先日 note にこのような記事を投稿しました。
そこで紹介している本は同じグラハム・ハンコックの著書『異次元の刻印』の日本での刊行に先立って行われたエハン・デラヴィ氏とグラハム・ハンコックの対談を収めたもので、内容もこの『異次元の刻印』のキャンペーン的なものになっています。
グラハム・ハンコックといえば超古代文明の痕跡をフィールドワークによって突き止めながら大胆な仮説をもってそれらの点と点を線へとつないでいくスタイルの著者として非常に有名で、代表作はおそらく『神々の指紋』だと思います。ところがこの『異次元の刻印』はそれまでとはまったく異なる題材を扱っているんですよね。それは "幻覚剤" で、約4万年前にはじまった人類の知的活動における飛躍的な進歩の理由は、この幻覚剤(を成分として含有する植物や菌類)との関わりにあるとグラハム・ハンコックは考えたのでした。
これは非常に斬新な視点ではありますが、秘められた、あるいは隠された人類史の秘密を暴くという意味においてはこれまでのグラハム・ハンコックの仕事の延長上にあることは確かであり、実際、それまでのシリーズと同様、フィールドワーク(ただし今回それは自身の精神的なフィールドですが)と文献等の綿密な調査をもとに進められていく探求の面白さは『異次元の刻印』においても健在で、他のグラハム・ハンコックの本と比べても遜色ないどころか、個人的には一番面白かったと思っています。
なお、この『異次元の刻印』については下記の記事でも触れています。
ちなみにこの記事は in SPIRE のなかで一番たくさん読まれているようです。それだけ今の時代でもサイケデリクス(幻覚剤)に関心を持っている人は多いのでしょう。
わたし個人についていうと、こちらの記事に書いた体験と、後で触れるその後の一連の時期における経験を最後にサイケデリクスの摂取はしていませんし、今後もやることはおそらくないと思います。まあ、目の前にマジックマッシュルームが落ちていたら食べるかもしれませんが、そんなことは現実にありえませんね。つまり、自分から求めてやることはないということです。
そもそも日本ではシロシビンもDMTもLSDもみな違法な指定禁止薬物ですから、国内でそれをやるということは法を犯すことになります。あくまで個人的な見解を述べると、暴行傷害や殺人や窃盗や詐欺といった犯罪と、こうしたサイケデリクスの規制を破ることはまったく別のことだとわたしは考えていて、それゆえ、そうしたものを自分が経験するために必要な行動を取ること(取ったこと)に罪の意識は感じていません。
ですから、その経験を必要としていた時期には、それ相応の労力とリスクを払ってでもそれをやり遂げましたが、いまのわたしにはそこまでしてサイケデリクスをやりたいという気持ちはまったくありません。
それは、わたしがサイケデリクスを必要としていたその理由(あるいは動機)がもうすでに果たされているからです。上にリンクした石垣島の記事に書いていますが、当時のわたしはサイケデリクスの高用量摂取を自らに課したイニシエーション(通過儀礼)と捉えていました。イニシエーションの具体的な意味は "意識レベル600を超えること" でした。
このことについては先ほどの石垣島の記事の一つ前の記事で触れています。
ところがその目的はこの石垣島でのイニシエーションにて果たされることはなく、その後の2018年秋に今度は DMT を用いてその続きが行われました。このときは約2ヶ月の間ほぼ毎日DMTを摂取し続け、その2ヶ月間の終わりの時期に、通常のおよそ3倍から4倍の量を一度に試しました。その時に起きたのがインナービジョンにおける光り輝く龍との遭遇でした。
その時、DMTを飲み干したわたしは、効きはじめるのを待ちながらリクライニングチェアに目を開けたまま座っていました。ほんの数分経ったころ、天井のあたりに何者かの "目" が見えました。同時に、ものすごく強烈で濃い気配を感じました。なにかとんでもないものがそこに居るという感じです。ちょっと身構えましたが、するとその目がギョロッとわたしを見つめたかと思うと、こちらに向かって飛びかかってきたのでした。
うわっとなって思わず目を閉じると、これまでのサイケデリクス体験で見たものとはまったく次元の違う光景が広がっていました。それは強烈な光のトンネルのようで、光は視野の中心方向からこちらに向かって放たれているように感じましたが、その光の明るさというか眩さは単に強烈というのではなく、この物質世界の光とはまったく異なる超現実感を伴ったものでした。いままで生きてきた現実というのは単にこの超現実のスペースの模倣のようなものでしかないと感じたことを覚えています。
その超現実の光に圧倒されていると、光の中央からなにかが現れてこちらに向かって飛んでくるのが分かりました。それはこの強烈な光の放射でさえもただの背景にしか感じられないほどに美しく輝く、ダイヤモンドのようにあらゆる色の光を放つ龍の姿でした。眩しいというよりも神々しくて正視しがたいのですが、それでもなんとかよく見ようと試みると、それは光を発しているというより、光そのものでできた龍のようでした。
龍はわたしの5mくらい手前(のように感じられるほどの距離感)にくるとそれ以上近づくのをやめ、そこでぐるぐると体を動かしながら顔(頭)だけわたしの方を見ていました。自分の姿をよく見せようとしているように、わたしには思えました。やがて、声ではない声が聞こえてきて、その声はわたしに「よくぞここまでたどり着いたね」と言っているように感じられました。
かと思うと、今度は龍の前腕と思われる部分から、なにかがわたしに向けて放射されました。それは漫画やアニメでよく見る "魔法陣" のようで、わたしには理解できませんが実際にその魔法陣にはなにか呪文というか言語的な情報が込められていることを直感しました。その時にはなにが起こっていたのか分からなかったのですが、数日後に突然この龍からのメッセージが脳内に次々と降りてくるということがあって、そのメッセージによると、この時その龍は自らのエネルギーの一部をわたしに与えたんだそうです。直上にリンクした記事はそのときのメッセージをつなぎあわせて編集したものです。
現在のわたしの実感としては、このエネルギーによってわたしのカルマは書き換えられたのだという気がしています。具体的には探求者としてのカルマを終え、新たに "教える者" としての人生を歩んでいくようにわたしの運命は転換したのだと考えています。
この龍との遭遇のあとにもDMTのセッションは数回行いましたが、そのときには途方もない神聖な存在(そのときのわたしには "銀河レベルの神" というように直感されました)が現れました。人間に近い形態をしていたような気がしましたが、巨大というか壮大すぎてそれ以上の描写は不可能です。いま思い返すともしかしたら、あれっていわゆる "大天使" といわれる存在だったのかなあ、なんて思ったりもするのですけど、やっぱり分かりません。このときは畏れ多くて頭を上げていられなくなり、また、ありがたすぎて涙があふれてきて止まりませんでした。あんなに涙を流したことは人生でこの時だけです。とまれ、このときはメッセージのようなものはなにもなく、ただただ圧倒的な存在感(プレゼンス)に平伏するしかなかったという経験でした。
ちなみに龍も銀河神もどちらも衝撃的な経験でしたけれど、個人的なイニシエーションという観点では龍との遭遇のほうが遥かに重要な意味があったと思います。銀河神(知らんけど)が現れてくれたのは、それをもってわたしが執着を残すことなくサイケデリクスの探求を終えられるようにと天が計らってくれた "最後の贈り物" のようなものだったと理解しています。
ところで、基本的にサイケデリクス摂取時に経験したものは意図的にそれを覚えておいてすぐに記録でもしない限り、ほとんど忘れてしまうものです。しかしながら、わたしの場合でいうと石垣島での2次元美少女が現れたときと、この龍との遭遇と銀河神降臨(知らんけど)の3回については忘れようにも忘れられないほどはっきりと覚えています。つまり、おそらくですが、そういう経験はなにか特別なものなのでしょう。そしてこれらの経験に共通している事実としては、いずれも超をつけてもいいくらいの高用量摂取時に起こったもの、ということです。
さて、そんなこんながあってからすでに7年近く経ちましたが、結論としてはサイケデリクスはグルジエフのいうところの "外部からの力" たりえると思いますし、それは同時にホーキンズ博士が意識レベルを高い領域へと飛躍させるために不可欠であると述べているところの "コーザル体を活性化させるパワー" でもあると言えると思います。*1
ただし、同じくコーザル体を賦活するパワーである "師の臨在" もそうであるように、それに触れた人が必ずしも意識レベル540を超える高い領域にまで飛躍するとは限りません。師の臨在は師にどれだけ明け渡すかが問われますし、意識レベルが 540 を超える前に師のもとを去れば、元のレベルにまで意識レベルが戻ってしまう可能性があります。サイケデリクスについていえば、1回や2回の摂取で意識レベルがぐんと高まることはほぼほぼありえませんし、じゃあ数十回やれば意識レベル 540 を超えられるかというと、それもなんら保証はありません。そもそもサイケデリクスの摂取時にどんな経験ができるかは、その人の元の意識レベルに大きく依存しています。
ホーキンズ博士はドラッグ(アルコールを含む)摂取時に一時的に経験できる意識レベルは 350~600 であると述べています。これは、ドラッグの種類によって経験できるレベルが異なっていることと同時に、ユーザーの意識レベルによってもそれは違っているということをも意味していると考えられますが、例えばアルコールで意識レベル 600 の経験ができるかというと、そんなことは不可能でしょう。600 の可能性があるのはサイケデリクスと呼べる範疇に属する物質に限られると思いますが、例えば強烈な多幸感が得られるMDMAなどでも 500 をすこし超えたくらいの領域までは確実に経験できると思います。
しかし、サイケデリクスなら誰でも 600 近辺の経験が可能かというと、むしろほとんどの人は難しいと思います。それが可能なのは元の意識レベルが 540 を大きく超えている人だと考えられますが、そうでない人でも高用量の摂取を高回数繰り返すことで経験できる可能性はありそうです。
それを教えてくれたのは、この本でした。
冒頭にリンクした記事を書いたあとで読者さんからメールをいただいたのですが、その中でこの本を薦めていただきました。実をいうと、この本のことは知っていたんですが、先に書いてきたようにサイケデリクスへの探究心はわたしの中ですでになくなっていたため買って読むということはしなかったんです。
ところがこうしてサイケデリクスに関する本を紹介する記事を書いたタイミングで人から紹介されたため、これは読むべきなのだろうなと考えることにしたんです。それで、実際に読んでみてまず思ったことなんですけど、それは本の内容とは別のことで「なぜいまこの本をわたしが読んだのかというと、サイケデリクスに関する結論のようなものを書くタイミングが来たからだ」というものでした。それでこの記事をいま書いているというわけです。
意識レベルを高める(540を超える)ために役立つ情報を書くことがわたしの仕事だと思っていて、実際にこの7年でたくさんの記事を書いてきました。自分で言うのもなんですが、それらの記事には非常に価値があると思っていますし、しっかり読まれて、さらにはわたしが勧めるワークを実践し、推薦する本まで読みこなされる方は間違いなく意識レベル540に到達できるはずだとも思っています。
しかしながら、わたし自身がどのように現在の意識レベルにまで到達できたかというと、もちろん一般的な探求や瞑想などもおそらく人並み以上には積み重ねてきましたからそれが半分としても、残りの半分くらいはサイケデリクスを中心とした薬物との関わりによるものなんですよね。
最初にドラッグを経験したのは30歳ごろで、この頃はまだ規制されていなかったマジックマッシュルームを試しました。当時はごく標準的な量しか怖くて試せませんでしたが、回数としては10回くらいやったと思います。その後マジックマッシュルームが規制されてしまい、なにか他にないかと探したんですが当時って実は合法ドラッグ天国だったんですね。それで、それから数年の間に、5Meo-DMT、AMT、2c-i、2c-t7 やサルビア・ディビノラム(これは怖かった)といったサイケデリクスを十数種類試しました。ここでは何度か無茶なハイアタック(高用量摂取)をやらかしましたね。
その後、メチロンと呼ばれたMDMAのアナログ(類似物質)が登場し、どっぷりとハマってしまいまいした。これは本家のMDMAよりも作用時間は短いかわり、多幸感はMDMA以上という、よくこんなものが合法的に手に入ったなと今でもよく思うような代物でした。多幸感もすごかったですが、同時に眼振(目ブレ)や奥歯の噛み締めがすごかったです。幸せを噛みしめるという表現がありますが、本当に幸せを感じると奥歯を噛み締めちゃうんですよね。
わずか1年ほどでメチロンは規制されてしまいましたが、そこで途方にくれたわたしはとうとう違法薬物に手を出すようになったのでした。さすがにこの時期のことを詳しく書くのはやめておきますが、このあと話すことにちなんで言うと、LSDも2回やったことがあります。といってもドットと呼ばれていた紙のシートにLSDを染み込ませて流通していたタイプのもので、どれくらいの用量であったのか分かりません。でも、その後のシロシビンやDMTの経験と比較すると、このときに試したドットは明らかに粗悪品でした。粗悪といってもまがい物ではなく、単にLSDの量が少なかったという意味ですけどね。
この違法薬物時代は4年ほど続いたあと、父の死亡とともに終わりました。そして、それからまた何年か経って、石垣島にマジックマッシュルームを探しに行くのでした。
なぜこういうことをあえて書いたのかというと、わたしの意識レベルが高まったのには薬物の経験が関係していることは間違いないのですが、それはふと思い立って石垣島に行ってマジックマッシュルームを食べたらそうなった、というような簡単な話ではなかったということです。こういう話を書く以上、読者さんの中には単なる興味以上のものを感じてしまう人が少なからずいると判断していますが、わたしの経験してきたことは真似しようとしてできる類のものではないということは、念を入れて伝えておきたいと思った次第です。
もっとも、わたしがなにを言ったところでサイケデリクスへと導かれていく人は必ずいるでしょう。そういうカルマを持った人がわたしの記事を見つけて読むのは道理ですし、わたし自身がそのようなカルマを背負っていたのですから、似たような人に向かってやめろと言うこともありません。もちろん勧めることもありませんけどね。ただ、いずれにしても国内で違法なものに手を出すよりは、国によっては合法的にサイケデリクスを経験できるので、そういう方法を検討したほうがよいとは思いますね。
マジックマッシュルームならバリ島に行けばオムレツにしてくれますし、アヤワスカ(≒DMT)はブラジルやペルーで体験できます。いずれも安全が確保されているとは言い難いですし、試せたとしてもわたしの場合やこれから紹介するクリストファー・ベイシュのように長期間にわたってセッションを繰り返すようなことは難しいでしょう。ただ、あとでまた触れますが、なんであれ機会というものはその人に必要十分なものが訪れるものです。
もしもたったの一回きりがその人に許される機会であるなら、その人にとってサイケデリクス経験は一回でよい、ということなんです。もしその一回でなにもなければ(なにもないということもないのですが)、サイケデリクスはその人にとっては決定的な運命ではなかったと考えればよいわけです。でも、その一回をやってみなければそれは分かりませんし、なんもなかったかもしれないその一回の経験も決して無意味ではありません。
というのは、その「一回やってみたけどなんもなかったような……」という経験も果たされるべきカルマなので、それが果たされることによって展開される新たな運命が待っているはずだからです。言うなればそれ自体に意味がないと思えたとしても、その経験は運命上のなんらかのシナリオの "フラグ" になっていて、そのフラグが立たなければできない別の経験があるかもしれない、ということです。
話は戻りますが、わたし個人のスピリチュアルストーリーにおける小道具としてのサイケデリクス経験は確かに石垣島からはじまったと言えなくはないのですが、あのときわたしが石垣島に行けた(呼ばれた)のは、いま書いたようにそのための下地が十分に出来ていたからです。もちろん、図らずして、ですが。
ついでに述べておくと、違法薬物の経験にはサイケデリクスとは別の意味があって、それは "カルマの加速" でした。端的にいうと、その時代にわたしは欲望と快楽とプライドを味わい尽くしました。その結果、最終的に生き地獄を招いてしまってそこでエゴが完全に屈服させられたのでした。これも、今なら恩寵と言えますが、いずれにしても概ね10年間は薬物にまみれていました。
さて、わたしの話はこれくらいにして、本の紹介をしましょう。
著者のクリストファー・ベイシュはアメリカ人で、宗教学の大学教授でした。彼はヒッピー全盛時代を知る世代の人物で、そんな時代の文脈から、悟りや霊的覚醒といったことと同時に幻覚剤にも興味を持つのですが、彼が思い立ったときにはすでにLSDは規制されていました。
それでも彼はあきらめず、どのようにしてLSDを確保したのかは明らかにされていませんが、その後20年間にわたって全部で73回に及ぶ高用量のLSDセッションを、研究者らしく厳密に定めたプロトコルに従って行い、その経験の一部始終を詳細に記録し続けていたのでした。本書はその全セッションの記録と、記録の内容についてのレビューやセッション当時のベイシュを取り巻く状況などを書いた解説で構成されています。大きめの判で500ページを超える大著で、質量ともにすごいボリュームです。
先に書いた通り、わたしはLSDについては十分に知っていると言えるほど経験していません。ですが、その乏しい経験と一般的な情報とを照らし合わせて言うなら、LSDは幻覚の強度としてはシロシビンと同等かやや強い程度で、作用時間は8時間以上とシロシビンの倍くらいあるのが特徴です。
ベイシュは本書にて、LSDを非常に強力なサイケデリクスだとしており、DMTやシロシビンはそれよりも穏やかなものだと述べていますが、わたしの意見はこれとは異なっています。そもそもサイケデリクスは用量次第で穏やかにも強力にも作用するものです。一般的にLSDなら◯◯マイクログラム、DMTは△△グラム、シロシビンは▲▲グラムといったように標準的な用量というものが知られているんですが、この標準的という言葉には実はなんの意味もないんですよね。標準的とされている用量を試せばどんなサイケデリクスでも同じレベルの体験ができるというのであれば、それは確かに標準や基準といえますが、実際にはこういう数値は Erowid などでユーザーが報告したデータからなんとなく定まっていくものなので、あんまりアテにはなりません。
……ということを前提にしつつ、そのうえで一般的に言われている幻覚強度を示すとこんな感じです。
5meo-DMT 10
DMT 8
LSD 6~7
シロシビン 5~6
LSDについてはよく分かりませんけど、個人的にもだいたいこんな感じなのかなと思ういます。ただ、20種類近くサイケデリクスを試した実感でいうと作用時間が短いものほど強力というイメージは結構ありますね*2。
なので、その例にならうとLSDはむしろシロシビンよりも穏やかなのかな、という気もしないではないです。ちなみに、作用が強いとか穏やかというのは、作用のピークのときにどんな体験ができるか、ということですがこれも人それぞれでもあり、なかなか一般化するのは難しいです。そのときに見ているのがどんな意識レベルの領域の世界なのか、ということを基準にできればよいと思うのですが、自分はともかく他の人の体験談を聞いてそれを判定するのは難しいです。とはいえホーキンズ博士が示している 350~600 という範囲についていえば 350 から 500 までは高次アストラル界で、500 から 600 までは有形の天界だということになりますから、いずれにしてもサイケデリクスで経験している世界(現実)はこのなかのどこらへんか、ということにはなります。
また、その人がどのレベルの世界を経験するかは、サイケデリクスの種類や用量だけでなく、その人の意識レベルにも左右されます。このことからもサイケデリクスの強度を評価することは難しいと言えます。
そんなわけで、ベイシュにとって彼の定めた高用量のLSDは、彼がLSDセッションとは別にリクリエーションとして試したシロシビンやDMTよりも強力だったようですが、シロシビンやDMTをより高用量にしていたなら、彼の感想はまた違っていたと思われます。わたしの印象では、彼は作用時間の長さに重きを置いているフシがあり、それもあって LSDをやたら評価している気もします。
さて本書の主たる内容であるセッションの記録なのですが、正直にいうと、これを読んでベイシュが一体全体なにを目撃し、なにを経験したのか分かる人はいないと思います。というのは、そもそもサイケデリクスの幻覚(インナービジョン)体験というのは通常の現実世界のそれとはまったく異なるものであり、主観的な解釈以外にそれを描写する方法はないからです。
サイケデリックアートなどと入れて画像検索するとサイケデリクス体験を描いたと思われる絵がたくさん出てきます。それらの絵にはサイケデリクス体験の雰囲気が確かにあるんですが、雰囲気があるだけで、実際の経験はあのような絵のものとは全然違います。つまりそれだけあの経験を絵や言葉にして表現することは難しいということです。
なので、わたしが読んでも、ベイシュがどのような種類の経験をしているのかは想像がつくものの、どれだけ丁寧に読み込んだとて、彼がなにを言っているのか理解できることより理解できないことの方が多いです。
しかしながら、このようなビジョンはそれとともに主観的な理解(直感的な理解)を呼び起こすことも多く、それゆえ彼がそのビジョンから得た宇宙的な理解や霊的な知見について書いている文章には、すべてではないにしても同意できるところはあります。でも正直にいって、このセッションの記録は研究者自身が被験者であるという点で他のこの分野の研究報告とは異なる価値があるとは言えますが、その内容について大げさな評価はできないと思います。
それよりも、セッションの記録と記録の間にある解説文(細字、セッション記録は太字になっている)のほうに興味深い情報があります。セッション内容を腑に落としていくための思考過程や、グロフやケン・ウィルバーらの研究内容との比較照合、あるいはベイシュ自身の身に起きた出来事などが連ねられていて、セッションを重ねていくなかで確かにベイシュの意識が成長していっていることもそこで確認できます。この本を読んでみようという人は、セッション記録のほうは流し読みしつつ、細字の文章のところをしっかり読んでいくとよいでしょう。でも、サイケデリクスを経験してみようという気のない人にはまったく面白くないだけでなく、役にも立たないかもしれません。
ベイシュは大学教授であり、LSDセッションさえも研究として計画的に行ったくらいの人なので、その意識レベルは400台であることはおそらく間違いなかったでしょう。そしてLSDセッションにおいて彼が経験した世界はどうかというと、彼が自身で評価しているところによればそれは "宇宙における究極の真理に近いところ" でしたが、果たしてそうでしょうか?
ホーキンズ博士の言っている通り、サイケデリクスで経験できる意識レベルの上限は600 なのですが、意識レベル600 は有形の天界と無形の天界のちょうど狭間にあたります。実際のところ厳密にいえば上限は599 と言うべきだと思うのですが、要するにサイケデリクスで行くことのできる(見ることのできる)世界とは、どこまで行っても "形のある世界" だということなんです。ベイシュがどのように壮大に表現してみたところで、彼の見てきたものはすべて形(コンテント)です。というのも、文章で表現できるということはそれには形があるということですから。
つまり、この本に書かれている内容は最大に見積もっても意識レベル 600 以下の世界です。仮に意識レベル580あたりの領域を経験できたとしますと、これは普通の人にとっては確かに究極の真理のように感じるかもしれません。でも、すくなくとも人間が肉体をもって経験可能な意識レベルの上限でさえ 1000 という数値であり、しかもその 1000 であっても宇宙全体の意識構造においては底(ボトム)に近いものです。すなわち、サイケデリクスによって経験できるレベルは宇宙の究極の真理などではまったくありません。
あらかじめこれを頭に入れて読めば、サイケデリック探求者にとってこの本はそれなりに有益でしょう。ただし、彼の主観的な思い込みによる誤解や曲解も少なからずあるので、鵜呑みにするべきではないかもしれませんね。決して中身の薄い本ではないんですが、今の世の中でベイシュのLSDセッションを真似することが非現実的である以上、その価値を享受できそうな人というのがちょっと思い浮かばないというのがわたしの素直な感想です。ただ一つだけ言えるのは、おそらくLSDの経験者としてベイシュは世界一でしょう。LSDについて彼より多く知る人はいないと言ってよいと思います。それがなによりの本書の価値でしょう。
本書の最終盤のところで、セッションをすべて終えた後に、彼は意識の落ち込みを経験したと報告しています。一つには肉体的な不調に見舞われたことが理由で、もう一つの理由はセッション中になんどか遭遇したという「最愛の存在」との別離による失意からくるものだったと言っています。そのため彼はしばらくマリファナ(大麻)に依存していたとも告白しています。
これらの記述が意味しているのは、20年のセッションを終えた時点で彼の意識レベルは540 に到達していなかったということです。540 は依存から離脱するレベルなので、540 を超えている人物がマリファナであれなんであれ依存してしまうことはありません。また、最愛の存在との別離というのは言い換えると「分離感」に苛まれているということであり、これはこれだけでみると意識レベル 500 以下を示唆しています。*3
総合的すると、ベイシュは元々意識レベル 400 台で、セッション継続時は500 (-539)台に浮揚していたかもしれませんが、セッションを完全に終えたあとはまた 400 台に戻ってしまったように見受けられます。また実際、彼自身が普段の自分はセッション中に経験した意識には全然到達していないと述べてもいます。
これはなにも、ベイシュをけなしているわけではありません。そうではなく、むしろサイケデリクスの経験といったって基本的にはそういうものだっていう話です。そういうものじゃないのなら、ヒッピームーブメント全盛時代にはアメリカを中心に覚醒者が何万人、何十万人も出現していたはずですよね。
とはいえ、それでも仮にベイシュの元の意識レベルが 430 だったとして、セッション完了後の意識レベルが 460 だとすれば、30ポイント意識が上昇したということになるわけですが、30ポイントというのは非常に大きな上昇幅です。実際、ベイシュのセッション間の文章から推し量れる彼の意識の成長度合いをみると、それくらいは上昇していそうです。ちなみに、ほとんどの人は一生涯においてたったの 5 ポイントしか上昇しませんし、下がってしまう人だって少なくはありません。
個人的な意見としては、なんであれ20年で73回というのは「やりすぎだった」と思います。サイケデリクス経験において高次の霊的存在が関わってくるのは、わたし自身の経験からいって事実です。そして、その目的は一言でいえば "教えるため" です。つまり、そうした高次の存在たちはサイケデリクスを通じて人間を教育あるいは啓発しているのですが、その教育ないし啓発は完全に計画的に行われます。
先に「たった一回きりの経験しかできないとしても、それがその人に与えられた機会であるなら、それは一回でよいということ」というようなことを書きましたが、それはまさにこのことです。すなわち、高次の存在はカルマを通して特定の人間にサイケデリクスを経験させるのですが、誰にどれだけの質量を教えるかは計画されているのです。わたしたちはサイケデリクスを選んでいるのではなく、サイケデリクスがわたしたちを選んでいると考えてもよいでしょう。
ですから、一回きりしかやらない運命の人は、その一回で可能なだけのものを与えられます。それがなんなのかその人に分かるにせよ分からないにせよ、です。わたしの場合は数年をまたいで何度も経験しましたが、このようになったのは、このような形でなければ受け取れないものを段階的に与えられていたからです。
ベイシュの場合は、おそらくもっとコンパクトな経験にできたはずです。というのも、個人の短い人生を考えたら、そのような長大な授業を彼らが計画するはずがないからです。計画はたしかに計画ですが、計画通りに終えるかどうかはわたしたちに選択が可能です。ベイシュがキリのいいところで終えられなかったのは、彼が研究者としてセッションを記録することに執着したからだとわたしは思います。記録したがゆえに、シラフに戻ればその記録の内容を一生懸命腑に落とそうとして思考を巡らせ、その結果、新たな謎や疑問がどんどん増えていったのでしょう。
彼はしきりに「グラウンディング」という言葉を使っていましたが、彼はグラウンディングを、セッションから持ち帰ったことを腑に落として自分の人生に反映させるという意味に捉えているように感じられました。でも、結果としてこのグラウンディングが彼を20年間もセッションに縛りつけてしまったような気がします。というのも、彼がやろうとしていたグラウンディングは知的作業でしかなかったからで、わたしなら「ぜんぶ忘れてしまうこと(手放すこと)」こそがサイケデリクス経験からのグラウンディング(着地)だと思うからです。
というわけで長々と書きましたが、サイケデリクスについて書くのをためらっていたことはほぼ全部書けたかなと思います。繰り返しますが、わたしは誰に対してもサイケデリクスをやってみなさいと勧めることはありません。でも、やめとけというつもりもありません。まあ、ここまで読まれた人は「なんか大変そうやな。やめとこ」と思うような気がします。
今回はこれで以上です。お読みくださってありがとうございました。また次の記事でお会いしましょう。
*1:そもそも、世界各地のシャーマン文化における参入秘儀ないしは通過儀礼に幻覚物質が用いられていることは事実ですし、ヨーロッパでもエレウシスの秘儀に麦角菌が用いられていたのではないかという説もあります。麦角菌からはLSDが抽出されます。
*2:5meo-DMT は気化吸引で摂取しましたが、吸った直後にわたしはほとんど形のないエネルギーだけの場所に自我すらない状態で飛ばされていて、そこで数時間かあるいは数日も過ごしたような感覚がありましたが、目を覚ましてみると時計は2分しか経っていませんでした。DMTは気化吸引なら10分ほど、経口摂取(アヤワスカ)なら2時間ちょっとですが、気化吸引の場合はだいたい宇宙人とか精霊とかに会うようです。シロシビンはおよそ4時間ほどの作用時間です。
*3:意識レベル 500 はワンネスを知覚しはじめる領域です