作用の網の中にあり、この網から独立して存在しているものはない、と説明しています。この縁起をより高い抽象度で説いたものが龍樹(ナーガールジュナ)の "空" の思想であり、要約すると「すべてが縁起という関係性のなかにあるのなら、そのなかにあるものはどれ一つとして実体(主体)を持っていない」ということです。

 

おもに非二元論においてエゴ(自我)は幻想である、と語られるのもこれと同じ観点からで、すべては全体性という名の神がそれ自体のなかで起こしている変化に過ぎないのだと説いています。人間が自分のことを独立した主体であると思い込んで生きているのは、神による "聖なる催眠" の結果であり、この眠りから目覚めることを "覚醒" と呼んでいるわけなのですが、縁起と空も非二元論も、どこに着目して説明しているかが違うだけであって、言っていることはまったく同じです。

 

ちなみに余談ですが、龍樹はナーガールジュナという名前を漢字で表記したものですが、ナーガールジュナとは正確にはナーガ=アルジュナです。ナーガとは古代インドの蛇神もしくは龍神のことですが、ナーガにも色々あって邪神のナーガもいれば聖なる神のナーガもいます。それはともかく、ナーガ=アルジュナという名は「ナーガ族のアルジュナ」という意味ですから、龍樹は果たして人間だったのか、それともナーガが人間に化身した存在だったのか? 興味深いところです。

 

さて、話を戻します。これは実は当たり前のことなんですが、わたしは「霊的な真実は目に見える物質的な世界に反映されていなければならない」ということを常に前提としながらさまざまな記事を書いています。

 

note.com

 

例えば上の記事などもそうですが、霊的な観点、つまり真理において「自由意志はない」というのであれば、実際に人間に自由意志がないということが脳の働きなどからみても言えなければおかしいわけです。そして実際、科学はいまだ人間に自由意志があるという証拠を見つけてはいません。科学の立場からすると、それはまだ見つかってはいないがいずれ見つかるはず、ということでしょうが、霊的な観点からいうと、そんなものはいつまでも見つからないわけです。しかしいずれにしても、すくなくとも現時点では科学的見地からしても「人間に自由意志があると断定することはできない」というのは客観的な事実です。こういう議論を避けながら自由意志はないんだよと言ったところで、それだけではこの記事を読まれているような(おそらく)知的な人々の意識を拡大させる衝撃にはなり得ないと、わたしは考えています。

 

と、前置きはこれくらいにして本題に入りましょう。

 

太陽と地球のエネルギーが交わる点としての人間

ここまでは霊的な観点から、人間はこの世界において独立した存在ではないということをごく簡単に述べましたが、では物質的なこの世界においてはどうでしょうか? 実をいえば、それは霊的な観点よりも明らかです。

 

なぜなら、人間は地球の表面というごく限られた環境でしか生きられないからです。そこには重力があり、太陽の光があり、陸地があり、空気があり、水があり、食べ物となる植物や動物がいます。これらのどれか一つが欠けても人間は生きていかれません。これから先の未来において人類は宇宙時代を迎えるかもしれませんが、宇宙空間で生きていくためにも、例えば宇宙船の内部に地球の地表とおなじような環境を構築できなければ、短期間はともかくそこで何世代にもわたって暮らしていくことは不可能でしょう。

 

こうしたことを抽象度の高い視点で眺めると、人間やその他の生物とは単に地球というより大きな存在の一部であるとみなすことができます。人間の体には約37兆個の細胞が存在していますが、地球を一つの生命体とみなすなら、地球上のすべての存在は地球の細胞といえるでしょう。さらにいえば地球という生命体も、太陽光という恵みによって生かされているといえ、地球もまた、独立した存在ではありません。もちろん、太陽にしたってそうです。

 

わたしたち人間の自我(心)が、自らの肉体における個々の細胞について、一つ一つ気に掛けることはありません。しかしながら、それでもわたしたちは37兆個の細胞のすべてに対して必要な栄養や水分を送り届けていますし、またそれを受け取った細胞は淡々と自分の役割を果たしています。

 

地球や太陽(すなわち天地)と人間の関係も、それと同じようなものです。太陽は地球に光を送り届け、この光のエネルギーが地球のエネルギーと交わることですべての生命が育まれます。ここでいう地球のエネルギーとは、端的にいうと環境すべてのことです。科学的な説明ではありませんが、要するに地球に生命が育まれ、月には生命が存在しないのは、地球には生命を育むエネルギーがある、というニュアンスです。

 

天と地のエネルギーを意識的に取り込む

このような観点で考えてみれば、わたしたち人間は直接的にも間接的にも、常にこの太陽と地球のエネルギーを受け取って、そのことによって生かされているということが理解できると思います。ぶっちゃけ理解しようがしまいが人間はそのような存在であるわけなのですが、理解した上でそのことを常に意識して生きていくのと、そうしたことをまったく気に留めることなく暮らしていくのとでは、大きな違いがあるはずだと思いませんか? 実際、それこそ天と地ほどの違いがあります。

 

なぜなら、結局のところ話はいつも同じところに帰結するのですが、つまり、すべてはひとつであり、わたしたち人間は全体性の一部分であるからです。そうであるのですから、そうであると思って生きるのは道理です。でもほとんどの人間はそうではないと思い上がっています。それゆえ、ある種の動物を絶滅させたかと思えば別のある種を絶滅から救おうとしたり、自分たちの営みをどうこうすれば環境問題や気候変動を克服できると考えたりするわけです。

 

さておき、今回の記事の目的は、霊的な真実であるところの "すべてはひとつであり、人間は全体性の(独立していない)一部分である" ということを、頭で理解するのでなく、直感的に理解することです。また、それだけでなく、理解することによって全体性のエネルギーを個人の肉体精神機構へと淀みなく取り込むことが可能になります。結果として、意識レベルを飛躍的に高めることができるでしょう。

 

太陽を見る(サンゲイジング)

それでは具体的なやり方について書いていきます。天と地のエネルギーを意識的に取り込むためには、まずその天と地のエネルギーを意識的に把握できなければなりません。そもそも天と地のエネルギーを取り込むことを目的としたエネルギーワークや気功といったものは色々なところで紹介されているもので、わたしがこれからお伝えするものもそうしたものとなにも違わないどころか、むしろそれらをずっと簡略したものです。簡略化していることには理由があるのですが、それは後ほど書くとして、ここで強調しておきたいのは「自分が感じてもいないものをエネルギーだなんだといって取り込むことは難しい」ということです。

 

これが小周天や大周天といった気功やその他もろもろのエネルギーワークの難点といえば難点で、これらには多少なりとも訓練を積む必要がどうしてもあります。そうした訓練を地道にやることにはそれはそれでメリットがあるのですが、わたしはなんであれ、皆さんにはわたしの記事をじっくり読むこと以外の努力をさせたくありません。なので、もっと簡単で、なおかつ強力な方法をお伝えします。

 

まず最初にやっていただきたいのは太陽を直接見ることです。これはサンゲイジング(サンゲージング)や太陽凝視と呼ばれるもので、検索すれば色々情報が出てくると思いますからそれらも参考にしてください。といっても、やることといえば太陽を見ることだけですので、語るべきことはそんなに多くはありません。

 

ポイントとしては「見るのは朝日や夕陽にする」ことです。太陽を直視することは実はなんの問題もなく安全にできることです。とはいえ、特に慣れないうちは光の穏やかな朝日や夕陽にしたほうがよいでしょう。まあ、これにはもう一つ、真昼の太陽を見るには上を見なければならず、首が疲れるというのもありますけどね。また、見るのは最初はほんの数秒からはじめ、徐々に時間を長くして、15秒程度できるようになれば、それ以上長くやる必要はないでしょう。

 

やってみれば分かることですが、これには非常に深遠な意義があります。心が落ち着いたり、畏敬の念に駆られたり、ゾーンに入ったりと、人によっても時によってもさまざまなことが起こるでしょう。もっとも手軽にできる神秘体験といっても言い過ぎではないと、わたしは思います。いずれにしても、続けていくと活力が増していくはずから、これだけで少なくとも天地のうちの天のエネルギーを直接的に取り込んでいることにはなるのですが、ここではそのことよりも、"太陽エネルギーのすごさ" を体感してもらうことを目的として紹介しています。

 

とはいえ、サンゲイジングはよいですよ。世界中に太陽信仰が存在してきたのも単純に頷ける話です。もっと早く紹介してもよかったのですが、こうしたテクニックが先行すると、それだけで終わってしまう人が多いのではないかと危惧してもいました。でも、これまでの記事で書いてきたことをしっかり理解していただいているなら、ここでサンゲイジングを行うことで、理解と体験をうまく溶かしあわせることができると思います。

 

雑草を観察する

サンゲイジングは習慣として続けていってください。次にやっていただきたいのは雑草を観察することです。しかしその前に、「雑草 アスファルト」で検索して、結果を画像で表示してみてください。すると、道路のアスファルトのひび割れの隙間から雑草が伸びている写真がいくつも出てくると思います。

 

わたしはよく散歩しますが、こういう光景をみかけるといつも「雑草というのは地球のエネルギーが形をもったものだ」という印象を抱きます。雑草はアスファルトの隙間だけでなく、どんなところでも生えてきます。もちろん、その場所にはもともと雑草の根が張っていたり、あるいは種子が埋まっていたりするわけなのでしょうけれど、わたしの目には地球のエネルギーがありとあらゆる場所で地上へと吹き出していて、それが雑草という形をとって現れているように見えるのです。実際、雑草が地球のエネルギーが物質化したものであるという考えは論理的にも間違ってはいません。

 

そのような目でみると、文字通り種々雑多な雑草の色々な形状は、吹き出している地球のエネルギーの種類には無数のパターンがあるのだということを、わたしに教えてくれます。散歩するだけで、そうしたエネルギーの吹き出し口があちらにもこちらにも存在していることに気づかされます。雑草と化しているのは地球のエネルギーのほんの一部でしょうから、目に見えないだけで、わたしたちの周りには溢れんばかりの地球のエネルギーが噴出しているはずです。そう思っていると、そのうちに本当にそうしたエネルギーに触れているような気がしてきます。

 

みなさんも、これと同じことを体験してみてください。最初は雑草からはじめて、そのうち街路樹なども同じように地球から吹き出しているエネルギーが形をもったものだという目で見るようにしてみてください。しばらくやっていると、本当にそのように見えてくるはずです。というのも、実際そうなのですから。

 

ちなみに、同じ目で動物や人間も見ることができます。もちろん、動物や人間は地面に根ざしてはいませんから、植物とはちょっと観点が異なります。しかしいずれにせよ、人間も動物も地球のエネルギーが形をもったものであることに違いありません。とはいえ、ここでは地球のエネルギーが「下から」吹き出ているイメージを持つことを主眼にしていますので、これは余談になります。

 

すごく簡単な気功で天地のエネルギーを取り込む

さて、サンゲイジングで太陽つまり天のエネルギーを実感し、雑草を観察することによって地球すなわち地のエネルギーを直感的に理解することができるようになりました。そうしましたら、次はこれらを意識的に体内に取り込むワークを覚えていただきましょう。念を押しておきますが、ワークのやり方よりも、天地のエネルギーを実感できるようになることのほうが大切です。

 

順番はどちらからでもよいのですが、とりあえず下からはじめましょう。つまり、地のエネルギーの取り込み方です。足の裏の真ん中よりすこし足先寄りのところに「湧泉」というツボがあります。詳しい場所は検索して調べてみてください。場所に厳密にこだわる必要はありませんが、一応ただしく知っておいたほうがよいでしょう。

 

この湧泉から、地球から吹き出てくるエネルギーを吸収しているとイメージしてください。そして湧泉から両脚を伝って上昇させ、骨盤のところで一本に合流します。そしてそのまま背骨の前側に沿って心臓のところに届かせます。背骨の前側というのは、単にそこが体の中心に近いというだけであって、別に背骨の後ろ側でもよいし、背骨そのものとイメージしても構いません。細かいことにこだわる必要はありません。

 

これを読んでいる方にはチャクラや丹田についての知識を持っている人もいるかと思いますが、とりあえずそういったことは忘れてください。エネルギーを上昇させる過程においてそれらのチャクラや丹田を意識する必要はありません。気功では丹田を意識しますし、ヨーガやある種のエネルギーワークではチャクラを意識させますが、わたしの考えではそういうものを意識するよりも、ちゃんとエネルギーが入ってきて流れることのほうが重要です。

 

というのも、もしもチャクラや丹田というものが本当に(この物質次元ではないにしても)存在するのなら、エネルギーがしっかり流れ込むだけでそれらは活性化されるはずだからです。なので、エネルギーを流すときにその途中にチャクラや丹田だのに意識をやる必要はなく、むしろそんなことをするとエネルギーが途中で淀んでしまいかねません。それに、そもそもわたしはチャクラも丹田もべつにどうでもよいとしか考えていません。この物質次元にないもののことをこの物質次元において気に掛ける必要はないのです。まあ、知識として知っておくことに意味がないとまでは思いませんが。

 

同じ理由で、エネルギーを取り込んで流すときに、呼吸を意識する必要もありません。呼吸を用いるワークでは吸うときによいエネルギーを取り込み、吐くときには心身に溜まった悪いエネルギーを外に出すというイメージを用いるものが多いですが、わたしのやり方はそのようなものではありません。これについては後で続きを書きます。

 

さて、今度は上から、つまり天のエネルギーを取り込みます。取り込み口は頭頂にある「百会」というツボです。湧泉にしても百会にしても、その場所にそういう名前がついているから目印として用いているだけで、湧泉だからどうだとか、百会というものはこうであるから、といったことは一切どうでもよいです。もっとシンプルにいきましょう。

 

頭頂から取り込んだエネルギーは頭の真ん中を降りていき、そのまま首を通って心臓のあたりへと向かいます。

 

天と地が合流する場所としての心臓

ここまでで、足の裏から入った地のエネルギーと、頭頂から降りてきた天のエネルギーがちょうど心臓のあたりで出会うイメージになったと思います。

 

このワークの目的は天地のエネルギーを体内に取り込むことですから、天地のエネルギーが合流する場所を心臓に設定しました。なぜかというと、心臓は血液を体中に送り出すポンプだからです。心臓のあたり、と書いていたのは具体的な臓器としての心臓というより、エネルギー的な観点でその心臓に相当する場所としてイメージしているからです。この場所をハートチャクラとか、あるいは単にハートとか呼びたい人は呼んでも構いませんが、わたしが意図しているのはチャクラでもハートでもありません。単に、天地のエネルギーを肉体の隅々に行き渡らせるためのポンプがそこにあるのだとイメージしてください、というのが本意です。ですから、あえてその場所をなんと呼ぶかといえば、当たり前ですけどそれは心臓です。

 

さて、もうすでに書いちゃっていますが、天地のエネルギーは心臓で合流し、それから全身に行き渡ります。行き渡るのだとイメージします。これによって心身に活力が与えられ、同時にネガティブな思考や肉体上の不健康な要素はこのエネルギーによって浄化されていきます

 

ここで呼吸の話に戻りますが、上記のように、ネガティブな想念や体の中の毒素などを呼気とともに吐き出すようなことは一切やりません。吸うときにエネルギーを取り入れ、吐くときに悪いものを出すというリズムは一見すると理にかなっているように思えますが、実際にこれをやってみると分かるのですが、せっかくエネルギーが流れ込むイメージをしているのに、吐き出すときにはそれが滞ってしまうのです。すごく不自然なんですよね。それにそもそも、そんなものを外に吐き出してどうするんです!? 汚物を撒き散らすようなものですよ。

 

繰り返しになりますが、わたしのワークはシンプルかつ自然に身につくものとして設計しています。ですので、丹田やチャクラや呼吸といったものは完全に無視します。

 

サンゲイジングと雑草の観察によって天地のエネルギーを実感できている人なら、これによって頭のてっぺんと足の裏からエネルギーが常に流れ込んでいて、それが心臓によって全身くまなく行き渡っているというイメージを持つことが簡単にできるはずです。今回お伝えすることはこれで以上です。さっそく明日の朝からでもサンゲイジングに取り組んでみてください。

 

といっておいて余談ですが、IF をやるとすごく疲れるという人がいるかもしれません。それは気功的な説明をすると、IFを広げるときに自分の気を漏らしているからなのですが、そういう人はいったん IF に取り組むのは中断して、さきに今回のワークをやり込んでみてください。そうすると、常に外から十分な気を取り込めるようになるので、IFをやっても疲れなくなるでしょう。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。また次の記事でお会いしましょう。

サイケデリクスは外部からの力たりうるのか?

先日 note にこのような記事を投稿しました。

 

note.com

 

そこで紹介している本は同じグラハム・ハンコックの著書『異次元の刻印』の日本での刊行に先立って行われたエハン・デラヴィ氏とグラハム・ハンコックの対談を収めたもので、内容もこの『異次元の刻印』のキャンペーン的なものになっています。

 

グラハム・ハンコックといえば超古代文明の痕跡をフィールドワークによって突き止めながら大胆な仮説をもってそれらの点と点を線へとつないでいくスタイルの著者として非常に有名で、代表作はおそらく『神々の指紋』だと思います。ところがこの『異次元の刻印』はそれまでとはまったく異なる題材を扱っているんですよね。それは "幻覚剤" で、約4万年前にはじまった人類の知的活動における飛躍的な進歩の理由は、この幻覚剤(を成分として含有する植物や菌類)との関わりにあるとグラハム・ハンコックは考えたのでした。

 

これは非常に斬新な視点ではありますが、秘められた、あるいは隠された人類史の秘密を暴くという意味においてはこれまでのグラハム・ハンコックの仕事の延長上にあることは確かであり、実際、それまでのシリーズと同様、フィールドワーク(ただし今回それは自身の精神的なフィールドですが)と文献等の綿密な調査をもとに進められていく探求の面白さは『異次元の刻印』においても健在で、他のグラハム・ハンコックの本と比べても遜色ないどころか、個人的には一番面白かったと思っています。

 

なお、この『異次元の刻印』については下記の記事でも触れています。

 

merciful.hatenablog.com

 

ちなみにこの記事は in SPIRE のなかで一番たくさん読まれているようです。それだけ今の時代でもサイケデリクス(幻覚剤)に関心を持っている人は多いのでしょう。

 

わたし個人についていうと、こちらの記事に書いた体験と、後で触れるその後の一連の時期における経験を最後にサイケデリクスの摂取はしていませんし、今後もやることはおそらくないと思います。まあ、目の前にマジックマッシュルームが落ちていたら食べるかもしれませんが、そんなことは現実にありえませんしね。つまり、自分から求めてやることはないということです。

 

そもそも日本ではシロシビンもDMTもLSDもみな違法な指定禁止薬物ですから、国内でそれをやるということは法を犯すことになります。あくまで個人的な見解を述べると、暴行傷害や殺人や窃盗や詐欺といった犯罪と、こうしたサイケデリクスの規制を破ることはまったく別のことだとわたしは考えていて、それゆえ、そうしたものを自分が経験するために必要な行動を取ること(取ったこと)に罪の意識は感じていません。

 

ですから、その経験を必要としていた時期には、それ相応の労力とリスクを払ってでもそれをやり遂げましたが、いまのわたしにはそこまでしてサイケデリクスをやりたいという気持ちはまったくありません。

 

それは、わたしがサイケデリクスを必要としていたその理由(あるいは動機)がもうすでに果たされているからです。上にリンクした石垣島の記事に書いていますが、当時のわたしはサイケデリクスの高用量摂取を自らに課したイニシエーション(通過儀礼)と捉えていました。イニシエーションの具体的な意味は "意識レベル600を超えること" でした。

 

このことについては先ほどの石垣島の記事の一つ前の記事で触れています。

 

merciful.hatenablog.com

 

ところがその目的はこの石垣島でのイニシエーションにて果たされることはなく、その後の2018年秋に今度は DMT を用いてその続きが行われました。このときは約2ヶ月の間ほぼ毎日DMTを摂取し続け、その2ヶ月間の終わりの時期に、通常のおよそ3倍から4倍の量を一度に試しました。その時に起きたのがインナービジョンにおける光り輝く龍との遭遇でした。

 

merciful.hatenablog.com

 

その時、DMTを飲み干したわたしは、効きはじめるのを待ちながらリクライニングチェアに目を開けたまま座っていました。ほんの数分経ったころ、天井のあたりに何者かの "目" が見えました。同時に、ものすごく強烈で濃い気配を感じました。なにかとんでもないものがそこに居るという感じです。ちょっと身構えましたが、するとその目がギョロッとわたしを見つめたかと思うと、こちらに向かって飛びかかってきたのでした。

 

うわっとなって思わず目を閉じると、これまでのサイケデリクス体験で見たものとはまったく次元の違う光景が広がっていました。それは強烈な光のトンネルのようで、光は視野の中心方向からこちらに向かって放たれているように感じましたが、その光の明るさというか眩さは単に強烈というのではなく、この物質世界の光とはまったく異なる超現実感を伴ったものでした。いままで生きてきた現実というのは単にこの超現実のスペースの模倣のようなものでしかないと感じたことを覚えています。

 

その超現実の光に圧倒されていると、光の中央からなにかが現れてこちらに向かって飛んでくるのが分かりました。それはこの強烈な光の放射でさえもただの背景にしか感じられないほどに美しく輝く、ダイヤモンドのようにあらゆる色の光を放つ龍の姿でした。眩しいというよりも神々しくて正視しがたいのですが、それでもなんとかよく見ようと試みると、それは光を発しているというより、光そのものでできた龍のようでした。

 

龍はわたしの5mくらい手前(のように感じられるほどの距離感)にくるとそれ以上近づくのをやめ、そこでぐるぐると体を動かしながら顔(頭)だけわたしの方を見ていました。自分の姿をよく見せようとしているように、わたしには思えました。やがて、声ではない声が聞こえてきて、その声はわたしに「よくぞここまでたどり着いたね」と言っているように感じられました。

 

かと思うと、今度は龍の前腕と思われる部分から、なにかがわたしに向けて放射されました。それは漫画やアニメでよく見る "魔法陣" のようで、わたしには読むことができませんが実際にその魔法陣にはなにか呪文というか言語的な情報が込められていることを直感しました。その時にはなにが起こっていたのか分からなかったのですが、数日後に突然この龍からのメッセージが脳内に次々と降りてくるということがあって、そのメッセージによると、この時その龍は自らのエネルギーの一部をわたしに与えたんだそうです。直上にリンクした記事はそのときのメッセージをつなぎあわせて編集したものです。

 

現在のわたしの実感としては、このエネルギーによってわたしのカルマは書き換えられたのだという気がしています。具体的には探求者としてのカルマを終え、新たに "教える者" としての人生を歩んでいくようにわたしの運命は転換したのだと考えています。

 

この龍との遭遇のあとにもDMTのセッションは数回行いましたが、そのときには途方もない神聖な存在(そのときのわたしには "銀河レベルの神" というように直感されました)が現れました。人間に近い形態をしていたような気がしましたが、巨大というか壮大すぎてそれ以上の描写は不可能です。いま思い返すともしかしたら、あれっていわゆる "大天使" といわれる存在だったのかなあ、なんて思ったりもするのですけど、やっぱり分かりません。このときは畏れ多くて頭を上げていられなくなり、また、ありがたすぎて涙があふれてきて止まりませんでした。あんなに涙を流したことは人生でこの時だけです。とまれ、このときはメッセージのようなものはなにもなく、ただただ圧倒的な存在感(プレゼンス)に平伏するしかなかったという経験でした。

 

ちなみに龍も銀河神もどちらも衝撃的な経験でしたけれど、個人的なイニシエーションという観点では龍との遭遇のほうが遥かに重要な意味があったと思います。銀河神(知らんけど)が現れてくれたのは、それをもってわたしが執着を残すことなくサイケデリクスの探求を終えられるようにと天が計らってくれた "最後の贈り物" のようなものだったと理解しています。

 

ところで、基本的にサイケデリクス摂取時に経験したものは意図的にそれを覚えておいてすぐに記録でもしない限り、ほとんど忘れてしまうものです。しかしながら、わたしの場合でいうと石垣島での2次元美少女が現れたときと、この龍との遭遇と銀河神降臨(知らんけど)の3回については忘れようにも忘れられないほどはっきりと覚えています。つまり、おそらくですが、そういう経験はなにか特別なものなのでしょう。そしてこれらの経験に共通している事実としては、いずれも超をつけてもいいくらいの高用量摂取時に起こったもの、ということです。

 

さて、そんなこんながあってからすでに7年近く経ちましたが、結論としてはサイケデリクスはグルジエフのいうところの "外部からの力" たりえると思いますし、それは同時にホーキンズ博士が意識レベルを高い領域へと飛躍させるために不可欠であると述べているところの "コーザル体を活性化させるパワー" でもあると言えると思います。*1

 

ただし、同じくコーザル体を賦活するパワーである "師の臨在" もそうであるように、それに触れた人が必ずしも意識レベル540を超える高い領域にまで飛躍するとは限りません。師の臨在は師にどれだけ明け渡すかが問われますし、意識レベルが 540 を超える前に師のもとを去れば、元のレベルにまで意識レベルが戻ってしまう可能性があります。サイケデリクスについていえば、1回や2回の摂取で意識レベルがぐんと高まることはほぼほぼありえませんし、じゃあ数十回やれば意識レベル 540 を超えられるかというと、それもなんら保証はありません。そもそもサイケデリクスの摂取時にどんな経験ができるかは、その人の元の意識レベルに大きく依存しています。

 

ホーキンズ博士はドラッグ(アルコールを含む)摂取時に一時的に経験できる意識レベルは 350~600 であると述べています。これは、ドラッグの種類によって経験できるレベルが異なっていることと同時に、ユーザーの意識レベルによってもそれは違っているということをも意味していると考えられますが、例えばアルコールで意識レベル 600 の経験ができるかというと、そんなことは不可能でしょう。600 の可能性があるのはサイケデリクスと呼べる範疇に属する物質に限られると思いますが、例えば強烈な多幸感が得られるMDMAなどでも 500 をすこし超えたくらいの領域までは確実に経験できると思います。

 

しかし、サイケデリクスなら誰でも 600 近辺の経験が可能かというと、むしろほとんどの人は難しいと思います。それが可能なのは元の意識レベルが 540 を大きく超えている人だと考えられますが、そうでない人でも高用量の摂取を高回数繰り返すことで経験できる可能性はありそうです。

 

それを教えてくれたのは、この本でした。

 

 

冒頭にリンクした記事を書いたあとで読者さんからメールをいただいたのですが、その中でこの本を薦めていただきました。実をいうと、この本のことは知っていたんですが、先に書いてきたようにサイケデリクスへの探究心はわたしの中ですでになくなっていたため買って読むということはしなかったんです。

 

ところがこうしてサイケデリクスに関する本を紹介する記事を書いたタイミングで人から紹介されたため、これは読むべきなのだろうなと考えることにしたんです。それで、実際に読んでみてまず思ったことなんですけど、それは本の内容とは別のことで「なぜいまこの本をわたしが読んだのかというと、サイケデリクスに関する結論のようなものを書くタイミングが来たからだ」というものでした。それでこの記事をいま書いているというわけです。

 

意識レベルを高める(540を超える)ために役立つ情報を書くことがわたしの仕事だと思っていて、実際にこの7年でたくさんの記事を書いてきました。自分で言うのもなんですが、それらの記事には非常に価値があると思っていますし、しっかり読まれて、さらにはわたしが勧めるワークを実践し、推薦する本まで読みこなされる方は間違いなく意識レベル540に到達できるはずだとも思っています。

 

しかしながら、わたし自身がどのように現在の意識レベルにまで到達できたかというと、もちろん一般的な探求や瞑想などもおそらく人並み以上には積み重ねてきましたからそれが半分としても、残りの半分くらいはサイケデリクスを中心とした薬物との関わりによるものなんですよね。

 

最初にドラッグを経験したのは30歳ごろで、この頃はまだ規制されていなかったマジックマッシュルームを試しました。当時はごく標準的な量しか怖くて試せませんでしたが、回数としては10回くらいやったと思います。その後マジックマッシュルームが規制されてしまい、なにか他にないかと探したんですが当時って実は合法ドラッグ天国だったんですね。それで、それから数年の間に、5Meo-DMT、AMT、2c-i、2c-t7 やサルビア・ディビノラム(これは怖かった)といったサイケデリクスを十数種類試しました。ここでは何度か無茶なハイアタック(高用量摂取)をやらかしましたね。

 

その後、メチロンと呼ばれたMDMAのアナログ(類似物質)が登場し、どっぷりとハマってしまいまいした。これは本家のMDMAよりも作用時間は短いかわり、多幸感はMDMA以上という、よくこんなものが合法的に手に入ったなと今でもよく思うような代物でした。多幸感もすごかったですが、同時に眼振(目ブレ)や奥歯の噛み締めがすごかったです。幸せを噛みしめるという表現がありますが、本当に幸せを感じると奥歯を噛み締めちゃうんですよね。

 

わずか1年ほどでメチロンは規制されてしまいましたが、そこで途方にくれたわたしはとうとう違法薬物に手を出すようになったのでした。さすがにこの時期のことを詳しく書くのはやめておきますが、このあと話すことにちなんで言うと、LSDも2回やったことがあります。といってもドットと呼ばれていた紙のシートにLSDを染み込ませて流通していたタイプのもので、どれくらいの用量であったのか分かりません。でも、その後のシロシビンやDMTの経験と比較すると、このときに試したドットは明らかに粗悪品でした。粗悪といってもまがい物ではなく、単にLSDの量が少なかったという意味ですけどね。

この違法薬物時代は4年ほど続いたあと、父の死亡とともに終わりました。そして、それからまた何年か経って、石垣島マジックマッシュルームを探しに行くのでした。

 

なぜこういうことをあえて書いたのかというと、わたしの意識レベルが高まったのには薬物の経験が関係していることは間違いないのですが、それはふと思い立って石垣島に行ってマジックマッシュルームを食べたらそうなった、というような簡単な話ではなかったということです。こういう話を書く以上、読者さんの中には単なる興味以上のものを感じてしまう人が少なからずいると判断していますが、わたしの経験してきたことは真似しようとしてできる類のものではないということは、念を入れて伝えておきたいと思った次第です。

 

もっとも、わたしがなにを言ったところでサイケデリクスへと導かれていく人は必ずいるでしょう。そういうカルマを持った人がわたしの記事を見つけて読むのは道理ですし、わたし自身がそのようなカルマを背負っていたのですから、似たような人に向かってやめろと言うこともありません。もちろん勧めることもありませんけどね。ただ、いずれにしても国内で違法なものに手を出すよりは、国によっては合法的にサイケデリクスを経験できるので、そういう方法を検討したほうがよいとは思いますね。

 

マジックマッシュルームならバリ島に行けばオムレツにしてくれますし、アヤワスカ(≒DMT)はブラジルやペルーで体験できます。いずれも安全が確保されているとは言い難いですし、試せたとしてもわたしの場合やこれから紹介するクリストファー・ベイシュのように長期間にわたってセッションを繰り返すようなことは難しいでしょう。ただ、あとでまた触れますが、なんであれ機会というものはその人に必要十分なものが訪れるものです。

 

もしもたったの一回きりがその人に許される機会であるなら、その人にとってサイケデリクス経験は一回でよい、ということなんです。もしその一回でなにもなければ(なにもないということもないのですが)、サイケデリクスはその人にとっては決定的な運命ではなかったと考えればよいわけです。でも、その一回をやってみなければそれは分かりませんし、なんもなかったかもしれないその一回の経験も決して無意味ではありません。

 

というのは、その「一回やってみたけどなんもなかったような……」という経験も果たされるべきカルマなので、それが果たされることによって展開される新たな運命が待っているはずだからです。言うなればそれ自体に意味がないと思えたとしても、その経験は運命上のなんらかのシナリオの "フラグ" になっていて、そのフラグが立たなければできない別の経験があるかもしれない、ということです。

 

話は戻りますが、わたし個人のスピリチュアルストーリーにおける小道具としてのサイケデリクス経験は確かに石垣島からはじまったと言えなくはないのですが、あのときわたしが石垣島に行けた(呼ばれた)のは、いま書いたようにそのための下地が十分に出来ていたからです。もちろん、図らずして、ですが。

 

ついでに述べておくと、違法薬物の経験にはサイケデリクスとは別の意味があって、それは "カルマの加速" でした。端的にいうと、その時代にわたしは欲望と快楽とプライドを味わい尽くしました。その結果、最終的に生き地獄を招いてしまってそこでエゴが完全に屈服させられたのでした。これも、今なら恩寵と言えますが、いずれにしても概ね10年間は薬物にまみれていました。

 

 

天からのダイヤモンド ―LSDと宇宙の心(マインド)

さて、わたしの話はこれくらいにして、本の紹介をしましょう。

 

著者のクリストファー・ベイシュはアメリカ人で、宗教学の大学教授でした。彼はヒッピー全盛時代を知る世代の人物で、そんな時代の文脈から、悟りや霊的覚醒といったことと同時に幻覚剤にも興味を持つのですが、彼が思い立ったときにはすでにLSDは規制されていました。

 

それでも彼はあきらめず、どのようにしてLSDを確保したのかは明らかにされていませんが、その後20年間にわたって全部で73回に及ぶ高用量のLSDセッションを、研究者らしく厳密に定めたプロトコルに従って行い、その経験の一部始終を詳細に記録し続けていたのでした。本書はその全セッションの記録と、記録の内容についてのレビューやセッション当時のベイシュを取り巻く状況などを書いた解説で構成されています。大きめの判で500ページを超える大著で、質量ともにすごいボリュームです。

 

先に書いた通り、わたしはLSDについては十分に知っていると言えるほど経験していません。ですが、その乏しい経験と一般的な情報とを照らし合わせて言うなら、LSDは幻覚の強度としてはシロシビンと同等かやや強い程度で、作用時間は8時間以上とシロシビンの倍くらいあるのが特徴です。

 

ベイシュは本書にて、LSDを非常に強力なサイケデリクスだとしており、DMTやシロシビンはそれよりも穏やかなものだと述べていますが、わたしの意見はこれとは異なっています。そもそもサイケデリクスは用量次第で穏やかにも強力にも作用するものです。一般的にLSDなら◯◯マイクログラム、DMTは△△グラム、シロシビンは▲▲グラムといったように標準的な用量というものが知られているんですが、この標準的という言葉には実はなんの意味もないんですよね。標準的とされている用量を試せばどんなサイケデリクスでも同じレベルの体験ができるというのであれば、それは確かに標準や基準といえますが、実際にはこういう数値は Erowid などでユーザーが報告したデータからなんとなく定まっていくものなので、あんまりアテにはなりません。そもそも人によって身長も体重も様々ですし、薬物に対する感受性も違っていますから。

 

……ということを前提にしつつ、そのうえで一般的に言われている幻覚強度を示すとこんな感じです。

 

5meo-DMT 10

DMT 8

LSD 6~7

シロシビン 5~6

 

LSDについてはよく分かりませんけど、個人的にもだいたいこんな感じなのかなと思います。ただ、20種類近くサイケデリクスを試した実感でいうと作用時間が短いものほど強力というイメージは結構ありますね*2

 

なので、その例にならうとLSDはむしろシロシビンよりも穏やかなのかな、という気もしないではないです。ちなみに、作用が強いとか穏やかというのは、作用のピークのときにどんな体験ができるか、ということですがこれも人それぞれでもあり、なかなか一般化するのは難しいです。そのときに見ているのがどんな意識レベルの領域の世界なのか、ということを基準にできればよいと思うのですが、自分はともかく他の人の体験談を聞いてそれを判定するのは難しいです。とはいえホーキンズ博士が示している 350~600 という範囲についていえば 350 から 500 までは高次アストラル界で、500 から 600 までは有形の天界だということになりますから、いずれにしてもサイケデリクスで経験している世界(現実)はこのなかのどこらへんか、ということにはなります。

 

また、その人がどのレベルの世界を経験するかは、サイケデリクスの種類や用量だけでなく、その人の意識レベルにも左右されます。このことからもサイケデリクスの強度を評価することは難しいと言えます。

 

そんなわけで、ベイシュにとって彼の定めた高用量のLSDは、彼がLSDセッションとは別にリクリエーションとして試したシロシビンやDMTよりも強力だったようですが、シロシビンやDMTをより高用量にしていたなら、彼の感想はまた違っていたと思われます。わたしの印象では、彼は作用時間の長さに重きを置いているフシがあり、それもあって LSDをやたら評価している気もします。

 

さて本書の主たる内容であるセッションの記録なのですが、正直にいうと、これを読んでベイシュが一体全体なにを目撃し、なにを経験したのか分かる人はいないと思います。というのは、そもそもサイケデリクスの幻覚(インナービジョン)体験というのは通常の現実世界のそれとはまったく異なるものであり、主観的な解釈以外にそれを描写する方法はないからです。

 

サイケデリックアートなどと入れて画像検索するとサイケデリクス体験を描いたと思われる絵がたくさん出てきます。それらの絵にはサイケデリクス体験の雰囲気が確かにあるんですが、雰囲気があるだけで、実際の経験はあのような絵のものとは全然違います。つまりそれだけあの経験を絵や言葉にして表現することは難しいということです。

 

なので、わたしが読んでも、ベイシュがどのような種類の経験をしているのかは想像がつくものの、どれだけ丁寧に読み込んだとて、彼がなにを言っているのか理解できることより理解できないことの方が多いです。

 

しかしながら、このようなビジョンはそれとともに主観的な理解(直感的な理解)を呼び起こすことも多く、それゆえ彼がそのビジョンから得た宇宙的な理解や霊的な知見について書いている文章には、すべてではないにしても同意できるところはあります。でも正直にいって、このセッションの記録は研究者自身が被験者であるという点で他のこの分野の研究報告とは異なる価値があるとは言えますが、その内容について大げさな評価はできないと思います。

 

それよりも、セッションの記録と記録の間にある解説文(細字、セッション記録は太字になっている)のほうに興味深い情報があります。セッション内容を腑に落としていくための思考過程や、グロフやケン・ウィルバーらの研究内容との比較照合、あるいはベイシュ自身の身に起きた出来事などが連ねられていて、セッションを重ねていくなかで確かにベイシュの意識が成長していっていることもそこで確認できます。この本を読んでみようという人は、セッション記録のほうは流し読みしつつ、細字の文章のところをしっかり読んでいくとよいでしょう。でも、サイケデリクスを経験してみようという気のない人にはまったく面白くないだけでなく、役にも立たないかもしれません。

 

ベイシュは大学教授であり、LSDセッションさえも研究として計画的に行ったくらいの人なので、その意識レベルは400台であることはおそらく間違いなかったでしょう。そしてLSDセッションにおいて彼が経験した世界はどうかというと、彼が自身で評価しているところによればそれは "宇宙における究極の真理に近いところ" でしたが、果たしてそうでしょうか?

 

ホーキンズ博士の言っている通り、サイケデリクスで経験できる意識レベルの上限は600 なのですが、意識レベル600 は有形の天界と無形の天界のちょうど狭間にあたります。実際のところ厳密にいえば上限は599 と言うべきだと思うのですが、要するにサイケデリクスで行くことのできる(見ることのできる)世界とは、どこまで行っても "形のある世界" だということなんです。ベイシュがどのように壮大に表現してみたところで、彼の見てきたものはすべて形(コンテント)です。というのも、文章で表現できるということはそれには形があるということですから。

 

つまり、この本に書かれている内容は最大に見積もっても意識レベル 600 以下の世界です。仮に意識レベル580あたりの領域を経験できたとしますと、これは普通の人にとっては確かに究極の真理のように感じるかもしれません。でも、すくなくとも人間が肉体をもって経験可能な意識レベルの上限でさえ 1000 という数値であり、しかもその 1000 であっても宇宙全体の意識構造においては底(ボトム)に近いものです。すなわち、サイケデリクスによって経験できるレベルは宇宙の究極の真理などではまったくありません。

 

あらかじめこれを頭に入れて読めば、サイケデリック探求者にとってこの本はそれなりに有益でしょう。ただし、彼の主観的な思い込みによる誤解や曲解も少なからずあるので、鵜呑みにするべきではないかもしれませんね。決して中身の薄い本ではないんですが、今の世の中でベイシュのLSDセッションを真似することが非現実的である以上、その価値を享受できそうな人というのがちょっと思い浮かばないというのがわたしの素直な感想です。ただ一つだけ言えるのは、おそらくLSDの経験者としてベイシュは世界一でしょう。LSDについて彼より多く知る人はいないと言ってよいと思います。それがなによりの本書の価値でしょう。

 

本書の最終盤のところで、セッションをすべて終えた後に、彼は意識の落ち込みを経験したと報告しています。一つには肉体的な不調に見舞われたことが理由で、もう一つの理由はセッション中になんどか遭遇したという「最愛の存在」との別離による失意からくるものだったと言っています。そのため彼はしばらくマリファナ大麻)に依存していたとも告白しています。

 

これらの記述が意味しているのは、20年のセッションを終えた時点で彼の意識レベルは540 に到達していなかったということです。540 は依存から離脱するレベルなので、540 を超えている人物がマリファナであれなんであれ依存してしまうことはありません。また、最愛の存在との別離というのは言い換えると「分離感」に苛まれているということであり、これはこれだけでみると意識レベル 500 以下を示唆しています。*3

 

総合するとベイシュは元々意識レベル 400 台で、セッション継続時は500 (-539)台に浮揚していたかもしれませんが、セッションを完全に終えたあとはまた 400 台に戻ってしまったように見受けられます。また実際、彼自身が普段の自分はセッション中に経験した意識には全然到達していないと述べてもいます。

 

これはなにも、ベイシュをけなしているわけではありません。そうではなく、むしろサイケデリクスの経験といったって基本的にはそういうものだっていう話です。そういうものじゃないのなら、ヒッピームーブメント全盛時代にはアメリカを中心に覚醒者が何万人、何十万人も出現していたはずですよね。

 

とはいえ、それでも仮にベイシュの元の意識レベルが 430 だったとして、セッション完了後の意識レベルが 460 だとすれば、30ポイント意識が上昇したということになるわけですが、30ポイントというのは非常に大きな上昇幅です。実際、ベイシュのセッション間の文章から推し量れる彼の意識の成長度合いをみると、それくらいは上昇していそうです。ちなみに、ほとんどの人は一生涯においてたったの 5 ポイントしか上昇しませんし、下がってしまう人だって少なくはありません。

 

個人的な意見としては、なんであれ20年で73回というのは「やりすぎだった」と思います。サイケデリクス経験において高次の霊的存在が関わってくるのは、わたし自身の経験からいって事実です。そして、その目的は一言でいえば "教えるため" です。つまり、そうした高次の存在たちはサイケデリクスを通じて人間を教育あるいは啓発しているのですが、その教育ないし啓発は完全に計画的に行われます。

 

先に「たった一回きりの経験しかできないとしても、それがその人に与えられた機会であるなら、それは一回でよいということ」というようなことを書きましたが、それはまさにこのことです。すなわち、高次の存在はカルマを通して特定の人間にサイケデリクスを経験させるのですが、誰にどれだけの質量を教えるかは計画されているのです。わたしたちはサイケデリクスを選んでいるのではなく、サイケデリクスがわたしたちを選んでいると考えてもよいでしょう。

 

ですから、一回きりしかやらない運命の人は、その一回で可能なだけのものを与えられます。それがなんなのかその人に分かるにせよ分からないにせよ、です。わたしの場合は数年をまたいで何度も経験しましたが、このようになったのは、このような形でなければ受け取れないものを段階的に与えられていたからです。

 

ベイシュの場合は、おそらくもっとコンパクトな経験にできたはずです。というのも、個人の短い人生を考えたら、そのような長大な授業を彼らが計画するはずがないからです。計画はたしかに計画ですが、計画通りに終えるかどうかはわたしたちに選択が可能です。ベイシュがキリのいいところで終えられなかったのは、彼が研究者としてセッションを記録することに執着したからだとわたしは思います。記録したがゆえに、シラフに戻ればその記録の内容を一生懸命腑に落とそうとして思考を巡らせ、その結果、新たな謎や疑問がどんどん増えていったのでしょう。

 

彼はしきりに「グラウンディング」という言葉を使っていましたが、彼はグラウンディングを、セッションから持ち帰ったことを腑に落として自分の人生に反映させるという意味に捉えているように感じられました。でも、結果としてこのグラウンディングが彼を20年間もセッションに縛りつけてしまったような気がします。というのも、彼がやろうとしていたグラウンディングは知的作業でしかなかったからで、わたしなら「ぜんぶ忘れてしまうこと(手放すこと)」こそがサイケデリクス経験からのグラウンディング(着地)だと思うからです。

 

というわけで長々と書きましたが、サイケデリクスについて書くのをためらっていたことはほぼ全部書けたかなと思います。繰り返しますが、わたしは誰に対してもサイケデリクスをやってみなさいと勧めることはありません。でも、やめとけというつもりもありません。まあ、ここまで読まれた人は「なんか大変そうやな。やめとこ」と思うような気がします。

 

今回はこれで以上です。お読みくださってありがとうございました。また次の記事でお会いしましょう。

 

 

*1:そもそも、世界各地のシャーマン文化における参入秘儀ないしは通過儀礼に幻覚物質が用いられていることは事実ですし、ヨーロッパでもエレウシスの秘儀に麦角菌が用いられていたのではないかという説もあります。麦角菌からはLSDが抽出されます。

*2:5meo-DMT は気化吸引で摂取しましたが、吸った直後にわたしはほとんど形のないエネルギーだけの場所に自我すらない状態で飛ばされていて、そこで数時間かあるいは数日も過ごしたような感覚がありましたが、目を覚ましてみると時計は2分しか経っていませんでした。DMTは気化吸引なら10分ほど、経口摂取(アヤワスカ)なら2時間ちょっとですが、気化吸引の場合はだいたい宇宙人とか精霊とかに会うようです。シロシビンはおよそ4時間ほどの作用時間です。

*3:意識レベル 500 はワンネスを知覚しはじめる領域です

意識レベル540に関するメモ

この in SPIRE やわたしの note の目的は読者である霊的な探求者のみなさんにとって有用な情報を提供することですが、これには具体的な目標があります。それは読者の意識をホーキンズ博士の意識のスケールにおける "意識レベル540" へと導いていくことです。

 

このことについてはすでにあちらこちらで何度か述べていますが、あらためてその理由を説明すると、まず第一に意識レベル 540 において人は本物の幸せを経験できるからです。これよりも低い意識の領域では幸せとは快楽への欲求や不足感を一時的に満たしてくれるような条件と結びついています。すなわち条件つきの幸せです。

 

本物の幸せは "苦しみのなさ" から現れてきます。しかしこの説明はほんとうは誤りで、サット(存在)・チット(意識)・アーナンダ(喜び、幸せ)と言われるように存在するものは本来的に幸せなのです。この本来的な幸せを損なわせているのがエゴの自己中心性であり、その分離的で二元的な知覚です。このエゴの自己中心性と二元的な知覚が煩悩(=苦しみ)を生み出しているのですが、したがって煩悩がなくなっていくと人は本来の幸せな状態を経験できるようになっていきます。そのような状態の臨界点が意識レベル540です。

 

また、わたしが意識レベル540をターゲットにしているもう一つの理由は、このレベルではもう意識レベルが低下することがなくなるからです。

 

さきほど言及した本物の幸せについていうと、実はこれは意識レベル500から自覚的に経験しはじめます。意識レベル500は霊的な意識の領域のスタート地点であり、これより下の499以下のレベルは自我(エゴ)の領域です。自我の領域で生きている人の死後の行き先はアストラル界ですので、アストラル界とはエゴの領域であると言うことができます。一方、霊的な領域である意識レベル500以上の人物の死後の行き先は天界です。

 

『 <わたし> 真実と主観性』より

意識レベル500以上600未満の人の死後の行き先は "有形の天界" とされますが、ここがいわゆる天国に相当します。死後に天国に行けるのであるなら、意識レベル500に到達することはある意味では一つのゴールと言えますから、これを目指すことには充分な意義があります。しかしながら、意識レベル540未満のこの領域(500~539)では、低いアトラクターの影響によって意識レベルが低下してしまうリスクがまだ存在しています。先ほど触れたようにこの領域は霊的なレベルですが、一時的にこの領域の意識を経験したにも関わらず、その後に意識が転落してしまうことを「一瞥体験」と呼びます。

 

それはさておき、そのようなわけで本物の幸せを永続させるには意識レベル540に到達する必要があるのですが、では540において意識レベルが下がらなくなるのはなぜなのでしょうか? 今回のメモはこの点についてなるべく簡潔に述べます。そのため、充分に理解していただくためにはホーキンズ博士の著作やわたしの他の記事を読み慣れている必要があるかもしれません。なお、このメモに先立って note にこのような記事を書いています。先にこちらを読んでおかれるとよいでしょう。

 

note.com

 

そちらの記事では "臨在" にフォーカスを置いたため、 "意識レベル540" の重要性についてはあらためて別に書いておいたほうがよいと考えました。それがこのメモです。

 

というわけで、ここからが本題です。

 

意識レベル540とは?

 

意識レベル500未満はエゴの領域であり、アストラル領域でもあります。これを別の角度からいうと、転生体(肉体+アストラル体+メンタル体)の発達によって到達可能な意識レベルの上限は499であるということです。メンタル体はアストラル体の一部とみなすことができるのですが、つまるところアストラル領域とは転生体のエネルギーの領域です。

 

つまり、人間(転生体)が500以上の意識レベルへと飛躍するためには転生体よりも高次の意識エネルギーが必要となります。意識レベル500から539の領域はグルジエフの人間論でいうところの人間第四番に相当し、オクターブは "ファ" です。人間第四番は3つのセンター(知性・感情・本能)の均衡が取れた状態ですが、これは言い換えるとメンタル体(知性)、アストラル体(感情)、肉体(本能)のいずれもが充分に発達した状態のことです。すぐ上の段で転生体の発達によって到達可能な意識レベルは499までであると述べましたが、これは知性を司っているメンタル体の意識レベル上限ということです。つまり、メンタル体の発達程度に肉体とアストラル体の発達が追いついていなくても499までは到達できるのですが、これを超えて500以上に飛躍するためには肉体とアストラル体も最高度まで発達しなくてはならないということです。

 

ちなみに、肉体の発達とはなにもアスリートのような体になることではありません。また、健康であることは望ましいですがそれも不可欠というわけではありません。必要なのは脳神経系における発達です。

 

さて、グルジエフの人間論において人間第四番(意識レベル500~539)はオクターブにおけるファの位置にあります。オクターブ理論では "ミとファ" の間と "シと次のド" の間には「ギャップ」が存在しており、このギャップを超えて成長するためには 「外部からの力の関与」が必要であるとグルジエフは言っています。またギャップのない部分、たとえばドからミまでの成長は自動的に進展するそうです。これを意識のスケールに置き換えてみると、人間の意識は499までは自力で成長可能ですが、500を超えるにはなんらかの外部からの力が作用しないといけない、ということになります。

 

では人間の意識の成長における「外部からの力」とは一体なんでしょうか? それは "コーザル体のエネルギー" です。

 

人間が地球に転生するために必要な転生体は当然ながら地球次元に存在していますが、より高い次元にはコーザル体が存在しており、転生体はそのエネルギーによって賦活されています。ですから、どんな人もコーザル体のエネルギーを受けてはいるのですが、どれくらいそのエネルギーを転生体に反映させているかは人それぞれで、自我(エゴ)の自己中心性が強いほどコーザル体のエネルギーは制限されています。そして意識レベル499以下の領域では、コーザル体のエネルギーは人間を霊的に目覚めさせるには足りていません。

 

つまり、転生体が充分に発達し、霊的目覚めを促すほどのコーザル体のエネルギーを受け取れるようになったとき、人は意識レベル500以上の領域へと進化するのです。グルジエフのいう外部からの力とは「高次元からの力」という意味でした。

 

このコーザル体のエネルギーは人間を霊的に成長させますが、このエネルギーを充分に受けた転生体のエネルギーフィールドは活性化します。説明が難しいですが、転生体にもコーザル体のエネルギーフィールド(転生体のコーザル体)が存在し、このエネルギーフィールドは高次元に存在している「コーザル体の本体」につながっているとイメージしてもらえるとよいかと思います。意識レベル500を超えると、この転生体のコーザル体エネルギーフィールドが活性化しはじめるということです。

 

このコーザル体のエネルギーフィールドには、低い意識レベルのアトラクターに対する抵抗力があります。ですから、540に到達していなくとも、500を超えている人はそれ以下の領域の人よりも意識レベルが「下がりにくい」です。ただし、下がりにくいとはいえ下がらないわけではありませんので、この領域はまだ安定した境地とは言えないでしょう。ですから、この領域に達した人は油断せずに意識レベルをさらに高める努力を続ける必要があります。

 

意識レベル540という指標は、転生体のコーザル体の活性度がある閾値を超えた臨界点を示しています。すなわち、このレベルにおいて低いアトラクターへの抵抗力が完全なものとなり、もう意識レベルが下がることがなくなるわけです。低いアトラクターに影響を受けないことによって、どんなレベルの人物をみても憎んだりせずすべての人に愛情をもって接することができるようになります(無条件の愛)。同時に、苦しみを生み出している煩悩のほとんどが消滅します(「永続する」本物の幸せ)。

*1

 

 

高次のエネルギーに自らを晒す

 

ここまで意識レベル540という指標が示しているものについて概説してきましたが、問題は「どうやって意識レベル540を超えるか?」ですね。もちろんですが、それを具体的に一言でいうことはできません。それができれば、わたしの記事のすべては不要になってしまいます。

 

ですが、わたしが書いた記事をずっと読まれてきた方に、あらためてポイントを提示するならそれは「外部から来る高次のエネルギーに自らを晒す」ことと言えるでしょう。

 

高次のエネルギーとは、人間意識に存在しているコーザル体のエネルギーフィールドのことです。それは今現在生きている高い意識レベルの人物の臨在のことであり、過去に存在していたマスター達の時空を超えた臨在のことであり、またそうした人物たちの教えのエネルギーのことです。それがグルジエフの言っていた「外部からの力」の正体です。すなわち、師の臨在や師の教えとして外部からもたらされるコーザル体のエネルギーに晒されることで転生体のそれぞれの体の発達が促され、均衡が取れた状態となり、転生体の外側にあるコーザル体のエネルギーフィールドが活性化します。このプロセスを経て意識レベル500を超えることが可能となるのです。

 

シンプルに言い直すと、転生体のコーザル体エネルギーフィールドを活性化させるには、別のコーザル体のエネルギーフィールドに触発される必要があるということです。

 

これに関しては『パワーか、フォースか』の第22章「スピリチュアルな葛藤」をあわせてお読みください。一つポイントを指摘すると、そこにある記述からは、意識レベル550以上のエネルギーがそのような「外部からの力」に相当していると判断することができます。すなわち、意識レベル500以上に飛躍するためには少なくとも550以上で測定される(された)人物に教わる必要があるということになります。また、この章に限らず博士はAA(アルコホーリクス・アノニマス)について数多く言及しているのですが、その理由は本人が意識レベル540を超えるまではこの高いエネルギーフィールドに触れ続ける必要があることを強調するためだと思われます。

*2

 

また、これはちなみにですが、博士は奇跡講座についてもよく言及しています。奇跡講座のワークブックは600、テキストブックは550で測定されています。つまり、ワークブックもテキストブックもいずれも「外部からの力」足りうると言えるでしょう。しかしながら、日本語訳のものは翻訳プロセスにおける情報の劣化によって、これらの数字を下回っている可能性が高いです。そうすると、テキストブックは550をほぼ確実に下回ると考えられますので、ワークブックだけやるべきです。また、このこととは異なる文脈において(つまり別の理由によって)、ではありますが博士もワークブックだけやればよいと述べています。また、ワークブックの意識レベルは外部からの力に相当するものであるとしても、それを教えている勉強会や教師の意識レベルがそのレベルにあるわけではありません。したがって、奇跡講座は独学でワークブックに取り組む場合のみ、外部からの力として期待できると述べておきます。独学が難しいと感じる人は、奇跡講座はあきらめて他の道を探したほうがよいです。

 

個人的な意見では、この現代の日本において、少なくとも意識レベル550を超える人物に師事しようと考えるのは現実的なこととは思いません。お金を取って教えるような人物がそのレベルにあるはずありませんし、無償でアシュラムの門戸を開いて教えているようなインド型のマスターの存在はさらに想像しにくいです。そのためあり得るのは、意識レベル550以上の人物の教えを本なりネットなりを通して学ぶことです。そういう形でもその人物の臨在に触れることは可能です。ただし、その場合はその人物の "波動" を感じられるほどに生徒自身が積極的かつ献身的にコミットすることが必要です。

 

そもそもそのようなレベルの人物をどうやって見つけるかですが、一番確実なのはキネシオロジーテストで測定することです。ただし、キネシオロジーテストを適切に行うためには測定者自身の意識レベルが200以上であることが条件です。また、測定に用いる宣言文(ステートメント)の作成には注意が必要です。詳しくは『パワーか、フォースか』に書いてありますので確認してください。キネシオロジーテストは質問ではなく、あくまで測定対象が真実である場合にポジティブに反応するという原理を利用していることをしっかりと理解してください。

 

もう一つには、『パワーか、フォースか』を熟読し、意識のスケールについて充分に理解したうえで、その人物が教えていることそのものや、その人物の態度が意識レベル550以上であるかどうかを判断することです。わたしはこのやり方をおすすめします。というのも、そのこと自体に意識レベルを高める働きがあるからです。

 

しかしながら、それよりなにより、一番よいのは博士の著作(『パワーか、フォースか』『 <わたし>真実と主観性』)を何度も何度も読むことです。ホーキンズ博士の意識レベルは明かされていませんが、様々な記述や描写から900台であると判断できます。このレベルの人物の臨在は強大ゆえ、そこにフォーカスする(=波長をあわせる)ことは容易ですから、どこの馬の骨か分からない人物(わたしも含めてね)を師と仰ぐよりも遥かによい方法です。

 

わたしの目的は読者の皆さんを意識レベル540以上の領域へと導くことですから、わたしなどを師と考えてもらうより、ホーキンズ博士に全幅の信頼を寄せて明け渡されることを望んでいます。

 

さて最後になりますが、今回お伝えしたかったことの核心は、師の臨在(=外部からの力)に触れることは意識レベル540を超えるためには必要不可欠であるということです。師の臨在に触れたほうが(そうしないよりも)いいよ、という話ではありません。そうしなければ意識レベル500を超えることはできず、そうし続けなければ540に到達できないということです。もちろん、恩寵とよぶべき超常的な事象が起きて意識レベル200以下の人物が突然一気に540を超えることもありますが、そんなことは狙って起きるものではありません。

 

成功の鍵を握るのは "謙虚さ" です。それではまた。

 

*1:

ちなみに、ホーキンズ博士は意識レベル540以上の人物においても「例外的に」意識レベルが転落してしまうケースがあると報告しています。そこではいわゆる "悪魔的な" 存在に憑依される事象が取り上げられていますが、ここでなにが起きているかというと、それはおそらくコーザル体のエネルギーフィールド(転生体のコーザル体)が破壊されているのだと思います。博士はそこまで言及していませんが、コーザル体の活性化によって意識レベルが転落しなくなるのであれば、コーザル体の活性化が損なわれれば意識は転落するはずである、という道理です。

また、コーザル体が活性化するためには転生体が充分に発達している必要があることから推察するに、事故や病気による肉体(特に脳)の損傷によってもコーザル体の活性化が失われる可能性はあるはずです。そして、そのような事故や病気もまた、悪魔的なエンティティの仕業である可能性も指摘しておきます。ですがもちろん、そうでない場合もあるでしょう。いずれにしても、意識レベル540において意識レベルが下がらないというのはコーザル体の活性化が維持されている限りにおいては、という意味であるはずです。

*2:※ただし、当然ながら博士は「外部からの力」という表現は使っていません。グルジエフのオクターブ理論について詳しく学びたい人はウスペンスキーの『奇蹟を求めて』をお読みください。わたしは平河出版社のものを読みましたが、いまなら郷尚文さんが訳されているものの方がよいかもしれません。

高次の知覚をひらくためのエクササイズ

最近は note での執筆活動が主になっていて、こちらのBLOGはほとんど休止状態になっています。最初から明確に意図していたわけではありませんが、この in SPIRE はわたしの教えるところの中心的であり、かつ基本的な内容をまとめていくものとなっています。一方 note はというと、この中心的で基本的な教えが読者からの質問にどのように答えていくか、あるいは様々な書籍に書かれている情報をどのように読み解いていくか、といったことを展開していく場になっています。

 

冒頭に書いたとおり、当初は in SPIRE が主であり、note は副であったんですが、最近はそれが逆転しています。それも当然で、in SPIRE に書くべきことはもうあまり無いのですよね。その代わり、note のさまざまな記事の中でその内容に関連した in SPIRE の記事をリンクすることが増えています。つまり、in SPIRE は note の記事に対しての用語集や参考書としての役割を果たすようになっているのです。

 

……とはいったものの、基本的に in SPIRE に書いてきた記事はほぼすべて、あるときInspiration が降りてきて(このことが in SPIRE という名前の所以でもあります)書かされたものでもあります。note の記事にもそのような Inspiration がまったく働いていないというわけでもないのですが、こちらに書いている記事の前触れとなった Inspiration はどちらかというと "啓示" に近いものです。note の方は "閃き" とでも言えばよいでしょうか。ともあれ、記事の内容やその役割といったこととは別に、そのような扱いの違いもあるのです。

 

そして、こうして記事を書いているということは、つまりまたそうした Inspiration がやってきたということになります。その Inspiration の種類は明らかに "啓示" のほうでしたので、こちらに書くことにしました。ちなみに、こちらでは周波数や波動といった観点の話をする予定だと書いていましたが、結局書きませんでした。それはやってきた Inspiration にやや違和感があったからです。そのような観点の話はいずれ書くかもしれませんが、おそらくそのときは note に書くことになると思います。

 

 

"知覚をひらく" とは?

さて今回お届けするのは知覚をひらくためのエクササイズです。以前、IF(直感的フィールド)というものを紹介しましたが、これもそんな感じのものです。IF の狙いは肉体と一体化している心(自我)を肥大させることなく意識を拡大させることにありました。IF を実践していくと、知覚を肉体由来のもの(五感)だけでなく、その外側へと拡張し、全体性すなわちワンネスを感じとれるようになれるはずです。

 

今回紹介するエクササイズも、狙っているのはまさしくワンネスを知覚することです。その点では IF と同じではありますが、IF は主に意識レベル200台から400台の人をターゲットにしています。というのも、実をいうと IF がもたらす知覚は意識レベル500台に到達すると自然と身についてくるものだからです。つまり、500台の知覚をシミュレートすることによって意識をそのレベルへと飛躍させようというのが IF を実践する具体的な意味です。

 

さて、わたし自身の経験からいうと IF 的な知覚はおおむね意識レベル540までのものであり、それ以上のレベルになると知覚はより高次のものに変容していきます。これでお分かりかと思いますが、今回のエクササイズは意識レベル500台上部から600における知覚をそのままシミュレートし、これを身につけるための練習となります。つまり、IF をやって身についたという人が次に取り組むべきものと言えるでしょう。ですから、すでに意識レベル500に到達されている人はともかくとして、いまだ IF をやっていない、あるいはやってみてはいるがモノになっていないという人は IF を先にやりこんでください。

 

それではさっそくやっていきましょう。

 

 

基礎編:イマジナリードローンと接続する

まず、想像の中で小さくて高性能なドローンを作ってみてください。作るというと難しそうですが、要はそういうものがあると想像するだけでよいです。このドローンはほんの数センチくらいのものですが、カメラを装備していて、このカメラで撮影している映像をあなたの心に直接送信することができます。つまり、ドローンはあなたの眼が拡張された存在で、ドローンが見ているものをあなたは自分の眼で見ているように見ることができるとします。ちなみにドローンの形や色はなんでもよいですよ。

 

さて、ドローンができたら、まずはそのドローンにあなたの肉体の周りを飛行させてみましょう。もちろん想像のなかでやるんですよ。とりあえずあなたを中心に半径2mくらいの円を描くようにぐるぐる飛ばしてみてください。この時点では単にドローンが飛んでいる様子を思い浮かべてください。飛ぶ向きを変えたり、飛ぶスピードを変えたりしながら、イマジナリードローンを飛ばすことに慣れていきましょう。

 

次に、この周回飛行の状態のまま、ドローンのカメラをONにして、そのカメラが常にあなたを映し出すようにドローンを飛ばしてみましょう。ドローンのカメラがONになっているときは、カメラの映像があなたの見ているものになります。つまり、あなたは自分の姿を360度のアングルから眺めていることになるわけです。最初はなかなかうまく想像できないかもしれません。なにしろ、いままでは自分は見る主体であって、見られる対象ではありませんでしたからね。しかしこれからは、見る主体でもあり、見られる対象でもあるのです。

 

しばらく練習して慣れてきたら、ドローンをもっと自由に動かしてみましょう。ちなみにこれは想像のなかで行っているので、いまあなたが実際には屋内にいるとしても、そこではなく例えば広い草原のような場所にいると考えて構いません。色々な距離、高さ、角度からあなたはどのように見えるでしょうか?

 

ここまでが最初のエクササイズです。

 

今度は実際にいまあなたがいるその場所で、そのスペースが許す限りでなるべく離れた場所からドローンがあなたを見ているところを想像します。わたしであれば机の前で椅子に座ってキーボードを叩いているわけですが、その情景をドローンから観たとき、そこに映っているわたしはなにを見ていて、なにを感じていて、なにを考えているでしょうか?

 

もちろんその映像を見ているのもわたしなので、その映像を通さなくてもわたしには自分がなにを見てなにを感じ、なにを考えているかは知っています。このエクササイズで取り組むのは「あなた自身がいま見て感じ考えているものを映像から導く努力です」。一枚の写真を渡されて、そこに映っている人物がこのときなにを見てなにを感じなにを考えているだろうか? と聞かれたら、あなたは写真に映っている情報をもとにそれを想像しますね。それと同じことを自分自身のリアルタイムの映像を用いてやってみるというのがこのエクササイズです。

 

当然ですが、あなたは答えを最初から知っています。このエクササイズのポイントは、あなたが感じ、考えていることの大部分は、その場つまり環境に依存しているということを理解することです。そのことを、主観的な視点と客観的な視点の両方を比較・検証することによって、やがては自由意志の存在が揺らぎはじめることでしょう。

 

基礎編としてはたったこれだけです。次はいよいよこのエクササイズの本番です。

 

 

神の視点のシミュレート

厳密には肉体精神機構に宿った魂には神そのものの視点を知覚することはできませんが、可能な限りシミュレーションしてみましょう。そのためには基礎編のトレーニングが必須でした。

 

まずは外に出掛けましょう。場所はどこでもよいですが、人の多いところがよいです。誰でも構いませんので、誰か一人に注目してください。その人にはなにが見えているでしょうか? その人が歩いているなら、あるいは立ち止まっているなら、その人の肉体はいまどんな感覚を経験しているでしょうか? それらの情報(視界に見えているものや肉体感覚)から、その人にはどのような思考や感情がわき起こっているでしょうか? もしかしたらなにか考え事をしていて、周囲のことには気がいってないかもしれませんが、ひとまずはそういうことは考慮せず、あなたから見えている情報だけから、その人がどのような現実を経験しているかを想像してみてください。

 

ドローンのエクササイズがしっかりと身についていれば、客観的な情報だけで、その人の経験しているものをある程度正確に見ることができるようになるはずです。ポイントは観察するのではなく、その人になりきるということです。別の言い方をすれば、その人の意識をその人とともに経験するということです。あなたがなにを見ているかではなく、その人にはなにが見えているかです。これは決して観察眼を鍛えるトレーニングではありません。

 

そんなこと出来るわけがないと思われるかもしれませんが、これは可能です。なぜなら個人というのは幻想で、意識には本来、境界などないからです。テレパシーなどのいわゆる超能力が本当に存在するのも、このためです。あなたの肉体精神機構が経験していることを観ている主体と、その人が経験していることを観ている主体は同じひとつの意識です。これが真我と呼ばれているものです。

 

ともあれ、最初から他者の経験を知覚することはもちろんできません。ここでやっているのは「他者の経験を自分のものとして知覚できたとしたら、どんな感じだろうか?」というシミュレーションです。しかし、意識レベルが600を超えると実際にそうなるのです。

 

ちなみに、その人がもしあなたのいる方向を見ていたなら、当然ですがその人の視界にはあなたが映っているはずですね。その人にはあなたはどのように見えているでしょうか? そして、その人が見ているあなたはどんな現実を経験しているでしょうか? んん? と思われた方はわたしの書いていることを正しく読解できています。つまり、ここで言わんとしているのは、他者の現実に存在しているあなたは、あなた自身が経験している自分と同じものではないということです。

 

というのも、自我というものが幻想なので、自我が経験している現実もまた幻想です。幻想である自我が、幻想である別の自我を見ているという現実は、その自我だけの現実です。

 

これは以前に書いた

意識が世界を創造する(相互入れ子構造による宇宙の多重創造論) - in SPIRE 内なる声をきく

という記事に書いているのと同じ話です。このエクササイズでは、この記事に書かれていることをシミュレートしようとしています。

 

さて、一人の人を見つけてこうしたことを試みるだけでも大変ですが、慣れてくると自然にそのとき見えているすべての他者の現実を知覚することができるようになってきます。それとともに知覚の精度も増していきますから、例えばですが、あなたと話している相手が次になにを言うかとか、どんな仕草をするかといったことが前もって分かるようになってくるでしょう。

 

といっても、思考や感情を盗み見ることができるようになるということではありませんよ。そうではなく、誰にも自由意志はなく、ただ神によって与えられたプログラムによって自動的に動いているだけなのだということが、そのまま知覚として経験されるようになるということです。言い換えるなら、神の意志が森羅万象のすべてに働いていることを知覚できるようになるため、その神の意志が次になにを現象化するかもある程度分かってくるということです。そのときの感覚は "起こるべきことが起こるべきように起こっている" というものです。

 

練習の仕方としては、まず歩きながら、すれ違っていく一人の人物についてこれを行ってみましょう。時間はすれ違うまでのわずかな時間ですから、考えずに直感で感じる訓練にもなるでしょう。すれ違ったら、次はまた前方にいる誰かに注目します。こうして歩きながらどんどんやっていくのが最初はよいと思います。

 

ある程度慣れてきたら、今度は広場のようなところに行って、立ち止まりましょう。そして、その場にいる(あなたに見えている)すべての人の経験している現実を同時に知覚してみようと試みてください。まあこれはなかなかできませんが、それでも慣れていけばある程度できるようになるはずです。

 

さらに進むなら、その場にいるある人物の経験している現実における、その目に映っている別の人物の現実を想定してみてください。このやり方は鏡と鏡を向き合わせるように無限に可能ではありますが、エクササイズとしてはある人とその人の見ている別の人、というレベルまでで十分でしょう。これはエクササイズですが、目指すのは常時このように知覚できるようになることです。

 

最後の段階では、視点をあなたではなく、イマジナリードローンに切り替えてみましょう。つまり、あなた自身もその場にいる人物の一人として見るということです。これが部分的にですが、神の視点となります。

 

これが知覚できるようになれば、あなたは自己と他者という分離を超越したということです。それはつまり、二元性の超越です。この境地を覚醒とよび、それは意識レベル600で測定されます。

 

今回はこれでおしまいです。このエクササイズについては IF のように名前はつけません。また、エクササイズのやり方についても書こうと思えばもっと詳しく、かつもっとバリエーションを提案することも可能ですが、とりあえず今回はこれだけにしておきます。もしこのエクササイズについて質問がありましたら、質問箱に質問を投稿してくださいませ。

 

それではまた次の記事でお会いしましょう。読んでくださってありがとうございました。

note に書いた重要な記事の紹介です。

こんにちは。今回は note に書いた重要な記事をこちらでも紹介します。一つ目はホーキンズ博士の意識のマップを解説した記事です。この in SPIRE では当初から前提となる基礎知識として、博士の「パワーか、フォースか」を挙げていますが、あらためて基本的な情報に立ち返って説明してみました。

 

note.com

 

もう一つは以前にも記事にしている「存在に関する統合的な図表」についての解説です。内容的には過去の記事と重複している部分も多いですが、今回は図表にある情報をすべて網羅して解説しております。また、以前の記事は5年以上前のわたしの理解で書かれていますので、情報としては大幅にアップデートされていると思います。

 

どちらの記事も霊的な探求のためのガイドブックとしてとても役立つはずですので、ぜひお読みください。簡潔ですが今回はこれで以上になります。

 

次回は多次元的な存在としての人間についての記事になる予定です。それではまたお会いしましょう。

note.com

キリスト意識からの啓示:ジョセフ・ベナーの著作「インパーソナルライフ」「あなたの内なるキリスト意識」の紹介

静まって、わたしこそ神であることを知りなさい

 「訂版 インパーソナル・ライフ あなたは神とひとつである The Impersonal Life Japanese Edition インパーソナル・ライフ・メッセージ」 ジョセフ・ベナー 著、大湾洋乃 訳

 

前回の記事では意識の個別性について解説しましたが、その理由のひとつは一般的に霊的な話題のなかで用いられる「真我」や「わたし(大文字の I )」という言葉がなにを指しているのかについて、探求者の間でのみならず、あろうことか彼らに霊的な智識を教えようとしている人たちの間においてさえ、混乱があると感じていたからです。わたし自身もこの In SPIRE や note の記事においてこれらの言葉について明確な定義を示していなかったので、あらためてその必要を感じたものでした。

 

その前回の記事はこちらです。

merciful.hatenablog.com

 

明確な定義と言っておいてなんですが、真理を言葉で完全に言い表すことは不可能です。言葉それ自体が全体から部分を切り取って(つまり分離させ)それらのものに名前をつけ、その名前のものについて語るものであるという性質上、真理(ひとつであること)について言葉を尽くして詳しく説明しようとすればするほど、皮肉なことにその説明は真理から離れていってしまいます。したがって、わたしにできることは読者のみなさんが自らの内面において真理を見つけるために必要な手がかりを提供することのみです。前回の記事では、文章による説明に加えて視覚的な情報として稚拙ながら図表をいくつか用意してみましたが、これがみなさんの理解に一役買ってくれていたなら幸いに思うところです。

 

さて、前回の記事でもほのめかしていましたが、そのようなものを書いたもう一つの理由がこの記事のタイトルにあるジョセフ・ベナーという人物による著作を取り上げるためでした。内容について紹介するまえに、先に書籍のAmazonリンクを掲載しておきましょう。

 

 

 

ジョセフ・ベナーという人物はおよそ100年前に生きていたアメリカのキリスト教神秘主義者ということですが、これまでわたしはその名前を知りませんでした。日本語で読める彼の本がいままでなかったわけですから、おそらくこの記事をお読みのみなさんもご存知なかったのではないでしょうか。彼についての情報はこれらの書籍の紹介ページに書かれているものしかないのですが、その著作であるこれらの書物の価値からすると、これまで知られていなかったのが不思議なくらいです。しかしながら、これはわたしの個人的な思いですが、だからこそこれらの書籍に書かれている情報がいま日本にもたらされることには大きな意味があるはずです。

 

それでは早速ですが、このジョセフ・ベナーの書籍の内容を一部紹介していきましょう。ちなみに「あなたの内なるキリスト意識」については作者は匿名とされています。当時、なんらかの事情があったのかと思われますが、後にこれがジョセフ・ベナーの作であることが明らかになっているようですので、ここではいずれもジョセフ・ベナーの著作として扱いたいと思います。

 

『改訂版 インパーソナル・ライフ あなたは神とひとつである』

 

いずれの著作も、その内容は神である唯一真実の主観としての「真我(神我)」「わたし」として直接、読者であるあなたに語りかけるものになっています。また、ところどころにおいては「わたし」は自らを「キリスト意識」であるとも語り、そしてその本質は「インパーソナルライフ(意識の境界を超えた存在:非個人的な意識)」であると明かしています。

 

前回の記事は、上に書いた文章の意味を前もって説明しておくためのものであったといってよいでしょう。すでにお読みくださっている方には、この文章についてさらなる説明は不要であるはずですが、ここですこし、おさらいと補足をしておきましょう。

 

Xiaomi Pad 6というタブレットで書いています。本当はiPad Air が欲しかったです。

これは前回の記事で用いた図表にすこし書き加えたものです。ピラミッド型の下2段は物質界に肉体を持って生きている個人的な意識といえる部分で、これをロウアーセルフとします。その上の段はコーザル体における個人的な高次の意識で、ここには各ロウアーセルフ(転生体の意識)のすべての経験の記憶があります。ロウアーセルフに対応して、これを個人的なハイヤーセルフとしています。

 

ピラミッドの頂点をなす最上段を「無限の集合意識」としていますが、前回の記事ではここに含まれるものとして地域や血縁、民族、国家そして種族の集合意識(集合魂)を挙げました。しかしながら、真相においてはこれらは意識の構造のほんの一部でしかないでしょう。思いつく範囲でも、星系(太陽系)、星団(プレアデス星団など)、銀河系、銀河団、超銀河団などがそれぞれ集合的な意識の単位として考えられます。そしてさらには、この宇宙そのものが無数に存在しているマルチバースの一つでしかないかもしれません。

 

こうしてみていくと果てしないですが、ポイントとしては、真相がどのようであれ神とはそのすべてであるということです。ということは、わたしたちがハイヤーセルフだと思っているものは、神とわたしたちを繋いでいる、この果てしのない意識のチャネル(経路)のどこかのことなのです。そして、わたしたちが神とつながっている、神とひとつであるのと同様に、いずれのハイヤーセルフも神とひとつです。ですから、「真我」や「わたし」とは神そのものであると同時に、神に連なるハイヤーセルフのことでもあるのです。いっぽうで、「インパーソナルライフ」というときは非個人性を強調しているので、神のことを指しているといえます。また「キリスト意識」というときは人類を神の意識へと導く高次の意識(ハイヤーセルフ)としての神の子の意識であると受け止めればよいでしょう。このように呼び方によってニュアンスは変わりますが、本質はすべておなじです。

 

繰り返しになりますが「すべてはひとつ」であり、それゆえ「あなたと神はひとつ」です。

 

神へとつながる無限のチャネルはあなたの内にあり、あなたとひとつです。このチャネルこそが「神の王国」へと至る道なのです。この書物において「わたし」は繰り返し丁寧に、すべてを「わたし」に明け渡しなさいとあなたを説得しますが、明け渡しとは、神とひとつであることを自分に赦すことです。別の言い方をするなら、この神へと至るチャネルを最大限に開き、そこから差し込んでくる神の光に自らのすべてを晒すことと言えるでしょう。この光によって幻想の自己である自我(エゴ)は焼き尽くされ、わたしたちは神とひとつであることを思い出すのです。

 

そうです。このインパーソナルライフという書は、神みずからが神の子であるわたしたちに、神とひとつであることを思い出させようとして届けられたメッセージなのです。

 

静まって、わたしこそ神であることを知りなさい。 わたしがあなたの中にいる事を知りなさい。わたしはあなたなのです。わたしがあなたの生命である事を知りなさい。全ての智慧、愛、力はこの生命の中に在る事を知るのです。それは実に今、あなたの存在全体を通し、惜しみなく自由に流れ続けているのです。 わたしこそが、全ての存在の中のその生命、知性、力であるのです ― あなたの細胞のひとつひとつに、それは存在するのです。鉱物の細胞の中に、植物、動物の細胞の中に、それは存在するのです。火の中に、水の中に、空気の中に。太陽の中に、星の中に。わたしはあなたの中に、そして彼らの中に在るもの。彼らの意識はあなたの意識とひとつであり、そして、全てはわたしの意識なのです。彼らの中に在るわたしの意識によって、彼らの持っているもの、彼らであるところのものは、全てあなたのものなのです ― あなたがそれを求めるならば。

(太字はわたしが強調したものです)

 

この一文に、そのメッセージの大要が示されていると思います。全編にわたって素晴らしい内容なのですが、ここではもう一箇所だけ引用しましょう。

 

人であれ、霊的存在であれ、あらゆる教師やガイド、マスターや天使といった存在は、完全性そのものであるわたしの部分的顕れに過ぎないのです。全知全能にして遍在するわたし、全存在の背後に在る霊的イデアそのものであるわたし ― つまりは、あなたの中の神へと、直接向かい合う事ができるというのに、なぜあなたは、そういった部分的存在たちを求めているのでしょうか。

 

すべての源は神であり、すべての現れは神の一部であるということ。先ほど上の方で説明させてもらったのも、この引用文と同じことを言っています。この記事を書いているわたしも、神の言葉がこの肉体精神機構を通して降りてくる神の部分的顕れであるといえますが、実際にはただのおじさんなのです。ただのおじさんに、それが起きているだけなのです😉

 

ところで、このBLOGの正式な名称は「 in SPIRE 内なる声をきく 」というものです。これはBLOGを開設した当初からのものですが、わたしがみなさんにお伝えしたいことの一番の要点はこのこと、つまり、わたしたちは神とひとつであること、わたしたちは内なる神とつながっているということです。このジョセフ・ベナーの著作はまさにその点においても、わたしがここで紹介しなくてはならないものでした。

 

 

『あなたの内なるキリスト意識 ―キリスト意識の覚醒による神との境界の消滅について―』

 

さて、続いてもう一冊の著作について紹介しましょう。

 

あなたの覚醒は神によって定められたものであり、神聖なシナリオに記されたものであるという事、これを真に知ってほしいのです。そうです、しっかりと覚えていてください。あなたは神のシナリオの中の存在であり、実に、何も心配すべきことはないのです。心配事、恐怖感、罪悪感、劣等感、こういったものの全ては、神に属するものではありません。これらの全てが「偽我」という、偽りのエネルギーに由来するものであり、即ち、元来存在しないものなのです。

 

「あなたの内なるキリスト意識 ―キリスト意識の覚醒による神との境界の消滅について―」
 ジョセフ・ベナー 著、大湾洋乃 訳

 

こちらの「あなたの内なるキリスト意識」でも「インパーソナルライフ」と同じく、神であり真我でありインパーソナルな意識である「わたし」が様々に語りかけてくれます。基本的に語り口も「インパーソナルライフ」と同様ですので、実質的に続編というか、そのまま続きであると思っていただいてよいでしょう。

 

内容としては、「インパーソナルライフ」ではわたしたちが神とひとつであることを示すものであり、「あなたの内なるキリスト意識」では、なぜそのことをわたしたちは忘れてしまっているのか? ということについて語られています。この「あなたの内なるキリスト意識」に書かれている「偽我」についての情報は非常に重要で、なおかつあまり知られていないものです。

 

非二元(ノンデュアリティ)の文脈において、悟りを妨げているものはエゴ(偽りの行為主体である幻想の自己)であるとされています。このエゴは肉体精神機構(肉体と精神の総体)とイコールにみることもできますし、エゴ=肉体精神機構=カルマという等式を示すことも可能です。いずれにしても、幻想にすぎないエゴを実存であると錯覚してしまうがゆえに人は二元性にとらわれて真理から遠ざかっているというのが非二元の界隈で語られていることですが、幻想であるというまさにその理由によって、エゴについて深く追求することはほとんどありません。ですので、ほとんどの人はその由来と正体について知らないし、気づいてもいないことでしょう。

 

上の引用文において触れられている「偽我」の説明は、この非二元文脈におけるエゴのことと言って差し支えありませんが、本書で語られている「偽我」の素性はそれだけにとどまりません。

 

そして、この事を覚えていてください。偽我という存在は、実は、ひとつしか存在していません。あなたの意識に巣食ってきた偽我のエネルギーは、他の存在達に巣食ってきた偽我のエネルギーと全く同じものであり、ここにも、実は分離というものはありません。

 

ここで、偽我が個人的なエゴという概念ではなく、集合的な意識エネルギーであることが示唆されていますね。まったくの話、そもそもすべてはひとつなのですから、幻想の主体であれなんであれ、それも全体とひとつなのです。したがってエゴもまた、それは個人的な幻想ではなく、非個人的で集合的な幻想であると理解されなくてはいけないのです。しかしながら、偽我の正体はそれだけではありません。

 

あなたのこれまでの思考形態の殆どの部分が、偽我が集合して構成した意識、つまり偽我の集合意識体によってできた思考母体を基にしたものであったのです。そして、この思考母体・マトリクスは、非常に強固な意図を持っているのです ― 神を否定し、そして神なるものを模倣し、偽の神を作り上げ、それに人類の意識を集中させることにより、真の神を人類の意識から排除しようとする意図 ― 偽我は、その非常に強固なエネルギーによって、時間というものが始まったその瞬間から、この意図をずっと固持してきたのです。

 

 

改めて伝えます、外側の世界を支配しようとしてきた存在、それは集合的偽我のエネルギーであり、それらは霊的次元からはたらきかけ、人類から神を、内なる「わたし」を隠そうとしてきたのです。集合的偽我は霊的次元の存在ですが、それが影響を及ぼせる次元は、主に物質次元です。つまり集合的偽我、そしてあなたの中に巣食ってきたあなたの偽我、この両方が、物質的次元に起こるあらゆる現象を操る事によって、内なる神の声をかき消し、偽りの時間を引き伸ばしてきたという事なのです。

 

ホーキンズ博士の「 I <わたし> 真実と主観性」では、アストラル領域に存在するエンティティ(霊)について言及されています。アストラル界の意識レベルの上限は500とされているのですが、ここで注意喚起されているのはより下方のレベル、すなわち地獄と呼ばれるような領域にいるエンティティ(意識体)の危険性です。そのようなエンティティの中には非常に強力な存在もいるようで、そのような存在の誘惑や脅しによって、一般的には意識レベルが転落しないとされている540以上の人物が200前後にまで堕とされてしまうこともあるようです。

 

本書で明かされている「偽我」の正体とは、つまりこのアストラル界にいる低い意識(アトラクター)のことであると考えてよいでしょう。ホーキンズ博士はアストラルについては詳細は語らず、とにかく関わるなと述べていました。アストラル界については、そのはじまりも含めてわたしもほとんど無知ですが、関わるべきでないものについては知らないほうがよさそうです。ちなみにですが、その意味では意識レベルが十分に高い(500以上)人を除くと、サイケデリクスを使用することには常に危険がつきまとう可能性が高いです。

 

これからこの本を手にしてみようという方は、この偽我について、非二元でいわれるエゴと比較しながら読んでみるように、おすすめします。それはとても有益な経験となることでしょう。また、こちらの本は章の終わりごとに聖句とともにそれを熟考するための瞑想が設定されています。あわてて先を急がず、章ごとの内容をこの瞑想によって腑に落としながら、ゆっくり読み進められるのがよいでしょう。

 

ジュニャーナとバクティについて

 

ラメッシ・バルセカールは「ジュニャーナ(智慧の道)はいずれ極まるとバクティ(帰依・明け渡しの道)と同じになります」と言っていました。わたしはジュニャーニ(智慧の道を行く人)でしたし、いまこうしてわたしが書いているものも基本的にジュニャーニの人に向けたものです。しかしながら、このところのわたしは以前よりは敬虔な人間に変わってきたと感じています。敬虔といっても、具体的な名前のある神や特定の宗教を信仰しているわけではもちろんありません。ただ、自らの内に神を感じ、外側の世界にも神の意志が顕現していることを知覚できるようになるにつれて、自らよりも高いもの、大きいものに対して自然と頭が下がるようになり、また、その高いもの大きいものと自分がひとつであることに喜びを感じられるようになってきたのです。

 

わたしの意識が目覚めはじめたのは人生のどん底にあって、エゴである自分の愚かさ、未熟さ、無能さを思い知ることになった時からですが、それでも当時はまだ簡単に明け渡すものかという抵抗心があったと記憶しています。それから14年ほど経ったいま、気がついてみれば神のために神の言葉を受け取ってそれをこうしてお伝えすること以外にはほとんどなにもしない人生を送るようになっていました。

 

わたしが思うに、エゴ(偽我も)は敵ではありません。エゴにはエゴなりの動機と目的があるのですから、感情を押し殺したり、欲望を無視したりしていては却って意識レベルの上昇を妨げます。カルマはそれが燃え尽きるまではずっとその人を苦しめるので、いっそのこと最大火力で焼いてしまうのが一番早いのです。しかし、かといって探求の途にある人がそのような生き方をすることには罪悪感があることでしょう。思いのままに生きても罪を感じ、思いを抑え込んで生きても鬱屈して歪むとなれば、いったいどうすればよいのでしょうか? 智慧の道の、とくにその道の半ばまではこのジレンマに苛まれ、なかなか思うようには進めないと思います。

 

誰であれ、その人に覚醒なり悟りなりが起こるとき、例外なくそれは神の恩寵によるものです。なぜならすべての肉体精神機構はただ神だけがそれを生かし、思考させ、行為させているのですから。であるなら、智慧の道を行く人がこのジレンマに打ち勝てたとすれば、それはその人が成し得たのではなく、神がそのようにしたのだということです。これが神の恩寵です。

 

ジョセフ・ベナーによるこの二冊「インパーソナルライフ」と「あなたの内なるキリスト意識」は、神自らが教えるバクティ(明け渡し)の教科書といってよいでしょう。これらの書がいまこのようにしてわたしたちの手が届くところにもたらされた意味は、この日本で探求を続けている人たち(そのほとんどがジュニャーナでしょう)の多くにとって、明け渡しを学ぶことが必要であるということでしょう。

 

もっとも、同じように明け渡しの重要性を伝える霊的な情報としては奇跡講座バガヴァッド・ギータもすでによく知られています。これらの書ももちろん非常に優れていますが、ジョセフ・ベナーの著作が素晴らしいのは誰でも読めるくらい平易な表現でありながら、とても説得力のある文章で語られているところと、ボリュームがコンパクトであるところです。それゆえ、奇跡講座やバガヴァッド・ギータに比べるとおすすめしやすいですし、読まれる方にとっても内容を理解吸収しやすいはずです。ですから、ぜひ読んでみてください。

 

さて、他にもまだまだ引用したくなるような文章がたくさんあるのですが、それはみなさんが本書から直接読んでいただくこととして、わたしからの紹介はこれで終わりたいと思います。ひとりでも多くの方がこの二冊の本を読んでくださることを願います。

 

静まって、わたしこそ神であることを知りなさい――

 

最後になりましたが、これら素晴らしい霊的な情報を発掘され、見事な翻訳によって世に出された大湾洋乃さんに感謝いたします。今後出される予定の本も楽しみにしております🙂

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。