こんにちは。お久しぶりです。前回の記事からだいぶ時間が過ぎてしまいました。
人類はいま、新型コロナウイルスのパンデミックによって、大変な痛みと恐怖、不安、失望を経験しています。そしてこのパンデミックはこの記事の執筆時点で現在進行中であり、まったく予断をゆるさない状況であります。
わたしは医学、医療の専門家ではありませんから、このたびのウイルスそのものについてなにか言及する立場にありません。しかしながらわたし自身の生活をふくめ、世の中を見渡していくうちに気づいたことがありましたので、ここでシェアしたいと思います。
現在わたしは1か月ちょっと前から、以前にも何度か経験したことのある「不明熱」と呼ぶしかない発熱が続いており、仕事をお休みしています。ちょうどこのパンデミックによって日本の社会が慌てはじめた時期からずっと、基本的にはほとんど自宅に閉じこもりきりで、床に臥せっているか、パンデミックに関する情報をウォッチしているか、漫画を読んでいるかのいずれかという生活を続けています。
その中で最初に気になったのは、感染の拡大防止の観点や、マスクや日用品などの購買という行動面において、とても自己中心的なふるまいをする人たちがたくさんいるようだということです。はじめのうちは高齢者によるそうした事案がよく報告されていましたが、この記事を書いている時点では学生や20代くらいの若い人たちがやり玉にあげられているケースが目につきます。
こうした行動は、おそらく目立っていないだけで、それ以外の各世代でも具体的な行動の内容は違うかもしれませんが、ほとんど同じような度合いで起こっているものと、わたしは推察します。ただ高齢者のケースと若年者のケースが、誰でも非難しやすい、分かりやすいケースであるのだろうと考えます。
ちなみに、東日本大震災のときには、もちろん当時も色々あったとは思いますが、あまりこうしたことが話題になることはなかったと思います。その点で、今回のパンデミックにおける日本人の集合意識は、震災のときとは異なる波長を示しているとわたしは考えます。つまり、起きていることの本質がまったく異なるということです。
東日本大震災のときは天災であり、言ってみれば日本人全員が被害者であったと言えます。ですから当時は「絆」という言葉がパワーワードとして浮かび上がりました。あの時の経験によって日本人は助け合いや思いやり、励ましということを学び取ったと思います。一方、今回のパンデミックはウイルスの蔓延という事態であり、大きな観点では、潜在的には日本人どころか地球人類すべてが被害者になりうるという、未曽有の経験であります。
しかしマクロな視点で考えていくと、今回のケースでは、誰しもが被害者にもなりえるし、加害者にもなりえることが分かってきます。もうみなさんご存じのように、このウイルスでは感染しても多くの人が無症状であるのですが、そうであってもその人からほかの人へと感染させてしまうリスクがあるということです。人に病気をうつしてしまうことそれ自体を加害行為とは決して言えませんが、あまりにも無自覚であったり、悪意によるものである場合は、その人はやはり加害者とみなされます。上述の自己中心的な人々は、このことについての理解が未熟なのでしょう。
一方で、このことを理解したことによってより多くを学ぶ人も増えていくでしょう。それは人類の集合意識に変化をもたらし、このパンデミックが終息した以降も、人々のコミュニケーションのあり方、とくに自分の振る舞いが他者に与える影響についての理解に、大きな変化をもたらすことになりそうです。
話は戻りますが、しかし、いずれにしても、ここではそうした自己中心的な行動をとる人々を非難するつもりはまったくありませんし、これをお読みのみなさんにも、彼らを非難しないようにお願いしたいと思います。
もちろん、目の前で親しい人がそうした行動をとったとしたら、わたしはきっと注意すると思います。よくない(自己中心的で非調和的な)ことはよくないと分からせてあげることは、非難とは違います。注意した結果、その人が気づいてくれたら幸いですが、もし逆切れされたり、ハイハイと言いながら心の中でベロを出していたとしても、それはそれで一向にかまいません。
人間はひとりひとり、異なる学びの段階にあります。ですから、注意したその人が気づきを得て行動を改めるか、それとも逆に反発心を抱いてしまうかは完全にその本人の学びのプロセスの問題であって、注意する側はその結果にこだわるべきではありません。ただ、伝えるべきは伝える、というだけでよいのです。人類全体で意識の進化をめざしていく以上、いまの時点で無理解な人がいて、その人たちのせいで傷つけられる人々がいることは、悲しいことですが、避けることができないことでもあります。そうした人に怒りをぶつけてしまうとしたら、それはあなた自身のカルマの問題でもあるのだと、考えてみてください。
ではそういう人たちの振る舞いは許されていいのか? とみなさん思われることでしょう。もちろん、そうした行動をとると、それ相応の結果を受け取ることになります。場合によっては逮捕されて罰せられることもあるでしょうし、一見、なんの報いも受けていないように見える場合でも、カルマという観点でその人には新たな課題が与えられるでしょう(同じ課題を繰り返し学ぶのかもしれません)。
自分や自分にとって大切な人が、そのような人たちの行為によって傷つけられることがもしあれば、それは確かに容易に許しがたいことでしょう。しかし、霊的な観点では、誰にもなんの責任もありません。なぜなら、その人は自分がなにをしているのか分かっていないからです。もっとも、この理解を誰にでも強要することは、わたしにはできません。ただ、あなたが裁かなくても、人は自らの行為によって自らを裁いているのです。いずれ、それがこの人生とは限らないとしても、自分のやったことの埋め合わせは必ずすることにはなります。
先ほどの繰り返しになりますが、いずれにしても、現在のこのパンデミックの状況下においては、自分の振る舞いが原因で他者に多大な害を及ぼしかねないという自覚をしっかりと持つことが要求されています。とても大変なことだと思います。でも、これはある意味では「すべてはひとつにつながっている」のだということを身をもって学ぶ機会ととらえることもできそうです。
見方を変えてみれば、どのような行動が自分だけでなく他の人までも守ることになるのかを考える機会になりますし、その理解をもった人々が模範的に振る舞うことで、その影響が社会に広まっていくということも容易に起こり得るでしょう。いずれにしても、コロナウイルス以降のわたしたちはいつまでも他者に対して無責任・無関心でいることは許されなくなるということです。
ひとつの種が分離の時代を終えて統合・進化をしていく過程においては、このような経験を乗り越える必要があります。このウイルスによるパンデミックは遅かれ早かれ終息するでしょうが、その時までには、わたしたちの社会と生活は大きく変革していることでしょう。その変革に誰もが適応できるとは、わたしは思いません。
しかし、なるべく多くの人がこの機会に人間は種全体としてひとつの生き物なのだということに気づいて、より格差や差別のない、思いやりのある幸せな世界をみなで作り上げていけたらと思います。