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全体性を把握するためのトレーニングについて 理論編

これまでこのブログでは、『全体』や『全体性』という言葉をたびたび用いてきましたが、ここでその意味を整理しておきます。『全体とは、分割、分離できない(しない)すべて』ということです。したがって全体性とは、『すべてあること』といえます。

 

以前の記事において、人間の知覚の仕組みは対象に意識を向ける(焦点化する)ことで『対象と対象以外のものという分割(区別)』をすることによって物事を把握するようにできていることを明らかにしてきました。例えばこの本といったとき、本という概念を形作る物体が焦点化されています。同時にこのとき、その物体の境界の外側にあるものすべては「この本ではないもの」という風に無意識的に認識されています。これが『個別性という幻想(錯覚)』です。

 

この世界には、なにかとなにかを分けるような境界は本来的にはありません。それがあるように見えているのは、上に示したように、人間の知覚がそのような仕組みになっているからに過ぎません。だからそのことを幻想(錯覚)と呼んでいるわけです。

 

またこのとき、「この本ではないもの」の側には『見ているわたし』という主体の感覚が含まれています。まとめると、この本があり、この本ではないところからそれを見ているわたしがある、ということになります。これは『主体と客体という幻想(錯覚)』です。人間の知覚は、同時にふたつのことまでしか把握できないようになっていると考えてもらっても構いません。ですから知覚に頼る以上は、これとこれ以外、これとこれを見ているわたし、という捉え方しかできないのです。

 

このような幻想に囚われてしまっているため、人間はものごとを正しく理解して判断をくだし、行動するということに失敗します。その結果、悩んだり苦しんだりするのですが、そこから言えるのは、このような幻想をひとつずつ見抜いていき、それを克服していけば、その分だけ悩んだり苦しんだりすることは少なくなっていくということです。幸せという言葉がなにを指しているかは、その人自身が決めればよいことです。でも、幸せの形がなんであれ、苦しみが消えていくことによってしか、それはもたらされないと、わたしは思います。

 

そこで、ではどうすれば幻想を克服して苦しみを減らしていくことができるのでしょうか?

 

それには色々な方法があるでしょう。しかしながら、なにを目指すべきかは明白です。それはつまり、分離・分割されたものの見方を、より全体的なものに変えていくことです。これは『分離から統合へ』という言い方もできますし、『意識レベルを高める』ということとも同じです。また、『いまここにある』にシフトしていくこととも同義ですし、『自分を癒す』こととも言えます。苦しみをなくすのが仏陀が悟りを教えた目的ですが、それは苦しむ人々を癒すために他なりません。ほんとうの癒しとはその人の存在そのもの、つまり意識を癒すことです。

 

このブログでは全体性と調和という切り口から癒し、つまり意識レベルを高めることに取り組んでいきます。

 

全体性と調和していくためには、日常的な生活においてさまざまなものごとの枠組みをより大きなものへと置き換えていく努力が必要です。今回の記事では、そのために役立つトレーニング方法を紹介していきたいと思いますが、その前にひとつ、デヴィッド・R・ホーキンズ博士の著作「 I <わたし> 真実と主観性」にて紹介されている意識の訓練法について引用します。これは『観想』と呼ばれるものですが、博士は観想にはふたつのやり方があると言っています。

 

意識の訓練としての「観想」

(太字と文字の拡大はわたしによるものです)

このふたつの方法の違いは、主としてどこに焦点を置くかであり、ひとつはコンテクスト(文脈/状況)で、もうひとつはコンテント(内容/中身)です

ひとつ目の方法は、焦点をゆるめた観想の形式で、焦点を中心視野から周辺視野に移します。この観想法では、自らを取り囲む環境全体に常に気づいていなければならず、そのときに特定のものに焦点を置いたり興味を持ったり選んだりしてはいけません。

この方法は、少なくとも当初は、自らがその場にいて参加をしなければならない車の運転などの状況では適切ではありません。しかし後になれば、ほとんど常にできるようになります。しっかりと周辺視野に集中したまま、見るもの聞くものに対し選り好みをしたり拒絶をしたりしないうちに、無執着が養われていきます。すると突如、存在するものすべての完全性と一体性に気づき、それぞれの要素がその本質を完璧に表現していることを知ります。それは、すべてが完璧な平静さと完全な調和をもって進んでいることを明らかにします。

このエクササイズでは、意図や焦点は唯一周辺視野にとどめられ、見たものに対する思考や価値判断に向けてはなりません。しばらくすると、突如実践者は目撃者となり、次に気づきそのものになり、 "わたし" が関わることなく、自発的かつ非個人的にただ機能し続けます。目撃することは、気づきの "個人的な" 幻想を取り除きます。すると、実践者は知覚を超え、その場所は霊的視野に置き換えられます。このエクササイズに努力はいらず、「存在するものすべて」の一体性を、統合と調和の完璧性と恩寵の美として明らかにします。それは「宇宙」の調和のダンスなのです。

ふたつ目のエクササイズは等しく価値がありながらも、正反対の方向から始めるので、要求の多い日々の世界に機能するうえでは適しています。この場合は、遠慮なく中心視野に焦点をとどめ、100%そのときに行っている活動に集中します。

「 I <わたし> 真実と主観性」 p.68-69

 

ここで注目されるべきは、意識の焦点をコンテクスト(文脈/状況)に向けるというところです。これまでのわたしの説明における焦点とはコンテント(内容/中身)のことです。通常の人間の知覚はコンテント(内容/中身)に焦点をあわせています。どのようなことがらであっても、それがおかれている状況や話の流れ(コンテクスト)というものがあるわけですが、焦点を絞れば絞るほど、そうしたコンテクストは意識からこぼれてしまいます。

 

博士はこのことを指摘し、この人間の習性を克服するトレーニングとしてコンテクストに焦点をあわせる観想と、その反対にコンテントの方へと極端に集中する観想のふたつがあると言っています。これらはやり方はまったく正反対といえるのですが、実のところ、どちらに取り組んでも結果は同じになります。なぜなら、どちらのやり方でも最終的には『見ているわたし』という主体の感覚が消え去り、全体性の中に溶けこんだ『気づき』そのものになるということだからです。別の表現をするなら、いずれの方法を選んでも、最終的にはどこにも焦点がなくなる(無焦点)のです。

 

これにより、実践者は知覚を超え、その場所は霊的視野に置き換えられるとありますが、これはどういうことでしょうか? 知覚を超えるとは、先にわたしが述べてきた人間の知覚の仕組みを超えるということですから、言いかえると「二元性を超越する」ということになります。そこでは『見ているわたし』と『見られている光景』という分離はなく、それらが統合された場として、全体性(=神)によって目撃されています。すなわち、知覚による視野が神(全体性)による視野に置き換わるということになります。これが霊的視野ということだと思われます。

 

この全体性による目撃のことをわたしは『観照』と呼んでいます。すなわち、観照は神による目撃であり、全体性の視線です。ただ、全体性にせよ、神にせよ、それが見ているとき、見られている対象もまた全体であり神自身です。すべてであるところのものが、すべてであるそれ自身を見ている。それ以外に見ている主体は存在しない。これが観照です。ホーキンズ博士はこのことを霊的視野と呼んでいますが、この言葉についてはさらに詳しい説明はありませんので、それ以上のことは分かりません。ただ、あえて「視野」という言葉を使っているところについては、すこし思うところがありますので、それはあとで述べます。

 

いずれにしましても、コンテントとコンテクスト、どちらに向き合う方法を採用してもよいのですが、わたしにはコンテクストに意識を向ける方法がしっくりきました。これから(実践編にて)わたしがご紹介する全体性を把握するためのトレーニンは、この観想法をヒントにして、応用したものです。

 

もうひとつ注目したいのは、視野を用いたトレーニングが意識のトレーニングとなるという点です。この点について博士は明言はしていませんが、分かりやすくいうと『その人のものごとの見方、捉え方と、実際の視野の使い方はおおむね同じである』ということです。普段からものごとを細かく考えてああでもない、こうでもないとやっている人は実際に目でモノを見るときも、とても細かいところばかり見ているということになります。

 

その反対に、例えばこちらのOSHOの動画を観てみてください。

 


OSHO: The Coolness of Love

 

OSHOの目は虚ろで、どこを見ているのかよく分かりませんね。これは実際のところ、どこも見ていない(無焦点)ということです。もちろんOSHOも、必要によってはどこかに焦点をおいてモノを見ることはあります。しかし、OSHOが高い意識レベルにいるとき、その視線はどこにもフォーカスをしないのです。ホーキンズ博士は意識レベル600(覚醒)において二元性は超越され、意識上のどこにもフォーカスがなくなると述べています。OSHOもまた覚者であることは間違いありませんが、覚者とは覚醒者のことですから、意識レベル600以上ということになります。

 

意識が高まれば物理的な視野が広まり(=焦点の範囲が広まり)、最終的には視野のすべてが焦点となるのですが、これはどこにも焦点がないのと実はおなじことです。そして、そうなのであれば逆に肉眼の視野をコントロールする訓練を行えば、意識レベルも高まるということになるわけです。これがポイントです。

 

 最後に、視野ということについて別の観点の話をしておきます。博士の観想法の解説にも登場しますが、人間の視野には「中心視野」と「周辺視野」という区分があります。これは目の白目と黒目ということではありません。黒目(瞳)の中の、ものを見る部分の話です。いわゆるオーラについて書かれた本を読むと、オーラを観るには周辺視野を鍛えなさいということが必ずといってよいほど書かれています。

 

実は人間がモノを見るときに使われる細胞(視細胞)にはふたつの種類があります。それらは錐体細胞と桿体細胞と呼ばれるのですが、このうち、錐体細胞は視野の中央部に多く分布していて、明るい場所でものの色を判別しているのはこの錐体細胞によります。桿体細胞はいわゆる周辺視野に分布していて、こちらは色を判別する能力はもっていない代わり、光に対する感受性が高く、明暗を判別します。暗い場所で我々がモノを見るときはこの桿体細胞を用いています。

 

人間の活動は基本的に明るい場所で行われますから、普通に考えると錐体細胞の方が重要に思えます。ですが、細胞の数を比べると、錐体細胞が約650万個くらいであるのに対して、桿体細胞は1億2千万個以上あるとされています。このことから、人間の眼は色よりも明暗の判別をより重視した作りになっていると言えそうです。

 

この光の感受性のポテンシャルを引き出してやれば、通常は見えていない微妙な光まで判別できるようになります。オーラもエネルギーであり、その本質は光であるといえますから、周辺視野を鍛えて桿体細胞を活性化させれば、やがてエーテル体やアストラル体といったオーラボディを見ることも可能になるかもしれません。

 

実践編では、以上のことを踏まえて、全体性と調和するためのトレーニング方法を解説していきます。面倒くさいという方は、引用したホーキンズ博士の観想法を実践するだけでもよいと思います。わたしの提案する方法は、この考え方を視覚だけでなく五感全体に拡大するとともに、氣やオーラの概念をとりいれたものになります。