ひとりのひとの透察(ヴィジョン)というものは、その翼を他のひとに貸せはしないのです。あなたがたのひとりひとりは、神の「知」のなかに独りで立たされている。同じように、ひとりひとりが、神について「知ること」、大地を「理解すること」においては、孤独でなければならないのです。
カリール・ジブラン『預言者』
またまた久しぶりの記事となってしまいました。少し前にインスピレーションがあって、記事になりそうな考えがいくつか浮かんでいるのですが、形になるのはもう少し先になりそうです。今回はそれとは別に、いま現在の世の中の様子から、ちょっとこれは書いておこうと感じたことをお話します。
政治と宗教の密接な関係というのは実は大昔からあることで、とりわけ珍しいことが起きているわけではありませんが、それでもここ最近どんどん明るみに出てきている日本の政府与党と某宗教団体のつながりには、とくにこの某団体の名前すらご存知ないような若い世代の方は、かなりショックを受けているかもしれません。
この記事ではそうした出来事について掘り下げることはしませんが、一つだけはっきりとしていることを述べておきます。それは『そのような宗教団体とその教えは、霊的な真理とはほとんどなんの関係もない』ということです。これはなにもこの団体に限った話ではなく、およそほとんどすべての宗教団体が霊的な真理を伝える代わりに特定の神やその神に指名された特定の人物とその思想を崇拝させ、信者を組織化して集金し、そのお金を使って組織をさらに拡大強化しようとしています。
そうしたことが基本的に悪いということはありません。人はなにを信じるのも自由ですから、信じたい人は信じればよいだけです。ただ、これが行き過ぎて、本人の意志に反して強制的に入信させたり、信者から法外な布施をとるというような話になれば、それは当然ながらよくありません。これはその国の法律によって行ってよいことといけないことを判定し、それによって救済されるべき人が救済されるということと、法を逸脱している団体への行政的な措置が執行されることが望まれる話であります。
さて、さきほど『そのような宗教団体とその教えは、霊的な真理とはほとんどなんの関係もない』と書きましたが、そもそも霊的な真理とはなんでしょうか?
一言でいうならそれは『分離はない』ということになります。分離はない=すべてはつながっている(一つである)=存在するすべては意識であり、意識は存在するすべてである、というように、このことはいくらでも言い換えることはできますが、話を分かりやすくするために噛み砕いて説明すると、『この宇宙、この世界のすべては一なる意識のあらわれであり、この一なる意識から分離独立したいかなるものも存在しない。したがって、見かけ上は自分の頭で考えて行動し個人として振る舞っているわたしたちの誰ひとりとして、本当の行為者(行為の主体)ではない』ということになります。
人類史において偉大なマスターと呼ばれたブッダやイエス・キリストといった人物が人々に教え伝えようとしたのはこのことでした。このことからはじまって、釈迦はさらに詳細に説明し、それを理解することによって悟りに到達するための教えを開きました。イエス・キリストは釈迦とは異なるアプローチで、独立した個人はいない=誰もがひとつである=自分も他人も同じである、というところから隣人愛を説きました。
彼らが生まれたとされる時代にはインターネットはおろか電話もテレビもなく、また人々が遠くへ移動するのも簡単ではありませんでしたから、彼らは知り得たこの真理を可能な限り多くの人に伝え、それがさらに口伝えで拡散されていく必要を感じていました。それが本来の宗教団体である教団のはじまりでした。それから2000年以上の月日が過ぎた現在、驚くべきことに釈迦やイエス・キリストの名は残っており、さらにその教えを継いでいると自認・自称する宗教団体は無数といえるほどあります。
しかしながら、そうした宗教団体のどれだけが、彼らの教えの核心となる真理を正しく伝えられているでしょうか? わたしは、そのような団体は皆無だと思います。なぜそう言えるでしょうか。それは、真理そのものはまさにシンプルであり、それを教えるためにお金をとる正当な理由はないからです。真理は普遍のものであり、誰かのものではありません。特別な人が特別な修行をして身につけられる超能力の類でもありません。さらに言えば、教えられたから理解できる(悟れる)わけでもないのが真理です。言い方は変かもしれませんが、真理というものは商材たりえないのです。
ですから、おかしな反社会的カルト教団のようなものでなくても、組織を運営していくために信者からなんらかの布施(寄付)を取っていない宗教団体というものはおよそ想像し難い時点で、そうした団体のすべてが真理とは程遠いということになります。釈迦やイエス・キリストの原始的な教団は当初はすべてボランティア的に営まれたことでしょう。しかし、そうした在り方はおそらく、彼らの没後ほどなくして失われたのではないかとわたしは想像します。
ところで、ここまでは宗教団体について書いてきましたが、これはなにも宗教団体に限ったことではありません。というよりもむしろ、宗教団体の形骸化については多くの人がすでに気づかれているでしょう。ですから、もしかしたら、宗教団体よりも自称アセンデッドマスターや自称スピリチャルカウンセラーといった体で活動している個人の方がたちが悪いかもしれません。
はっきりと言いますが、わたしが知る限りにおいて、この日本だけでなく海外も含め、書籍を出版したりYou Tubeの動画に出るなどして、スピリチュアルをテーマにして生計を立てている人たちの中に本物のマスターなど一人もいません。ちなみに、本物のマスターというのはホーキンズ博士の意識のスケールにおける意識レベル600以上、すなわち覚醒者(覚者)という意味で言っていますが、それでいえば意識レベル600はおろか、540以上(無条件の愛)の領域にありそうな人も、残念ながらわたしは知りません。
もうお分かりかと思いますが、彼らが売っているものは霊的な真理ではなく、「霊的な真理を会得(会得するようなものではないのですが……)した私というすごい人物」というイメージなんですね。イメージ商売ということでは、言ってみれば芸能人と同じです。彼らが書いている本の内容や動画で話している内容を網羅しているわけではありませんが、そんなことをしなくてもその内容が真理とは無関係なことは断言できます。なぜなら、もし彼らが本当に理解しているのであれば、その理解を「売って」「それで生計を立てよう」なんて思うはずがないからです。
また、一度それを生業にしてしまうと、継続的に収入を得るために何冊も本を続けて出したり、毎日動画を更新したりしなくてはいけなくなるはずですが、そうすればそうするほど、その内容は単に本のページを埋めるためのもの、動画の尺を確保するためのものになることでしょう。そもそも最初から真理から外れているわけですが、こうなってしまうと開き直らなければできることではないでしょう。
もっとも、彼らが本物のマスターではないからといって、彼らの存在をわたしは否定はしません。彼らは彼らで自分自身の意識レベルに即したことを話し、伝えているわけですが、そのレベルの話を聞く必要がある人もいます。そもそも霊的な道における師と弟子、あるいは教師と生徒という関係性は、互いの意識レベルによって相応に定まるものです。
すなわち、悟ったマスターや覚醒したマスターを必要とする生徒は意識レベル500以上の領域にあるでしょう。こうしたマスターが伝える内容は意識レベル300台の人にはまったく理解できないし、意識レベル400台の人は頭では理解できるかもしれませんが、頭で理解できてしまうということそれ自体が本当の理解を妨げてしまいます。こうした人たちには意識レベル500台の教師がいればおそらくそれが適切でしょう。
実際のところ、スピリチュアルを商売にしている人の意識レベルにもピンからキリまでありますが、先に述べたように、本当の理解はそれをお金に変えようという気にはさせないという点で、彼らの意識レベルの上限はおそらく400台です。もちろん、例外はあるかもしれませんが、わたしは寡聞にしてそのような人を知りません。もし本当にご自分で書いているとして、曲がりなりにも本を何冊も書ける知力があるということは、やはり意識レベル400台の可能性は高いと思います。
400台はこの日本においても、かなり高い意識レベルです。ですから、彼らが書く本や動画で話す内容は、大多数の日本人にとっては基本的に有益であり、読む価値、聞く価値のあるものといえます。ただ、それは何度も言っているとおり、本当の霊的な真理とは関係のない知識とならざるを得ません。したがって、そのあたりをどうにか誤魔化し偽っている面は否めないでしょう。それでも、読み聞きして得られるメリット・デメリットを比較すれば、意識レベル200台や300台の人(日本人の8割くらいはここに該当するはずです)にとってはメリットのほうが大きいと思われます。
しかし、この記事を読まれているあなたはおそらく、もっと高い意識レベルの領域にあると想像できます。でなければ、この記事にたどり着くことはなかなかありそうに思えません。ですから、言ってしまえばここまでの話はもしかするとただの無駄話であったかもしれませんが、それでも最後にこれだけは覚えておいてください。
わたしがこのようにBLOGを書いて無料でネットに公開しているのは、真理は誰のものでもないと考えているからです。ブッダやキリストの時代とは違って、いまはこうしてネットに公開しておけば、必要としている人なら誰でも、たやすく見つけてこれを読むことができます。このことが意味しているのは、もはやこの時代においては、霊的なマスターなど誰にとっても必要ではないということです。ですから、マスターとして振る舞っている人物がいるならそれが誰であっても、その人はちょっと真理とはズレています。
同様に、この時代にまだマスターを探し求めている探求者も、ちょっと道から逸れています。必要なのは真理に触れることであって、マスターにお目にかかってありがたい言葉を掛けてもらったり、弟子として認めてもらうことではありません。霊的なマスターを探すことはもうやめましょう、というのが今回わたしが言いたかったことです。それではまた、次の記事でお会いしましょう。