in SPIRE 内なる声をきく

あなたの世界を再構築するための情報です

目の前の現実(いま)のあやふやさ

わたしたちがいまこの瞬間に目撃しているもの、目の前で起きている現実は本当に確かなものなのでしょうか?

 

人間は、知覚(五感と思考による認識)によって世界を体験しています。このすぐれた知覚能力のおかげで、人間は世界を存分に知ることができるのだと、普通は考えるところです。

 

それはもちろん間違ってはいません。ですが、このことは、別のことをも意味しています。すなわち、知覚こそがこの世界における人間の可能性を制限しているリミッターでもあるということです。知覚能力は、人間の限界を規定しているのです。

 

この世界のすべての本質はエネルギーであり、波であり振動であります。ゆえにすべてのものが固有の周波数を持っていると言えます。その中のごくごく一部の帯域が、わたしたちが生きている物質的世界です。この世界で生きるためには、この世界特有の周波数を受信でき、かつ自らもその周波数帯に存在する物質で構築された受信機が必要になります。それが人間の体であり、そこに備わった感覚器官と脳です。

 

同じこの世界でも、動物は人間より遥かに広い可聴域を持っていたり、人間の何十倍も鼻が利いたりしますが、それはつまり、この物質世界の帯域内においてさえ人間はそのすべての周波数をとらえることができるわけではないことを意味しています。

 

なぜできないのか? について、はっきりとしたことはわたしにも言えませんが、実際にできない以上は「人間という存在形態において、これ以上知覚を拡げる必要はないから」ということが想定できます。つまり、人間という生き物はあえてこの限られた知覚のみで人生を経験するための存在であるということです。

 

また、より広い帯域を感知できるということは、それだけ膨大な情報を受け取って処理する必要があるということになりますが、それはおそらく、現在の人間の肉体の能力を超えているものと思われます。ただし、LSDやシロシビンといったサイケデリクスを摂取した時や特殊な瞑想状態において一時的に知覚が拡大し、通常では感知しえない領域についての情報を受け取ることがあります。このことから、人間の知覚のポテンシャルには少しマージンがあるものと考えられます。

 

また、臨死体験(NDE)として、いわゆる「あの世」を見てくる話が数多くレポートされていますが、魂というものがあり、それは肉体の死後も存続するものであると仮定した場合、臨死体験時や実際の死後には肉体(とその知覚)という制限から自由になっているため、肉体を持っているときには見えなかった世界を見ることができる、と考えることができます。

 

ちなみにこの、通常知覚している世界の外側の周波数帯域にあるものが、いわゆる異次元とかあの世とか呼ばれるものです。

 

このような話は受け入れがたいと感じる人も多いかもしれません。一言でいうなら「見えないものは信じられない」あるいは「目に見えているものしか信じられない」ということでしょう。それはある意味、もっともなことだと思います。そのように人間は作られているのですから。

 

しかしながら、では果たして「目に見えているもの(聞こえているもの、感じているもの etc)」は本当に信じてもよいのでしょうか?

 

そもそも、人間の視覚についての基本的な事実として、視覚情報は上下反対の形で入力されています。外界の情報が光として網膜に像を結ぶとき、それは上下さかさまの絵なのです。脳はたいへん優れた情報処理装置でもあるので、これを反転させて認識しています。上下さかさまに像を結ぶ特殊なメガネを装着するとはじめはすべてが上下反対に見えますが、一週間ほどするといつのまにか普通に見ているのと同じになるそうです。そこでメガネを外すと、今度は裸眼で見た世界が上下反対になるそうです。さらに一週間ほどで、元に戻ります。

 

すなわち、視覚情報自体が、本来の見たままではないということです。もちろん、この場合は情報処理された結果、実際の世界のありようとその見え方が一致するわけなので、見えている世界を疑う必要はないかもしれません。

 

では次に、星空を思い浮かべてください。満天の星空に数えきれない星々がまたたいています。それぞれの星は、地球から何光年、何十光年、何百光年と離れています。ある星が地球から10光年の距離にあるとすると、いまわたしたちが見ているその星のきらめきは、10年前のその星が発した光だということになります。別のある星が200光年先にあるのなら、いま見えている光は200年前のその星の姿だということになります。星の(光の)数だけ、異なる時間からの光がこの地球に届いています。つまり、一面の星空に見えているものは、無数の過去であるということです。

 

目の前の現実における、いま見ているパソコンのモニターと、その向こうにある部屋の窓にかかったカーテンでは、それらに反射した光がわたしたちの目に届くまでの距離がカーテンの方が遠い分だけ、同時に見ているようでも、厳密にはカーテンの方が古いのです。この距離の差はもちろん光の速さにおいては無視できるものですが、人間の知覚では、視野に見えているものはすべて同じ「現在」に起きているようにしか認識できないことも事実です。

 

これが聴覚ですと、音速は1秒間に約340mですから、たとえば700mほど先の交差点で自動車が衝突した際の衝突音は約2秒後に聞こえることになります。つまり、音が聞こえた時には、その2秒前に衝突が起きているわけですが、普通の道路状況では、700m先の交通事故は見えていません。そのため、その音を聞いた人は、聞いた瞬間に事故が起きたのだと感じるでしょう。

 

また、脳には、RAS(脳幹網様体賦活系)というものがあります。これは一種の情報フィルターで、重要で意味があると思う情報だけを通過させます。RASを通過できない情報は「ないこと」になります。この機能により、人は「見たいものだけを見る」ようになっています。RASがもしなければ、人間の脳はあまりにも膨大な情報を処理しなくてはならなくなるため、それでは簡単にエネルギーが枯渇してしまうそうです。つまり、RASがないと人間は生存できないのです。(※このことから、サイケデリクス摂取時にはRASの働きが弱まっているのではないかとわたしは考えています)

 

いつも通っている道を歩いていると、ある場所が空き地になっています。何度も何度も通ったことのある場所なのに、空き地になる前に、そこにどんな建物があったか、まったく思い出せないということがありますね。これは、その場所にはさしたる意味がないとあなたの脳が判断していたことによります。つまり、見ているようで見ていなかったのです。その場所にあなたのお気に入りだったおいしいパン屋があったなら、思い出せないことはないはずです。

 

RASが処理するのは視覚情報だけではありません。あらゆる情報がRASによってフィルタリングされているのですが、この結果として、意味がないと思っている情報はどんどん見落とされていきます。こうして見落とされていく情報を、スコトーマ(心理的盲点)と呼びます。意味があるかないかは、本人がそう思っているだけです。本当は非常に重要であったとしても、スコトーマによってそれに気づくことができないのです。おなじ情景を見て、ある人はそこに重大な危機を読み取りますが、別の人にはのどかな日常の風景にしか見えない、ということが起こりえるのは、このような仕組みによります。

 

以上、目の前の現実について、それが思っているほど確かなものではないということについてすこし書いてみました。RASとスコトーマについては、脳機能学者の苫米地英人先生の本に詳しいことが書いてありますので、気になった人は読んでみるとよいでしょう。スコトーマから自由になるには、まず意識的になにごとも行うようにすることです。よく見る、よく聞く、よく感じる、よく考える、ということです。また、通勤通学のルートを頻繁に変えてみるとか、仕事のルーチンを変えてみるとか、右手でしか行えない動作を左手でもやってみるなどもよいでしょう。

 

見えているはずの現実が、実はよく見えていなかったと気づくことは、見えない世界を認識するための、最初のステップになります。