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それは重要ではない!? 部分と全体について

先日の記事『非二元ってどういうことなの?』の続きになります。 

 

merciful.hatenablog.com

 

この記事では、人間の知覚はどこかに焦点をあわせることによってなにかを認識し、把握しようとする仕組みになっていることを明らかにしました。焦点をあわせる(フォーカスする)とは、「全体」の中の「部分」に着目することですが、このときフォーカスしている対象(=部分)以外のものは認識からこぼれてしまいます。しかし実際には、焦点と焦点以外のすべてを合わせたものが、ほんとうの現実として現れているのです。こういう知覚の仕組みから、人間が現実として認識しているものは常に不十分な情報で構成されています。情報が足りていないのですから、基本的に人間のやることなすことはすべて、正しい判断のもとに行われているとは言うことができません。たまたま正しい結果が得られたように見えても、それはほんとうにたまたまであったか、あるいは結果に誤差が出ない程度の単純なことであったかの、いずれかとなります。ここまでが人間が二元論で物事を認識する仕組みとその欠陥の説明です。

 

これに対して私は、どんなときでもなるべく全体を意識して、少しでも物事を大きく捉えてみることをおすすめしました。今回はその補足として、『思考にまきこまれること』について書いてみたいと思います。

 

『思考にまきこまれること』は、「思考と一体化すること」と同じ意味です。いずれも、ある思考をしているうちに、その思考にとらわれてしまって、他のことはもちろん、自分がその思考にとらわれていることにさえ気づけなくなってしまう状態のことです。これは誰でもよくありがちなことですが、悟りに近づくにつれ、こうしたこと、つまり『思考にまきこまれること』は少なくなると言われています。それはなぜなのかを説明することもできますが、それよりも、なぜ人は『思考にまきこまれる』のか? そしてそのときなにが起きているのか? を明らかにする方が有意義でしょう。できるだけ簡単に述べていきます。

 

そもそも思考とは、「なにかについて」考えることです。考える対象がないとき、それは考えているとは言いませんね。つまり、思考というものも『なにかに焦点をあわせる』ことによって可能となります。たとえば「ある問題」について考えるとします。この時その人の頭の中には、その人のいる現実のすべての中から特定のあれやこれやを指してそれをまとめて「ある問題」と認識する働きが起こっています。同時に、「ある問題」がある以上、「ある問題とは関係のないもの」もあるわけですが、そちらの方は意識にはのぼってきません。ここまでのことはいままでの説明の繰り返しです。

 

単純なことですが、その人が「ある問題」について考えているときは「ある問題以外のこと」はその人にとってあまり重要ではありません。なぜなら意識していないからです。逆に考えると「ある問題」の方は、それについて考えているその人の顕在意識がさほど大事なことだとは思ってないとしても、相対的に重要であるということになります。人間の認識の仕組みからいうと、重要性とは、頭でその人が重要なことだと考えているかどうかではなく、そのことについてどれだけ考えているかによって決まるのです。

 

ちなみに、これは思考に限ったことではありません。視野の中のどこかに注目するときは、その場所がその人にとって、他の場所よりも重要であるということです。ただ、思考について考えるのが一番分かりやすく有意義なので、このまま続けます。

 

よくあることですが、大嫌いだったはずの異性をいつのまにか好きになってしまうのは、嫌いな相手のことを考えすぎるからです。その結果、自分の顕在意識とは裏腹に、潜在意識の方はその相手を重要人物とみなしていきます。気がつくと潜在意識の判断が現実に現れてくるというオチですね。とにかくなにかについて考えると、そのことに重要性を与えてしまうのです。考えれば考えるほど重要性は増していきます。そうして、考えることをやめられなくなるのです。これが『思考にまきこまれること』の仕組みです。

 

ここでお気づきの人もいるかもしれませんが、ポイントは『実際にはなにひとつ重要ではない』ということです。なにかを別のなにかよりも重要だとみなしているのはその人の知覚であり、本当は、この世界には他のなにかよりも重要ななにかというものはありません。というより、「なにか」とか「他のなにか」というのも人間の知覚が作り出した幻想であって、あるのはすべてがひとつになった全体性だけです。つまり、重要という言葉もまた幻想にすぎません。

 

ここで執着ということを考えてみます。執着とは、Googleによれば

 

しゅうじゃく
執着
 
  1. 《名・ス自》
    ある物・事に強くひかれ、深く思い込んでどうしても忘れ切れないこと。
     「金に―する」
 
しゅうちゃく
執着
 
  1. 《名・ス自》
    しゅうじゃく

ということですが、「ある物・事に強くひかれ」はなにかに強く着目(=焦点化)することで、「深く思い込んでどうしても忘れきれない」のは着目した結果、どんどん重要性を与えてしまい、それについて考えることをやめられなくなる、ということです。つまり、なぜ執着が生まれるかというと、ただ単にそれについて考えたり思ったりし過ぎたがゆえなのです。そこまで考えて思って重要性を与えてきたものを、簡単には捨てられないという、それだけのことです。

 

当たり前のことですが、なにかを重要だと考えているとき、それとは別のものを重要だと考えることは難しいです。このことは、ここまでの説明を読んでいただいたなら、理解いただけると思います。しかし先ほども述べましたが、重要性というのは単なる知覚であって、真実とはなんの関係もありません。ほんとうはなにひとつ重要ではないのです。しかし一方では、されど人間です。人として生きる以上、なにかを重要視することは絶対に必要なことでもあります。ここにジレンマがあるのですが、ポイントは、

 

『なにかを重要だと考えるとき、他にも重要ななにかがあるかもしれないことを常に想定する』

 

ことです。人間はその知覚の仕組み上、無意識的にどんなものにでも重要性を与えてしまいます。意識的に重要だと判断したつもりであっても、実際にはそうではなく、ただそのことばかり考えていたからということが往々にしてあります。そして、本当は重要なものなんてなにひとつない、とうのは確かに真理ですが、そうと知ったところで普通はなんの役にも立ちません。ですから、なにかを重要だと考えるのはよしとしましょう。その代わり、そのときには

 

『重要なことはそれだけではないかもしれない。もしかしたら、もっと重要なことがあるかもしれないし、いま重要だと考えているこれは、実はたいして重要ではないのかもしれない』

 

と考えることが重要です

 

これも結局は、全体性を意識するということです。全体に近づけば近づくほど、部分のように見えるところの重要性は下がっていきます。それが調和しているということです。今回はここまでです。