in SPIRE 内なる声をきく

あなたの世界を再構築するための情報です

全体性を把握するためのトレーニングについて 実践編 『ふわっとした氣』を使う

全体性を把握するためのトレーニングについての実践編になります。今回はふわっとした話をしたいと思います。


まず最初に、前回の理論編で紹介したホーキンズ博士が推奨する観想法のうち、周辺視野にフォーカスする方法を再度引用します。


ひとつ目の方法は、焦点をゆるめた観想の形式で、焦点を中心視野から周辺視野に移します。この観想法では、自らを取り囲む環境全体に常に気づいていなければならず、そのときに特定のものに焦点を置いたり興味を持ったり選んだりしてはいけません。


ポイントは、「焦点をゆるめていくことによって」「周辺視野に焦点を移し」「環境全体に常に気づく」というところです。これは「全体以外の部分に焦点を絞ってはいけない」ということになります。ここのところが間違いやすいところです。わたし自身も最初、ここを勘違いしていました。


誤解しやすいところは「環境全体に常に気づく」というところです。ここだけをみると、視野にあるものすべてを見逃さずに把握しなくてはならないという風に受け取れなくもありません。しかし、やってみると分かりますが、そういう感覚で臨むと、焦点を高速に移動させ続けているだけで、実際には全体を把握するどころかむしろ逆に細部にばかり目がいってしまいます。


わたしの提案するトレーニングでは、おなじことを視覚のみならず嗅覚や触覚、聴覚、味覚もすべて一様に扱っていくのですが、視覚だけをとっても同時に把握できる焦点は一つだけです。まして全身の感覚を一つ一つ見逃すことなく同時に気づくことなど、不可能です。

 

もっとも、上にすこし書いたような「焦点を高速に移動させ続ける」というのも、それ自体を訓練していけば五感そのものを鍛えることができます。しかしそれは霊的なトレーニングではなく、アスリートや武道家に求められるような鋭敏さを養うものですので、ここではこのやり方はダメということにしておきます。


そこでもういちど先ほどの観想法のポイントに戻ります。「焦点をゆるめていくことによって」とありますね。ここが肝心要なのですが、焦点をゆるめるとは、どういうことになるのでしょうか? 人間がものを見ようとするかぎり、必ず焦点が必要です。見ようとすればするほど、焦点は狭まり強まります。ということは逆に、見ようとすることをやめればどうなるでしょうか? 見ようという意識がなくても、目を開けている限り、視界にはなにかが「見えて」います。


つまり、「見る」という意識をなくしたとき「見える」ということが起きるのです。これが焦点をゆるめるということです。焦点をゆるめるということを、焦点のあたる範囲を広める(=フォーカスエリアを拡大する)という風に解釈すると、それは相変わらず「見る」行為です。見ているかぎり、焦点は広くすることはできても、ゆるめることはできないというわけです。そして、周辺視野に焦点を移していくと、実は見るという意識が弱まっていき、このときはじめて視野の全体が「見えて」きます


これがホーキンズ博士の観想法の正しいやり方になります。この方法のポイントは「見ることをやめること」です。すなわちそれは、「知覚に頼ることをやめる」ということです。博士は知覚を手放したとき、知覚が担っている場所が霊的視野に置き換わると述べています。霊的な視野という言葉は必ずしも視覚における視野だけに対応しているのではないと、わたしは思います。意識におけるものの見方、感じ方のスクリーンのようなものと考えてみるとよいのではないでしょうか。そうであるなら、肉体の感覚を手放せば、霊的感覚がそれに置き換わるという風に考えてよさそうに思えます。

(※OSHOの『第三の眼―ヴィギャン・バイラヴ・タントラ (タントラ秘法の書)』という本には、目で見ることをやめたとき、それまで目に流れこんでいたエネルギーが第三の眼(アジナチャクラ)に流れこむ、という記述がありました)


さて、ここまでが前置きでした。

 

視覚を手放すには周辺視野を利用して「焦点をふわっとゆるめる」ことで、見るのではなく見えるにシフトすればよかったわけですが、それをどのようにして、全感覚に応用すればよいでしょうか?

 

ここで、いわゆる『氣』と呼ばれる「ふわっとしたもの」をイメージとして利用してみます。あくまでふわっとした話ですから、氣とはなんぞや?? ということは深く考えないでください。氣がお好みでなければ『エーテル』でも構いませんし『オーラ』でも問題ありません。なんとなくふわっとした「もやのようなもの」がイメージできれば、それをなんと呼んでもらってもオッケーです。ここではとりあえず氣ということで話を進めていきます。


まず、自分の体と重なるようにして、それよりも一回りほど大きい透明のふわっとしたものがあるとイメージしてください。これが氣です。氣には、肉体に備わる五感とは違い、その内側にあるものの情報を「ふわっと」気づくことができると想像します。目で見るように色や形が分かるわけではありませんが、モノや人の存在を気配や波動といったもので認識しています。これによって人間は自分自身の生命に気づいているのだ、ということにしましょう。もっというと、氣はその内側にあるものを自己として感じるようです。


氣には輪郭や境界といったものは存在しませんが、あなたがこれくらいが自分の氣のサイズだと思っている大きさが、そのままあなたが感じられる氣の大きさです。つまり、あなたがそう念じれば、氣の大きさはいくらでも自由に大きくすることができます。まずは、いちど目をつむってください。そして、ちょうどいま自分がいる部屋の大きさくらいにまで、氣が拡大するようにイメージしてください。ポイントは、360度全方位に拡げることです。すると、3から5メートルくらいの氣の球体の真ん中に自分がいるような感じになります。イメージ出来たら、そのまま目を開けてください。


この球体の内側はすべてあなた自身ですから、いま目に見えている部屋の中にあるものはすべて、前にあるものも、後ろにあるものも、上にあるものも、あなたの一部であると感じてください。音も光も、風も振動も、ヒトもモノも、すべてがあなたです。あなたはふわっとした氣でそれらすべてを包みこんで、それらとつながっています。自分自身の一部として、あなたはそれらに気づいています


このとき、あなたの氣の内側にもし誰かほかの人がいたなら、その人もあなたであると考えてみます。自分のことなのだから、なんとなくその人の感じていること、考えていることも分かるような気がします。その人がなにか言葉を発したとしたら、その言葉はあなたがあなた自身に向けて発したのと同じだと考えてください。慣れるまで難しいと思いますが、氣で包みこんでいるイメージから離れないようにしていれば、そのうち努力しなくてもそう感じられるようになっていきます。

 

ただし、特定のものに注意を向けすぎて、それを分析したりしはじめると、氣は収縮して等身大のサイズに戻ってしまいます。あくまで、ふわっとしたものを扱うトレーニングですので、終始ふわっとした感覚を忘れないでください。

 

屋内にいるときは、その空間のすべてにあなたの氣が充満しているイメージを持てば、そこで起こることすべてをまるっとあなたの意識のフレームにおさめられるようになっていきます。でも、その空間の外側にもあなたの氣は広がっているのだという想定を常にしておくようにしましょう。


屋外にいるときは氣の大きさを自由に変える練習をするとよいでしょう。街を歩くときも、氣をどれくらいの範囲にまで拡げるかによって、その場の空気や雰囲気の感じ方も変わってきます。慣れてくると、氣の範囲内に不穏な人物がいると、気配を感じることもあります。また、鳥や犬や猫といった動物は氣に敏感に反応しますから、試してみると楽しいです。しかし、先にも書きましたが、気づきの内容に気をとられすぎて、ふわっと感じることから離れてしまうと、そうした感覚はたちどころに消えてしまいます。

 

瞑想時には、この氣を宇宙のサイズにまで拡げてみましょう。人間はミクロコスモスと言われています。誰もがひとりひとり、内なる宇宙を持っているそうですから、それと氣を合一させます。

 

以上、これはとてもふわっとしたお話ですから、ひろげようとすればいくらでもひろげられます。それはつまり、この氣のイメージはあなたが自由にアレンジして使えるということでもあります。後日、応用編としてわたしなりのアレンジ法を紹介しますが、もともとがふわっとしたアイディアなので、自分がピンときたやり方があればぜひそれをやってみてください。

 

ポイントは、氣は自分の知覚の代わりとなる気づきであるということ、ふわっとした気づきであるということです。この氣の大きさが、そのときあなたが想定している『全体』という風に考えてみてください。真の全体とは宇宙まるごとと言えますが、日常生活を送るわたしたちには、そこまでの全体性を考慮することは必要ありません。

 

ですが、たとえば職場であればその場全体を自分の氣で包むことによって、「わたし」一人で頑張っているという感覚から、「わたしたち」みんなで頑張っている、という風に感じ方が変わってくるはずです。それによって調和がもたらされるでしょう。