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このブログについての予備知識となる10冊 #6 『意識は語る ラメッシ・バルセカールとの対話』

 今回は、わたしがもっとも多くを学んだ心の師ともいえるラメッシ・バルセカールの『意識は語る ラメッシ・バルセカールとの対話』(ウェイン・リコーマン編)をとりあげます。

意識は語る―ラメッシ・バルセカールとの対話

意識は語る―ラメッシ・バルセカールとの対話

 

 

あまり細かいことまでは覚えていないのですが、わたしが最初に非二元的な考え方に触れたのは、26歳くらいの時に読んだ『神との対話』(ニール・ドナルド・ウォルシュ著)だったと思います。それ以来、30代前半にかけて、さまざまな本から悟りや意識の目覚めといったことについて学んできましたが、知識としての理解は増えたものの、肝心の自分自身の意識にはほとんどなんの変化もありませんでした。

 

その後は大麻覚せい剤といったドラッグとギャンブル(は20代からやっていました)に溺れてしまい、以降父親が死んでしばらくする頃までは、ほとんど本は読んでいませんでした。40歳を目前にして、ようやくある程度静かな暮らしをすることになってから、再び本をよみはじめましたが、相変わらず知識ばかりが増えるだけでした。

 

その様子が変化しはじめたのは、プロローグという記事でも触れましたが、2014年の秋にホーキンズ博士の『 I <わたし> 真実と主観性』という本を読んだ頃です。うまく言えませんが、この本は非常に高い意識レベルの世界について書かれた本なのですが、どういうわけかこの時、わたしは読めてしまったんですね。単に読解できるというだけでなく、そこに書かれていることが自分にとっても自明の真理であるという感覚がありました。が、それは妙な話でもありました。要するにその本を読む直前までのわたしは、とてもその本を理解できるレベルにはなかったはずだったのです。実際には、その年の夏に薬物依存症から完全に脱していて、それによって意識レベルが540を超えていたようなのですが、それを実感することになったきっかけが『 I <わたし> 真実と主観性』でした。

 

そして年が明けて2015年の春ごろにこの『意識は語る』を読みはじめたのですが、読み終えるのに半年以上かかりました。『 I <わたし> 真実と主観性』は実のところ、ラメッシよりもさらに高い意識レベルについて書かれているのですが、用いられている用語が普遍的な言葉であり、かつその前提となる『パワーか、フォースか』を読みこんでいたこともあって、読むのは難しくありませんでした。ところが『意識は語る』はボリュームが大きいこともありますが、たとえば『肉体精神機構』というような、それまでに聞いたことのない用語や概念がたくさん出てくるため、はじめのうちはまったく理解ができませんでした

 

先に、神との対話で非二元的な概念に触れたと書きましたが、実のところ、わたしが『非二元』や『アドヴァイタ』という教えそのものにはじめて触れたのは、この『意識は語る』と、同時に購入したネイサン・ギルの『すでに目覚めている』によってでした。そこで、それまでに読んで知っていた神との対話エックハルト・トールの著作などで語られていた概念が、非二元という文脈ではいかに取り扱われているかをひとつひとつ対比しながら学んでいくことになったのです。それはなかなか大変でしたが、ひじょうにパワフルでエキサイティングな経験でもありました。一言でいうなら、分かりはじめてきたら、ラメッシは最高に面白く素晴らしい教師でした。

 

これは、未知の概念をあらたに学ぶのではなく、すでに知っていることを異なる文脈で学び直すという作業でした。真理は言語(とは論理であり、論理とは人間の知覚特有の思考形式です)を超越しているため、言葉で直接説明することはできません。ですから可能なのは、真理のある方向を指し示すことのみ、となりますが、それゆえ、真理について語る方法は無限にありえます。実際、世界中のさまざまな宗教や思想において、真理はそれぞれ独特の世界観や論理によって説かれています。わたしはこの体験から、ある一つの教えに傾倒し、そればかりを追究するよりも、色々な教えをすこしずつかじっていく方が、理解が早いのではないかと思っています。

 

前置きが長くなりました(わたしの話はいつも前置きが長く、余談も長く、そして全体的に長いです)が、ラメッシ・バルセカールの教えの基本は彼自身の言葉によると、

 

意識は存在するすべてである

 

というものです。そして、

 

存在するすべては意識である

 

ということです。

 

見かけ上、われわれの前には世界があり、そしてわれわれは体に宿っています。意識が存在するすべてあるということは、意識以外のものは存在しないということですから、こうした見かけはすべて、意識がそれ自体の中に映し出しているものにすぎないというわけです。

 

また、存在するすべてが意識であるなら、あれもこれもすべてが意識ということであって、意識とエゴとか、意識と肉体とか、わたしの意識とあなたの意識ということはありません。これが「ふたつではない=非二元」ということであり、ラメッシの教えはアドヴァイタなのです。

 

全体性という言葉をわたしが好んで用いるのは、ラメッシがこの全体性という概念をよく用いたからです。彼は自由意志の不在と運命決定論を『全体性の(非個人的)機能』という表現で説明します。すべては(意識のスクリーンの上に映される映画のように)ただ起こるのであって、それについて、誰にどんな責任もありませんとラメッシは言います。

 

彼の教えのポイントは『すべては意識であるので、どんな見かけ上のことも本当は非現実であるが、当の本人にとってそれは現実である』という柔軟な理解の持ち方にあるとわたしは思っています。

 

たとえば輪廻転生ということを考えてみてください。人間は何度も生まれ変わるのだというとき、それは幾度もの人生にわたって引き継がれる主体のようなものが想定されているはずです。よく考えてみれば分かると思いますが、それはエゴのことを指しているのです。

 

ところが、エゴは幻想です。ということは?? お分かりでしょうか。つまり、輪廻転生も幻想です。エゴという幻想が生まれ変わりを繰り返すという幻想、それが輪廻転生です。しかしながら、エゴであるわたしたちにとっては、輪廻転生は現実であるのです。このことについてはこちらの記事に詳しく書いてみましたが、その発想はラメッシの教えからもらいました。

 

merciful.hatenablog.com

 ラメッシはニサルガダッタ・マハラジの付き人を何年もつとめたのちに悟ったと言われています。また彼はラマナ・マハリシにも教わっています。マハラジもラマナ・マハリシも、ある日突然悟った人なので、それ以前に熱烈な探求者であったわけでも、一般社会で教養を深めるという経験を積んだわけでもありません。それに対しラメッシは、その二人に直接教わりつつ、長い間銀行の経営をしたり、マハラジの通訳をしたりしながら、探求を続けていた人です。

 

そういう意味で、ラメッシ・バルセカールの教えは、ラマナ・マハリシとマハラジの教えのエッセンスをさらに洗練させたものであると言えるでしょう。彼の対話におけるやり取りは、覚醒した賢者の明晰さと、辛抱強さと思いやりにあふれています。かなり分厚くて手強い本ですが、取り組んでみる価値は大いにありますよ。でも、最初にラメッシに触れるなら、コンパクトな『誰がかまうもんか?!』の方を先に読んだ方がよいかもしれません。