in SPIRE 内なる声をきく

あなたの世界を再構築するための情報です

サイケデリクスは外部からの力たりうるのか?

先日 note にこのような記事を投稿しました。

 

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そこで紹介している本は同じグラハム・ハンコックの著書『異次元の刻印』の日本での刊行に先立って行われたエハン・デラヴィ氏とグラハム・ハンコックの対談を収めたもので、内容もこの『異次元の刻印』のキャンペーン的なものになっています。

 

グラハム・ハンコックといえば超古代文明の痕跡をフィールドワークによって突き止めながら大胆な仮説をもってそれらの点と点を線へとつないでいくスタイルの著者として非常に有名で、代表作はおそらく『神々の指紋』だと思います。ところがこの『異次元の刻印』はそれまでとはまったく異なる題材を扱っているんですよね。それは "幻覚剤" で、約4万年前にはじまった人類の知的活動における飛躍的な進歩の理由は、この幻覚剤(を成分として含有する植物や菌類)との関わりにあるとグラハム・ハンコックは考えたのでした。

 

これは非常に斬新な視点ではありますが、秘められた、あるいは隠された人類史の秘密を暴くという意味においてはこれまでのグラハム・ハンコックの仕事の延長上にあることは確かであり、実際、それまでのシリーズと同様、フィールドワーク(ただし今回それは自身の精神的なフィールドですが)と文献等の綿密な調査をもとに進められていく探求の面白さは『異次元の刻印』においても健在で、他のグラハム・ハンコックの本と比べても遜色ないどころか、個人的には一番面白かったと思っています。

 

なお、この『異次元の刻印』については下記の記事でも触れています。

 

merciful.hatenablog.com

 

ちなみにこの記事は in SPIRE のなかで一番たくさん読まれているようです。それだけ今の時代でもサイケデリクス(幻覚剤)に関心を持っている人は多いのでしょう。

 

わたし個人についていうと、こちらの記事に書いた体験と、後で触れるその後の一連の時期における経験を最後にサイケデリクスの摂取はしていませんし、今後もやることはおそらくないと思います。まあ、目の前にマジックマッシュルームが落ちていたら食べるかもしれませんが、そんなことは現実にありえませんね。つまり、自分から求めてやることはないということです。

 

そもそも日本ではシロシビンもDMTもLSDもみな違法な指定禁止薬物ですから、国内でそれをやるということは法を犯すことになります。あくまで個人的な見解を述べると、暴行傷害や殺人や窃盗や詐欺といった犯罪と、こうしたサイケデリクスの規制を破ることはまったく別のことだとわたしは考えていて、それゆえ、そうしたものを自分が経験するために必要な行動を取ること(取ったこと)に罪の意識は感じていません。

 

ですから、その経験を必要としていた時期には、それ相応の労力とリスクを払ってでもそれをやり遂げましたが、いまのわたしにはそこまでしてサイケデリクスをやりたいという気持ちはまったくありません。

 

それは、わたしがサイケデリクスを必要としていたその理由(あるいは動機)がもうすでに果たされているからです。上にリンクした石垣島の記事に書いていますが、当時のわたしはサイケデリクスの高用量摂取を自らに課したイニシエーション(通過儀礼)と捉えていました。イニシエーションの具体的な意味は "意識レベル600を超えること" でした。

 

このことについては先ほどの石垣島の記事の一つ前の記事で触れています。

 

merciful.hatenablog.com

 

ところがその目的はこの石垣島でのイニシエーションにて果たされることはなく、その後の2018年秋に今度は DMT を用いてその続きが行われました。このときは約2ヶ月の間ほぼ毎日DMTを摂取し続け、その2ヶ月間の終わりの時期に、通常のおよそ3倍から4倍の量を一度に試しました。その時に起きたのがインナービジョンにおける光り輝く龍との遭遇でした。

 

merciful.hatenablog.com

 

その時、DMTを飲み干したわたしは、効きはじめるのを待ちながらリクライニングチェアに目を開けたまま座っていました。ほんの数分経ったころ、天井のあたりに何者かの "目" が見えました。同時に、ものすごく強烈で濃い気配を感じました。なにかとんでもないものがそこに居るという感じです。ちょっと身構えましたが、するとその目がギョロッとわたしを見つめたかと思うと、こちらに向かって飛びかかってきたのでした。

 

うわっとなって思わず目を閉じると、これまでのサイケデリクス体験で見たものとはまったく次元の違う光景が広がっていました。それは強烈な光のトンネルのようで、光は視野の中心方向からこちらに向かって放たれているように感じましたが、その光の明るさというか眩さは単に強烈というのではなく、この物質世界の光とはまったく異なる超現実感を伴ったものでした。いままで生きてきた現実というのは単にこの超現実のスペースの模倣のようなものでしかないと感じたことを覚えています。

 

その超現実の光に圧倒されていると、光の中央からなにかが現れてこちらに向かって飛んでくるのが分かりました。それはこの強烈な光の放射でさえもただの背景にしか感じられないほどに美しく輝く、ダイヤモンドのようにあらゆる色の光を放つ龍の姿でした。眩しいというよりも神々しくて正視しがたいのですが、それでもなんとかよく見ようと試みると、それは光を発しているというより、光そのものでできた龍のようでした。

 

龍はわたしの5mくらい手前(のように感じられるほどの距離感)にくるとそれ以上近づくのをやめ、そこでぐるぐると体を動かしながら顔(頭)だけわたしの方を見ていました。自分の姿をよく見せようとしているように、わたしには思えました。やがて、声ではない声が聞こえてきて、その声はわたしに「よくぞここまでたどり着いたね」と言っているように感じられました。

 

かと思うと、今度は龍の前腕と思われる部分から、なにかがわたしに向けて放射されました。それは漫画やアニメでよく見る "魔法陣" のようで、わたしには理解できませんが実際にその魔法陣にはなにか呪文というか言語的な情報が込められていることを直感しました。その時にはなにが起こっていたのか分からなかったのですが、数日後に突然この龍からのメッセージが脳内に次々と降りてくるということがあって、そのメッセージによると、この時その龍は自らのエネルギーの一部をわたしに与えたんだそうです。直上にリンクした記事はそのときのメッセージをつなぎあわせて編集したものです。

 

現在のわたしの実感としては、このエネルギーによってわたしのカルマは書き換えられたのだという気がしています。具体的には探求者としてのカルマを終え、新たに "教える者" としての人生を歩んでいくようにわたしの運命は転換したのだと考えています。

 

この龍との遭遇のあとにもDMTのセッションは数回行いましたが、そのときには途方もない神聖な存在(そのときのわたしには "銀河レベルの神" というように直感されました)が現れました。人間に近い形態をしていたような気がしましたが、巨大というか壮大すぎてそれ以上の描写は不可能です。いま思い返すともしかしたら、あれっていわゆる "大天使" といわれる存在だったのかなあ、なんて思ったりもするのですけど、やっぱり分かりません。このときは畏れ多くて頭を上げていられなくなり、また、ありがたすぎて涙があふれてきて止まりませんでした。あんなに涙を流したことは人生でこの時だけです。とまれ、このときはメッセージのようなものはなにもなく、ただただ圧倒的な存在感(プレゼンス)に平伏するしかなかったという経験でした。

 

ちなみに龍も銀河神もどちらも衝撃的な経験でしたけれど、個人的なイニシエーションという観点では龍との遭遇のほうが遥かに重要な意味があったと思います。銀河神(知らんけど)が現れてくれたのは、それをもってわたしが執着を残すことなくサイケデリクスの探求を終えられるようにと天が計らってくれた "最後の贈り物" のようなものだったと理解しています。

 

ところで、基本的にサイケデリクス摂取時に経験したものは意図的にそれを覚えておいてすぐに記録でもしない限り、ほとんど忘れてしまうものです。しかしながら、わたしの場合でいうと石垣島での2次元美少女が現れたときと、この龍との遭遇と銀河神降臨(知らんけど)の3回については忘れようにも忘れられないほどはっきりと覚えています。つまり、おそらくですが、そういう経験はなにか特別なものなのでしょう。そしてこれらの経験に共通している事実としては、いずれも超をつけてもいいくらいの高用量摂取時に起こったもの、ということです。

 

さて、そんなこんながあってからすでに7年近く経ちましたが、結論としてはサイケデリクスはグルジエフのいうところの "外部からの力" たりえると思いますし、それは同時にホーキンズ博士が意識レベルを高い領域へと飛躍させるために不可欠であると述べているところの "コーザル体を活性化させるパワー" でもあると言えると思います。*1

 

ただし、同じくコーザル体を賦活するパワーである "師の臨在" もそうであるように、それに触れた人が必ずしも意識レベル540を超える高い領域にまで飛躍するとは限りません。師の臨在は師にどれだけ明け渡すかが問われますし、意識レベルが 540 を超える前に師のもとを去れば、元のレベルにまで意識レベルが戻ってしまう可能性があります。サイケデリクスについていえば、1回や2回の摂取で意識レベルがぐんと高まることはほぼほぼありえませんし、じゃあ数十回やれば意識レベル 540 を超えられるかというと、それもなんら保証はありません。そもそもサイケデリクスの摂取時にどんな経験ができるかは、その人の元の意識レベルに大きく依存しています。

 

ホーキンズ博士はドラッグ(アルコールを含む)摂取時に一時的に経験できる意識レベルは 350~600 であると述べています。これは、ドラッグの種類によって経験できるレベルが異なっていることと同時に、ユーザーの意識レベルによってもそれは違っているということをも意味していると考えられますが、例えばアルコールで意識レベル 600 の経験ができるかというと、そんなことは不可能でしょう。600 の可能性があるのはサイケデリクスと呼べる範疇に属する物質に限られると思いますが、例えば強烈な多幸感が得られるMDMAなどでも 500 をすこし超えたくらいの領域までは確実に経験できると思います。

 

しかし、サイケデリクスなら誰でも 600 近辺の経験が可能かというと、むしろほとんどの人は難しいと思います。それが可能なのは元の意識レベルが 540 を大きく超えている人だと考えられますが、そうでない人でも高用量の摂取を高回数繰り返すことで経験できる可能性はありそうです。

 

それを教えてくれたのは、この本でした。

 

 

冒頭にリンクした記事を書いたあとで読者さんからメールをいただいたのですが、その中でこの本を薦めていただきました。実をいうと、この本のことは知っていたんですが、先に書いてきたようにサイケデリクスへの探究心はわたしの中ですでになくなっていたため買って読むということはしなかったんです。

 

ところがこうしてサイケデリクスに関する本を紹介する記事を書いたタイミングで人から紹介されたため、これは読むべきなのだろうなと考えることにしたんです。それで、実際に読んでみてまず思ったことなんですけど、それは本の内容とは別のことで「なぜいまこの本をわたしが読んだのかというと、サイケデリクスに関する結論のようなものを書くタイミングが来たからだ」というものでした。それでこの記事をいま書いているというわけです。

 

意識レベルを高める(540を超える)ために役立つ情報を書くことがわたしの仕事だと思っていて、実際にこの7年でたくさんの記事を書いてきました。自分で言うのもなんですが、それらの記事には非常に価値があると思っていますし、しっかり読まれて、さらにはわたしが勧めるワークを実践し、推薦する本まで読みこなされる方は間違いなく意識レベル540に到達できるはずだとも思っています。

 

しかしながら、わたし自身がどのように現在の意識レベルにまで到達できたかというと、もちろん一般的な探求や瞑想などもおそらく人並み以上には積み重ねてきましたからそれが半分としても、残りの半分くらいはサイケデリクスを中心とした薬物との関わりによるものなんですよね。

 

最初にドラッグを経験したのは30歳ごろで、この頃はまだ規制されていなかったマジックマッシュルームを試しました。当時はごく標準的な量しか怖くて試せませんでしたが、回数としては10回くらいやったと思います。その後マジックマッシュルームが規制されてしまい、なにか他にないかと探したんですが当時って実は合法ドラッグ天国だったんですね。それで、それから数年の間に、5Meo-DMT、AMT、2c-i、2c-t7 やサルビア・ディビノラム(これは怖かった)といったサイケデリクスを十数種類試しました。ここでは何度か無茶なハイアタック(高用量摂取)をやらかしましたね。

 

その後、メチロンと呼ばれたMDMAのアナログ(類似物質)が登場し、どっぷりとハマってしまいまいした。これは本家のMDMAよりも作用時間は短いかわり、多幸感はMDMA以上という、よくこんなものが合法的に手に入ったなと今でもよく思うような代物でした。多幸感もすごかったですが、同時に眼振(目ブレ)や奥歯の噛み締めがすごかったです。幸せを噛みしめるという表現がありますが、本当に幸せを感じると奥歯を噛み締めちゃうんですよね。

 

わずか1年ほどでメチロンは規制されてしまいましたが、そこで途方にくれたわたしはとうとう違法薬物に手を出すようになったのでした。さすがにこの時期のことを詳しく書くのはやめておきますが、このあと話すことにちなんで言うと、LSDも2回やったことがあります。といってもドットと呼ばれていた紙のシートにLSDを染み込ませて流通していたタイプのもので、どれくらいの用量であったのか分かりません。でも、その後のシロシビンやDMTの経験と比較すると、このときに試したドットは明らかに粗悪品でした。粗悪といってもまがい物ではなく、単にLSDの量が少なかったという意味ですけどね。

この違法薬物時代は4年ほど続いたあと、父の死亡とともに終わりました。そして、それからまた何年か経って、石垣島マジックマッシュルームを探しに行くのでした。

 

なぜこういうことをあえて書いたのかというと、わたしの意識レベルが高まったのには薬物の経験が関係していることは間違いないのですが、それはふと思い立って石垣島に行ってマジックマッシュルームを食べたらそうなった、というような簡単な話ではなかったということです。こういう話を書く以上、読者さんの中には単なる興味以上のものを感じてしまう人が少なからずいると判断していますが、わたしの経験してきたことは真似しようとしてできる類のものではないということは、念を入れて伝えておきたいと思った次第です。

 

もっとも、わたしがなにを言ったところでサイケデリクスへと導かれていく人は必ずいるでしょう。そういうカルマを持った人がわたしの記事を見つけて読むのは道理ですし、わたし自身がそのようなカルマを背負っていたのですから、似たような人に向かってやめろと言うこともありません。もちろん勧めることもありませんけどね。ただ、いずれにしても国内で違法なものに手を出すよりは、国によっては合法的にサイケデリクスを経験できるので、そういう方法を検討したほうがよいとは思いますね。

 

マジックマッシュルームならバリ島に行けばオムレツにしてくれますし、アヤワスカ(≒DMT)はブラジルやペルーで体験できます。いずれも安全が確保されているとは言い難いですし、試せたとしてもわたしの場合やこれから紹介するクリストファー・ベイシュのように長期間にわたってセッションを繰り返すようなことは難しいでしょう。ただ、あとでまた触れますが、なんであれ機会というものはその人に必要十分なものが訪れるものです。

 

もしもたったの一回きりがその人に許される機会であるなら、その人にとってサイケデリクス経験は一回でよい、ということなんです。もしその一回でなにもなければ(なにもないということもないのですが)、サイケデリクスはその人にとっては決定的な運命ではなかったと考えればよいわけです。でも、その一回をやってみなければそれは分かりませんし、なんもなかったかもしれないその一回の経験も決して無意味ではありません。

 

というのは、その「一回やってみたけどなんもなかったような……」という経験も果たされるべきカルマなので、それが果たされることによって展開される新たな運命が待っているはずだからです。言うなればそれ自体に意味がないと思えたとしても、その経験は運命上のなんらかのシナリオの "フラグ" になっていて、そのフラグが立たなければできない別の経験があるかもしれない、ということです。

 

話は戻りますが、わたし個人のスピリチュアルストーリーにおける小道具としてのサイケデリクス経験は確かに石垣島からはじまったと言えなくはないのですが、あのときわたしが石垣島に行けた(呼ばれた)のは、いま書いたようにそのための下地が十分に出来ていたからです。もちろん、図らずして、ですが。

 

ついでに述べておくと、違法薬物の経験にはサイケデリクスとは別の意味があって、それは "カルマの加速" でした。端的にいうと、その時代にわたしは欲望と快楽とプライドを味わい尽くしました。その結果、最終的に生き地獄を招いてしまってそこでエゴが完全に屈服させられたのでした。これも、今なら恩寵と言えますが、いずれにしても概ね10年間は薬物にまみれていました。

 

 

天からのダイヤモンド ―LSDと宇宙の心(マインド)

さて、わたしの話はこれくらいにして、本の紹介をしましょう。

 

著者のクリストファー・ベイシュはアメリカ人で、宗教学の大学教授でした。彼はヒッピー全盛時代を知る世代の人物で、そんな時代の文脈から、悟りや霊的覚醒といったことと同時に幻覚剤にも興味を持つのですが、彼が思い立ったときにはすでにLSDは規制されていました。

 

それでも彼はあきらめず、どのようにしてLSDを確保したのかは明らかにされていませんが、その後20年間にわたって全部で73回に及ぶ高用量のLSDセッションを、研究者らしく厳密に定めたプロトコルに従って行い、その経験の一部始終を詳細に記録し続けていたのでした。本書はその全セッションの記録と、記録の内容についてのレビューやセッション当時のベイシュを取り巻く状況などを書いた解説で構成されています。大きめの判で500ページを超える大著で、質量ともにすごいボリュームです。

 

先に書いた通り、わたしはLSDについては十分に知っていると言えるほど経験していません。ですが、その乏しい経験と一般的な情報とを照らし合わせて言うなら、LSDは幻覚の強度としてはシロシビンと同等かやや強い程度で、作用時間は8時間以上とシロシビンの倍くらいあるのが特徴です。

 

ベイシュは本書にて、LSDを非常に強力なサイケデリクスだとしており、DMTやシロシビンはそれよりも穏やかなものだと述べていますが、わたしの意見はこれとは異なっています。そもそもサイケデリクスは用量次第で穏やかにも強力にも作用するものです。一般的にLSDなら◯◯マイクログラム、DMTは△△グラム、シロシビンは▲▲グラムといったように標準的な用量というものが知られているんですが、この標準的という言葉には実はなんの意味もないんですよね。標準的とされている用量を試せばどんなサイケデリクスでも同じレベルの体験ができるというのであれば、それは確かに標準や基準といえますが、実際にはこういう数値は Erowid などでユーザーが報告したデータからなんとなく定まっていくものなので、あんまりアテにはなりません。

 

……ということを前提にしつつ、そのうえで一般的に言われている幻覚強度を示すとこんな感じです。

 

5meo-DMT 10

DMT 8

LSD 6~7

シロシビン 5~6

 

LSDについてはよく分かりませんけど、個人的にもだいたいこんな感じなのかなと思ういます。ただ、20種類近くサイケデリクスを試した実感でいうと作用時間が短いものほど強力というイメージは結構ありますね*2

 

なので、その例にならうとLSDはむしろシロシビンよりも穏やかなのかな、という気もしないではないです。ちなみに、作用が強いとか穏やかというのは、作用のピークのときにどんな体験ができるか、ということですがこれも人それぞれでもあり、なかなか一般化するのは難しいです。そのときに見ているのがどんな意識レベルの領域の世界なのか、ということを基準にできればよいと思うのですが、自分はともかく他の人の体験談を聞いてそれを判定するのは難しいです。とはいえホーキンズ博士が示している 350~600 という範囲についていえば 350 から 500 までは高次アストラル界で、500 から 600 までは有形の天界だということになりますから、いずれにしてもサイケデリクスで経験している世界(現実)はこのなかのどこらへんか、ということにはなります。

 

また、その人がどのレベルの世界を経験するかは、サイケデリクスの種類や用量だけでなく、その人の意識レベルにも左右されます。このことからもサイケデリクスの強度を評価することは難しいと言えます。

 

そんなわけで、ベイシュにとって彼の定めた高用量のLSDは、彼がLSDセッションとは別にリクリエーションとして試したシロシビンやDMTよりも強力だったようですが、シロシビンやDMTをより高用量にしていたなら、彼の感想はまた違っていたと思われます。わたしの印象では、彼は作用時間の長さに重きを置いているフシがあり、それもあって LSDをやたら評価している気もします。

 

さて本書の主たる内容であるセッションの記録なのですが、正直にいうと、これを読んでベイシュが一体全体なにを目撃し、なにを経験したのか分かる人はいないと思います。というのは、そもそもサイケデリクスの幻覚(インナービジョン)体験というのは通常の現実世界のそれとはまったく異なるものであり、主観的な解釈以外にそれを描写する方法はないからです。

 

サイケデリックアートなどと入れて画像検索するとサイケデリクス体験を描いたと思われる絵がたくさん出てきます。それらの絵にはサイケデリクス体験の雰囲気が確かにあるんですが、雰囲気があるだけで、実際の経験はあのような絵のものとは全然違います。つまりそれだけあの経験を絵や言葉にして表現することは難しいということです。

 

なので、わたしが読んでも、ベイシュがどのような種類の経験をしているのかは想像がつくものの、どれだけ丁寧に読み込んだとて、彼がなにを言っているのか理解できることより理解できないことの方が多いです。

 

しかしながら、このようなビジョンはそれとともに主観的な理解(直感的な理解)を呼び起こすことも多く、それゆえ彼がそのビジョンから得た宇宙的な理解や霊的な知見について書いている文章には、すべてではないにしても同意できるところはあります。でも正直にいって、このセッションの記録は研究者自身が被験者であるという点で他のこの分野の研究報告とは異なる価値があるとは言えますが、その内容について大げさな評価はできないと思います。

 

それよりも、セッションの記録と記録の間にある解説文(細字、セッション記録は太字になっている)のほうに興味深い情報があります。セッション内容を腑に落としていくための思考過程や、グロフやケン・ウィルバーらの研究内容との比較照合、あるいはベイシュ自身の身に起きた出来事などが連ねられていて、セッションを重ねていくなかで確かにベイシュの意識が成長していっていることもそこで確認できます。この本を読んでみようという人は、セッション記録のほうは流し読みしつつ、細字の文章のところをしっかり読んでいくとよいでしょう。でも、サイケデリクスを経験してみようという気のない人にはまったく面白くないだけでなく、役にも立たないかもしれません。

 

ベイシュは大学教授であり、LSDセッションさえも研究として計画的に行ったくらいの人なので、その意識レベルは400台であることはおそらく間違いなかったでしょう。そしてLSDセッションにおいて彼が経験した世界はどうかというと、彼が自身で評価しているところによればそれは "宇宙における究極の真理に近いところ" でしたが、果たしてそうでしょうか?

 

ホーキンズ博士の言っている通り、サイケデリクスで経験できる意識レベルの上限は600 なのですが、意識レベル600 は有形の天界と無形の天界のちょうど狭間にあたります。実際のところ厳密にいえば上限は599 と言うべきだと思うのですが、要するにサイケデリクスで行くことのできる(見ることのできる)世界とは、どこまで行っても "形のある世界" だということなんです。ベイシュがどのように壮大に表現してみたところで、彼の見てきたものはすべて形(コンテント)です。というのも、文章で表現できるということはそれには形があるということですから。

 

つまり、この本に書かれている内容は最大に見積もっても意識レベル 600 以下の世界です。仮に意識レベル580あたりの領域を経験できたとしますと、これは普通の人にとっては確かに究極の真理のように感じるかもしれません。でも、すくなくとも人間が肉体をもって経験可能な意識レベルの上限でさえ 1000 という数値であり、しかもその 1000 であっても宇宙全体の意識構造においては底(ボトム)に近いものです。すなわち、サイケデリクスによって経験できるレベルは宇宙の究極の真理などではまったくありません。

 

あらかじめこれを頭に入れて読めば、サイケデリック探求者にとってこの本はそれなりに有益でしょう。ただし、彼の主観的な思い込みによる誤解や曲解も少なからずあるので、鵜呑みにするべきではないかもしれませんね。決して中身の薄い本ではないんですが、今の世の中でベイシュのLSDセッションを真似することが非現実的である以上、その価値を享受できそうな人というのがちょっと思い浮かばないというのがわたしの素直な感想です。ただ一つだけ言えるのは、おそらくLSDの経験者としてベイシュは世界一でしょう。LSDについて彼より多く知る人はいないと言ってよいと思います。それがなによりの本書の価値でしょう。

 

本書の最終盤のところで、セッションをすべて終えた後に、彼は意識の落ち込みを経験したと報告しています。一つには肉体的な不調に見舞われたことが理由で、もう一つの理由はセッション中になんどか遭遇したという「最愛の存在」との別離による失意からくるものだったと言っています。そのため彼はしばらくマリファナ大麻)に依存していたとも告白しています。

 

これらの記述が意味しているのは、20年のセッションを終えた時点で彼の意識レベルは540 に到達していなかったということです。540 は依存から離脱するレベルなので、540 を超えている人物がマリファナであれなんであれ依存してしまうことはありません。また、最愛の存在との別離というのは言い換えると「分離感」に苛まれているということであり、これはこれだけでみると意識レベル 500 以下を示唆しています。*3

 

総合的すると、ベイシュは元々意識レベル 400 台で、セッション継続時は500 (-539)台に浮揚していたかもしれませんが、セッションを完全に終えたあとはまた 400 台に戻ってしまったように見受けられます。また実際、彼自身が普段の自分はセッション中に経験した意識には全然到達していないと述べてもいます。

 

これはなにも、ベイシュをけなしているわけではありません。そうではなく、むしろサイケデリクスの経験といったって基本的にはそういうものだっていう話です。そういうものじゃないのなら、ヒッピームーブメント全盛時代にはアメリカを中心に覚醒者が何万人、何十万人も出現していたはずですよね。

 

とはいえ、それでも仮にベイシュの元の意識レベルが 430 だったとして、セッション完了後の意識レベルが 460 だとすれば、30ポイント意識が上昇したということになるわけですが、30ポイントというのは非常に大きな上昇幅です。実際、ベイシュのセッション間の文章から推し量れる彼の意識の成長度合いをみると、それくらいは上昇していそうです。ちなみに、ほとんどの人は一生涯においてたったの 5 ポイントしか上昇しませんし、下がってしまう人だって少なくはありません。

 

個人的な意見としては、なんであれ20年で73回というのは「やりすぎだった」と思います。サイケデリクス経験において高次の霊的存在が関わってくるのは、わたし自身の経験からいって事実です。そして、その目的は一言でいえば "教えるため" です。つまり、そうした高次の存在たちはサイケデリクスを通じて人間を教育あるいは啓発しているのですが、その教育ないし啓発は完全に計画的に行われます。

 

先に「たった一回きりの経験しかできないとしても、それがその人に与えられた機会であるなら、それは一回でよいということ」というようなことを書きましたが、それはまさにこのことです。すなわち、高次の存在はカルマを通して特定の人間にサイケデリクスを経験させるのですが、誰にどれだけの質量を教えるかは計画されているのです。わたしたちはサイケデリクスを選んでいるのではなく、サイケデリクスがわたしたちを選んでいると考えてもよいでしょう。

 

ですから、一回きりしかやらない運命の人は、その一回で可能なだけのものを与えられます。それがなんなのかその人に分かるにせよ分からないにせよ、です。わたしの場合は数年をまたいで何度も経験しましたが、このようになったのは、このような形でなければ受け取れないものを段階的に与えられていたからです。

 

ベイシュの場合は、おそらくもっとコンパクトな経験にできたはずです。というのも、個人の短い人生を考えたら、そのような長大な授業を彼らが計画するはずがないからです。計画はたしかに計画ですが、計画通りに終えるかどうかはわたしたちに選択が可能です。ベイシュがキリのいいところで終えられなかったのは、彼が研究者としてセッションを記録することに執着したからだとわたしは思います。記録したがゆえに、シラフに戻ればその記録の内容を一生懸命腑に落とそうとして思考を巡らせ、その結果、新たな謎や疑問がどんどん増えていったのでしょう。

 

彼はしきりに「グラウンディング」という言葉を使っていましたが、彼はグラウンディングを、セッションから持ち帰ったことを腑に落として自分の人生に反映させるという意味に捉えているように感じられました。でも、結果としてこのグラウンディングが彼を20年間もセッションに縛りつけてしまったような気がします。というのも、彼がやろうとしていたグラウンディングは知的作業でしかなかったからで、わたしなら「ぜんぶ忘れてしまうこと(手放すこと)」こそがサイケデリクス経験からのグラウンディング(着地)だと思うからです。

 

というわけで長々と書きましたが、サイケデリクスについて書くのをためらっていたことはほぼ全部書けたかなと思います。繰り返しますが、わたしは誰に対してもサイケデリクスをやってみなさいと勧めることはありません。でも、やめとけというつもりもありません。まあ、ここまで読まれた人は「なんか大変そうやな。やめとこ」と思うような気がします。

 

今回はこれで以上です。お読みくださってありがとうございました。また次の記事でお会いしましょう。

 

 

*1:そもそも、世界各地のシャーマン文化における参入秘儀ないしは通過儀礼に幻覚物質が用いられていることは事実ですし、ヨーロッパでもエレウシスの秘儀に麦角菌が用いられていたのではないかという説もあります。麦角菌からはLSDが抽出されます。

*2:5meo-DMT は気化吸引で摂取しましたが、吸った直後にわたしはほとんど形のないエネルギーだけの場所に自我すらない状態で飛ばされていて、そこで数時間かあるいは数日も過ごしたような感覚がありましたが、目を覚ましてみると時計は2分しか経っていませんでした。DMTは気化吸引なら10分ほど、経口摂取(アヤワスカ)なら2時間ちょっとですが、気化吸引の場合はだいたい宇宙人とか精霊とかに会うようです。シロシビンはおよそ4時間ほどの作用時間です。

*3:意識レベル 500 はワンネスを知覚しはじめる領域です

意識レベル540に関するメモ

この in SPIRE やわたしの note の目的は読者である霊的な探求者のみなさんにとって有用な情報を提供することですが、これには具体的な目標があります。それは読者の意識をホーキンズ博士の意識のスケールにおける "意識レベル540" へと導いていくことです。

 

このことについてはすでにあちらこちらで何度か述べていますが、あらためてその理由を説明すると、まず第一に意識レベル 540 において人は本物の幸せを経験できるからです。これよりも低い意識の領域では幸せとは快楽への欲求や不足感を一時的に満たしてくれるような条件と結びついています。すなわち条件つきの幸せです。

 

本物の幸せは "苦しみのなさ" から現れてきます。しかしこの説明はほんとうは誤りで、サット(存在)・チット(意識)・アーナンダ(喜び、幸せ)と言われるように存在するものは本来的に幸せなのです。この本来的な幸せを損なわせているのがエゴの自己中心性であり、その分離的で二元的な知覚です。このエゴの自己中心性と二元的な知覚が煩悩(=苦しみ)を生み出しているのですが、したがって煩悩がなくなっていくと人は本来の幸せな状態を経験できるようになっていきます。そのような状態の臨界点が意識レベル540です。

 

また、わたしが意識レベル540をターゲットにしているもう一つの理由は、このレベルではもう意識レベルが低下することがなくなるからです。

 

さきほど言及した本物の幸せについていうと、実はこれは意識レベル500から自覚的に経験しはじめます。意識レベル500は霊的な意識の領域のスタート地点であり、これより下の499以下のレベルは自我(エゴ)の領域です。自我の領域で生きている人の死後の行き先はアストラル界ですので、アストラル界とはエゴの領域であると言うことができます。一方、霊的な領域である意識レベル500以上の人物の死後の行き先は天界です。

 

『 <わたし> 真実と主観性』より

意識レベル500以上600未満の人の死後の行き先は "有形の天界" とされますが、ここがいわゆる天国に相当します。死後に天国に行けるのであるなら、意識レベル500に到達することはある意味では一つのゴールと言えますから、これを目指すことには充分な意義があります。しかしながら、意識レベル540未満のこの領域(500~539)では、低いアトラクターの影響によって意識レベルが低下してしまうリスクがまだ存在しています。先ほど触れたようにこの領域は霊的なレベルですが、一時的にこの領域の意識を経験したにも関わらず、その後に意識が転落してしまうことを「一瞥体験」と呼びます。

 

それはさておき、そのようなわけで本物の幸せを永続させるには意識レベル540に到達する必要があるのですが、では540において意識レベルが下がらなくなるのはなぜなのでしょうか? 今回のメモはこの点についてなるべく簡潔に述べます。そのため、充分に理解していただくためにはホーキンズ博士の著作やわたしの他の記事を読み慣れている必要があるかもしれません。なお、このメモに先立って note にこのような記事を書いています。先にこちらを読んでおかれるとよいでしょう。

 

note.com

 

そちらの記事では "臨在" にフォーカスを置いたため、 "意識レベル540" の重要性についてはあらためて別に書いておいたほうがよいと考えました。それがこのメモです。

 

というわけで、ここからが本題です。

 

意識レベル540とは?

 

意識レベル500未満はエゴの領域であり、アストラル領域でもあります。これを別の角度からいうと、転生体(肉体+アストラル体+メンタル体)の発達によって到達可能な意識レベルの上限は499であるということです。メンタル体はアストラル体の一部とみなすことができるのですが、つまるところアストラル領域とは転生体のエネルギーの領域です。

 

つまり、人間(転生体)が500以上の意識レベルへと飛躍するためには転生体よりも高次の意識エネルギーが必要となります。意識レベル500から539の領域はグルジエフの人間論でいうところの人間第四番に相当し、オクターブは "ファ" です。人間第四番は3つのセンター(知性・感情・本能)の均衡が取れた状態ですが、これは言い換えるとメンタル体(知性)、アストラル体(感情)、肉体(本能)のいずれもが充分に発達した状態のことです。すぐ上の段で転生体の発達によって到達可能な意識レベルは499までであると述べましたが、これは知性を司っているメンタル体の意識レベル上限ということです。つまり、メンタル体の発達程度に肉体とアストラル体の発達が追いついていなくても499までは到達できるのですが、これを超えて500以上に飛躍するためには肉体とアストラル体も最高度まで発達しなくてはならないということです。

 

ちなみに、肉体の発達とはなにもアスリートのような体になることではありません。また、健康であることは望ましいですがそれも不可欠というわけではありません。必要なのは脳神経系における発達です。

 

さて、グルジエフの人間論において人間第四番(意識レベル500~539)はオクターブにおけるファの位置にあります。オクターブ理論では "ミとファ" の間と "シと次のド" の間には「ギャップ」が存在しており、このギャップを超えて成長するためには 「外部からの力の関与」が必要であるとグルジエフは言っています。またギャップのない部分、たとえばドからミまでの成長は自動的に進展するそうです。これを意識のスケールに置き換えてみると、人間の意識は499までは自力で成長可能ですが、500を超えるにはなんらかの外部からの力が作用しないといけない、ということになります。

 

では人間の意識の成長における「外部からの力」とは一体なんでしょうか? それは "コーザル体のエネルギー" です。

 

人間が地球に転生するために必要な転生体は当然ながら地球次元に存在していますが、より高い次元にはコーザル体が存在しており、転生体はそのエネルギーによって賦活されています。ですから、どんな人もコーザル体のエネルギーを受けてはいるのですが、どれくらいそのエネルギーを転生体に反映させているかは人それぞれで、自我(エゴ)の自己中心性が強いほどコーザル体のエネルギーは制限されています。そして意識レベル499以下の領域では、コーザル体のエネルギーは人間を霊的に目覚めさせるには足りていません。

 

つまり、転生体が充分に発達し、霊的目覚めを促すほどのコーザル体のエネルギーを受け取れるようになったとき、人は意識レベル500以上の領域へと進化するのです。グルジエフのいう外部からの力とは「高次元からの力」という意味でした。

 

このコーザル体のエネルギーは人間を霊的に成長させますが、このエネルギーを充分に受けた転生体のエネルギーフィールドは活性化します。説明が難しいですが、転生体にもコーザル体のエネルギーフィールド(転生体のコーザル体)が存在し、このエネルギーフィールドは高次元に存在している「コーザル体の本体」につながっているとイメージしてもらえるとよいかと思います。意識レベル500を超えると、この転生体のコーザル体エネルギーフィールドが活性化しはじめるということです。

 

このコーザル体のエネルギーフィールドには、低い意識レベルのアトラクターに対する抵抗力があります。ですから、540に到達していなくとも、500を超えている人はそれ以下の領域の人よりも意識レベルが「下がりにくい」です。ただし、下がりにくいとはいえ下がらないわけではありませんので、この領域はまだ安定した境地とは言えないでしょう。ですから、この領域に達した人は油断せずに意識レベルをさらに高める努力を続ける必要があります。

 

意識レベル540という指標は、転生体のコーザル体の活性度がある閾値を超えた臨界点を示しています。すなわち、このレベルにおいて低いアトラクターへの抵抗力が完全なものとなり、もう意識レベルが下がることがなくなるわけです。低いアトラクターに影響を受けないことによって、どんなレベルの人物をみても憎んだりせずすべての人に愛情をもって接することができるようになります(無条件の愛)。同時に、苦しみを生み出している煩悩のほとんどが消滅します(「永続する」本物の幸せ)。

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高次のエネルギーに自らを晒す

 

ここまで意識レベル540という指標が示しているものについて概説してきましたが、問題は「どうやって意識レベル540を超えるか?」ですね。もちろんですが、それを具体的に一言でいうことはできません。それができれば、わたしの記事のすべては不要になってしまいます。

 

ですが、わたしが書いた記事をずっと読まれてきた方に、あらためてポイントを提示するならそれは「外部から来る高次のエネルギーに自らを晒す」ことと言えるでしょう。

 

高次のエネルギーとは、人間意識に存在しているコーザル体のエネルギーフィールドのことです。それは今現在生きている高い意識レベルの人物の臨在のことであり、過去に存在していたマスター達の時空を超えた臨在のことであり、またそうした人物たちの教えのエネルギーのことです。それがグルジエフの言っていた「外部からの力」の正体です。すなわち、師の臨在や師の教えとして外部からもたらされるコーザル体のエネルギーに晒されることで転生体のそれぞれの体の発達が促され、均衡が取れた状態となり、転生体の外側にあるコーザル体のエネルギーフィールドが活性化します。このプロセスを経て意識レベル500を超えることが可能となるのです。

 

シンプルに言い直すと、転生体のコーザル体エネルギーフィールドを活性化させるには、別のコーザル体のエネルギーフィールドに触発される必要があるということです。

 

これに関しては『パワーか、フォースか』の第22章「スピリチュアルな葛藤」をあわせてお読みください。一つポイントを指摘すると、そこにある記述からは、意識レベル550以上のエネルギーがそのような「外部からの力」に相当していると判断することができます。すなわち、意識レベル500以上に飛躍するためには少なくとも550以上で測定される(された)人物に教わる必要があるということになります。また、この章に限らず博士はAA(アルコホーリクス・アノニマス)について数多く言及しているのですが、その理由は本人が意識レベル540を超えるまではこの高いエネルギーフィールドに触れ続ける必要があることを強調するためだと思われます。

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また、これはちなみにですが、博士は奇跡講座についてもよく言及しています。奇跡講座のワークブックは600、テキストブックは550で測定されています。つまり、ワークブックもテキストブックもいずれも「外部からの力」足りうると言えるでしょう。しかしながら、日本語訳のものは翻訳プロセスにおける情報の劣化によって、これらの数字を下回っている可能性が高いです。そうすると、テキストブックは550をほぼ確実に下回ると考えられますので、ワークブックだけやるべきです。また、このこととは異なる文脈において(つまり別の理由によって)、ではありますが博士もワークブックだけやればよいと述べています。また、ワークブックの意識レベルは外部からの力に相当するものであるとしても、それを教えている勉強会や教師の意識レベルがそのレベルにあるわけではありません。したがって、奇跡講座は独学でワークブックに取り組む場合のみ、外部からの力として期待できると述べておきます。独学が難しいと感じる人は、奇跡講座はあきらめて他の道を探したほうがよいです。

 

個人的な意見では、この現代の日本において、少なくとも意識レベル550を超える人物に師事しようと考えるのは現実的なこととは思いません。お金を取って教えるような人物がそのレベルにあるはずありませんし、無償でアシュラムの門戸を開いて教えているようなインド型のマスターの存在はさらに想像しにくいです。そのためあり得るのは、意識レベル550以上の人物の教えを本なりネットなりを通して学ぶことです。そういう形でもその人物の臨在に触れることは可能です。ただし、その場合はその人物の "波動" を感じられるほどに生徒自身が積極的かつ献身的にコミットすることが必要です。

 

そもそもそのようなレベルの人物をどうやって見つけるかですが、一番確実なのはキネシオロジーテストで測定することです。ただし、キネシオロジーテストを適切に行うためには測定者自身の意識レベルが200以上であることが条件です。また、測定に用いる宣言文(ステートメント)の作成には注意が必要です。詳しくは『パワーか、フォースか』に書いてありますので確認してください。キネシオロジーテストは質問ではなく、あくまで測定対象が真実である場合にポジティブに反応するという原理を利用していることをしっかりと理解してください。

 

もう一つには、『パワーか、フォースか』を熟読し、意識のスケールについて充分に理解したうえで、その人物が教えていることそのものや、その人物の態度が意識レベル550以上であるかどうかを判断することです。わたしはこのやり方をおすすめします。というのも、そのこと自体に意識レベルを高める働きがあるからです。

 

しかしながら、それよりなにより、一番よいのは博士の著作(『パワーか、フォースか』『 <わたし>真実と主観性』)を何度も何度も読むことです。ホーキンズ博士の意識レベルは明かされていませんが、様々な記述や描写から900台であると判断できます。このレベルの人物の臨在は強大ゆえ、そこにフォーカスする(=波長をあわせる)ことは容易ですから、どこの馬の骨か分からない人物(わたしも含めてね)を師と仰ぐよりも遥かによい方法です。

 

わたしの目的は読者の皆さんを意識レベル540以上の領域へと導くことですから、わたしなどを師と考えてもらうより、ホーキンズ博士に全幅の信頼を寄せて明け渡されることを望んでいます。

 

さて最後になりますが、今回お伝えしたかったことの核心は、師の臨在(=外部からの力)に触れることは意識レベル540を超えるためには必要不可欠であるということです。師の臨在に触れたほうが(そうしないよりも)いいよ、という話ではありません。そうしなければ意識レベル500を超えることはできず、そうし続けなければ540に到達できないということです。もちろん、恩寵とよぶべき超常的な事象が起きて意識レベル200以下の人物が突然一気に540を超えることもありますが、そんなことは狙って起きるものではありません。

 

成功の鍵を握るのは "謙虚さ" です。それではまた。

 

*1:

ちなみに、ホーキンズ博士は意識レベル540以上の人物においても「例外的に」意識レベルが転落してしまうケースがあると報告しています。そこではいわゆる "悪魔的な" 存在に憑依される事象が取り上げられていますが、ここでなにが起きているかというと、それはおそらくコーザル体のエネルギーフィールド(転生体のコーザル体)が破壊されているのだと思います。博士はそこまで言及していませんが、コーザル体の活性化によって意識レベルが転落しなくなるのであれば、コーザル体の活性化が損なわれれば意識は転落するはずである、という道理です。

また、コーザル体が活性化するためには転生体が充分に発達している必要があることから推察するに、事故や病気による肉体(特に脳)の損傷によってもコーザル体の活性化が失われる可能性はあるはずです。そして、そのような事故や病気もまた、悪魔的なエンティティの仕業である可能性も指摘しておきます。ですがもちろん、そうでない場合もあるでしょう。いずれにしても、意識レベル540において意識レベルが下がらないというのはコーザル体の活性化が維持されている限りにおいては、という意味であるはずです。

*2:※ただし、当然ながら博士は「外部からの力」という表現は使っていません。グルジエフのオクターブ理論について詳しく学びたい人はウスペンスキーの『奇蹟を求めて』をお読みください。わたしは平河出版社のものを読みましたが、いまなら郷尚文さんが訳されているものの方がよいかもしれません。

高次の知覚をひらくためのエクササイズ

最近は note での執筆活動が主になっていて、こちらのBLOGはほとんど休止状態になっています。最初から明確に意図していたわけではありませんが、この in SPIRE はわたしの教えるところの中心的であり、かつ基本的な内容をまとめていくものとなっています。一方 note はというと、この中心的で基本的な教えが読者からの質問にどのように答えていくか、あるいは様々な書籍に書かれている情報をどのように読み解いていくか、といったことを展開していく場になっています。

 

冒頭に書いたとおり、当初は in SPIRE が主であり、note は副であったんですが、最近はそれが逆転しています。それも当然で、in SPIRE に書くべきことはもうあまり無いのですよね。その代わり、note のさまざまな記事の中でその内容に関連した in SPIRE の記事をリンクすることが増えています。つまり、in SPIRE は note の記事に対しての用語集や参考書としての役割を果たすようになっているのです。

 

……とはいったものの、基本的に in SPIRE に書いてきた記事はほぼすべて、あるときInspiration が降りてきて(このことが in SPIRE という名前の所以でもあります)書かされたものでもあります。note の記事にもそのような Inspiration がまったく働いていないというわけでもないのですが、こちらに書いている記事の前触れとなった Inspiration はどちらかというと "啓示" に近いものです。note の方は "閃き" とでも言えばよいでしょうか。ともあれ、記事の内容やその役割といったこととは別に、そのような扱いの違いもあるのです。

 

そして、こうして記事を書いているということは、つまりまたそうした Inspiration がやってきたということになります。その Inspiration の種類は明らかに "啓示" のほうでしたので、こちらに書くことにしました。ちなみに、こちらでは周波数や波動といった観点の話をする予定だと書いていましたが、結局書きませんでした。それはやってきた Inspiration にやや違和感があったからです。そのような観点の話はいずれ書くかもしれませんが、おそらくそのときは note に書くことになると思います。

 

 

"知覚をひらく" とは?

さて今回お届けするのは知覚をひらくためのエクササイズです。以前、IF(直感的フィールド)というものを紹介しましたが、これもそんな感じのものです。IF の狙いは肉体と一体化している心(自我)を肥大させることなく意識を拡大させることにありました。IF を実践していくと、知覚を肉体由来のもの(五感)だけでなく、その外側へと拡張し、全体性すなわちワンネスを感じとれるようになれるはずです。

 

今回紹介するエクササイズも、狙っているのはまさしくワンネスを知覚することです。その点では IF と同じではありますが、IF は主に意識レベル200台から400台の人をターゲットにしています。というのも、実をいうと IF がもたらす知覚は意識レベル500台に到達すると自然と身についてくるものだからです。つまり、500台の知覚をシミュレートすることによって意識をそのレベルへと飛躍させようというのが IF を実践する具体的な意味です。

 

さて、わたし自身の経験からいうと IF 的な知覚はおおむね意識レベル540までのものであり、それ以上のレベルになると知覚はより高次のものに変容していきます。これでお分かりかと思いますが、今回のエクササイズは意識レベル500台上部から600における知覚をそのままシミュレートし、これを身につけるための練習となります。つまり、IF をやって身についたという人が次に取り組むべきものと言えるでしょう。ですから、すでに意識レベル500に到達されている人はともかくとして、いまだ IF をやっていない、あるいはやってみてはいるがモノになっていないという人は IF を先にやりこんでください。

 

それではさっそくやっていきましょう。

 

 

基礎編:イマジナリードローンと接続する

まず、想像の中で小さくて高性能なドローンを作ってみてください。作るというと難しそうですが、要はそういうものがあると想像するだけでよいです。このドローンはほんの数センチくらいのものですが、カメラを装備していて、このカメラで撮影している映像をあなたの心に直接送信することができます。つまり、ドローンはあなたの眼が拡張された存在で、ドローンが見ているものをあなたは自分の眼で見ているように見ることができるとします。ちなみにドローンの形や色はなんでもよいですよ。

 

さて、ドローンができたら、まずはそのドローンにあなたの肉体の周りを飛行させてみましょう。もちろん想像のなかでやるんですよ。とりあえずあなたを中心に半径2mくらいの円を描くようにぐるぐる飛ばしてみてください。この時点では単にドローンが飛んでいる様子を思い浮かべてください。飛ぶ向きを変えたり、飛ぶスピードを変えたりしながら、イマジナリードローンを飛ばすことに慣れていきましょう。

 

次に、この周回飛行の状態のまま、ドローンのカメラをONにして、そのカメラが常にあなたを映し出すようにドローンを飛ばしてみましょう。ドローンのカメラがONになっているときは、カメラの映像があなたの見ているものになります。つまり、あなたは自分の姿を360度のアングルから眺めていることになるわけです。最初はなかなかうまく想像できないかもしれません。なにしろ、いままでは自分は見る主体であって、見られる対象ではありませんでしたからね。しかしこれからは、見る主体でもあり、見られる対象でもあるのです。

 

しばらく練習して慣れてきたら、ドローンをもっと自由に動かしてみましょう。ちなみにこれは想像のなかで行っているので、いまあなたが実際には屋内にいるとしても、そこではなく例えば広い草原のような場所にいると考えて構いません。色々な距離、高さ、角度からあなたはどのように見えるでしょうか?

 

ここまでが最初のエクササイズです。

 

今度は実際にいまあなたがいるその場所で、そのスペースが許す限りでなるべく離れた場所からドローンがあなたを見ているところを想像します。わたしであれば机の前で椅子に座ってキーボードを叩いているわけですが、その情景をドローンから観たとき、そこに映っているわたしはなにを見ていて、なにを感じていて、なにを考えているでしょうか?

 

もちろんその映像を見ているのもわたしなので、その映像を通さなくてもわたしには自分がなにを見てなにを感じ、なにを考えているかは知っています。このエクササイズで取り組むのは「あなた自身がいま見て感じ考えているものを映像から導く努力です」。一枚の写真を渡されて、そこに映っている人物がこのときなにを見てなにを感じなにを考えているだろうか? と聞かれたら、あなたは写真に映っている情報をもとにそれを想像しますね。それと同じことを自分自身のリアルタイムの映像を用いてやってみるというのがこのエクササイズです。

 

当然ですが、あなたは答えを最初から知っています。このエクササイズのポイントは、あなたが感じ、考えていることの大部分は、その場つまり環境に依存しているということを理解することです。そのことを、主観的な視点と客観的な視点の両方を比較・検証することによって、やがては自由意志の存在が揺らぎはじめることでしょう。

 

基礎編としてはたったこれだけです。次はいよいよこのエクササイズの本番です。

 

 

神の視点のシミュレート

厳密には肉体精神機構に宿った魂には神そのものの視点を知覚することはできませんが、可能な限りシミュレーションしてみましょう。そのためには基礎編のトレーニングが必須でした。

 

まずは外に出掛けましょう。場所はどこでもよいですが、人の多いところがよいです。誰でも構いませんので、誰か一人に注目してください。その人にはなにが見えているでしょうか? その人が歩いているなら、あるいは立ち止まっているなら、その人の肉体はいまどんな感覚を経験しているでしょうか? それらの情報(視界に見えているものや肉体感覚)から、その人にはどのような思考や感情がわき起こっているでしょうか? もしかしたらなにか考え事をしていて、周囲のことには気がいってないかもしれませんが、ひとまずはそういうことは考慮せず、あなたから見えている情報だけから、その人がどのような現実を経験しているかを想像してみてください。

 

ドローンのエクササイズがしっかりと身についていれば、客観的な情報だけで、その人の経験しているものをある程度正確に見ることができるようになるはずです。ポイントは観察するのではなく、その人になりきるということです。別の言い方をすれば、その人の意識をその人とともに経験するということです。あなたがなにを見ているかではなく、その人にはなにが見えているかです。これは決して観察眼を鍛えるトレーニングではありません。

 

そんなこと出来るわけがないと思われるかもしれませんが、これは可能です。なぜなら個人というのは幻想で、意識には本来、境界などないからです。テレパシーなどのいわゆる超能力が本当に存在するのも、このためです。あなたの肉体精神機構が経験していることを観ている主体と、その人が経験していることを観ている主体は同じひとつの意識です。これが真我と呼ばれているものです。

 

ともあれ、最初から他者の経験を知覚することはもちろんできません。ここでやっているのは「他者の経験を自分のものとして知覚できたとしたら、どんな感じだろうか?」というシミュレーションです。しかし、意識レベルが600を超えると実際にそうなるのです。

 

ちなみに、その人がもしあなたのいる方向を見ていたなら、当然ですがその人の視界にはあなたが映っているはずですね。その人にはあなたはどのように見えているでしょうか? そして、その人が見ているあなたはどんな現実を経験しているでしょうか? んん? と思われた方はわたしの書いていることを正しく読解できています。つまり、ここで言わんとしているのは、他者の現実に存在しているあなたは、あなた自身が経験している自分と同じものではないということです。

 

というのも、自我というものが幻想なので、自我が経験している現実もまた幻想です。幻想である自我が、幻想である別の自我を見ているという現実は、その自我だけの現実です。

 

これは以前に書いた

意識が世界を創造する(相互入れ子構造による宇宙の多重創造論) - in SPIRE 内なる声をきく

という記事に書いているのと同じ話です。このエクササイズでは、この記事に書かれていることをシミュレートしようとしています。

 

さて、一人の人を見つけてこうしたことを試みるだけでも大変ですが、慣れてくると自然にそのとき見えているすべての他者の現実を知覚することができるようになってきます。それとともに知覚の精度も増していきますから、例えばですが、あなたと話している相手が次になにを言うかとか、どんな仕草をするかといったことが前もって分かるようになってくるでしょう。

 

といっても、思考や感情を盗み見ることができるようになるということではありませんよ。そうではなく、誰にも自由意志はなく、ただ神によって与えられたプログラムによって自動的に動いているだけなのだということが、そのまま知覚として経験されるようになるということです。言い換えるなら、神の意志が森羅万象のすべてに働いていることを知覚できるようになるため、その神の意志が次になにを現象化するかもある程度分かってくるということです。そのときの感覚は "起こるべきことが起こるべきように起こっている" というものです。

 

練習の仕方としては、まず歩きながら、すれ違っていく一人の人物についてこれを行ってみましょう。時間はすれ違うまでのわずかな時間ですから、考えずに直感で感じる訓練にもなるでしょう。すれ違ったら、次はまた前方にいる誰かに注目します。こうして歩きながらどんどんやっていくのが最初はよいと思います。

 

ある程度慣れてきたら、今度は広場のようなところに行って、立ち止まりましょう。そして、その場にいる(あなたに見えている)すべての人の経験している現実を同時に知覚してみようと試みてください。まあこれはなかなかできませんが、それでも慣れていけばある程度できるようになるはずです。

 

さらに進むなら、その場にいるある人物の経験している現実における、その目に映っている別の人物の現実を想定してみてください。このやり方は鏡と鏡を向き合わせるように無限に可能ではありますが、エクササイズとしてはある人とその人の見ている別の人、というレベルまでで十分でしょう。これはエクササイズですが、目指すのは常時このように知覚できるようになることです。

 

最後の段階では、視点をあなたではなく、イマジナリードローンに切り替えてみましょう。つまり、あなた自身もその場にいる人物の一人として見るということです。これが部分的にですが、神の視点となります。

 

これが知覚できるようになれば、あなたは自己と他者という分離を超越したということです。それはつまり、二元性の超越です。この境地を覚醒とよび、それは意識レベル600で測定されます。

 

今回はこれでおしまいです。このエクササイズについては IF のように名前はつけません。また、エクササイズのやり方についても書こうと思えばもっと詳しく、かつもっとバリエーションを提案することも可能ですが、とりあえず今回はこれだけにしておきます。もしこのエクササイズについて質問がありましたら、質問箱に質問を投稿してくださいませ。

 

それではまた次の記事でお会いしましょう。読んでくださってありがとうございました。

note に書いた重要な記事の紹介です。

こんにちは。今回は note に書いた重要な記事をこちらでも紹介します。一つ目はホーキンズ博士の意識のマップを解説した記事です。この in SPIRE では当初から前提となる基礎知識として、博士の「パワーか、フォースか」を挙げていますが、あらためて基本的な情報に立ち返って説明してみました。

 

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もう一つは以前にも記事にしている「存在に関する統合的な図表」についての解説です。内容的には過去の記事と重複している部分も多いですが、今回は図表にある情報をすべて網羅して解説しております。また、以前の記事は5年以上前のわたしの理解で書かれていますので、情報としては大幅にアップデートされていると思います。

 

どちらの記事も霊的な探求のためのガイドブックとしてとても役立つはずですので、ぜひお読みください。簡潔ですが今回はこれで以上になります。

 

次回は多次元的な存在としての人間についての記事になる予定です。それではまたお会いしましょう。

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キリスト意識からの啓示:ジョセフ・ベナーの著作「インパーソナルライフ」「あなたの内なるキリスト意識」の紹介

静まって、わたしこそ神であることを知りなさい

 「訂版 インパーソナル・ライフ あなたは神とひとつである The Impersonal Life Japanese Edition インパーソナル・ライフ・メッセージ」 ジョセフ・ベナー 著、大湾洋乃 訳

 

前回の記事では意識の個別性について解説しましたが、その理由のひとつは一般的に霊的な話題のなかで用いられる「真我」や「わたし(大文字の I )」という言葉がなにを指しているのかについて、探求者の間でのみならず、あろうことか彼らに霊的な智識を教えようとしている人たちの間においてさえ、混乱があると感じていたからです。わたし自身もこの In SPIRE や note の記事においてこれらの言葉について明確な定義を示していなかったので、あらためてその必要を感じたものでした。

 

その前回の記事はこちらです。

merciful.hatenablog.com

 

明確な定義と言っておいてなんですが、真理を言葉で完全に言い表すことは不可能です。言葉それ自体が全体から部分を切り取って(つまり分離させ)それらのものに名前をつけ、その名前のものについて語るものであるという性質上、真理(ひとつであること)について言葉を尽くして詳しく説明しようとすればするほど、皮肉なことにその説明は真理から離れていってしまいます。したがって、わたしにできることは読者のみなさんが自らの内面において真理を見つけるために必要な手がかりを提供することのみです。前回の記事では、文章による説明に加えて視覚的な情報として稚拙ながら図表をいくつか用意してみましたが、これがみなさんの理解に一役買ってくれていたなら幸いに思うところです。

 

さて、前回の記事でもほのめかしていましたが、そのようなものを書いたもう一つの理由がこの記事のタイトルにあるジョセフ・ベナーという人物による著作を取り上げるためでした。内容について紹介するまえに、先に書籍のAmazonリンクを掲載しておきましょう。

 

 

 

ジョセフ・ベナーという人物はおよそ100年前に生きていたアメリカのキリスト教神秘主義者ということですが、これまでわたしはその名前を知りませんでした。日本語で読める彼の本がいままでなかったわけですから、おそらくこの記事をお読みのみなさんもご存知なかったのではないでしょうか。彼についての情報はこれらの書籍の紹介ページに書かれているものしかないのですが、その著作であるこれらの書物の価値からすると、これまで知られていなかったのが不思議なくらいです。しかしながら、これはわたしの個人的な思いですが、だからこそこれらの書籍に書かれている情報がいま日本にもたらされることには大きな意味があるはずです。

 

それでは早速ですが、このジョセフ・ベナーの書籍の内容を一部紹介していきましょう。ちなみに「あなたの内なるキリスト意識」については作者は匿名とされています。当時、なんらかの事情があったのかと思われますが、後にこれがジョセフ・ベナーの作であることが明らかになっているようですので、ここではいずれもジョセフ・ベナーの著作として扱いたいと思います。

 

『改訂版 インパーソナル・ライフ あなたは神とひとつである』

 

いずれの著作も、その内容は神である唯一真実の主観としての「真我(神我)」「わたし」として直接、読者であるあなたに語りかけるものになっています。また、ところどころにおいては「わたし」は自らを「キリスト意識」であるとも語り、そしてその本質は「インパーソナルライフ(意識の境界を超えた存在:非個人的な意識)」であると明かしています。

 

前回の記事は、上に書いた文章の意味を前もって説明しておくためのものであったといってよいでしょう。すでにお読みくださっている方には、この文章についてさらなる説明は不要であるはずですが、ここですこし、おさらいと補足をしておきましょう。

 

Xiaomi Pad 6というタブレットで書いています。本当はiPad Air が欲しかったです。

これは前回の記事で用いた図表にすこし書き加えたものです。ピラミッド型の下2段は物質界に肉体を持って生きている個人的な意識といえる部分で、これをロウアーセルフとします。その上の段はコーザル体における個人的な高次の意識で、ここには各ロウアーセルフ(転生体の意識)のすべての経験の記憶があります。ロウアーセルフに対応して、これを個人的なハイヤーセルフとしています。

 

ピラミッドの頂点をなす最上段を「無限の集合意識」としていますが、前回の記事ではここに含まれるものとして地域や血縁、民族、国家そして種族の集合意識(集合魂)を挙げました。しかしながら、真相においてはこれらは意識の構造のほんの一部でしかないでしょう。思いつく範囲でも、星系(太陽系)、星団(プレアデス星団など)、銀河系、銀河団、超銀河団などがそれぞれ集合的な意識の単位として考えられます。そしてさらには、この宇宙そのものが無数に存在しているマルチバースの一つでしかないかもしれません。

 

こうしてみていくと果てしないですが、ポイントとしては、真相がどのようであれ神とはそのすべてであるということです。ということは、わたしたちがハイヤーセルフだと思っているものは、神とわたしたちを繋いでいる、この果てしのない意識のチャネル(経路)のどこかのことなのです。そして、わたしたちが神とつながっている、神とひとつであるのと同様に、いずれのハイヤーセルフも神とひとつです。ですから、「真我」や「わたし」とは神そのものであると同時に、神に連なるハイヤーセルフのことでもあるのです。いっぽうで、「インパーソナルライフ」というときは非個人性を強調しているので、神のことを指しているといえます。また「キリスト意識」というときは人類を神の意識へと導く高次の意識(ハイヤーセルフ)としての神の子の意識であると受け止めればよいでしょう。このように呼び方によってニュアンスは変わりますが、本質はすべておなじです。

 

繰り返しになりますが「すべてはひとつ」であり、それゆえ「あなたと神はひとつ」です。

 

神へとつながる無限のチャネルはあなたの内にあり、あなたとひとつです。このチャネルこそが「神の王国」へと至る道なのです。この書物において「わたし」は繰り返し丁寧に、すべてを「わたし」に明け渡しなさいとあなたを説得しますが、明け渡しとは、神とひとつであることを自分に赦すことです。別の言い方をするなら、この神へと至るチャネルを最大限に開き、そこから差し込んでくる神の光に自らのすべてを晒すことと言えるでしょう。この光によって幻想の自己である自我(エゴ)は焼き尽くされ、わたしたちは神とひとつであることを思い出すのです。

 

そうです。このインパーソナルライフという書は、神みずからが神の子であるわたしたちに、神とひとつであることを思い出させようとして届けられたメッセージなのです。

 

静まって、わたしこそ神であることを知りなさい。 わたしがあなたの中にいる事を知りなさい。わたしはあなたなのです。わたしがあなたの生命である事を知りなさい。全ての智慧、愛、力はこの生命の中に在る事を知るのです。それは実に今、あなたの存在全体を通し、惜しみなく自由に流れ続けているのです。 わたしこそが、全ての存在の中のその生命、知性、力であるのです ― あなたの細胞のひとつひとつに、それは存在するのです。鉱物の細胞の中に、植物、動物の細胞の中に、それは存在するのです。火の中に、水の中に、空気の中に。太陽の中に、星の中に。わたしはあなたの中に、そして彼らの中に在るもの。彼らの意識はあなたの意識とひとつであり、そして、全てはわたしの意識なのです。彼らの中に在るわたしの意識によって、彼らの持っているもの、彼らであるところのものは、全てあなたのものなのです ― あなたがそれを求めるならば。

(太字はわたしが強調したものです)

 

この一文に、そのメッセージの大要が示されていると思います。全編にわたって素晴らしい内容なのですが、ここではもう一箇所だけ引用しましょう。

 

人であれ、霊的存在であれ、あらゆる教師やガイド、マスターや天使といった存在は、完全性そのものであるわたしの部分的顕れに過ぎないのです。全知全能にして遍在するわたし、全存在の背後に在る霊的イデアそのものであるわたし ― つまりは、あなたの中の神へと、直接向かい合う事ができるというのに、なぜあなたは、そういった部分的存在たちを求めているのでしょうか。

 

すべての源は神であり、すべての現れは神の一部であるということ。先ほど上の方で説明させてもらったのも、この引用文と同じことを言っています。この記事を書いているわたしも、神の言葉がこの肉体精神機構を通して降りてくる神の部分的顕れであるといえますが、実際にはただのおじさんなのです。ただのおじさんに、それが起きているだけなのです😉

 

ところで、このBLOGの正式な名称は「 in SPIRE 内なる声をきく 」というものです。これはBLOGを開設した当初からのものですが、わたしがみなさんにお伝えしたいことの一番の要点はこのこと、つまり、わたしたちは神とひとつであること、わたしたちは内なる神とつながっているということです。このジョセフ・ベナーの著作はまさにその点においても、わたしがここで紹介しなくてはならないものでした。

 

 

『あなたの内なるキリスト意識 ―キリスト意識の覚醒による神との境界の消滅について―』

 

さて、続いてもう一冊の著作について紹介しましょう。

 

あなたの覚醒は神によって定められたものであり、神聖なシナリオに記されたものであるという事、これを真に知ってほしいのです。そうです、しっかりと覚えていてください。あなたは神のシナリオの中の存在であり、実に、何も心配すべきことはないのです。心配事、恐怖感、罪悪感、劣等感、こういったものの全ては、神に属するものではありません。これらの全てが「偽我」という、偽りのエネルギーに由来するものであり、即ち、元来存在しないものなのです。

 

「あなたの内なるキリスト意識 ―キリスト意識の覚醒による神との境界の消滅について―」
 ジョセフ・ベナー 著、大湾洋乃 訳

 

こちらの「あなたの内なるキリスト意識」でも「インパーソナルライフ」と同じく、神であり真我でありインパーソナルな意識である「わたし」が様々に語りかけてくれます。基本的に語り口も「インパーソナルライフ」と同様ですので、実質的に続編というか、そのまま続きであると思っていただいてよいでしょう。

 

内容としては、「インパーソナルライフ」ではわたしたちが神とひとつであることを示すものであり、「あなたの内なるキリスト意識」では、なぜそのことをわたしたちは忘れてしまっているのか? ということについて語られています。この「あなたの内なるキリスト意識」に書かれている「偽我」についての情報は非常に重要で、なおかつあまり知られていないものです。

 

非二元(ノンデュアリティ)の文脈において、悟りを妨げているものはエゴ(偽りの行為主体である幻想の自己)であるとされています。このエゴは肉体精神機構(肉体と精神の総体)とイコールにみることもできますし、エゴ=肉体精神機構=カルマという等式を示すことも可能です。いずれにしても、幻想にすぎないエゴを実存であると錯覚してしまうがゆえに人は二元性にとらわれて真理から遠ざかっているというのが非二元の界隈で語られていることですが、幻想であるというまさにその理由によって、エゴについて深く追求することはほとんどありません。ですので、ほとんどの人はその由来と正体について知らないし、気づいてもいないことでしょう。

 

上の引用文において触れられている「偽我」の説明は、この非二元文脈におけるエゴのことと言って差し支えありませんが、本書で語られている「偽我」の素性はそれだけにとどまりません。

 

そして、この事を覚えていてください。偽我という存在は、実は、ひとつしか存在していません。あなたの意識に巣食ってきた偽我のエネルギーは、他の存在達に巣食ってきた偽我のエネルギーと全く同じものであり、ここにも、実は分離というものはありません。

 

ここで、偽我が個人的なエゴという概念ではなく、集合的な意識エネルギーであることが示唆されていますね。まったくの話、そもそもすべてはひとつなのですから、幻想の主体であれなんであれ、それも全体とひとつなのです。したがってエゴもまた、それは個人的な幻想ではなく、非個人的で集合的な幻想であると理解されなくてはいけないのです。しかしながら、偽我の正体はそれだけではありません。

 

あなたのこれまでの思考形態の殆どの部分が、偽我が集合して構成した意識、つまり偽我の集合意識体によってできた思考母体を基にしたものであったのです。そして、この思考母体・マトリクスは、非常に強固な意図を持っているのです ― 神を否定し、そして神なるものを模倣し、偽の神を作り上げ、それに人類の意識を集中させることにより、真の神を人類の意識から排除しようとする意図 ― 偽我は、その非常に強固なエネルギーによって、時間というものが始まったその瞬間から、この意図をずっと固持してきたのです。

 

 

改めて伝えます、外側の世界を支配しようとしてきた存在、それは集合的偽我のエネルギーであり、それらは霊的次元からはたらきかけ、人類から神を、内なる「わたし」を隠そうとしてきたのです。集合的偽我は霊的次元の存在ですが、それが影響を及ぼせる次元は、主に物質次元です。つまり集合的偽我、そしてあなたの中に巣食ってきたあなたの偽我、この両方が、物質的次元に起こるあらゆる現象を操る事によって、内なる神の声をかき消し、偽りの時間を引き伸ばしてきたという事なのです。

 

ホーキンズ博士の「 I <わたし> 真実と主観性」では、アストラル領域に存在するエンティティ(霊)について言及されています。アストラル界の意識レベルの上限は500とされているのですが、ここで注意喚起されているのはより下方のレベル、すなわち地獄と呼ばれるような領域にいるエンティティ(意識体)の危険性です。そのようなエンティティの中には非常に強力な存在もいるようで、そのような存在の誘惑や脅しによって、一般的には意識レベルが転落しないとされている540以上の人物が200前後にまで堕とされてしまうこともあるようです。

 

本書で明かされている「偽我」の正体とは、つまりこのアストラル界にいる低い意識(アトラクター)のことであると考えてよいでしょう。ホーキンズ博士はアストラルについては詳細は語らず、とにかく関わるなと述べていました。アストラル界については、そのはじまりも含めてわたしもほとんど無知ですが、関わるべきでないものについては知らないほうがよさそうです。ちなみにですが、その意味では意識レベルが十分に高い(500以上)人を除くと、サイケデリクスを使用することには常に危険がつきまとう可能性が高いです。

 

これからこの本を手にしてみようという方は、この偽我について、非二元でいわれるエゴと比較しながら読んでみるように、おすすめします。それはとても有益な経験となることでしょう。また、こちらの本は章の終わりごとに聖句とともにそれを熟考するための瞑想が設定されています。あわてて先を急がず、章ごとの内容をこの瞑想によって腑に落としながら、ゆっくり読み進められるのがよいでしょう。

 

ジュニャーナとバクティについて

 

ラメッシ・バルセカールは「ジュニャーナ(智慧の道)はいずれ極まるとバクティ(帰依・明け渡しの道)と同じになります」と言っていました。わたしはジュニャーニ(智慧の道を行く人)でしたし、いまこうしてわたしが書いているものも基本的にジュニャーニの人に向けたものです。しかしながら、このところのわたしは以前よりは敬虔な人間に変わってきたと感じています。敬虔といっても、具体的な名前のある神や特定の宗教を信仰しているわけではもちろんありません。ただ、自らの内に神を感じ、外側の世界にも神の意志が顕現していることを知覚できるようになるにつれて、自らよりも高いもの、大きいものに対して自然と頭が下がるようになり、また、その高いもの大きいものと自分がひとつであることに喜びを感じられるようになってきたのです。

 

わたしの意識が目覚めはじめたのは人生のどん底にあって、エゴである自分の愚かさ、未熟さ、無能さを思い知ることになった時からですが、それでも当時はまだ簡単に明け渡すものかという抵抗心があったと記憶しています。それから14年ほど経ったいま、気がついてみれば神のために神の言葉を受け取ってそれをこうしてお伝えすること以外にはほとんどなにもしない人生を送るようになっていました。

 

わたしが思うに、エゴ(偽我も)は敵ではありません。エゴにはエゴなりの動機と目的があるのですから、感情を押し殺したり、欲望を無視したりしていては却って意識レベルの上昇を妨げます。カルマはそれが燃え尽きるまではずっとその人を苦しめるので、いっそのこと最大火力で焼いてしまうのが一番早いのです。しかし、かといって探求の途にある人がそのような生き方をすることには罪悪感があることでしょう。思いのままに生きても罪を感じ、思いを抑え込んで生きても鬱屈して歪むとなれば、いったいどうすればよいのでしょうか? 智慧の道の、とくにその道の半ばまではこのジレンマに苛まれ、なかなか思うようには進めないと思います。

 

誰であれ、その人に覚醒なり悟りなりが起こるとき、例外なくそれは神の恩寵によるものです。なぜならすべての肉体精神機構はただ神だけがそれを生かし、思考させ、行為させているのですから。であるなら、智慧の道を行く人がこのジレンマに打ち勝てたとすれば、それはその人が成し得たのではなく、神がそのようにしたのだということです。これが神の恩寵です。

 

ジョセフ・ベナーによるこの二冊「インパーソナルライフ」と「あなたの内なるキリスト意識」は、神自らが教えるバクティ(明け渡し)の教科書といってよいでしょう。これらの書がいまこのようにしてわたしたちの手が届くところにもたらされた意味は、この日本で探求を続けている人たち(そのほとんどがジュニャーナでしょう)の多くにとって、明け渡しを学ぶことが必要であるということでしょう。

 

もっとも、同じように明け渡しの重要性を伝える霊的な情報としては奇跡講座バガヴァッド・ギータもすでによく知られています。これらの書ももちろん非常に優れていますが、ジョセフ・ベナーの著作が素晴らしいのは誰でも読めるくらい平易な表現でありながら、とても説得力のある文章で語られているところと、ボリュームがコンパクトであるところです。それゆえ、奇跡講座やバガヴァッド・ギータに比べるとおすすめしやすいですし、読まれる方にとっても内容を理解吸収しやすいはずです。ですから、ぜひ読んでみてください。

 

さて、他にもまだまだ引用したくなるような文章がたくさんあるのですが、それはみなさんが本書から直接読んでいただくこととして、わたしからの紹介はこれで終わりたいと思います。ひとりでも多くの方がこの二冊の本を読んでくださることを願います。

 

静まって、わたしこそ神であることを知りなさい――

 

最後になりましたが、これら素晴らしい霊的な情報を発掘され、見事な翻訳によって世に出された大湾洋乃さんに感謝いたします。今後出される予定の本も楽しみにしております🙂

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

どこまでを自我(自分)と捉えるべきか? :意識における個別性の構造について

(画像があるのでスマホではブラウザでの閲覧をおすすめします。はてなアプリでは拡大表示ができません。できればタブレットやパソコンでご覧ください)

 

すべてはひとつである。これが真理です。

 

ここから「分離はない」ことや「行為主体の不存在」「世界の見かけは幻想である」といったことが言われます。すべてがひとつであるなら、分離した行為の主体たる個人は存在しませんし、そのような個人がそれぞれに人生を送っているように見えるこの世界は当然ながら幻想というしかありません。このことについては、これまでの記事において様々な観点からお話してきましたので、ここではさらに踏み込むことはしません。というより、すべてはひとつである以外に真理と呼ぶべきものはありませんので、それ以上に踏み込んだ話というものはないのです。

 

しかしながら蛇足として述べておくとすれば、すべてはひとつであるというとき、そのひとつであるすべてのものとは「意識」です。意識(consciousness)とは「気づき」のことで、なにかがなにかに気づくということを意味する言葉ですが、量子論によれば物質が存在しているのは観察されている(=気づかれている)からだということが分かっています。すなわち、この世界が存在している基盤は気づきであり、意識であるということです。また、意識が存在の基盤(究極のコンテクスト=源泉=神)であるということは、意識には複数形はあり得ないということを示しています。なんであれ、なにかが複数ある場合、それは分割されたコンテント(中身、内容)であり、コンテントである時点でそれは幻想なのです。

 

コンテクストとコンテントという概念はデヴィッド・R・ホーキンズ博士の「 I <わたし> 真実と主観性」の中で詳しく述べられています。わたしのこれまでの記事において「焦点とそれ以外」という言葉を使っていることがありますが、焦点とはコンテントのことで、それ以外がコンテクストのことです。人間の知覚はコンテントを想定しないと考えたり話したりできないようになっているのですが、これが二元性という幻想を生み出す根源的な理由です。もういちど整理すると、コンテントとはコンテクストという全体性から部分を切り出した(分割した)ものなので、それは真理ではないのです。つまり幻想であるということです。

 

さて今回は、このコンテントの幻想性を考えるうえでおそらく最も重要と思われる「わたし」という概念について取り上げたいと思います。この「わたし」という概念については以下の記事でもいちど書いていますが、そこでは「わたし」が幻想であるということを示すにとどまっています。

 

merciful.hatenablog.com

 

あらためてこの「わたし」について取り上げるのは、一つには用語の定義をここで整理しておきたい(理由は次回の記事で説明します)のと、もう一つには、一口に幻想とはいっても、この「わたし」、つまり自分という観念には複雑な構造があり、この構造を理解したうえで用語をただしく使い分けないことには、話が通じないからです。

 

用語の定義の問題は、この記事においてもすでに生じています。というのも、ここまでのところで用いている「わたし」と、ホーキンズ博士の著作の表題における <わたし> は、同じものを指していないからです。「わたし」は一般的に人々が自分を指していう主語としての「わたし」です。しかし、博士がこの本のなかで用いている <わたし> とは唯一無二の真の主観性という意味でのわたしです。言い換えると、<わたし> とは神のことであり、源泉のことであり、ひとつである意識のことです。ちなみにホーキンズ博士の原著においては「わたし」は小文字の i として表現され、<わたし> は大文字の I となっているようです。

 

すべては一つの意識ですから、見かけ上、人間は個個別別に存在し、それぞれが独自に思考しているように見えますが、本当はこの一つの意識であり源泉である神だけがすべての肉体精神機構を用いて思考しているのです。これが自由意志はないということです。

 

さてここで、自由意志のない「わたし( i )」のことを、自我とあらためて呼びなおすことにします。もちろんこれはエゴと呼んでも構わないのですが、日本語においてエゴと言うときには自我のもつ自己中心性という性質が強調されがちなので、あくまで幻想としての個別性、個人性と一体化している意識という意味だけを持つ用語として自我を採用することにします。また、自分という言葉を用いるときは、この自我がそれ自身を指しているものと理解してください。すなわち、自我も自分もほぼ同じと思っていただいて差し支えありません。

 

一般的に自我(自分)というとき、それはいわゆる顕在意識のことを指していると言えます。これに対して潜在意識は、それ自体がまだまだ詳しくはなにも分かっていないのですが、意識の個別性ということを考えたとき、この潜在意識も間違いなくその肉体精神機構に属するものですから、自我の構成要件であると言えるでしょう。では、自我は顕在意識と潜在意識の合計で、それですべてということでしょうか? いえいえ、自我はそんなにちっぽけなものではないのです。

 

ここで、ハイアーセルフという概念をみてみましょう。ハイアーセルフは日本語でいうなら「高次の自己(自我)」となりますが、高次の自我ということはそれに対応する低次の自我というものを前提にしているわけですね。ここでは高次の自我とはなにか? ということはちょっと置いておいて、先にこの低次の自我について明確にしておきましょう。さきほど顕在意識と潜在意識について触れましたが、これは心理学的な分類です。では顕在意識にせよ潜在意識にせよ、それらはどこからやってくるのか? というとき、心理学は医学的なところに根拠を求めるよりありません。すなわち、それは肉体の脳にあると。

 

もちろん、物質的な観点でいえば、この説明は間違っているというわけではありませんが、すべては一つであるという話をしているわけですから、それらの説明もまたコンテントであり、幻想であると考えなくてはいけません。では幻想ではない観点はというと、それが霊的な観点です。これは重要なことですが、霊的なこと、つまりスピリチュアリティとは「すべては一つである」ということであって、それ以外の意味で使われているスピリチュアルはすべて誤りです。

 

すべてである一つのもののことを神と呼ぶことについては、これをお読みの方にはすでに十分ご理解いただけていると思いますが、ここでこの「すべてである一つもの」の別名に「スピリット」を加えてみてください。スピリットは霊のことです。キリスト教的な説明をすれば神と霊(聖霊)と神の子は三位一体、つまりおなじものです。つまり、神がすべてである一つのものであるなら、スピリットはすべてが一つであることの象徴とみなせるわけです。エセスピリチュアルがスピリチュアルと呼んでいるものはすべてコンテントでしかありません。

 

話を戻しましょう。霊的な観点では、この顕在意識と潜在意識を生み出しているのはアストラル体とメンタル体であるという説明がなされます。アストラル体もメンタル体も、肉体とは別に存在している人間存在の体(ボディ)であり、肉体が物質界に存在しているように、アストラル体はアストラル界、メンタル体はメンタル界と呼ばれる次元密度(周波数帯)に存在しているとされています。また、順番的にはメンタル体の基盤の上にアストラル体が存在し、アストラル体の基盤の上に肉体が存在しています。(肉体が存在するためにはエーテル体と呼ばれる肉体の青写真が必要ですが、ここではエーテル体については省略します)

 

アストラル体は感情や情緒を司り、メンタル体は論理的な思考を司っています。そしてアストラル体から発生した感情や、メンタル体が生み出した思考を、肉体の脳やその他の器官が受信して、それを物質界に表現しているのです。

 

この肉体+アストラル体+メンタル体という構造は、物質界において、ある時間のある場所で人間という存在が機能するためのものですが、この構造のことをここで「転生体」と呼ぶことにします。人間の魂は輪廻転生を繰り返していると言われていますが、個々の転生体には通常、別の転生の記憶はありません。おなじ魂のべつの転生の記憶を持っているのはより高次のコーザル体であるとされています。つまり、コーザル体は複数の転生体を束ねて統括している体ということができるのですが、その意味でいけばコーザル体こそが人間の魂であると言ってもよいかもしれません。また、個々の転生体を統括している立場から、転生体の自我になんらかのメッセージを思考や感情という形で伝えることも当然可能でしょうから、その意味ではコーザル体をハイアーセルフだとみなすこともできます。

 

つまり、コーザル体=魂=ハイアーセルフというわけですが、これでもまだ正確ではありません。より正しくはコーザル体=魂=ハイアーセルフ(の一部)となります。ここで図を用意しましたのでご覧ください。

 

 

低次の自我(ロウワーセルフ)と高次の自我(ハイアーセルフ

※最近、専用ペンで絵を描いたり手書きのメモをとれるAndroidタブレットを買いました。この図はそれで描いた第一弾です。今まではパソコンでワープロの作図機能を使って図を描いていましたが、めちゃめちゃめんどくさかったのでやめました。

 

この図はここまでの説明を可視化したものです。霊的なボディ(微細身)について描かれた様々な絵がありますが、どれもこれも肉体の外側にアストラル体とメンタル体とコーザル体が描かれていると思います。もちろん、それは間違ってはいないのですが、その表現だとコーザル体が複数の転生体を包摂していることが伝わらないのですね。もちろん、この図にしても概念図であり、コーザル体は時空を超えたところで存在しているわけなのですが、このように表現したほうがより実相には近づけると思います。

 

さて、コーザル体は転生体の自我にとっては確かにより高次の自我といえます。しかし、ではコーザル体は神と直結しているのかというと、どうやらそうではないようなのですね。ここでさらに別の図をご覧ください。

 

 

意識の個別性の構造

 

このピラミッド型の図における、下の二段の部分が個々の転生体における自我の構造です。ここまでの説明では触れてきませんでしたが、転生体の自我(ロウワーセルフ)はさらに低次の自我と高次の自我として区別することができます。低次の自我とは大雑把にいえば意識レベル500未満の自我のことであり、高次の自我は500以上の自我ということができます。アストラル体(感情体)はアストラル界に存在していると書きましたが、アストラル界の意識レベルは上限が500です。つまり、アストラル体に支配された感情そのものや感情混じりの思考によって構成されている自我は意識レベル500よりも低い領域にあるということです。メンタル体が活性することによってアストラル体が賦活されると、無条件の愛や慈悲といった高次の感情が表現されるようになりますが、そのようになった自我は意識レベル500以上で測定されます。

 

この図においては、転生体の自我における意識を区別するために低次の自我と高次の自我という用語を用い、なおかつ高次の自我をハイヤーマインドと呼びました。よって、コーザル体における自我をそれらと区別するために高次の自己ハイヤーセルフとしてあります。ハイヤーマインドはあくまで転生体の自我のあり方の一つですからハイヤーセルフとは異なります。しかしながら、低次の自我に比べるとより強くハイヤーセルフからの影響を受けているということはできるでしょう。

 

図のピラミッドの三段目はコーザル体の領域です。ここでは高次の自己としていますが、個人性、個別性を帯びているという意味では高次の自我と呼んでも構いません。コーザル体の意識においても「自分」という感覚は当然あるはずですからね。

 

さて、ピラミッドの一番上は「無限の集合意識」となっています。集合意識とはコーザル体のさらに上位の体といってよいものですが、この領域になるともはや「体」という表現は適切ではないかもしれません。ただ、言えることはある集合意識を一つのユニットとすれば、このユニットが集合したさらに大きな(上位の)集合意識があり、この構造は無限に続いているということです。そして、その無限の構造の全体を指して神と呼んでいるわけですが、神はすべてであるがゆえ、そこにはどんな個別性も個人性もありません。逆にいえば、わたしたちには想像もつかないような超々高次の集合意識でさえ、そこには個別性や個人性がかすかにせよ、存在しているということになります。

 

それを表しているのがピラミッドの左にあるオレンジ色の下向きの矢印です。下にいくほど個別性、つまり分離の度合いが高まります。転生体である物質界のわたしたちは個別性MAXというわけですね。また、分離の度合いと意識レベルは反比例の関係にありますので、ピラミッドの上部へ行くほど意識レベルは高まっていきます。それを示しているのが紫色の上向きの矢印です。

 

このような構造はもちろん単なる観念であり、実際にはわたしたちの想像と理解を超えるような仕組みになっているとは思いますが、さりとてわたしたちなりに真理を理解するためには、これで問題はないでしょう。いずれにしても、真の主観性である神の意志がこのピラミッドの構造を貫通して、もっとも低層にいるわたしたち人間の自我へと思考や感情という形で現れているのだということをご理解いただければ幸いです。ではここで、同じ概念をまた別の図でみてみましょう。

 

 

マインドマップの正しい使い方ではありません

 

先の図と基本的にはおなじことを描いていますが、宇宙全体の意識のマップという意味ではこちらの方が分かりやすいでしょうか。先の図では集合意識と呼んでいますが、集合意識とは魂の集合のことですから、集合意識=集合魂です。集合意識ではなく集合魂と呼ぶことによって、意識の個別性・個人性が継続していることもイメージしやすいかもしれません。実際、個別の魂(コーザル体)のすべてが神とつながっている(ひとつである)のです。この図はそのつながりを表現しています。

 

このつながりから、コーザル体のみならず、より高次の集合魂のこともハイヤーセルフとみなせることが分かります。例えばですが、過去性を思い出したりするときはコーザル体の意志を受信していると考えることができますが、神の啓示と考えるしかないようなインスピレーションはそれよりも遥かに高次の集合魂から降りてきているということです。もっとも、そのどちらも元を正せば神の意志ですけどね。ただ、神には個人性がありませんから、転生体の自我に降りてくるメッセージはすべて、個人性を帯びた意識(自我)であるコーザル体から高次の集合魂というハイヤーセルフ領域のどこかからやってきたという形をとるわけです。

 

これで、意識における個別性の構造については、わたしが説明できることのおおよそは書けました。最後にひとつ、余談をしてこの記事を終わりたいと思います。

 

ラマナ・マハルシが教えた真我探求(アートマ・ヴィチャーラ)という技法があります。これは日本では(日本語に翻訳された書籍では)「わたしは誰か?」と問いなさいというものとして伝えられています。しかし、ラマナ・マハルシが実際に言っていたのは「わたしは誰か?」ではなく「わたしとはなにか?」を問いなさいというものでした。このことについては他でも書いていますが、これは通訳ミスによって生じた違いです。なぜわたしがこのことを知っているかというと、それはラマナ・マハルシに実際に師事していたラメッシ・バルセカールが著書においてそう述べているからです。

 

それはともかくとして、「わたしは誰か?」と問い続けたら、なにが導かれるでしょうか? これはとても簡単な話で、誰かと問うている以上、答えは誰か個別の存在になるはずですね。つまり、この問いでは「この現在の自分ではない本当のわたし」なるものを探してしまうわけです。その本当のわたしとは、過去生のいずれかにおける自分のことであったり、あるいはその上位にあるコーザル体、つまり自分の魂のことであったりします。というより、誰か? と問う限りはそういった答えにしかなり得ないのです。それはつまり、先ほどのマインドマップ図においてハイヤーセルフの領域とした部分のどこか、というわけです。

 

しかし、すでに説明した通り、その誰かがどれほど高次の集合魂のことであったとしても、それはコンテントなのです。コンテントであるということは、それは幻想だということでもあります。したがって、「わたしは誰か?」と問うやり方では、真我であるところの神にはたどり着けないことが自明となりますね。つまり、この問い方は真我探求ではないということです。

 

一方、「わたしとはなにか?」と問うとどうでしょうか? わたしとはなにか? という問いは、正確には「このわたしという感覚、観念の正体はなにか? それはどこから来ているのか?」ということです。つまり、わたしという自我はどのようにして発生しているのか? わたしはわたしのことをいつどのようにしてわたしであると認識しはじめたのか? 認識しはじめる瞬間があったとするなら、それ以前のわたしはわたしではなかったのか? などなどと深く考えていくものであり、特定の誰かを探すものではありません。

 

この「わたしとはなにか?」という問いによって得られる最終的な答えが、ここで紹介したピラミッド型の図やマインドマップに表現された「意識の個別性の構造」の全体像です。この全体像が得られることによって、はじめてその全体そのものであるところの「神=真我」が見つかるわけです。真我の意識はハイヤーセルフ領域を貫いて自我へと到達するため、ハイヤーセルフからのメッセージを真我のメッセージとみなしても間違いではありませんが、この全体像を理解しているといないとでは、受け止め方がまったく違ってしまうのですね。

 

次回の記事では、この真我から降りてきたメッセージの実例を紹介したいと思います。それでは、読んでくださってありがとうございました。

思考は止められない、という話

こんにちは。まだまだ暑い日が続いていますが、大阪では朝のうちはすこし涼しくなってきて、秋の訪れを感じられるようになってきました。

 

前回の記事では意識レベルの上昇に伴って知覚がどのように変化していくか、ということについて、わたし自身の経験していることを書かせていただきました。この記事では主に視覚についてとりあげて説明しましたが、おなじような変化は聴覚にも生じています。ただ、味覚や触覚というものはその性質上、焦点が拡大していく様子はあまり感じられませんね。

 

さて、その記事のなかでわたしは思考がどこからかやってくるもので、決して自分でそれを考え出しているわけではない、ということも知覚できるようになってきました」と書いています。こう言うと、おそらくほとんどの人は「そんなわけあるか!」と感じることでしょう。それはそうでしょう。わたしもずっと思考は自分の頭で生みだしているものだと、なんの疑いも持たずに生きてきましたから。

 

しかし、これについては比較的簡単に検証してみることができます。まず、本当に自分の頭で、あるいは自分の意志で思考を生みだしたりコントロールしたりできるのであれば、その逆のこと、つまり「なにも考えない」ということも簡単にできるはずです。はい、それではやってみてください。10秒間でよいですから、まったくなにも考えないようにしてください。

 

できましたか? できないはずです。できたと思った人は「なにも考えないぞ」という思考を見逃しているだけです。

 

それでは次のチャレンジはこうです。

 

「猫のことは考えないでください🐈」

 

できますか? できませんね? どうやったって、🐈のことを思い浮かべてしまいますね。そんなのずるい! と感じましたか? だって猫って言われてからそれを考えるなって言われたって無理やんか! と思いましたか? そうですよねえ🙂

 

ここで言いたいのは「それを考えるなって言われたって無理やんか!」ということです。つまり、思考をコントロールすることはできないということです。お分かりでしょうか。

 

以前 note の記事に、このように思考について調べてみるためのインストラクションをすこし紹介しましたが、それをこちらにも載せておきますので、ぜひ試してみてください。

 

なにかを思い出そうとして思い出せないということがあります。これについて熟考してみてください。思い出す、というとき、あなたはなにをしているでしょうか? 脳の中のどこかに存在する記憶のデータを検索しているのでしょうか? そんなことをどうやって脳に指示しているのでしょうか?

また、そのとき思い出せなかったことが、しばらく時間をおいて、ふと思い出されるということもあります。このとき、ふと思い出したことについて、あなたはなにかしたのでしょうか?

なにかを急に思いついたことはありませんか? アイディアが突然うかんできたことはありませんか? インスピレーションが湧いたことはありませんか? こうしたとき、あなたはそこで、なにをしましたか? なにかしていましたか?

これらについて考えてみてください。これが調べてみるということです。そして次に、こうしたことと、普通に「考える」ということとを比べてみてください。そこに違いはあるでしょうか? もしも、どこにも違いがないのだとしたら、どういう結論になるでしょうか?

 

いずれにしても、意識レベルが高まっていくにつれて気づきが増していくと、思考があらわれるその瞬間が分かるようになってきます。ヴィパッサナー瞑想をやっている人は、浮かんできた思考や感情や感覚にラベリングするよりも、それぞれの思考や感情や感覚が「浮かんでくる」その瞬間を精密に捉えるように取り組んだほうがよいです。ラベリングは「気づいている」感は得られますが、やればやるほど分離を強めていくので、わたしはお勧めしません。存在するすべては意識であり、意識が存在するすべてなのに、ラベリングをやっている限りは観察している意識があり、「それとは別に」観察されている思考や感情や感覚といった「あれこれ」が存在するということになり続けるからです。

 

さて、それではこの思考はいったいどこから「やってくる」のでしょうか。ひとつの考え方としては「潜在意識」からという答え方ができるでしょう。これは間違ってはいないと思います。でも、潜在意識とはなんなのかについての本質的なことは実はなにも分かっていないのが現状の科学です。

 

とはいえ、思考が潜在意識とわたしたちが呼んでいるものを「経由して」顕在意識に浮上してくることは確かだと思います。なぜなら、それは知覚できるからです。そのことをこれから説明していきますが、その前にひとつ指摘しておくと、たしかに思考は潜在意識を経由してやってきますが、潜在意識という場において思考が生成されているのではないということです。

 

では、思考はどこで生まれて、それから潜在意識をくぐり抜けるのかというと、それはメンタル体です。メンタル体はアストラル体とともに人間の霊的な体で、この物質次元における肉体だけでは人間は生きることができません。メンタル体は思考、知性を司っていて、アストラル体は感情、情緒を司っているとされていますが、もちろん、これらの話は科学的にはまったく証明されていません。

 

しかし、わたし自身は20年くらい前に当時合法ドラッグとして流通していた 5meo-DMT という、いわゆるDMTよりも強力とされるサイケデリクスを試したことがあるのですが、その際にアストラル体とメンタル体のいずれか、もしくは両方の一部(頭の右上30センチくらいのところ)に穴が開いてしまった経験があるので、こうした微細身体(オーラボディ)が実在することを知っています。この経験について詳しくは書きませんが、この穴が開いたことによって、肉体から離れた場所に知覚が発生したのです。それは触覚に近いもので、実際それから一ヶ月くらいはそのあたりに手をやるとゾワゾワする感覚がありました。ちなみに、これはあまりよろしくない状態だったと思いますが、実際にはなにも問題は起きませんでした。むしろ、その後のわたしにとっては貴重な霊的体験のひとつだったと言えます。

 

話がそれてしまいましたが、いずれにしてもメンタル体やアストラル体はこの物質次元ではない場に存在しているので、そもそもそれらを科学的に検知することも今のところは不可能ですし、そこでどのようにして思考や感情が生み出されているのかを知ることはなおさら無理です。

 

しかし、メンタル体で生み出された思考がどのようにして顕在意識に浮上してくるかは、ある程度推測できることです。まず、メンタル体やアストラル体からの情報エネルギーは、肉体の青写真であり、霊的なエネルギー供給用のボディともされるエーテル体へと、チャクラを通してやってくるものと思われます。そしてエーテル体から、やはりチャクラと経絡(あるいはナーディ)を通じてそのエネルギーが肉体へと届けられます。このエネルギーを思考や感情という形に解釈して顕在意識に展開するのは肉体の全細胞に存在しているDNAと、脳です。

 

DNAは単なる遺伝情報の記憶媒体ではなく、人間存在をこの物質次元に存在させるためのアンカーであり、さらにより高い次元からのエネルギーを情報として受け取るための受信機でもあると、様々なチャネリング情報などから、わたしは思っています。脳も同様に受信機であり、また同時に、人間の知覚をこの物質次元の周波数帯域に限定するためのリミッターでもあると考えています。ここではDNAはおもに感情を、脳は思考を受信していると考えてください。

 

脳がリミッターであるという考えについてはもうすこし説明しておきましょう。一般的には、脳があるからこそわたしたち人間はその感覚器官から受け取った情報をもとに世界を解釈し、認識できるのだと考えられています。これは確かにその通りなのですが、裏を返せば、感覚器官と脳が処理できる周波数帯に存在するものしか、わたしたちは認識できないということです。犬の嗅覚が人間の何十倍も優れているということをみても、匂いにおいて犬の鼻は人間の鼻よりも、広い周波数帯の情報を受信できるということが分かりますね。

 

DMTやシロシビンなどのサイケデリクスを摂取した際に、別の次元の存在と出遭うことがしばしば報告されています(わたしも報告しています)が、それが意味しているのは、サイケデリクスは一時的にこの脳やDNAのリミッターを多少緩めてくれるということです。アストラル界や天界はこの物質次元とは異なる周波数帯にあるものの、さりとてそんなにかけ離れた次元でもないので、脳やDNAに課されていた制限が緩まると、そこを一時的に垣間見ることができるわけです。

 

ラジオの周波数ダイヤルを回すといくつもの異なる放送にチャンネルを合わせることができますね。つまり、いくつもの放送が同時にわたしたちのいるこの場所に混ざりあったりぶつかりあったりすることなく存在しているわけですが、生身の肉体ではもちろんそれを検知できません。しかし、ラジオのダイヤルを合わせばそれらは言葉や音楽といった情報をもつ「世界」として視聴できるようになります。これと同じように、普段は目にも見えないし触ることもできませんが、アストラル界や天界はこの物質次元と織り重なるようにして常に存在しているのです。脳やDNAは、いわば物質次元だけにチャンネルをあわせたラジオといってもよいでしょう。

 

ですから、人間の体はつまるところ、アストラルや天界を認識できないように「設計」されているというわけです。肉体そのものが物質次元に人間存在を固定するための装置であり、その要となっているのがDNAと脳です。

 

また話を戻します。こうして見てきたように、脳はそもそもが受信機なのです。正確には受信機であり、かつ解読機(デコーダー)でもあります。メンタル体から受信したエネルギーを言語情報(思考)に解読するのが脳の役割です。

 

ここで、意識に水面があり、水面下を潜在意識、水面の上を顕在意識であると想像してみてください。

 

メンタル体からやってきた思考の元になるエネルギーはこの水の底、つまり潜在意識の最深部から浮かび上がってきます。そして、水面に近づくにつれてすこしずつ思考という形態に変換されていくのですが、このエネルギーが水面から飛び出たとき、その人の顕在意識には思考が言語化された状態で浮かんでいるわけです。

 

気づきの度合いの低い人、意識レベルでいえば400台以下の人は、ほとんどの場合、浮上してきたこの思考に、自動的に一体化してしまいます。この人にとっては今しがた説明した意識の水面は認識されておらず、ただただ思考があらわれ、あらわれると同時にそれと一体化しているため、まさに自分がその思考を作り出しているという経験をしています。これはあくまで比喩ですが、この状態の人の意識の水面は非常に波立って荒れています。そして、ある思考と一体化している間にも、他のいくつもの思考が水面から浮上してきていて、ひとつの思考が再生終了したり、なにかのきっかけで中断されても、すぐに他の思考と一体化してしまいます。

 

こういう状態のことをよく「自動思考」といって、自動思考が止まらないことで苦しい、辛い、眠れないといった話がされていると思いますが、この「自動思考」という言葉は誤りです。なぜなら、すべての思考は例外なく自動的にやってくるものだからです。逆にいえば、自動ではない思考などはありません。これは冒頭のところでお話した通りです。正しくは「思考と自動的に一体化してしまうこと」を止められないことが問題になっている、というわけです。

 

頭の中で特定の歌のフレーズが鳴り止まないということがあると思います。音楽も記憶としては思考の一種ですが、これがガンガン鳴っているときはそれと一体化しているわけです。そんなときでも、誰かと話したり、特定の用事を思い出したりしているときなどは、この歌は一時的に鳴り止んでいますね。が、話を終えたり、用事についての考え事が終わると、またその歌がはじまります。

 

そこでなにが起きているのでしょうか?

 

歌の思考は水面の上(つまり顕在意識)でずっと再生されているのですが、突如浮上してきた別の思考に一時的に一体化を譲り渡します。しかし、その間もバックグラウンドでは歌の再生は続いているのです。そして、別の思考が終わると、また一体化する権利を取り返すのです。これは実際にそういうときによく確認して調べてみると誰でも分かります。ここで指摘できるのは、気づきのない状態の顕在意識においては、いくつもの思考が同時に自動再生され続けているということです。

 

ところが意識レベルが500を超えてくると、この水面がおぼろげにですが認識されはじめます。もっとも、実際に意識のスクリーンに水面が見えるようになるということではなく、潜在意識から顕在意識側に思考がやってくる、ということが実感できるようになるという意味です。

 

これによって、思考があらわれてそれと一体化するまでにほんのすこしの「間」が生まれます。この間があることによって、自動的には思考と一体化しないことが起こりはじめます。ときには一体化していない素の思考データがいくつも認識されることもあります。このとき、いずれの思考とも一体化しないことはもちろん、任意の思考データを選んでそれと一体化するということも可能になります。

 

奇跡講座的な表現をすれば、この「間」聖霊として神の恩寵が流れこむのです。

 

さきほどの歌の例でいえば、自動的に一体化してしまっているときに、この歌を終わらせることはやろうとしてもできません(一時停止は可能です)。歌が再生されつくすことによって、その思考エネルギーがゼロになって、はじめて歌は終わります。しかし、このレベルでは歌の思考データと一体化しない選択ができる可能性があります。一体化しなくても水面上には浮上してしまっていますからバックグラウンドでは再生されていますが、それは無視できますので実際にはそれで悩まされることはありません。

 

もちろん、より低い意識レベルの人においてもこういうことが偶発的に起こることはあります。それを一瞥体験とみなしてもよいでしょう。

 

それはともかく、このレベル(500~539)ではうっかりするとまだまだ自動的に思考と一体化してしまうことはしばしばです。そしてさらに言うと、このレベルではまだ意識の水面は穏やかとまでは言えない状態です。

 

もっと意識レベルが上昇(540~)すると、この意識の水面はほとんど静まり、なめらかな透明のガラスのようになっていきます。もちろんこれも比喩で、別の表現をすれば潜在意識と顕在意識の境界がなくなっていくということです。この状態に至ると、いままでは水面から顔を出すまでその中身が分からなかった思考エネルギーを水面下に観ることができるようになっていきます。

 

つまり、まだ思考として明確に言語化されていないデータの存在を検知できるようになるわけですが、この状態のデータはまだ弱々しく、ただ気づいてやるだけでその力を失います。思考が形をなすまえに、それを水の底に押し戻すことができるようになる、と表現してもよいでしょう。そして、さらに意識レベルが上がるにつれ、これは意識しなくてもできるようになっていきます。賢者あるいは覚者の意識状態とはこれが徹底されているものだと思ってもらえばよいです。

 

この状態になると、浮上してくる思考データの数そのものがどんどん減っていきます。ですから、低い意識レベルの状態のように、水面上(顕在意識)にいくつもの思考が同時に再生されているというようなことはなくなります。しかし、それは賢者が思考しないということを意味しているわけではありません。ここもよく誤解されているところですが、賢者も思考します。ただし、基本的にその思考とは一体化しません。一体化しなくても、思考を再生させることはできるからです。なぜなら、思考はそもそも自動再生するものだからですね。

 

賢者が話すとき、その口から出る言葉は思考の産物です。それは他のどんな人とも同じです。でなければ話すことも書くこともできませんし、そもそも生活できません。違うのは、賢者の意識には「えーと、そうだなあ、なんて言おうか……」というような「混乱した思考」はほとんどあらわれないというところです。探求者の質問に賢者が答えるとき、そこには口から出る言葉とほぼほぼ同じ内容の思考があらわれています。もちろん、賢者にも答えられないことはありますが、その場合も「うーん? あれれ? おや、これはちょっとワシにも分からんなあ」という思考はなく代わりに「それは分かりません」という思考がやってきて、それをそのまま口にするのです。

 

これが賢者の「明晰さ」と呼ばれるものの正体です。ノイズのような不必要な思考が顕在意識のワーキングメモリ※を占有することがなくなるにつれ、やってくる絞り込まれた思考は研ぎ澄まされていきます。また、不必要な思考は過去に蓄積された心の傾向(ヴァーサナー)によるものですが、これらは顕在意識にのぼる前に沈めていくことを繰り返すうちに、やがて消滅します。

 

※顕在意識のスペースは広大ですが、それでも無限ではありません。また個人差も大いにあります。それはともかくワーキングメモリの比喩は、有限のスペースに、ほとんど無意味でパワーの小さい思考が無数にあるか、それとも真理を反映したとてつもないパワーを持つシンプルな思考がひとつだけあるか、という対比を説明するものです。真理からダイレクトにやってくる聖なる思考を意識上に展開するためには、余計な雑念がなくなってスペースが空くことが必要です。しかし、真理はいつでもわたしたちを照らしているため、無駄な思考の数々が静まれば、その反映であるパワフルで明晰な思考は当たり前にやってきます。

 

ですから、賢者においても、やってくるべき思考を(一体化することなくですが)ただ受け入れているだけです。もちろん、いま書いたように、やってくる思考の質は非常に洗練されたものになります。それは賢者の意識には、真理からくる光を妨げ覆い隠すものがないからです。でも、賢者においてさえ、形になった思考を止めることはできません。できるのは、それが形になるまえに沈めることだけです。

 

余談ですが、ジルボルト・テイラーが経験したのは左脳の機能不全です。このとき彼女は思考が止まっていたのではありません。思考はありましたが、それを言語化するデコーダーが故障していたのです。この状態で彼女は一種の至福を味わったようですが、さりとてその状態のままで生きていくことはできなかったでしょう。人間が人間として機能するうえで左右の脳は両方不可欠です。自動思考が止まらないことを左脳のせいにするのは、完全に間違っているわけではありませんが、ここまで読んでいただいたなら、それが本質的にはちょっとズレた見方であることがお分かりいただけたかと思います。

 

より大事なのは左右脳が高い次元で統合されることです。そもそも左脳と右脳というものの見方は、「肉体と意識」という分離のうえに「左脳と右脳」という分離をつみかさねてしまっているので、その観点で話を進めている以上、どこまでいっても分離から抜け出すことはできません。それゆえ、自動思考という発想や、思考を止めたいというような誤謬に陥っていることにも気づけないのです。

 

さて、今回はこれまでで一番くそ長い記事のひとつになってしまいました。読んでいただいた方にはお礼を申し上げますが、これを読んだせいでさらに余計な思考に巻き込まれることになりませんようにご注意くださいませ😌

 

それではまたお会いしましょう。