2013年の11月に退院して仕事に復帰したのですが、翌年2014年の3月頃、今度は謎の発熱がはじまり、3週間寝込むことになりました。この時も1週間ほど血液内科のある病院に入院したのですが、結局なにも原因は分からず、診断名は「不明熱」というものでした。実際のところ、38度近い熱が続いていたのですが、それ以外に特にこれといった症状らしいものはなにもなく、ただ熱がでてだるくて動けないという状態です。自宅で休んでいた2週間はYouTubeでバシャールなどのチャネリングものの動画ばかり見ていた記憶があります。
また書くことにはなりますが、実はこのプロローグの期間中に私は、このように原因不明の発熱で数週間寝込むということを(いまのところ)3回経験しています。それについては知人などには冗談めかして「知恵熱だ」などといってごまかしていますが、自分でもなんなのかは正直分かりません。ただ、それまでの人生で心身ともに相当過酷な負荷がかかっていたと思いますし、なにやら意識の目覚めのようなことも起きつつありましたから、ざっくりいって「浄化のプロセス」なのだろうなと考えてはいます。しかしもう御免こうむりたいところではあります。
この年にはさらに5月から6月にかけて、これも私にとっては大きな出来事が、ふたつありました。
ひとつは5月に、それまで抱えていた借金をすべて返し終わったことです。何年も前に自己破産しているのですが、その後に様々なしがらみにより、やむを得ず作った新しい借金がありました。しかもそれが結構な額でしたので、およそ6年ほどかけて返済していたのですが、それがなくなったというわけです。この時の安堵感と開放感は、先に書いた父親の死の時に感じたもの以上でした。借金というものがいかに人を抑圧してしまうかについては色々と思うところがありますが、それについてはいずれまた別に書くかもしれません。
もうひとつは、これはおそらく借金を返し終わったことでストレスがなくなったことが関係していると思われますが、6月にそれまでずっと吸い続けていた脱法ハーブをやめることができました。時期的に規制が厳しくなってきていて、そのまま続けていたとしても遅かれ早かれ入手困難になってやめざるを得なくなっていたような気もしますが、その後も違法で販売入手した人たちが逮捕される事件が何度もありましたので、あるいは自分もそうなっていた可能性もあったと思います。この時に、私の依存症は完全に癒されました。その後も好物のチョコレートがやめられませんが、これは深刻ではありません。
『パワーか、フォースか』や『 I<わたし> 真実と主観性』の著者であるデヴィッド・R・ホーキンズ博士が明らかにした意識レベルのスケールの概念によると、深刻な依存症から脱するには、本人の意識レベルが540以上に上昇するか、さもなければその意識レベルに達した人物と常に一緒にい続けるしかないそうです。博士の意識レベルの概念については今後も触れていく予定ですが、ここで簡単に概要を書くと、これは、人間の肉体が許容する最高度の意識レベルを1000に設定した0から1000までの対数のスケールになっています。意識レベルが低いということは分離、分裂の度合いが強い(=自己中心性が強い)ということを意味しており、意識レベルが高いとは、統合性が高いという意味になります。意識レベルが1上がると、統合に向かうパワーは10倍になります。
意識のスケールにおいて重要な意識レベルのポイントがいくつかあります。最初は意識レベル200です。199以下まではネガティブ(分離的)で、200以上はポジティブです。ちなみに人類全体の意識レベルはまだ200をすこし超えたくらいだそうです。200台は基本的にポジティブですがまだまだ苦痛の多いゾーンです。300台になると自己実現の領域となり、400台は高い知性の領域となっていますが、499まではこの世界を物質的、物理的な側面からしかとらえることができません。次の重要なポイントが意識レベル500で、500台は愛(愛の本質はすべてはひとつであるということで、ここで初めて目に見えない領域のこと、つまり霊性が理解されます)の領域ですが、539までは条件付きの愛、制限のある愛となります。条件付きの愛というのは言いかえると愛したり愛さなかったり、ということです。ここではまだ自己中心性が克服されておらず、自己も他者もおなじであるという理解には至っていないため、愛が制限されます。
意識レベル540は無条件の愛です。ここでは二元性はまだ超越していませんが、すべてがひとつであるということが思考による理解ではなく、経験として理解されはじめるようになります。すべてがひとつであるということは、どこにも過剰や不足がないということです。依存症がここでなくなるのは、そのためであると私は思います(博士の説明にはそこまで詳しいことは書かれていません)。
『540以上のレベルは、聖者や高度な精神の探求者、ヒーラーなどの領域です。このエネルギーフィールドの特徴は、長引く逆境に直面しながらも、大きな忍耐力で積極的な態度を根強く持つことです。
この状態の印は「慈愛」です。このレベルに達すると、他の人々にはっきりとした影響を与えます。このレベルに達した人たちは、長時間相手の目をじっと見つめることで、人々を愛と平和の意識に導きます』 パワーかフォースか P.137
ホーキンズ博士が明らかにしたこの概念が正しいのであれば、この時に、私の意識レベルは540を超えたということになるのでしょう。博士によれば、ほとんどの人の意識レベルは人生を通して10も上昇しないそうですが、それ以前の私はよくても意識レベル400台、最低の時は300台の下の方くらいの意識レベルであったという自覚がありますので、私に起きたことは稀なケースかのかもしれません。こうしたことが起きた理由は分かりませんが、自分の実感として、父親の死の際と、借金の返済の際に、大きな意識の変化があったのは間違いありません。
しかしこの時点ではまだ、その変化がどういうものなのか自覚はありませんでした。それを確認していくのは、この年の秋から読みはじめた、先に挙げたホーキンズ博士の『 I<わたし> 真実と主観性』によってとなります。この本を読んでみて、そこに書かれていることが私にとって自明のことと思えたのです。そこで何年も前に一度読んだのですがあまり理解できなかった『パワーか、フォースか』の方も再読してみたところ、先に触れた依存症の克服に関する記述を見つけるとともに、自分の意識になにが起きつつあるのかを理解したのでした。
意識レベル600は覚醒とされています。悟りは意識レベル700となっているので、少なくとも覚醒と悟りは同じではないということになりますが、これはあくまで定義の問題であって、実際にはどの意識レベルも意識が統合に向かっていくプロセスの中の一点であり、私は意識レベル500を目覚めのはじまり、540を目覚めの定着、600を二元性の超越、700を完全な観照状態という風に捉えています。700については想像です。
『(意識レベル600について)このエネルギーフィールドは、「超越」「自己実現」「神意識」と呼ばれる状態に関係しています。非常に稀な経験で、1000万人に一人しか到達しません。
この状態に達すると主観と客観の区別がなくなり、そして知覚は、どんな特定のフォーカスもありません。このレベルに達した人は、至福の状態が連続して起こるため、自らを世界から切り離し、通常の生活をやめてしまうこともしばしばです』パワーか、フォーカスか p.138
この時、わたしは自身の意識レベルが600には至っていないことも確認したのですが、そこであることを思いつきました。それはシャーマニズムにおけるサイケデリクスを用いたイニシエーションによって、意識レベル600に辿りつこうという試みです。なぜそうしたいと思ったのかはいまではよく覚えていませんが、私の頭の中には、沖縄の石垣島にはシロシベクベンシスという名の、いわゆるマジックマッシュルームが生えているという知識がありました。それは昔、某匿名掲示板の薬物関連の板でみた情報なのですが、なんとなく、石垣島に呼ばれているような感覚もありました。
実際に石垣島を最初に訪れるのは翌年の10月になるのですが、行ってみると、やはり呼ばれてここに来たのだなという体験が待っていたのでした。続きます。