in SPIRE 内なる声をきく

あなたの世界を再構築するための情報です

誰が悟るのか?

過去の話についての記事が長くなりそうなので、そちらはシリーズとして続けていくこととして、このブログをはじめるにあたって最初に述べておこうと思っていたことをこちらに先に書いてみます。

 

この記事がこのブログの実質的な最初の記事となります。

 

いわゆる非二元(ノンデュアリティ)とか悟りという言葉は、それが果たしてブームとなっているのかどうかはよく分かりませんが、最近よく聞かれるようになってきたと思います。もっとも、それは私がそうした文脈の中でものを考えて生きてきたからそう感じるだけなのかもしれませんが、一方ではマインドフルネスなどという言葉もよく見かけますし、ざっくりみて、物質的な豊かさよりも心の豊かさを求めた方が幸せになれるんじゃないか? と思いはじめている人は増えているように感じます。その流れの行き着くところとして悟りというものについて考える機会を持つ人も少なくないのでしょう。

 

このブログでは、今後もこの悟りや非二元については何度も触れることになるとは思いますから、ここではひとまず悟りとはなにか? あるいは非二元とはどういうことなのか? ということについては詳しく述べません。というのも、現在の私の考えは『悟り(と悟りの観点である非二元)は幸せに生きていくための必要条件ではない』というものだからです。

 

知者不言(真理を知る者はそれについて語らず)

言者不知(それについて語る者は真理を知らない)

 

これは老子の道徳経の一節ですが、真理とは論理を超越したものであり、言語で説明しうるものではない、ゆえに「自分は悟った」とうそぶき真理についてああだこうだと言うものは、真理を知らないということなのだ、という意味です。つまり、そういうことなんです。だから、私もここで悟りや真理について色々と書くとは思いますが、それは「悟りや真理について私が知ること、思うこと」であって、真理そのものではないわけです。ですから、それはそういうものなんだとまず思っておいてもらえたら幸いです。

 

また、仏陀が伝えたとされる概念の中で悟りを説明するもっとも重要な言葉は「行為者の不在」であると私は考えています。AI(人工知能)について考えてみてください。AIは人間が作ったプログラムで動作します。現在のAIはかなり進歩していてとても複雑なプログラムが与えられていますが、基本的な原理はとてもシンプルで「入力に対して出力を返す」というものです。ある条件が入力されると、こういう答えを返す。名前は? と聞かれると私はSiriですと答えるというようなことですね。優れたAIとはどれだけ多くの入力を想定できるか? ということと、その入力に対してどれだけ柔軟に出力を返せるか? という発想でデザインできるでしょう。

 

仏陀が言いたかったのは、人間もまた、AIとなんら変わることがないのだよ、ということです。人間は少なくとも現在の最高のAIでも遥かに及ばないほど膨大な入力に膨大な出力を返す能力を持っていますが、基本的な点、つまり環境からの入力になんらかの反応を返すという点においてはAIとまったく同じように動いているのです。すこし話を縮めますが、要は人間に限らずこの世界には周囲(環境=世界=宇宙)から切り離されて独立した存在はいない、すべてがすべてと互いに影響しあってひとつの宇宙となっているというのが仏陀の悟りです。あなたが自分の頭で考えて判断して為した(とあなたが思っている)行動も、細かくみていけばすべてが環境からの入力に対しあなたというプログラムが出力を返しているに過ぎないと仏陀は言っています。

 

つまり、あなたは選択を行う実体(主体)としては存在しないというのが仏陀の説く真理です。

 

あなたという存在は、実際には「あなたという人格が存在するという前提でその人格のように振る舞うプログラムを備えた肉体」でしかないわけです。私も現在、自分も含めて世界をそのようなものとみなして暮らしていますが、これはしかし、つまらない話かもしれません。ふざけるなと思う人もいるでしょう。ですので、悟りだけを目標として努力し続けるのは、あまりおすすめしないというのが私のスタンスです。

 

この記事のタイトル「誰が悟るのか?」とは、そういうことなんですね。あなたも私も実際には存在しないのであれば、悟りを開く誰かというのも存在しないわけです。そういうことなら、悟りにフォーカスしすぎた話はほとんど誰の役にも立たないですし、そもそも役に立たれる誰かもいないのですから、まったくもってつかみどころのない話です。

 

YouTubeなどで、悟りを開いたと言われている人物が悟りを求めている探求者の質問に答えているところを撮影した動画をいくつか観ることができます。私も興味を持ってじっくり観ました。また、そのような人物の本も読みましたが、基本的にそうした人物が自分で筆を執って本を書くことはあまりなく、質問者の中で文章を書いたり編集したりする才能のある人が対話集として本にしたものが多いです。

 

そうした動画や本で私が気づいたのは、「自分が本当はどんな目的で悟りを求めているのか探求者はよく分かっていない(なぜなら悟りがなんなのか分かっていないから)」ということです。悟っていないのだから当然だといえば確かにそうなのですが、私が言いたいのはこういうことです。つまり、探求者とは「悟ることができれば〇〇だ」と考えている人であるわけです。悟れば幸せになれる。悟りを開けばこの苦しみが終わる。あるいは悟った人になって苦しんでいる人々を導いてあげたい、とかですね。

 

それがいけないという話ではありません。それに、もちろんそういう動機ではなく純粋に悟りを求めている人もいるかもしれません。しかし動機がなんであれ、悟りたいと思っているその人は実体としては存在しない、というのが真理なのであれば、その人が悟ることはあり得ません。じゃあ悟った人とはなんなのだ? と思われるでしょうが、悟った人なんていないんです。それが真理です。しかし、悟りはあります。あるのですが、先に触れたような動機に対する処方箋は悟ることではありません。

 

悟らなくても幸せになれるし、苦しみを終わらせることもできるし、苦しんでいる人々を導くこともできます。私が言いたいのは、そういうことです。このブログの趣旨は、悟ることをゴールと考えないで済む生き方を提案するというものです。

 

もちろん、悟りを探求しても構わないわけですし、その過程において得られる気づきや学びは結果として私が提案しようとしていることと同じものであるかもしれません。というより、そうは言いながらもわたしが述べられることは真理にもとづいた事柄にならざるを得ません(真理ではないことを語るわけにはいきません)ので、けっきょく悟りとはなにか? そして非二元とはどういうことなのか? といったことを語ることにはなるのだろうと思います。ただ、書かれたことがどれほど真理を指し示していたとしても、それを読んで知的に理解することと、その人に悟りが起こるかどうかは、また別の話になります。

 

ですから、わたしはそういったこと、つまり悟りとか非二元とかについて書くだけでは意味がないし、読んだ方の役にも立たないと考えます。ですから、いかにして悟るか? ではなく、いかにして意識レベルを高めていくか? ということを中心的なテーマとして書いていこうと思っています。もっとも、その結果、読者の方に悟りが起きたなら、それはわたしにとって望外の喜びです。
※意識レベルという用語については、一般的な用語ではなく、デヴィッド・R・ホーキンズ博士という方があらわした意識のスケールという概念において用いられる意識レベルのことを指しています。

 

大切なことは、幸せになるのでも、苦しみから解放されるのでも、他のなにか望ましい在り方でもよいですが、そうなるためにはこうならなくてはいけない、という条件を自分で設定してしまわないことです。ほとんどの問題は、果たしたい望みや目的の方ではなく、その実現に「必要だとあなたが考える条件」の方にあります。人間というのは不思議な生き物で、自分の方で勝手に難しい条件を設定し、それが実現できないことに安心していたりします。

 

このブログが、そのような条件を作り出す元となっている思い込みや先入観、偏見といったものをあなたが発見するヒントになれば幸いと考えます。