in SPIRE 内なる声をきく

あなたの世界を再構築するための情報です

note に書いた重要な記事の紹介です。

こんにちは。今回は note に書いた重要な記事をこちらでも紹介します。一つ目はホーキンズ博士の意識のマップを解説した記事です。この in SPIRE では当初から前提となる基礎知識として、博士の「パワーか、フォースか」を挙げていますが、あらためて基本的な情報に立ち返って説明してみました。

 

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もう一つは以前にも記事にしている「存在に関する統合的な図表」についての解説です。内容的には過去の記事と重複している部分も多いですが、今回は図表にある情報をすべて網羅して解説しております。また、以前の記事は5年以上前のわたしの理解で書かれていますので、情報としては大幅にアップデートされていると思います。

 

どちらの記事も霊的な探求のためのガイドブックとしてとても役立つはずですので、ぜひお読みください。簡潔ですが今回はこれで以上になります。

 

次回は多次元的な存在としての人間についての記事になる予定です。それではまたお会いしましょう。

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キリスト意識からの啓示:ジョセフ・ベナーの著作「インパーソナルライフ」「あなたの内なるキリスト意識」の紹介

静まって、わたしこそ神であることを知りなさい

 「訂版 インパーソナル・ライフ あなたは神とひとつである The Impersonal Life Japanese Edition インパーソナル・ライフ・メッセージ」 ジョセフ・ベナー 著、大湾洋乃 訳

 

前回の記事では意識の個別性について解説しましたが、その理由のひとつは一般的に霊的な話題のなかで用いられる「真我」や「わたし(大文字の I )」という言葉がなにを指しているのかについて、探求者の間でのみならず、あろうことか彼らに霊的な智識を教えようとしている人たちの間においてさえ、混乱があると感じていたからです。わたし自身もこの In SPIRE や note の記事においてこれらの言葉について明確な定義を示していなかったので、あらためてその必要を感じたものでした。

 

その前回の記事はこちらです。

merciful.hatenablog.com

 

明確な定義と言っておいてなんですが、真理を言葉で完全に言い表すことは不可能です。言葉それ自体が全体から部分を切り取って(つまり分離させ)それらのものに名前をつけ、その名前のものについて語るものであるという性質上、真理(ひとつであること)について言葉を尽くして詳しく説明しようとすればするほど、皮肉なことにその説明は真理から離れていってしまいます。したがって、わたしにできることは読者のみなさんが自らの内面において真理を見つけるために必要な手がかりを提供することのみです。前回の記事では、文章による説明に加えて視覚的な情報として稚拙ながら図表をいくつか用意してみましたが、これがみなさんの理解に一役買ってくれていたなら幸いに思うところです。

 

さて、前回の記事でもほのめかしていましたが、そのようなものを書いたもう一つの理由がこの記事のタイトルにあるジョセフ・ベナーという人物による著作を取り上げるためでした。内容について紹介するまえに、先に書籍のAmazonリンクを掲載しておきましょう。

 

 

 

ジョセフ・ベナーという人物はおよそ100年前に生きていたアメリカのキリスト教神秘主義者ということですが、これまでわたしはその名前を知りませんでした。日本語で読める彼の本がいままでなかったわけですから、おそらくこの記事をお読みのみなさんもご存知なかったのではないでしょうか。彼についての情報はこれらの書籍の紹介ページに書かれているものしかないのですが、その著作であるこれらの書物の価値からすると、これまで知られていなかったのが不思議なくらいです。しかしながら、これはわたしの個人的な思いですが、だからこそこれらの書籍に書かれている情報がいま日本にもたらされることには大きな意味があるはずです。

 

それでは早速ですが、このジョセフ・ベナーの書籍の内容を一部紹介していきましょう。ちなみに「あなたの内なるキリスト意識」については作者は匿名とされています。当時、なんらかの事情があったのかと思われますが、後にこれがジョセフ・ベナーの作であることが明らかになっているようですので、ここではいずれもジョセフ・ベナーの著作として扱いたいと思います。

 

『改訂版 インパーソナル・ライフ あなたは神とひとつである』

 

いずれの著作も、その内容は神である唯一真実の主観としての「真我(神我)」「わたし」として直接、読者であるあなたに語りかけるものになっています。また、ところどころにおいては「わたし」は自らを「キリスト意識」であるとも語り、そしてその本質は「インパーソナルライフ(意識の境界を超えた存在:非個人的な意識)」であると明かしています。

 

前回の記事は、上に書いた文章の意味を前もって説明しておくためのものであったといってよいでしょう。すでにお読みくださっている方には、この文章についてさらなる説明は不要であるはずですが、ここですこし、おさらいと補足をしておきましょう。

 

Xiaomi Pad 6というタブレットで書いています。本当はiPad Air が欲しかったです。

これは前回の記事で用いた図表にすこし書き加えたものです。ピラミッド型の下2段は物質界に肉体を持って生きている個人的な意識といえる部分で、これをロウアーセルフとします。その上の段はコーザル体における個人的な高次の意識で、ここには各ロウアーセルフ(転生体の意識)のすべての経験の記憶があります。ロウアーセルフに対応して、これを個人的なハイヤーセルフとしています。

 

ピラミッドの頂点をなす最上段を「無限の集合意識」としていますが、前回の記事ではここに含まれるものとして地域や血縁、民族、国家そして種族の集合意識(集合魂)を挙げました。しかしながら、真相においてはこれらは意識の構造のほんの一部でしかないでしょう。思いつく範囲でも、星系(太陽系)、星団(プレアデス星団など)、銀河系、銀河団、超銀河団などがそれぞれ集合的な意識の単位として考えられます。そしてさらには、この宇宙そのものが無数に存在しているマルチバースの一つでしかないかもしれません。

 

こうしてみていくと果てしないですが、ポイントとしては、真相がどのようであれ神とはそのすべてであるということです。ということは、わたしたちがハイヤーセルフだと思っているものは、神とわたしたちを繋いでいる、この果てしのない意識のチャネル(経路)のどこかのことなのです。そして、わたしたちが神とつながっている、神とひとつであるのと同様に、いずれのハイヤーセルフも神とひとつです。ですから、「真我」や「わたし」とは神そのものであると同時に、神に連なるハイヤーセルフのことでもあるのです。いっぽうで、「インパーソナルライフ」というときは非個人性を強調しているので、神のことを指しているといえます。また「キリスト意識」というときは人類を神の意識へと導く高次の意識(ハイヤーセルフ)としての神の子の意識であると受け止めればよいでしょう。このように呼び方によってニュアンスは変わりますが、本質はすべておなじです。

 

繰り返しになりますが「すべてはひとつ」であり、それゆえ「あなたと神はひとつ」です。

 

神へとつながる無限のチャネルはあなたの内にあり、あなたとひとつです。このチャネルこそが「神の王国」へと至る道なのです。この書物において「わたし」は繰り返し丁寧に、すべてを「わたし」に明け渡しなさいとあなたを説得しますが、明け渡しとは、神とひとつであることを自分に赦すことです。別の言い方をするなら、この神へと至るチャネルを最大限に開き、そこから差し込んでくる神の光に自らのすべてを晒すことと言えるでしょう。この光によって幻想の自己である自我(エゴ)は焼き尽くされ、わたしたちは神とひとつであることを思い出すのです。

 

そうです。このインパーソナルライフという書は、神みずからが神の子であるわたしたちに、神とひとつであることを思い出させようとして届けられたメッセージなのです。

 

静まって、わたしこそ神であることを知りなさい。 わたしがあなたの中にいる事を知りなさい。わたしはあなたなのです。わたしがあなたの生命である事を知りなさい。全ての智慧、愛、力はこの生命の中に在る事を知るのです。それは実に今、あなたの存在全体を通し、惜しみなく自由に流れ続けているのです。 わたしこそが、全ての存在の中のその生命、知性、力であるのです ― あなたの細胞のひとつひとつに、それは存在するのです。鉱物の細胞の中に、植物、動物の細胞の中に、それは存在するのです。火の中に、水の中に、空気の中に。太陽の中に、星の中に。わたしはあなたの中に、そして彼らの中に在るもの。彼らの意識はあなたの意識とひとつであり、そして、全てはわたしの意識なのです。彼らの中に在るわたしの意識によって、彼らの持っているもの、彼らであるところのものは、全てあなたのものなのです ― あなたがそれを求めるならば。

(太字はわたしが強調したものです)

 

この一文に、そのメッセージの大要が示されていると思います。全編にわたって素晴らしい内容なのですが、ここではもう一箇所だけ引用しましょう。

 

人であれ、霊的存在であれ、あらゆる教師やガイド、マスターや天使といった存在は、完全性そのものであるわたしの部分的顕れに過ぎないのです。全知全能にして遍在するわたし、全存在の背後に在る霊的イデアそのものであるわたし ― つまりは、あなたの中の神へと、直接向かい合う事ができるというのに、なぜあなたは、そういった部分的存在たちを求めているのでしょうか。

 

すべての源は神であり、すべての現れは神の一部であるということ。先ほど上の方で説明させてもらったのも、この引用文と同じことを言っています。この記事を書いているわたしも、神の言葉がこの肉体精神機構を通して降りてくる神の部分的顕れであるといえますが、実際にはただのおじさんなのです。ただのおじさんに、それが起きているだけなのです😉

 

ところで、このBLOGの正式な名称は「 in SPIRE 内なる声をきく 」というものです。これはBLOGを開設した当初からのものですが、わたしがみなさんにお伝えしたいことの一番の要点はこのこと、つまり、わたしたちは神とひとつであること、わたしたちは内なる神とつながっているということです。このジョセフ・ベナーの著作はまさにその点においても、わたしがここで紹介しなくてはならないものでした。

 

 

『あなたの内なるキリスト意識 ―キリスト意識の覚醒による神との境界の消滅について―』

 

さて、続いてもう一冊の著作について紹介しましょう。

 

あなたの覚醒は神によって定められたものであり、神聖なシナリオに記されたものであるという事、これを真に知ってほしいのです。そうです、しっかりと覚えていてください。あなたは神のシナリオの中の存在であり、実に、何も心配すべきことはないのです。心配事、恐怖感、罪悪感、劣等感、こういったものの全ては、神に属するものではありません。これらの全てが「偽我」という、偽りのエネルギーに由来するものであり、即ち、元来存在しないものなのです。

 

「あなたの内なるキリスト意識 ―キリスト意識の覚醒による神との境界の消滅について―」
 ジョセフ・ベナー 著、大湾洋乃 訳

 

こちらの「あなたの内なるキリスト意識」でも「インパーソナルライフ」と同じく、神であり真我でありインパーソナルな意識である「わたし」が様々に語りかけてくれます。基本的に語り口も「インパーソナルライフ」と同様ですので、実質的に続編というか、そのまま続きであると思っていただいてよいでしょう。

 

内容としては、「インパーソナルライフ」ではわたしたちが神とひとつであることを示すものであり、「あなたの内なるキリスト意識」では、なぜそのことをわたしたちは忘れてしまっているのか? ということについて語られています。この「あなたの内なるキリスト意識」に書かれている「偽我」についての情報は非常に重要で、なおかつあまり知られていないものです。

 

非二元(ノンデュアリティ)の文脈において、悟りを妨げているものはエゴ(偽りの行為主体である幻想の自己)であるとされています。このエゴは肉体精神機構(肉体と精神の総体)とイコールにみることもできますし、エゴ=肉体精神機構=カルマという等式を示すことも可能です。いずれにしても、幻想にすぎないエゴを実存であると錯覚してしまうがゆえに人は二元性にとらわれて真理から遠ざかっているというのが非二元の界隈で語られていることですが、幻想であるというまさにその理由によって、エゴについて深く追求することはほとんどありません。ですので、ほとんどの人はその由来と正体について知らないし、気づいてもいないことでしょう。

 

上の引用文において触れられている「偽我」の説明は、この非二元文脈におけるエゴのことと言って差し支えありませんが、本書で語られている「偽我」の素性はそれだけにとどまりません。

 

そして、この事を覚えていてください。偽我という存在は、実は、ひとつしか存在していません。あなたの意識に巣食ってきた偽我のエネルギーは、他の存在達に巣食ってきた偽我のエネルギーと全く同じものであり、ここにも、実は分離というものはありません。

 

ここで、偽我が個人的なエゴという概念ではなく、集合的な意識エネルギーであることが示唆されていますね。まったくの話、そもそもすべてはひとつなのですから、幻想の主体であれなんであれ、それも全体とひとつなのです。したがってエゴもまた、それは個人的な幻想ではなく、非個人的で集合的な幻想であると理解されなくてはいけないのです。しかしながら、偽我の正体はそれだけではありません。

 

あなたのこれまでの思考形態の殆どの部分が、偽我が集合して構成した意識、つまり偽我の集合意識体によってできた思考母体を基にしたものであったのです。そして、この思考母体・マトリクスは、非常に強固な意図を持っているのです ― 神を否定し、そして神なるものを模倣し、偽の神を作り上げ、それに人類の意識を集中させることにより、真の神を人類の意識から排除しようとする意図 ― 偽我は、その非常に強固なエネルギーによって、時間というものが始まったその瞬間から、この意図をずっと固持してきたのです。

 

 

改めて伝えます、外側の世界を支配しようとしてきた存在、それは集合的偽我のエネルギーであり、それらは霊的次元からはたらきかけ、人類から神を、内なる「わたし」を隠そうとしてきたのです。集合的偽我は霊的次元の存在ですが、それが影響を及ぼせる次元は、主に物質次元です。つまり集合的偽我、そしてあなたの中に巣食ってきたあなたの偽我、この両方が、物質的次元に起こるあらゆる現象を操る事によって、内なる神の声をかき消し、偽りの時間を引き伸ばしてきたという事なのです。

 

ホーキンズ博士の「 I <わたし> 真実と主観性」では、アストラル領域に存在するエンティティ(霊)について言及されています。アストラル界の意識レベルの上限は500とされているのですが、ここで注意喚起されているのはより下方のレベル、すなわち地獄と呼ばれるような領域にいるエンティティ(意識体)の危険性です。そのようなエンティティの中には非常に強力な存在もいるようで、そのような存在の誘惑や脅しによって、一般的には意識レベルが転落しないとされている540以上の人物が200前後にまで堕とされてしまうこともあるようです。

 

本書で明かされている「偽我」の正体とは、つまりこのアストラル界にいる低い意識(アトラクター)のことであると考えてよいでしょう。ホーキンズ博士はアストラルについては詳細は語らず、とにかく関わるなと述べていました。アストラル界については、そのはじまりも含めてわたしもほとんど無知ですが、関わるべきでないものについては知らないほうがよさそうです。ちなみにですが、その意味では意識レベルが十分に高い(500以上)人を除くと、サイケデリクスを使用することには常に危険がつきまとう可能性が高いです。

 

これからこの本を手にしてみようという方は、この偽我について、非二元でいわれるエゴと比較しながら読んでみるように、おすすめします。それはとても有益な経験となることでしょう。また、こちらの本は章の終わりごとに聖句とともにそれを熟考するための瞑想が設定されています。あわてて先を急がず、章ごとの内容をこの瞑想によって腑に落としながら、ゆっくり読み進められるのがよいでしょう。

 

ジュニャーナとバクティについて

 

ラメッシ・バルセカールは「ジュニャーナ(智慧の道)はいずれ極まるとバクティ(帰依・明け渡しの道)と同じになります」と言っていました。わたしはジュニャーニ(智慧の道を行く人)でしたし、いまこうしてわたしが書いているものも基本的にジュニャーニの人に向けたものです。しかしながら、このところのわたしは以前よりは敬虔な人間に変わってきたと感じています。敬虔といっても、具体的な名前のある神や特定の宗教を信仰しているわけではもちろんありません。ただ、自らの内に神を感じ、外側の世界にも神の意志が顕現していることを知覚できるようになるにつれて、自らよりも高いもの、大きいものに対して自然と頭が下がるようになり、また、その高いもの大きいものと自分がひとつであることに喜びを感じられるようになってきたのです。

 

わたしの意識が目覚めはじめたのは人生のどん底にあって、エゴである自分の愚かさ、未熟さ、無能さを思い知ることになった時からですが、それでも当時はまだ簡単に明け渡すものかという抵抗心があったと記憶しています。それから14年ほど経ったいま、気がついてみれば神のために神の言葉を受け取ってそれをこうしてお伝えすること以外にはほとんどなにもしない人生を送るようになっていました。

 

わたしが思うに、エゴ(偽我も)は敵ではありません。エゴにはエゴなりの動機と目的があるのですから、感情を押し殺したり、欲望を無視したりしていては却って意識レベルの上昇を妨げます。カルマはそれが燃え尽きるまではずっとその人を苦しめるので、いっそのこと最大火力で焼いてしまうのが一番早いのです。しかし、かといって探求の途にある人がそのような生き方をすることには罪悪感があることでしょう。思いのままに生きても罪を感じ、思いを抑え込んで生きても鬱屈して歪むとなれば、いったいどうすればよいのでしょうか? 智慧の道の、とくにその道の半ばまではこのジレンマに苛まれ、なかなか思うようには進めないと思います。

 

誰であれ、その人に覚醒なり悟りなりが起こるとき、例外なくそれは神の恩寵によるものです。なぜならすべての肉体精神機構はただ神だけがそれを生かし、思考させ、行為させているのですから。であるなら、智慧の道を行く人がこのジレンマに打ち勝てたとすれば、それはその人が成し得たのではなく、神がそのようにしたのだということです。これが神の恩寵です。

 

ジョセフ・ベナーによるこの二冊「インパーソナルライフ」と「あなたの内なるキリスト意識」は、神自らが教えるバクティ(明け渡し)の教科書といってよいでしょう。これらの書がいまこのようにしてわたしたちの手が届くところにもたらされた意味は、この日本で探求を続けている人たち(そのほとんどがジュニャーナでしょう)の多くにとって、明け渡しを学ぶことが必要であるということでしょう。

 

もっとも、同じように明け渡しの重要性を伝える霊的な情報としては奇跡講座バガヴァッド・ギータもすでによく知られています。これらの書ももちろん非常に優れていますが、ジョセフ・ベナーの著作が素晴らしいのは誰でも読めるくらい平易な表現でありながら、とても説得力のある文章で語られているところと、ボリュームがコンパクトであるところです。それゆえ、奇跡講座やバガヴァッド・ギータに比べるとおすすめしやすいですし、読まれる方にとっても内容を理解吸収しやすいはずです。ですから、ぜひ読んでみてください。

 

さて、他にもまだまだ引用したくなるような文章がたくさんあるのですが、それはみなさんが本書から直接読んでいただくこととして、わたしからの紹介はこれで終わりたいと思います。ひとりでも多くの方がこの二冊の本を読んでくださることを願います。

 

静まって、わたしこそ神であることを知りなさい――

 

最後になりましたが、これら素晴らしい霊的な情報を発掘され、見事な翻訳によって世に出された大湾洋乃さんに感謝いたします。今後出される予定の本も楽しみにしております🙂

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

どこまでを自我(自分)と捉えるべきか? :意識における個別性の構造について

(画像があるのでスマホではブラウザでの閲覧をおすすめします。はてなアプリでは拡大表示ができません。できればタブレットやパソコンでご覧ください)

 

すべてはひとつである。これが真理です。

 

ここから「分離はない」ことや「行為主体の不存在」「世界の見かけは幻想である」といったことが言われます。すべてがひとつであるなら、分離した行為の主体たる個人は存在しませんし、そのような個人がそれぞれに人生を送っているように見えるこの世界は当然ながら幻想というしかありません。このことについては、これまでの記事において様々な観点からお話してきましたので、ここではさらに踏み込むことはしません。というより、すべてはひとつである以外に真理と呼ぶべきものはありませんので、それ以上に踏み込んだ話というものはないのです。

 

しかしながら蛇足として述べておくとすれば、すべてはひとつであるというとき、そのひとつであるすべてのものとは「意識」です。意識(consciousness)とは「気づき」のことで、なにかがなにかに気づくということを意味する言葉ですが、量子論によれば物質が存在しているのは観察されている(=気づかれている)からだということが分かっています。すなわち、この世界が存在している基盤は気づきであり、意識であるということです。また、意識が存在の基盤(究極のコンテクスト=源泉=神)であるということは、意識には複数形はあり得ないということを示しています。なんであれ、なにかが複数ある場合、それは分割されたコンテント(中身、内容)であり、コンテントである時点でそれは幻想なのです。

 

コンテクストとコンテントという概念はデヴィッド・R・ホーキンズ博士の「 I <わたし> 真実と主観性」の中で詳しく述べられています。わたしのこれまでの記事において「焦点とそれ以外」という言葉を使っていることがありますが、焦点とはコンテントのことで、それ以外がコンテクストのことです。人間の知覚はコンテントを想定しないと考えたり話したりできないようになっているのですが、これが二元性という幻想を生み出す根源的な理由です。もういちど整理すると、コンテントとはコンテクストという全体性から部分を切り出した(分割した)ものなので、それは真理ではないのです。つまり幻想であるということです。

 

さて今回は、このコンテントの幻想性を考えるうえでおそらく最も重要と思われる「わたし」という概念について取り上げたいと思います。この「わたし」という概念については以下の記事でもいちど書いていますが、そこでは「わたし」が幻想であるということを示すにとどまっています。

 

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あらためてこの「わたし」について取り上げるのは、一つには用語の定義をここで整理しておきたい(理由は次回の記事で説明します)のと、もう一つには、一口に幻想とはいっても、この「わたし」、つまり自分という観念には複雑な構造があり、この構造を理解したうえで用語をただしく使い分けないことには、話が通じないからです。

 

用語の定義の問題は、この記事においてもすでに生じています。というのも、ここまでのところで用いている「わたし」と、ホーキンズ博士の著作の表題における <わたし> は、同じものを指していないからです。「わたし」は一般的に人々が自分を指していう主語としての「わたし」です。しかし、博士がこの本のなかで用いている <わたし> とは唯一無二の真の主観性という意味でのわたしです。言い換えると、<わたし> とは神のことであり、源泉のことであり、ひとつである意識のことです。ちなみにホーキンズ博士の原著においては「わたし」は小文字の i として表現され、<わたし> は大文字の I となっているようです。

 

すべては一つの意識ですから、見かけ上、人間は個個別別に存在し、それぞれが独自に思考しているように見えますが、本当はこの一つの意識であり源泉である神だけがすべての肉体精神機構を用いて思考しているのです。これが自由意志はないということです。

 

さてここで、自由意志のない「わたし( i )」のことを、自我とあらためて呼びなおすことにします。もちろんこれはエゴと呼んでも構わないのですが、日本語においてエゴと言うときには自我のもつ自己中心性という性質が強調されがちなので、あくまで幻想としての個別性、個人性と一体化している意識という意味だけを持つ用語として自我を採用することにします。また、自分という言葉を用いるときは、この自我がそれ自身を指しているものと理解してください。すなわち、自我も自分もほぼ同じと思っていただいて差し支えありません。

 

一般的に自我(自分)というとき、それはいわゆる顕在意識のことを指していると言えます。これに対して潜在意識は、それ自体がまだまだ詳しくはなにも分かっていないのですが、意識の個別性ということを考えたとき、この潜在意識も間違いなくその肉体精神機構に属するものですから、自我の構成要件であると言えるでしょう。では、自我は顕在意識と潜在意識の合計で、それですべてということでしょうか? いえいえ、自我はそんなにちっぽけなものではないのです。

 

ここで、ハイアーセルフという概念をみてみましょう。ハイアーセルフは日本語でいうなら「高次の自己(自我)」となりますが、高次の自我ということはそれに対応する低次の自我というものを前提にしているわけですね。ここでは高次の自我とはなにか? ということはちょっと置いておいて、先にこの低次の自我について明確にしておきましょう。さきほど顕在意識と潜在意識について触れましたが、これは心理学的な分類です。では顕在意識にせよ潜在意識にせよ、それらはどこからやってくるのか? というとき、心理学は医学的なところに根拠を求めるよりありません。すなわち、それは肉体の脳にあると。

 

もちろん、物質的な観点でいえば、この説明は間違っているというわけではありませんが、すべては一つであるという話をしているわけですから、それらの説明もまたコンテントであり、幻想であると考えなくてはいけません。では幻想ではない観点はというと、それが霊的な観点です。これは重要なことですが、霊的なこと、つまりスピリチュアリティとは「すべては一つである」ということであって、それ以外の意味で使われているスピリチュアルはすべて誤りです。

 

すべてである一つのもののことを神と呼ぶことについては、これをお読みの方にはすでに十分ご理解いただけていると思いますが、ここでこの「すべてである一つもの」の別名に「スピリット」を加えてみてください。スピリットは霊のことです。キリスト教的な説明をすれば神と霊(聖霊)と神の子は三位一体、つまりおなじものです。つまり、神がすべてである一つのものであるなら、スピリットはすべてが一つであることの象徴とみなせるわけです。エセスピリチュアルがスピリチュアルと呼んでいるものはすべてコンテントでしかありません。

 

話を戻しましょう。霊的な観点では、この顕在意識と潜在意識を生み出しているのはアストラル体とメンタル体であるという説明がなされます。アストラル体もメンタル体も、肉体とは別に存在している人間存在の体(ボディ)であり、肉体が物質界に存在しているように、アストラル体はアストラル界、メンタル体はメンタル界と呼ばれる次元密度(周波数帯)に存在しているとされています。また、順番的にはメンタル体の基盤の上にアストラル体が存在し、アストラル体の基盤の上に肉体が存在しています。(肉体が存在するためにはエーテル体と呼ばれる肉体の青写真が必要ですが、ここではエーテル体については省略します)

 

アストラル体は感情や情緒を司り、メンタル体は論理的な思考を司っています。そしてアストラル体から発生した感情や、メンタル体が生み出した思考を、肉体の脳やその他の器官が受信して、それを物質界に表現しているのです。

 

この肉体+アストラル体+メンタル体という構造は、物質界において、ある時間のある場所で人間という存在が機能するためのものですが、この構造のことをここで「転生体」と呼ぶことにします。人間の魂は輪廻転生を繰り返していると言われていますが、個々の転生体には通常、別の転生の記憶はありません。おなじ魂のべつの転生の記憶を持っているのはより高次のコーザル体であるとされています。つまり、コーザル体は複数の転生体を束ねて統括している体ということができるのですが、その意味でいけばコーザル体こそが人間の魂であると言ってもよいかもしれません。また、個々の転生体を統括している立場から、転生体の自我になんらかのメッセージを思考や感情という形で伝えることも当然可能でしょうから、その意味ではコーザル体をハイアーセルフだとみなすこともできます。

 

つまり、コーザル体=魂=ハイアーセルフというわけですが、これでもまだ正確ではありません。より正しくはコーザル体=魂=ハイアーセルフ(の一部)となります。ここで図を用意しましたのでご覧ください。

 

 

低次の自我(ロウワーセルフ)と高次の自我(ハイアーセルフ

※最近、専用ペンで絵を描いたり手書きのメモをとれるAndroidタブレットを買いました。この図はそれで描いた第一弾です。今まではパソコンでワープロの作図機能を使って図を描いていましたが、めちゃめちゃめんどくさかったのでやめました。

 

この図はここまでの説明を可視化したものです。霊的なボディ(微細身)について描かれた様々な絵がありますが、どれもこれも肉体の外側にアストラル体とメンタル体とコーザル体が描かれていると思います。もちろん、それは間違ってはいないのですが、その表現だとコーザル体が複数の転生体を包摂していることが伝わらないのですね。もちろん、この図にしても概念図であり、コーザル体は時空を超えたところで存在しているわけなのですが、このように表現したほうがより実相には近づけると思います。

 

さて、コーザル体は転生体の自我にとっては確かにより高次の自我といえます。しかし、ではコーザル体は神と直結しているのかというと、どうやらそうではないようなのですね。ここでさらに別の図をご覧ください。

 

 

意識の個別性の構造

 

このピラミッド型の図における、下の二段の部分が個々の転生体における自我の構造です。ここまでの説明では触れてきませんでしたが、転生体の自我(ロウワーセルフ)はさらに低次の自我と高次の自我として区別することができます。低次の自我とは大雑把にいえば意識レベル500未満の自我のことであり、高次の自我は500以上の自我ということができます。アストラル体(感情体)はアストラル界に存在していると書きましたが、アストラル界の意識レベルは上限が500です。つまり、アストラル体に支配された感情そのものや感情混じりの思考によって構成されている自我は意識レベル500よりも低い領域にあるということです。メンタル体が活性することによってアストラル体が賦活されると、無条件の愛や慈悲といった高次の感情が表現されるようになりますが、そのようになった自我は意識レベル500以上で測定されます。

 

この図においては、転生体の自我における意識を区別するために低次の自我と高次の自我という用語を用い、なおかつ高次の自我をハイヤーマインドと呼びました。よって、コーザル体における自我をそれらと区別するために高次の自己ハイヤーセルフとしてあります。ハイヤーマインドはあくまで転生体の自我のあり方の一つですからハイヤーセルフとは異なります。しかしながら、低次の自我に比べるとより強くハイヤーセルフからの影響を受けているということはできるでしょう。

 

図のピラミッドの三段目はコーザル体の領域です。ここでは高次の自己としていますが、個人性、個別性を帯びているという意味では高次の自我と呼んでも構いません。コーザル体の意識においても「自分」という感覚は当然あるはずですからね。

 

さて、ピラミッドの一番上は「無限の集合意識」となっています。集合意識とはコーザル体のさらに上位の体といってよいものですが、この領域になるともはや「体」という表現は適切ではないかもしれません。ただ、言えることはある集合意識を一つのユニットとすれば、このユニットが集合したさらに大きな(上位の)集合意識があり、この構造は無限に続いているということです。そして、その無限の構造の全体を指して神と呼んでいるわけですが、神はすべてであるがゆえ、そこにはどんな個別性も個人性もありません。逆にいえば、わたしたちには想像もつかないような超々高次の集合意識でさえ、そこには個別性や個人性がかすかにせよ、存在しているということになります。

 

それを表しているのがピラミッドの左にあるオレンジ色の下向きの矢印です。下にいくほど個別性、つまり分離の度合いが高まります。転生体である物質界のわたしたちは個別性MAXというわけですね。また、分離の度合いと意識レベルは反比例の関係にありますので、ピラミッドの上部へ行くほど意識レベルは高まっていきます。それを示しているのが紫色の上向きの矢印です。

 

このような構造はもちろん単なる観念であり、実際にはわたしたちの想像と理解を超えるような仕組みになっているとは思いますが、さりとてわたしたちなりに真理を理解するためには、これで問題はないでしょう。いずれにしても、真の主観性である神の意志がこのピラミッドの構造を貫通して、もっとも低層にいるわたしたち人間の自我へと思考や感情という形で現れているのだということをご理解いただければ幸いです。ではここで、同じ概念をまた別の図でみてみましょう。

 

 

マインドマップの正しい使い方ではありません

 

先の図と基本的にはおなじことを描いていますが、宇宙全体の意識のマップという意味ではこちらの方が分かりやすいでしょうか。先の図では集合意識と呼んでいますが、集合意識とは魂の集合のことですから、集合意識=集合魂です。集合意識ではなく集合魂と呼ぶことによって、意識の個別性・個人性が継続していることもイメージしやすいかもしれません。実際、個別の魂(コーザル体)のすべてが神とつながっている(ひとつである)のです。この図はそのつながりを表現しています。

 

このつながりから、コーザル体のみならず、より高次の集合魂のこともハイヤーセルフとみなせることが分かります。例えばですが、過去性を思い出したりするときはコーザル体の意志を受信していると考えることができますが、神の啓示と考えるしかないようなインスピレーションはそれよりも遥かに高次の集合魂から降りてきているということです。もっとも、そのどちらも元を正せば神の意志ですけどね。ただ、神には個人性がありませんから、転生体の自我に降りてくるメッセージはすべて、個人性を帯びた意識(自我)であるコーザル体から高次の集合魂というハイヤーセルフ領域のどこかからやってきたという形をとるわけです。

 

これで、意識における個別性の構造については、わたしが説明できることのおおよそは書けました。最後にひとつ、余談をしてこの記事を終わりたいと思います。

 

ラマナ・マハルシが教えた真我探求(アートマ・ヴィチャーラ)という技法があります。これは日本では(日本語に翻訳された書籍では)「わたしは誰か?」と問いなさいというものとして伝えられています。しかし、ラマナ・マハルシが実際に言っていたのは「わたしは誰か?」ではなく「わたしとはなにか?」を問いなさいというものでした。このことについては他でも書いていますが、これは通訳ミスによって生じた違いです。なぜわたしがこのことを知っているかというと、それはラマナ・マハルシに実際に師事していたラメッシ・バルセカールが著書においてそう述べているからです。

 

それはともかくとして、「わたしは誰か?」と問い続けたら、なにが導かれるでしょうか? これはとても簡単な話で、誰かと問うている以上、答えは誰か個別の存在になるはずですね。つまり、この問いでは「この現在の自分ではない本当のわたし」なるものを探してしまうわけです。その本当のわたしとは、過去生のいずれかにおける自分のことであったり、あるいはその上位にあるコーザル体、つまり自分の魂のことであったりします。というより、誰か? と問う限りはそういった答えにしかなり得ないのです。それはつまり、先ほどのマインドマップ図においてハイヤーセルフの領域とした部分のどこか、というわけです。

 

しかし、すでに説明した通り、その誰かがどれほど高次の集合魂のことであったとしても、それはコンテントなのです。コンテントであるということは、それは幻想だということでもあります。したがって、「わたしは誰か?」と問うやり方では、真我であるところの神にはたどり着けないことが自明となりますね。つまり、この問い方は真我探求ではないということです。

 

一方、「わたしとはなにか?」と問うとどうでしょうか? わたしとはなにか? という問いは、正確には「このわたしという感覚、観念の正体はなにか? それはどこから来ているのか?」ということです。つまり、わたしという自我はどのようにして発生しているのか? わたしはわたしのことをいつどのようにしてわたしであると認識しはじめたのか? 認識しはじめる瞬間があったとするなら、それ以前のわたしはわたしではなかったのか? などなどと深く考えていくものであり、特定の誰かを探すものではありません。

 

この「わたしとはなにか?」という問いによって得られる最終的な答えが、ここで紹介したピラミッド型の図やマインドマップに表現された「意識の個別性の構造」の全体像です。この全体像が得られることによって、はじめてその全体そのものであるところの「神=真我」が見つかるわけです。真我の意識はハイヤーセルフ領域を貫いて自我へと到達するため、ハイヤーセルフからのメッセージを真我のメッセージとみなしても間違いではありませんが、この全体像を理解しているといないとでは、受け止め方がまったく違ってしまうのですね。

 

次回の記事では、この真我から降りてきたメッセージの実例を紹介したいと思います。それでは、読んでくださってありがとうございました。

思考は止められない、という話

こんにちは。まだまだ暑い日が続いていますが、大阪では朝のうちはすこし涼しくなってきて、秋の訪れを感じられるようになってきました。

 

前回の記事では意識レベルの上昇に伴って知覚がどのように変化していくか、ということについて、わたし自身の経験していることを書かせていただきました。この記事では主に視覚についてとりあげて説明しましたが、おなじような変化は聴覚にも生じています。ただ、味覚や触覚というものはその性質上、焦点が拡大していく様子はあまり感じられませんね。

 

さて、その記事のなかでわたしは思考がどこからかやってくるもので、決して自分でそれを考え出しているわけではない、ということも知覚できるようになってきました」と書いています。こう言うと、おそらくほとんどの人は「そんなわけあるか!」と感じることでしょう。それはそうでしょう。わたしもずっと思考は自分の頭で生みだしているものだと、なんの疑いも持たずに生きてきましたから。

 

しかし、これについては比較的簡単に検証してみることができます。まず、本当に自分の頭で、あるいは自分の意志で思考を生みだしたりコントロールしたりできるのであれば、その逆のこと、つまり「なにも考えない」ということも簡単にできるはずです。はい、それではやってみてください。10秒間でよいですから、まったくなにも考えないようにしてください。

 

できましたか? できないはずです。できたと思った人は「なにも考えないぞ」という思考を見逃しているだけです。

 

それでは次のチャレンジはこうです。

 

「猫のことは考えないでください🐈」

 

できますか? できませんね? どうやったって、🐈のことを思い浮かべてしまいますね。そんなのずるい! と感じましたか? だって猫って言われてからそれを考えるなって言われたって無理やんか! と思いましたか? そうですよねえ🙂

 

ここで言いたいのは「それを考えるなって言われたって無理やんか!」ということです。つまり、思考をコントロールすることはできないということです。お分かりでしょうか。

 

以前 note の記事に、このように思考について調べてみるためのインストラクションをすこし紹介しましたが、それをこちらにも載せておきますので、ぜひ試してみてください。

 

なにかを思い出そうとして思い出せないということがあります。これについて熟考してみてください。思い出す、というとき、あなたはなにをしているでしょうか? 脳の中のどこかに存在する記憶のデータを検索しているのでしょうか? そんなことをどうやって脳に指示しているのでしょうか?

また、そのとき思い出せなかったことが、しばらく時間をおいて、ふと思い出されるということもあります。このとき、ふと思い出したことについて、あなたはなにかしたのでしょうか?

なにかを急に思いついたことはありませんか? アイディアが突然うかんできたことはありませんか? インスピレーションが湧いたことはありませんか? こうしたとき、あなたはそこで、なにをしましたか? なにかしていましたか?

これらについて考えてみてください。これが調べてみるということです。そして次に、こうしたことと、普通に「考える」ということとを比べてみてください。そこに違いはあるでしょうか? もしも、どこにも違いがないのだとしたら、どういう結論になるでしょうか?

 

いずれにしても、意識レベルが高まっていくにつれて気づきが増していくと、思考があらわれるその瞬間が分かるようになってきます。ヴィパッサナー瞑想をやっている人は、浮かんできた思考や感情や感覚にラベリングするよりも、それぞれの思考や感情や感覚が「浮かんでくる」その瞬間を精密に捉えるように取り組んだほうがよいです。ラベリングは「気づいている」感は得られますが、やればやるほど分離を強めていくので、わたしはお勧めしません。存在するすべては意識であり、意識が存在するすべてなのに、ラベリングをやっている限りは観察している意識があり、「それとは別に」観察されている思考や感情や感覚といった「あれこれ」が存在するということになり続けるからです。

 

さて、それではこの思考はいったいどこから「やってくる」のでしょうか。ひとつの考え方としては「潜在意識」からという答え方ができるでしょう。これは間違ってはいないと思います。でも、潜在意識とはなんなのかについての本質的なことは実はなにも分かっていないのが現状の科学です。

 

とはいえ、思考が潜在意識とわたしたちが呼んでいるものを「経由して」顕在意識に浮上してくることは確かだと思います。なぜなら、それは知覚できるからです。そのことをこれから説明していきますが、その前にひとつ指摘しておくと、たしかに思考は潜在意識を経由してやってきますが、潜在意識という場において思考が生成されているのではないということです。

 

では、思考はどこで生まれて、それから潜在意識をくぐり抜けるのかというと、それはメンタル体です。メンタル体はアストラル体とともに人間の霊的な体で、この物質次元における肉体だけでは人間は生きることができません。メンタル体は思考、知性を司っていて、アストラル体は感情、情緒を司っているとされていますが、もちろん、これらの話は科学的にはまったく証明されていません。

 

しかし、わたし自身は20年くらい前に当時合法ドラッグとして流通していた 5meo-DMT という、いわゆるDMTよりも強力とされるサイケデリクスを試したことがあるのですが、その際にアストラル体とメンタル体のいずれか、もしくは両方の一部(頭の右上30センチくらいのところ)に穴が開いてしまった経験があるので、こうした微細身体(オーラボディ)が実在することを知っています。この経験について詳しくは書きませんが、この穴が開いたことによって、肉体から離れた場所に知覚が発生したのです。それは触覚に近いもので、実際それから一ヶ月くらいはそのあたりに手をやるとゾワゾワする感覚がありました。ちなみに、これはあまりよろしくない状態だったと思いますが、実際にはなにも問題は起きませんでした。むしろ、その後のわたしにとっては貴重な霊的体験のひとつだったと言えます。

 

話がそれてしまいましたが、いずれにしてもメンタル体やアストラル体はこの物質次元ではない場に存在しているので、そもそもそれらを科学的に検知することも今のところは不可能ですし、そこでどのようにして思考や感情が生み出されているのかを知ることはなおさら無理です。

 

しかし、メンタル体で生み出された思考がどのようにして顕在意識に浮上してくるかは、ある程度推測できることです。まず、メンタル体やアストラル体からの情報エネルギーは、肉体の青写真であり、霊的なエネルギー供給用のボディともされるエーテル体へと、チャクラを通してやってくるものと思われます。そしてエーテル体から、やはりチャクラと経絡(あるいはナーディ)を通じてそのエネルギーが肉体へと届けられます。このエネルギーを思考や感情という形に解釈して顕在意識に展開するのは肉体の全細胞に存在しているDNAと、脳です。

 

DNAは単なる遺伝情報の記憶媒体ではなく、人間存在をこの物質次元に存在させるためのアンカーであり、さらにより高い次元からのエネルギーを情報として受け取るための受信機でもあると、様々なチャネリング情報などから、わたしは思っています。脳も同様に受信機であり、また同時に、人間の知覚をこの物質次元の周波数帯域に限定するためのリミッターでもあると考えています。ここではDNAはおもに感情を、脳は思考を受信していると考えてください。

 

脳がリミッターであるという考えについてはもうすこし説明しておきましょう。一般的には、脳があるからこそわたしたち人間はその感覚器官から受け取った情報をもとに世界を解釈し、認識できるのだと考えられています。これは確かにその通りなのですが、裏を返せば、感覚器官と脳が処理できる周波数帯に存在するものしか、わたしたちは認識できないということです。犬の嗅覚が人間の何十倍も優れているということをみても、匂いにおいて犬の鼻は人間の鼻よりも、広い周波数帯の情報を受信できるということが分かりますね。

 

DMTやシロシビンなどのサイケデリクスを摂取した際に、別の次元の存在と出遭うことがしばしば報告されています(わたしも報告しています)が、それが意味しているのは、サイケデリクスは一時的にこの脳やDNAのリミッターを多少緩めてくれるということです。アストラル界や天界はこの物質次元とは異なる周波数帯にあるものの、さりとてそんなにかけ離れた次元でもないので、脳やDNAに課されていた制限が緩まると、そこを一時的に垣間見ることができるわけです。

 

ラジオの周波数ダイヤルを回すといくつもの異なる放送にチャンネルを合わせることができますね。つまり、いくつもの放送が同時にわたしたちのいるこの場所に混ざりあったりぶつかりあったりすることなく存在しているわけですが、生身の肉体ではもちろんそれを検知できません。しかし、ラジオのダイヤルを合わせばそれらは言葉や音楽といった情報をもつ「世界」として視聴できるようになります。これと同じように、普段は目にも見えないし触ることもできませんが、アストラル界や天界はこの物質次元と織り重なるようにして常に存在しているのです。脳やDNAは、いわば物質次元だけにチャンネルをあわせたラジオといってもよいでしょう。

 

ですから、人間の体はつまるところ、アストラルや天界を認識できないように「設計」されているというわけです。肉体そのものが物質次元に人間存在を固定するための装置であり、その要となっているのがDNAと脳です。

 

また話を戻します。こうして見てきたように、脳はそもそもが受信機なのです。正確には受信機であり、かつ解読機(デコーダー)でもあります。メンタル体から受信したエネルギーを言語情報(思考)に解読するのが脳の役割です。

 

ここで、意識に水面があり、水面下を潜在意識、水面の上を顕在意識であると想像してみてください。

 

メンタル体からやってきた思考の元になるエネルギーはこの水の底、つまり潜在意識の最深部から浮かび上がってきます。そして、水面に近づくにつれてすこしずつ思考という形態に変換されていくのですが、このエネルギーが水面から飛び出たとき、その人の顕在意識には思考が言語化された状態で浮かんでいるわけです。

 

気づきの度合いの低い人、意識レベルでいえば400台以下の人は、ほとんどの場合、浮上してきたこの思考に、自動的に一体化してしまいます。この人にとっては今しがた説明した意識の水面は認識されておらず、ただただ思考があらわれ、あらわれると同時にそれと一体化しているため、まさに自分がその思考を作り出しているという経験をしています。これはあくまで比喩ですが、この状態の人の意識の水面は非常に波立って荒れています。そして、ある思考と一体化している間にも、他のいくつもの思考が水面から浮上してきていて、ひとつの思考が再生終了したり、なにかのきっかけで中断されても、すぐに他の思考と一体化してしまいます。

 

こういう状態のことをよく「自動思考」といって、自動思考が止まらないことで苦しい、辛い、眠れないといった話がされていると思いますが、この「自動思考」という言葉は誤りです。なぜなら、すべての思考は例外なく自動的にやってくるものだからです。逆にいえば、自動ではない思考などはありません。これは冒頭のところでお話した通りです。正しくは「思考と自動的に一体化してしまうこと」を止められないことが問題になっている、というわけです。

 

頭の中で特定の歌のフレーズが鳴り止まないということがあると思います。音楽も記憶としては思考の一種ですが、これがガンガン鳴っているときはそれと一体化しているわけです。そんなときでも、誰かと話したり、特定の用事を思い出したりしているときなどは、この歌は一時的に鳴り止んでいますね。が、話を終えたり、用事についての考え事が終わると、またその歌がはじまります。

 

そこでなにが起きているのでしょうか?

 

歌の思考は水面の上(つまり顕在意識)でずっと再生されているのですが、突如浮上してきた別の思考に一時的に一体化を譲り渡します。しかし、その間もバックグラウンドでは歌の再生は続いているのです。そして、別の思考が終わると、また一体化する権利を取り返すのです。これは実際にそういうときによく確認して調べてみると誰でも分かります。ここで指摘できるのは、気づきのない状態の顕在意識においては、いくつもの思考が同時に自動再生され続けているということです。

 

ところが意識レベルが500を超えてくると、この水面がおぼろげにですが認識されはじめます。もっとも、実際に意識のスクリーンに水面が見えるようになるということではなく、潜在意識から顕在意識側に思考がやってくる、ということが実感できるようになるという意味です。

 

これによって、思考があらわれてそれと一体化するまでにほんのすこしの「間」が生まれます。この間があることによって、自動的には思考と一体化しないことが起こりはじめます。ときには一体化していない素の思考データがいくつも認識されることもあります。このとき、いずれの思考とも一体化しないことはもちろん、任意の思考データを選んでそれと一体化するということも可能になります。

 

奇跡講座的な表現をすれば、この「間」聖霊として神の恩寵が流れこむのです。

 

さきほどの歌の例でいえば、自動的に一体化してしまっているときに、この歌を終わらせることはやろうとしてもできません(一時停止は可能です)。歌が再生されつくすことによって、その思考エネルギーがゼロになって、はじめて歌は終わります。しかし、このレベルでは歌の思考データと一体化しない選択ができる可能性があります。一体化しなくても水面上には浮上してしまっていますからバックグラウンドでは再生されていますが、それは無視できますので実際にはそれで悩まされることはありません。

 

もちろん、より低い意識レベルの人においてもこういうことが偶発的に起こることはあります。それを一瞥体験とみなしてもよいでしょう。

 

それはともかく、このレベル(500~539)ではうっかりするとまだまだ自動的に思考と一体化してしまうことはしばしばです。そしてさらに言うと、このレベルではまだ意識の水面は穏やかとまでは言えない状態です。

 

もっと意識レベルが上昇(540~)すると、この意識の水面はほとんど静まり、なめらかな透明のガラスのようになっていきます。もちろんこれも比喩で、別の表現をすれば潜在意識と顕在意識の境界がなくなっていくということです。この状態に至ると、いままでは水面から顔を出すまでその中身が分からなかった思考エネルギーを水面下に観ることができるようになっていきます。

 

つまり、まだ思考として明確に言語化されていないデータの存在を検知できるようになるわけですが、この状態のデータはまだ弱々しく、ただ気づいてやるだけでその力を失います。思考が形をなすまえに、それを水の底に押し戻すことができるようになる、と表現してもよいでしょう。そして、さらに意識レベルが上がるにつれ、これは意識しなくてもできるようになっていきます。賢者あるいは覚者の意識状態とはこれが徹底されているものだと思ってもらえばよいです。

 

この状態になると、浮上してくる思考データの数そのものがどんどん減っていきます。ですから、低い意識レベルの状態のように、水面上(顕在意識)にいくつもの思考が同時に再生されているというようなことはなくなります。しかし、それは賢者が思考しないということを意味しているわけではありません。ここもよく誤解されているところですが、賢者も思考します。ただし、基本的にその思考とは一体化しません。一体化しなくても、思考を再生させることはできるからです。なぜなら、思考はそもそも自動再生するものだからですね。

 

賢者が話すとき、その口から出る言葉は思考の産物です。それは他のどんな人とも同じです。でなければ話すことも書くこともできませんし、そもそも生活できません。違うのは、賢者の意識には「えーと、そうだなあ、なんて言おうか……」というような「混乱した思考」はほとんどあらわれないというところです。探求者の質問に賢者が答えるとき、そこには口から出る言葉とほぼほぼ同じ内容の思考があらわれています。もちろん、賢者にも答えられないことはありますが、その場合も「うーん? あれれ? おや、これはちょっとワシにも分からんなあ」という思考はなく代わりに「それは分かりません」という思考がやってきて、それをそのまま口にするのです。

 

これが賢者の「明晰さ」と呼ばれるものの正体です。ノイズのような不必要な思考が顕在意識のワーキングメモリ※を占有することがなくなるにつれ、やってくる絞り込まれた思考は研ぎ澄まされていきます。また、不必要な思考は過去に蓄積された心の傾向(ヴァーサナー)によるものですが、これらは顕在意識にのぼる前に沈めていくことを繰り返すうちに、やがて消滅します。

 

※顕在意識のスペースは広大ですが、それでも無限ではありません。また個人差も大いにあります。それはともかくワーキングメモリの比喩は、有限のスペースに、ほとんど無意味でパワーの小さい思考が無数にあるか、それとも真理を反映したとてつもないパワーを持つシンプルな思考がひとつだけあるか、という対比を説明するものです。真理からダイレクトにやってくる聖なる思考を意識上に展開するためには、余計な雑念がなくなってスペースが空くことが必要です。しかし、真理はいつでもわたしたちを照らしているため、無駄な思考の数々が静まれば、その反映であるパワフルで明晰な思考は当たり前にやってきます。

 

ですから、賢者においても、やってくるべき思考を(一体化することなくですが)ただ受け入れているだけです。もちろん、いま書いたように、やってくる思考の質は非常に洗練されたものになります。それは賢者の意識には、真理からくる光を妨げ覆い隠すものがないからです。でも、賢者においてさえ、形になった思考を止めることはできません。できるのは、それが形になるまえに沈めることだけです。

 

余談ですが、ジルボルト・テイラーが経験したのは左脳の機能不全です。このとき彼女は思考が止まっていたのではありません。思考はありましたが、それを言語化するデコーダーが故障していたのです。この状態で彼女は一種の至福を味わったようですが、さりとてその状態のままで生きていくことはできなかったでしょう。人間が人間として機能するうえで左右の脳は両方不可欠です。自動思考が止まらないことを左脳のせいにするのは、完全に間違っているわけではありませんが、ここまで読んでいただいたなら、それが本質的にはちょっとズレた見方であることがお分かりいただけたかと思います。

 

より大事なのは左右脳が高い次元で統合されることです。そもそも左脳と右脳というものの見方は、「肉体と意識」という分離のうえに「左脳と右脳」という分離をつみかさねてしまっているので、その観点で話を進めている以上、どこまでいっても分離から抜け出すことはできません。それゆえ、自動思考という発想や、思考を止めたいというような誤謬に陥っていることにも気づけないのです。

 

さて、今回はこれまでで一番くそ長い記事のひとつになってしまいました。読んでいただいた方にはお礼を申し上げますが、これを読んだせいでさらに余計な思考に巻き込まれることになりませんようにご注意くださいませ😌

 

それではまたお会いしましょう。

霊的成長と知覚の変容について

ものの見方について、視野が広いとか狭いとかいいますね。これはものごとをどれだけのフレームで捉えられているかということ、もしくはどれくらい様々な角度から捉えられているかということを視野に喩えているわけですが、実際に人の肉眼の視野の使われ方は、その人の基本的なものの見方と対応しています。

 

ものごとの細部に拘り、全体性を意識することができない人は普段から中心視野だけを使って世界をみています。一方で、周辺の視野を使ってより大きなフォーカスで世界を見ている人は、その頭の中でもものごとを全体的に把握しようとする傾向があります。

 

前者はより分離傾向が強く、論理的・分析的で疑い深く、人によっては自己中心的な性格が前面に出ていることがあります。後者はより統合的かつ調和的で、直観的です。当然ながら、後者の傾向が強まるほどその人は高い意識レベルで測定されるでしょう。

 

この in SPIRE と note では、ホーキンズ博士の推奨する霊的な訓練法をベースにしたワークを2種類提案しています。

 

merciful.hatenablog.com

 

note.com

 

これらはいずれも知覚の焦点を緩めることによって現実の背景にあるコンテクスト(文脈)を感じることを通して、やがてはコンテンツとコンテクストの両方、すなわち全体性を直感することを狙っているものです。それらの記事をすでに読まれている方はこのまま読み進めていただいて結構ですが、未読の方はぜひ先にこれらの記事を読んでみてください。

 

さて、ここからはこれらのワークとその原理についてご理解いただいていることを前提に話をしていきますが、冒頭に書いたとおり、そもそも人の視野の用い方にはその人の意識レベルがある程度反映されています。これが意味するのは、意識レベルの違いが視覚にも違いをもたらすということです。

 

視覚は人間の知覚のひとつであり、かつもっとも重要なものと言ってよいでしょう。ですからここでは視覚について話していますが、意識レベルが反映されるのは視覚だけではありません。人間の知覚のすべては、意識レベルとともに変化します。知覚が変化すると、世界や人やものごとの見え方、感じ方、受け止め方もそれにあわせて変わります。

 

こうしたことはなにも悟りや覚醒といった非常に高い意識レベルの領域に限定されたことではありませんが、この領域における知覚のあり方と、400台より下の領域におけるそれとでは大きく違ってきます。一方、400台より下のそれぞれのレベルでの違いは、いずれにしても冒頭に書いた視野が広いとか狭いといった表現の枠に収まるものです。

 

わたしはギャンブルと薬物の深刻な依存症から完全に脱した経験をもっていますが、この経験をした人の意識レベルは540以上に測定されるそうです。このことから、意識レベル540を超えた人の知覚がどのようなものであるか、わたしは経験的に述べることができますが、依存症からの離脱に先立つ時期にはおそらく意識レベル500から539の領域を経験していたと思われますので、そこから話していきましょう。

 

というのも、個人的な感覚においても、知覚の変容に多少なりとも気づいたのはこの時期のことだからです。つまり、おそらくですが意識レベル500が知覚における大きな跳躍のポイントであるはずです。

 

意識レベル500は愛の領域であるとホーキンズ博士は述べていますが、もうひとつ霊的なことへの理解がはじまる領域でもあります。霊的なことへの理解とはつまり、目に見えることだけがこの世界のすべてではないということが分かるということですね。より高いレベルでは、むしろ目に見えるものの方こそ幻想であることが理解されていくのですが、500から539までの段階ではまだそういう風には思えません。

 

それでもこの世界には「もっとなにかあるはず🤔」という感覚は確実に生じはじめています。この時期に霊的な情報に触れると、その内容がすんなり受け入れられたり、場合によっては非常に触発されたりしますが、それはすでに自分の知覚がそのように世界を見るように変化しつつあるからです。

 

このとき、本人がそのことにはっきりと気づくほどではないかもしれませんが、その人の肉眼の視野の用い方は以前よりもかなり広くなっているはずです。

 

ここで具体的にどういうことが起きているのかをみていきたいのですが、その前にまず、意識レベル499までの知覚のあり方について詳しく説明しておきましょう。

 

~499 までの意識レベル領域での知覚

 

たとえばその人が誰か他の人を見るとします。視野が狭い人(=意識レベルが相対的に低い人)は、他者を見るとき、その全体像ではなく特徴的なディティールに目が行きます。基本的に目が行くのはその人がどんなアトラクタフィールドに影響されているかで決まってきますから、欲望の領域にいる人は性的な魅力に関わるディティールが真っ先に目に入りますし、社会的な領域の人は相手の地位や収入や能力が表現されているディティールを気にします。

 

ここで言えるのは、欲望の領域の人(125)と社会的な領域にいる人(200~300台)では後者の方が意識レベルが高い分、おなじようにディティールに目が行くといっても、性的特徴というシンプルな事実よりも、服装や装飾物といった身なりや物腰の雰囲気といったことのほうが比較するとより広い視野で観察されているということです。

 

ここでいう視野は、実際にそれを用いて他者を見ている肉眼の視野と、見たものからどういった情報を読み取るか、すなわちものの見方という意味での視野の両方があてはまることに注意してください。

 

意識レベル300台上部から400台にもなってくると、他者を見るときの視野はさらに広くなり、見た目から得られる情報が飛躍的に増えていくとともに、細部よりもその人の全体像の方にフォーカスするようになっていきます。その分、偏見がすくなくなり、相手の人物の様々な面を包括して受け止められるようになるでしょう。

 

どんな人にも色々な面があります。粗野にしか見えない人物が思いもよらない優しさを持っていたり、野心的なリーダーが実はひどく臆病だったりします。視野が狭いと、自分自身の低い意識レベルによって限定されたものしか外部の世界に見ることができません。視野が広まるにつれて、同じ人物が併せ持っているいくつもの面を同時に見ることが可能になっていきます。

 

ただし、ここが重要なのですが、意識レベル499までの領域では、肉眼で捉えられるものしか見ることができません。もちろん観察したものから推理すれば、その場に見えていないことまで知ることはできます。でもそれはあくまで目に見えているものを元にした情報であって、元になったものが見えていなかったら知ることのできないものです。

 

このように、意識レベル499以下の領域においても、各意識レベルにおける知覚のあり方は大きく違っています。しかし、多くの人はその一生をほとんど変わらない意識レベルで過ごしますから、世界の知覚の仕方が人によって大きく異なっていることを知りません。しかも、この領域での差異は先ほども述べたように「視野が広い/狭い」とか「観察眼がある/ない」といった表現の幅に収まるものですから、人々がお互いの知覚に違いがあることに気づく機会もほとんどありません。

 

意識レベル500~539の領域の知覚

 

さて、ここまでを踏まえて意識レベルが500に到達すると、知覚はどのように変化するのでしょうか?

 

先ほども触れましたが、意識レベル500は霊的なことへの理解がはじまる段階です。ところで、霊的なこととはなんでしょうか? あるいは霊性とはなんでしょう? それは一言でいうなら「すべてはひとつである」ということです。非二元とは「ふたつではない=分離はない」ということを言っているのですが、つまり非二元の教えの核心がこの「すべてはひとつである」というものです。それどころか他のどんな霊的な教えも、それが本物であるならば、その核心は「すべてはひとつである」ということにあります。

 

ラメッシ・バルセカールは自らの教えの核心は「存在するすべては意識であり、意識は存在するすべてである」というものだと言っています。つまり、すべての教えの核心が指し示している「すべてであるひとつのもの」とは「意識」であるということをラメッシは指摘しているのですが、ここから「わたしたちが見ているこの世界のすべてのものは、一なる非個人的な意識が見かけ上の分離として形をもって現れたものである」ということが言えます。

 

すなわち、わたしたちが見ている形のあるこの世界は見せかけの幻想であり、その本質は意識であるということです。意識は純粋な気づきであり、存在の基盤です。意識には境界も限界もありません。ちなみに一般的に人々が意識と混同している「心」とは、意識というスクリーンにあらわれた知覚の集合体のことですから、当然これには肉体という(見かけ上の)境界が存在しています。

 

意識レベルが500になるとこのこと、つまり、すべてはひとつであること、あるいは、すべてはひとつの意識であることが分かりはじめるのです。それが分かるようになるのは、その人の知覚がそのことを認識できるようにと変化するからです。意識レベル499までは見えることにまでしかその視野は及びませんでしたが、500を超えると、その人の知覚は霊的な視野に置き換わりはじめるのです。

 

霊的な視野とは、あなたの自我に代わって、いま述べた一なる非個人的な意識があなたの視覚を通して世界を目撃するということです。この一なる非個人的な意識のことは、「神の目」と呼び替えたほうがおそらく分かりやすいでしょう。つまり、意識レベルが500になると、その人は「神の目」を通して世界を見るようになるということです。

 

神の目ですから、その目に形のあるこの世界のものごとは幻想であると見抜かれます。そして、その見かけ上の幻想の背後には「すべてはひとつである」という本質があることも神の目には自明です。

 

とはいえ、まだこのレベルでは神の目は開きはじめたばかりで、明確にこのように知覚できるわけではありません。この段階のわたしには、人やモノやコトのすべてがなにか見えないもので繋がっているように「見えて」いました。見えないものが見えると書くと矛盾していますが、実際そんなように知覚していました。逆にいえば、すべてが全部バラバラという風にはもはや見えなくなっていたのです。また、繋がっているというこの知覚からは愛の感覚が湧きおこったものでした。

 

この神の目である霊的な視野は肉眼の視野が広まって焦点がなくなっていくことによって開かれるわけなのですが、このとき同時にいわゆる「第三の目」と呼ばれている6番目のチャクラも活性化しているようです。「パワーか、フォースか」の改訂版には各チャクラの意識レベルが記載されていますが、第三の目は525となっています。このことから、意識レベル500から539の領域は第三の目の影響下にあって知覚が霊的な性質を帯びはじめると理解してよさそうです。

 

意識レベル540~の領域の知覚

 

意識レベルが500を超えたのがいつのことだったのかははっきりとは分からないのですが、父親が亡くなったときにはじめて意識の高まりともいえる変化を感じたことから、その頃のことだったと考えています。意識レベル540を超えたのはそれから約6年後のことで、けっこうな金額の借金を返し終わった頃です。このときにわたしの依存症は完全に消え去ったのですが、それからほどなくして、知覚がさらに大きく変わりました。

 

その時期にホーキンズ博士の『 I<わたし> 真実と主観性』を初めて読んだのですが、そこに書かれていることがすんなり読めてしまって驚いた記憶がいまでもあります。このあたりのことは以前の記事に詳しく書いていますが、いま思い起こすと、この本に書かれているような高い意識レベルの領域の真実を腑に落とせるほどには、当時すでにわたしの知覚は進化していたのだと思えます。

 

前の段階では「すべてが繋がっている」ように見えていたのですが、この頃には「繋がっているのではなくて、最初から一つである」というように見えはじめました。頭の中の理解が『 I<わたし> 真実と主観性』によってより高いものへとアップデートされたことも関係しているとは思うのですが、以前は感じられた「見えない絆」のようなものがどこにも感じられなくなりました。

 

また、いつもそのように見えたわけではありませんが、その頃からたびたび、目の前にいる人がその人自身の意志で体を動かしたり話したりしているのではなくて、まるで精巧にできたアンドロイドが自動的に活動しているように見えるということが起こるようになりました。人の多い場所でそれが起きると、一人ひとりのアンドロイドが一見バラバラに動いているようでいて、その実、その場のすべての人(だけでなくすべてのもの)がなんらかの秩序のもとで複雑に絡み合った一つの大きな動きを作り出しているように見えるという、とても不思議な光景を目撃することもありました。

 

はじめのうちはちょっと戸惑いましたが、分離という幻想を知覚できるようになると、分離した個人の自我はまさにアンドロイドに搭載された高性能なプログラムのようなものに見えるわけです。また、すべてはひとつであることを知覚するということは、全体性のダンスを観ることとイコールです。

 

また、やはりこの頃から、思考がどこからかやってくるもので、決して自分でそれを考え出しているわけではない、ということも知覚できるようになってきました。最初は統合失調症になってしまったのかと思いましたが、そうではありませんでした。やがて、思考だけでなく、自分の体の動きも、自分の意志に先立ってすでに動いていることが分かりはじめました。歯磨きのような単純にみえて実は複雑な行動をしているときの自分をよく観察してみると、わたしが言っていることがお分かりになるかもしれません。

 

そしてこの頃から、わたしの肉眼の視野は特になにかを注意して見る必要がないときは基本的に視野全体を使ってものごとを観るようになっていました。つまり、すべてがひとつに見えるという知覚は、実際に視野にあるものすべてを分割(どこかに焦点を置かず)せずに見ていることから生じているのです。

 

現在の知覚

 

それから現在までは、基本的に大きくは変わりません。強いていえば、それぞれの知覚の解像度が上がった気がします。なかでも、すべてはひとつであるということは、常に知覚されています。それゆえ、こうしてなにかを書くときも、必ずその観点、すなわちすべてはひとつであることが前提となり、そこからブレることはもうありません。

 

人が自動的に動いている感じは偶発的に起こるものではなく、そのように見ようとすると見えるようになりました。このように見ているときは自分自身もその例外ではなくなり、見えているのはわたしの肉眼の視野にある映像なのですが、見ている自分の意識は体の中だけではなく外側にも広がっているように感じられます。といっても、いわゆる体外離脱のように身体から抜け出しているのではありません。意識が肉体という境界を超えて外側へとにじみ出ているという表現が近いです。わたしが提案している IF というワークはこの自分の知覚をもとに考えたものです。

 

これに伴って、自分の身体の後ろ側方向にもなんらかの知覚が得られるようになりました。もちろん、背後にあるものが見えることはありませんが、気配というか、そこにはちゃんと空間と事物が存在しているのだということが、以前よりもはっきりと知覚できます。

 

また、視覚的な知覚ではないですが、洞察力は高まったと思います。境界がないのであれば、自分の思考も他者の思考も区別なく観ることができるはずです。テレパシーという能力はそういうものが前提になっているはずです。もちろんわたしにはテレパシーは使えませんが、親しい人、具体的には同居している母親の考えることは表情などみなくても分かるようになりましたし、とくに親しくなくても顔を見れば、その人の思考や感情がまるで漫画の吹き出しに書いてあるかのように読み取れてしまいます。

 

もちろん、どんなことでもお見通しというわけではありませんが、その人が嘘を言っている場合はたぶんほぼ確実に分かると思います。キネシオロジーテストそのものは意識レベル600で測定されるようですが、これが意味しているのは、意識レベル600の人物は虚偽を見抜けるということです。

 

終わりに

 

さて、今回は意識レベルの高まりとともに知覚がどのように変化していくかについて書いてみました。最近 note で親しくさせていただいている方がACIM (A Course in Miracles = 奇跡講座)の学習者で、海外のACIM教師の動画を翻訳された記事をずっと書いておられるのですが、その記事を読ませてもらっていると、そこには知覚という言葉がたびたび登場することに気づきました。

 

merciful.hatenablog.com

 

この「非二元ってどういうことなの?」という記事が、わたしが自分の理解を最初に文章化したものと言えますが、ここでわたしは人間の知覚について説明するところから、話をはじめています。真理がなぜ探求して見つけなければならないものになっているのかというと、それは人間の知覚が真理を覆い隠してしまっているからです。ですから、悟りや覚醒や意識レベルの上昇ということはすべて例外なく、知覚が変わることによって起きる事象です。

 

ということは、悟りや覚醒について教えるということ、あるいは真理とはなにかを伝えるということにおいて、知覚について言及することは避けられないわけです。その意味で、ACIMの教えは根本的に信頼のおけるものであることを知ったと同時に、わたしもこうして知覚について、あらためて念を押す形でとりあげておく必要があると思った次第です。

 

いろいろな人がいろいろな教えを説いていますが、知覚については、その人の知覚がそのようになっていないかぎり、語ることができません。その人が知覚についてなにを語っているか、あるいは語っていないかを調べれば、その人の話を聞くべきかどうかの判断がつくことでしょう。

 

それでは、またお会いしましょう。

ヴァジム・ゼランド著 「リアリティ・トランサーフィン」シリーズ 第1巻と第2巻の内容について考察しています。

note のほうでヴァジム・ゼランド氏の著作「リアリティ・トランサーフィン」シリーズの第1巻と第2巻の内容について考察しています。

 

note.com

 

書きはじめた時点ではこちらの BLOG にリンクする予定はなかったのですが、内容的にちょうど前回の記事で予告していた「エネルギーとか周波数といった観点からの話」にも該当していますし、また、ボリュームも結構あるので、せっかくですからこちらの BLOG にアクセスしていただいた方にも読んでもらえたらと思いました。

 

これらの記事は、リアリティ・トランサーフィンそのものの内容を紹介させてもらうことを第一の目的としていますが、ただそれだけではわたしが書く意味もないと思い、トランサーフィンをノンデュアリティ(非二元)の観点から可能な限り説明することにも挑戦しています。

 

そして、まだ第1巻の内容を終えたところですが、今のところこの試みはうまくいっていると自分では思っています。note の記事は基本的に探求者向けというより、記事をきっかけに(商業的なスピリチュアルではない)ほんとうの霊的な知識に関心をもってもらう目的で書いています。

 

(※2023年7月17日に第2巻の内容まで一通り書き終えました。読んでくださった皆様に感謝しますとともに、あらためて著者のヴァジム・ゼランド氏に敬意を表します)

 

そのため、このトランサーフィンに関する一連の記事でもノンデュアリティに関する話は一から噛み砕いて分かりやすく説明するようにしています。こちらの BLOG で書きはじめた頃の記事はもう数年前のものになりますが、人間の知覚の仕方が分離という幻想を生みだしているというわたしの理解の核心部分はその頃から一切変わってはいません。

 

しかしながら、時間の経過とともにこの理解はさらに深まったり広がったりしていました。それを今回こういう形であらためてアウトプットしてみたのですが、書かれたものを自分で読んでみると、なかなか熟れていて分かりやすいのではないかと感じました。

 

このBLOGにしても note にしても、わたしは一切の収益化を図っていませんので、同じことについて手を変え品を変えて何度も書いて、閲覧数を稼ぐようなことは基本的にするつもりがありませんでした。でも今回、部分的にとはいえ、いままで書いたことの焼き直しのようなものを書いてみて気づいたことがあります。

 

ひとつには、一度言い切ったつもりのことでも、よりよく言い直せる可能性があるということです。もうひとつには、その結果として、あらたな発見があるということです。

 

後者については、この記事

リアリティ・トランサーフィンの考察⑰『どうすれば理性の働きを弱めることができるのか』|BLACK|note

で紹介した理性の働きを弱める(止める)方法がそれです。

 

この方法は、実は IF (直感的フィールド)としてこちらのBLOGで紹介しているテクニックの基礎的な原理となっているのですが、それだけでも十分に強力なテクニックとして使えるものだということに今回の記事執筆を通じて気がつきました。

 

そもそもこれは、ホーキンズ博士が「 I <わたし> 真実と主観性」のなかで紹介している訓練法(これについてもこのBLOGで紹介しています)をほんのちょっと応用しただけのものになるのですが、このホーキンズ博士の訓練法が意図するところこそが、「知覚が生み出す分離感」を超越し、「霊的な統合性」を獲得すること、すなわち分かりやすくいえば覚醒や悟りへと人を導くことです。

 

これらの方法はすべて、理性による事物(思考や感覚も含みます)への一体化を解除してくれます。実践の当初においては、一体化が解除されるのはその都度の思考であったり、感覚や感情であったりと部分的、限定的ではありますが、実践を積んでいくにつれ、それは肉体精神機構の全体に影響を及ぼすようになっていきます。

 

悟りとは自我=エゴ=肉体精神機構との一体化が完全に解体されることです。ですから、これらの方法を根気強く継続して練習し続けるだけで、原理的には最終的に悟りがその人に起こることまで期待することができます。

 

これを行っていくと、その進展具合に沿って意識に変容が起きてくるでしょう。言い換えるとそれは、世界の見え方が変わってくるということです。このことについては、並行してさまざまな霊的知識の書かれた文献(このBLOGもそうです)に目を通していくと、自分の読解のレベルがだんだん変わってきていることを確認できるはずですので、そうやって相補的に理解を深めていくとよいと思います。

 

わたし自身、ふり返ってみれば、ホーキンズ博士のこの訓練法によって現在の意識レベルに近いところまで成長したのだと思います。しかしながら当時はすでに意識の急激な変容が起きていて、そのプロセスのなかでこの方法にも出会って取り組んだという流れであったため、この方法そのものの効果と恩恵がそこまで大きかったとは、自分でも理解していなかったようです。

 

これらの方法は、やり方とその原理さえ理解すれば、誰にでも実行できますし、誰にでも効果が現れます。ホーキンズ博士も言っていますが、そこに努力も必要ありません。もっとも、これくらいやれば意識レベルを○○ポイント上げられますよ、ということはもちろん言えません。その人の現在の意識レベルがどれくらいかによっては、すぐに大きな変化が現れることがないかもしれません。しかし、いずれ必ず、変容した意識に驚く日がくるはずです。

 

もしかしたら、トランサーフィンの記事を書きはじめたのは、このことに気づいてあらためてこうしてお伝えするためだったのかもしれないと、わたしは思っています。ここまで読んでくださった方にとって、この情報がお役に立てば幸いです。

 

それではまた、次の記事でお会いしましょう。

 

※以下に、IF(直感的フィールド)についての記事をリンクしておきます。

 

merciful.hatenablog.com

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このブログについての予備知識となる10冊#10 『サイレント・パルス 宇宙律との遊星的共振』

ひとりひとりの人間は、リズミックな波動で表現される純粋な情報からできている。その波動は、量子たちの無限小のヴァイブレーションからはじまって、原子、分子、細胞、器官、生体、家族、部族、民族、国家、文明、そしてそれを超えたものへと永遠にひろがる共鳴のヒエラルキーをもつのである。

G.レオナード『サイレント・パルス 宇宙率との遊星的共振』

 

こんにちは、お久しぶりです。

このブログについての予備知識となる10冊、というタイトルでこれまで記事を9つ書いてきましたが、これがその続きであり最後のものとなる10冊目の紹介になります。前回の記事はこちらになります。

merciful.hatenablog.com

 

9冊目の紹介から実に5年近くも経ってしまいましたが、これは単に続きを書くことをわたしが忘れていただけです。もっとも、そもそも最初から10冊を選んで予定していたのではなく、だいたい10冊くらいは紹介できるだろうという想定で書いていたので、この10冊目にどんな本をとりあげるかもはっきりとは決まってはいませんでした。

それから5年近くが過ぎて、最近ふとそのことに気づいたのですが、ちょうどこれからこのBLOGで書いていこうと考えていたことの取っ掛かりといえる内容が書かれた本を見つけましたので、今回これを10冊目として紹介したいと思います。

 

これまでこの In SPIRE では意識の覚醒について、それがわたしの身にどのようにして起きたかということや、それが起きると知覚(つまり、世界の見え方)がどう変わるのかということ、それから、そもそものところで意識とはなにか? 現実とは? といったことをさまざまに書いてきました。そのなかで悟りや非二元といった概念にも触れることで、いわゆる探求者と呼ばれる方々の知りたいことをある程度まで網羅できたかな、と思っています。

 

こうした話というものは、そのつもりになれば手を変え品を変え、いくらでも語ろうと思えば語ることは可能です。そのような話をもっと読みたいと考える読者の方もいらっしゃるかもしれませんし、わたしにしても日々のなかでこんな伝え方もありだなあと新たに思いつくことはしばしばです。

 

しかしながら、それはキリのないことで、探求者の探究にいつか終わりがくるべきであるように、教えることにもどこかで区切りがくるべきだとわたしは考えます。

 

そこで、今後はこれまでとはやや趣きの異なることをテーマにして新たに書いていこうと思っています。具体的には「波動や周波数といった観点からみた宇宙と人間や現象、または共感・共鳴・共振・同調」といったことや「多次元世界や次元密度、なかでもアストラル界について」などなど、です。note の記事とは違って、こちらのBLOGでは降りてきたインスピレーションを文章化しているため、この通りに書くことになるのかどうかあらかじめ保証することはできませんが、おおむねこういう方向性となるはずです。こうして挙げてみるとオカルト的な内容ばかりですが、オカルトとは「隠された」という意味ですから、その点でオカルトで間違いはありません。

 

意識が覚醒すると、あるいは悟りが起きると、この世界のすべてが幻想であることが自明となります。なぜ自明と言い切れるかというと、他ならぬ自己の存在からして幻想であることに気づいてしまうからです。しかしながらこれには誤解の余地があります。幻想というのは人間の通常の知覚を通して認識される二元性にもとづく世界像が実相とは異なっているという意味であって、この世界のすべてが実際には存在しない夢幻であるということではありません。これまでの記事では、このことを説明してきたつもりでいます。

 

さて、あらためてこの世界についてですが、夢幻ではなく確かに実存しているとは言うものの、その存在の仕方の根底からいって実にこころもとないものです。物質の基礎といえる原子の中は真空のがらんどうです。大雑把な表現にはなりますが、がらんどうをいくら寄せ集めても中身はスッカスカのはずなのに、それが鉄とか鉛といった重い物質を作り上げているというのは実に不思議なことです。また、最近では、この世界は何者かによって作られたコンピューター上のシミュレーションなのではないかという仮説もでています。細かいことはここではとりあげませんが、そのようなことを真剣に考える人がいるくらい、この世界にはどこか謎めいた面が存在しているのです。

 

今後わたしが書いていくのはこちらのこと、つまり、この世界がとても不思議で、かつ巧妙に作られていることについてです。これまで書いてきた意識についての話はわたしにとって自明のことでしたから、そこには推測や仮説といった要素はほとんどありませんでした(すべてが事実として正確であるとまではいいません)。しかし、これから書こうとしていることに関しては、わたしにとっても手探りであり、なにかひとつでも言い切れるようなことはないかもしれません。二元性という幻想について見破ることができたからといって全知ではありませんから、知らないことは知らないし、分からないことは分かりません。

 

しかしそれでも書いていこうと思うのは、率直にいって、この世でやるべきことがもう、そういうことくらいしかないからです。ですので、これはわたしの趣味の話といってもよいかもしれません。そういうものでもよろしければ、今後もおつきあいくださいませ。

 

なお、これから書いていくことを理解していただくためには、これまでの記事に書いてきたことをしっかりと頭に入れておいていただく必要があるでしょう。できればあらためてすべての記事を再読しておいていただくことをお勧めします。次の記事が出るのはまだ当分先のことになりそうですから、時間は十分にあると言えるでしょう。

 

そして、それに加えてこれから紹介する『サイレント・パルス 宇宙律との遊星的共振』もぜひお読みください。この本の内容は、これまで書いてきた内容とこれからの内容の橋渡し役的な知識の一つとなると思います。

 

ここから本題です

さてここからようやく本題となります。まずは、記事の冒頭に引用した文章をもういちど見ていただきます。

 

ひとりひとりの人間は、リズミックな波動で表現される純粋な情報からできている。その波動は、量子たちの無限小のヴァイブレーションからはじまって、原子、分子、細胞、器官、生体、家族、部族、民族、国家、文明、そしてそれを超えたものへと永遠にひろがる共鳴のヒエラルキーをもつのである。

 

この文章にあるとおり、この本では、人間存在の本質をその人固有のパルス(脈動)として捉えています。また、人間だけでなく、この世界のすべてのものも同じように固有のパルスをもっていて、それぞれがそれぞれのパルスを全宇宙に向けて放射しているとみなすなら、これらの放射のひとつひとつが他のすべての放射とであうことになります。

 

このとき、宇宙全体を三次元の動的なフィルムであるとみなすなら、そこには全宇宙の情報が刻まれた干渉縞が写りこんでいるでしょう。すなわち、宇宙は巨大なホログラムとみなすことができるというわけです。ここではホログラムについての説明はしませんが、ホログラムについては以前の記事で紹介した『投影された宇宙―ホログラフィック・ユニヴァースへの招待』という本にも詳しく書かれていますし、Wikipedia などで調べてみてもよいでしょう。

 

宇宙がホログラムであるのなら、この宇宙のどの一部分を切り取ってみても、その部分のなかに宇宙全体の情報が含まれているということになります。

 

人体は小宇宙と言われることがありますが、人間の体もまさに宇宙の一部分ですから、そこに宇宙のすべてがその大きさなりの解像度で存在しているということで、実際のところ、たとえば脳の神経細胞のつながり(シナプス)を可視化したものと、宇宙の大規模構造(グレートウォール)の想像図はほとんど見分けがつきません。

 

G.レオナードはこのように人間を宇宙ホログラムを構成する部分として捉えることによって、奇妙な、ある意味超自然的ともいえるいくつかの現象を説明しようと試みています。

 

例えば、会話を撮影したフィルムの1コマ1コマ(1秒に48コマ)を分析することで、話者が発する言葉の微小単位(短音節)と話者の体の微小な運動が完全に同調しているだけではなく、聞き手の体の微小運動も、話者に「遅れることなく」完全に同調していることがわかっている(ウィリアム・S・コンドン博士の微小分析)のですが、これなどは話者の心と体、あるいは話者と聞き手を個個別別のものであると考えた場合、どうしても説明ができないのです。

 

しかし、すべてが波動ないしはパルスであって、このパルスが宇宙ホログラムの干渉縞を織りなしているとするなら、見かけ上は別々のものにみえるあれやこれやもすべて、全体性の中で完璧に演じられるダンスやオーケストラであるというわけです。また、いわゆる遠隔視実験についてもこの観点から考察されていて、こちらも面白いです。

 

さらにレオナードは、われわれ人間はホログラムの一部分であると言う一方で、この「部分」というものはどれをとっても同じ取るに足らない部分ではない、とも説きます。

 

わたしの主張は単純だ。もしアイデンティティが存在しなければ――つまり、全宇宙がたんに一体として存在し、その<一体>のどの部分にも全体が反映されているだけならば、本当のちがいはどこにもなく、したがってどんな関係もありえない。そして、もしどんな関係も存在しないことになれば、どんな物体も、事件も、物質宇宙も精神宇宙もありえない。

 

彼がここでいうアイデンティティとは、最初にふれた人間存在の本質的なパルスのことであり、いわゆるエゴのことではありません。レオナードはそのような表現はしていませんが、魂の波長というような意味でしょう。このアイデンティティが姿を表すとき、その人は宇宙と真に一体になっていると言えます。この本では合気道家のフロー現象や元複葉機乗りとその恋人に起こった奇跡のようなシンクロニシティ、すべてがうまくいくと知っていたとおりに重要な会議を乗り切ったビジネスマンの話、デュエイン・エルギンという研究者の実験での驚くべきできごとなどを紹介しながら、そこでなにが起きているのか、そして、なぜそれが起きるのかについて考察しています。

 

いずれも興味深く面白いエピソードなので詳しくは本書をぜひ読んでいただきたいのですが、ここではこれらの現象に共通している要素としてレオナードが言及していることを引用します。これは先に挙げたデュエイン・エルギンの実験の部分になります。

 

一九七三年から一九七五年にかけて、デュエイン・エルギンという研究者がスタンフォード研究所で一連の驚くべき実験をおこなった。厳重に遮蔽された敏感な磁力計に、意志の力だけで影響を与えようという試みである。この装置は磁場の変化を測定し、自動的に紙にその変化を記録してゆく。最初の数回の実験はだいたい同じような手順にしたがった。エルギンは磁力計から数フィート離れ、しかも記録装置の見えるところにすわるか立つかし、その装置にむかってあらんかぎりの意志力をむけて、それに影響をあたえようと試みる。かれは二〇分から三〇分のあいだ努力を続けたが、針はほとんど直線を描いて動かない。成果なしである。とうとう疲れはて、腹を立てたかれはこうつぶやいた。「もうあきらめよう。」

すると、かれが明け渡したその瞬間、針は磁場の変化をしめしはじめるのである。そうした変化はけっしてささいなものではなかった。ときには、針が目盛りからはみだしてしまうことさえあったのだ。ふつうの方法でこのような結果を得るためには、地球の磁場の一、〇〇〇倍くらいは強い力が必要となる。それに、物理的な距離もエルギンの力をさまたげることはなかった。一度など、かれは数マイル離れた自宅から磁力計に強い影響力をおよぼすことができたのである。

(中略)ここで、私たちは一つのパターンがあらわれはじめているのを見る。磁力計とうまく連動しているときのエルギンの状態――それは「焦点をもった明け渡し」とでも呼べるだろう

 

最後にでてくる「焦点をもった明け渡し」という言葉が、この不思議な現象の数々に共通している要素になります。

 

明け渡しという言葉からピンと来た人は、もうかなり理解が進んでいますね。わたしの観点では、いわゆる一瞥体験やピーク体験、フロー現象、シンクロニシティや不思議なくらい物事がうまくいくという体験などはすべて、本質的にはおなじことです。

 

そこで起きているのは一時的にエゴが弱まり、五感を通さず直接的に(=直感的に)物事を体験するということです。このとき、わたしと物事という分離はなくなり、Aが起きたからBが起きてCになったという線形的な因果律ではなく、ただのABCというありのままの現実とわたしが一つになります。レオナードに言わせるなら、その人の真のアイデンティティであるパルスが宇宙と共鳴している、ということになるでしょうか。

 

この宇宙との共鳴は「焦点をもった明け渡し」があるときに起こるのではないかとレオナードは考えています。これは「エゴによる動機ではない、その人の本質的なところからくる意志によって焦点化された明け渡し」というように言い換えてもよさそうです。わたし自身の経験ではそれほど劇的なものではありませんでしたが、それでも「もっといい人間になりたい」という真のアイデンティティを求める意志と同時に人生のどん底といえる状況のなかでエゴが完全に降参する(=明け渡し)ということが確かに起きていました。

 

明け渡しは意図してやろうとしてもなかなかできるものではありません。ゆえに、バクティ(帰依=明け渡しの道)、ジュニャーナ(智慧の道)、カルマ(行為の道)と呼ばれる悟りに至るための3つの道のうち、バクティは一番困難な道であるとわたしは考えています。とりわけ、現代社会で暮らす人にとってバクティは事実上、ほぼほぼ不可能でしょう。

 

しかしながら、ジュニャーナであったと自認しているわたしにおいても、きっかけとして起きたことは明け渡しでしたし、おそらくですが、ジュニャーナやカルマのヨーガの純然たる成果として悟りが起きるという事象よりも、偶発的に起きる明け渡し(強制的な明け渡しといってもよいかもしれません)によって目覚めるケースのほうが遥かに多いのではないでしょうか。

 

ただ、これが今回のポイントなのですが、この本を読めば、明け渡しといってもそんなに大げさなものばかりではないということが分かるはずです。実際、この本で紹介されているエピソードのような事象は、大なり小なりほとんどの人が人生において一度は経験しているはずです。明け渡すというのはつまるところ、エゴが現実をどうこうしようとするその働きを放棄するということです。エゴにとってはエゴ自体が存在していることより大切なものはありません。

 

ですから、正攻法でエゴを抑えこもうとしても、それは必ず失敗します。でも、この本のエピソードなどを参考に、ピーク体験やフロー現象が起きやすい状況を作ってそこに自らを置くことによって「焦点をもった明け渡し」が偶発的に起きるように誘導することは可能です。

 

わたしがこれから書いていく予定の内容は、この本でレオナードがいうところのアイデンティティに目覚めていく旅でもあります。これは悟りの向こう側の話のようでもありますが、アイデンティティを体験する機会、すなわち自らのパルスを感じる経験を重ねていけば、気がついたら悟っていたということにもなるはずです。

 

この本の巻末には、レオナードが考案したいくつかのワークが収録されています。これらのワークの目的はもちろん、自らのパルスを体験することです。ということは、焦点をもった明け渡しを引き起こすことも狙いの一つになっていると言えるでしょう。なかでも<中心への回帰><ソフト・アイ>という最初の2つのワークはおすすめです。

 

とくに<ソフト・アイ>はわたしが提唱している IF (直感的フィールド)と本質的にはおなじものです。ソフト・アイになれば直感的フィールドの中にいることになりますし、直感的フィールドを展開しているときはソフト・アイになります。ポイントはどこにも焦点を置かないことです。この本のソフト・アイの解説を読んだうえでわたしの IF に関する記事を読み返すことで、さらに理解が深まるはずです。

 

焦点をもった明け渡しを誘うワークとしては、もっともっと簡単で単純なものとして、「めちゃくちゃ筋トレをする」とか「めちゃくちゃ走る」とかでも実はアリです。山を登る(ハードに)のもよいですし、クラブで夜通し踊るとかも結構よいでしょう。もっとも、一番大切なことは「いかなる意志を焦点とするか」です。これをお読みのみなさんがこの記事を読む動機がその意志であればよいと、わたしは思います。

 

それではまた次の記事でお会いしましょう。読んでくださって、ありがとうございました🙂