今回は2冊ご紹介します。
『ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる』
エックハルト・トール
- 作者: エックハルト・トール,吉田利子
- 出版社/メーカー: サンマーク出版
- 発売日: 2008/10/17
- メディア: ハードカバー
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もし誰かに「なにか面白い本はありませんか?」と聞かれたら、わたしならこの本をまず最初に候補として思い浮かべます。もっとも、その人が求める面白さがどういうものであるかによって実際に勧めるかどうかは分かりませんが、なるべく多くの人がこの本を読んでくれたらよいのになと感じる一冊です。
この本は、意識の目覚めについて書かれた本です。非二元という言葉はたぶん出てこなかったと思いますが、内容としては『二元性という人類が囚われている幻想から抜け出す時が来たよ』というメッセージです。また、吉田利子さんの訳がとても素晴らしいです。
著者のエックハルト・トールはいま人類は大きな危機にあると主張します。物質文明が繁栄の極みに達した影には自然破壊や戦争、飢餓、経済格差などなど、さまざまな問題が起きています。彼はこうした問題が起きる原因は、人類に固有の『機能不全』にあるといいます。この機能不全というのが、二元性という幻想に囚われていることを指しているのですが、彼はこのことを『エゴとはなにか』を解き明かしながら説明します。スピリチュアルな文脈でいうところの『エゴ』についての説明としては、わたしがこれまで読んだ中ではこの本がもっとも丁寧で分かりやすいと思います。
わたし自身が真理ということについて語るときは『全体性』と『調和』ということに重きをおくようにしていますが、彼は『いまここにあること』を強調しています。『いまここにある』とはどういうことかを手っ取り早く理解してもらうには、『いまここにいない』とはどういうことかを説明する方が簡単です。まだ起こってもいない将来のことを心配していたり、過去のことをくよくよと悩んだり、あるいは職場で仕事をしながらもっといい会社はないだろうか、この会社は自分のいるべき場所ではないのではないだろうか? などという思考に囚われているとき、その人は『いまここ』から離れてしまっていると言えます。
しかし、未来に起きるかもしれない嫌な出来事は『いまここ』においては起こっていないわけですし、過去のことはもう過ぎ去ったことです。それに、どのように考えたところでその人がいまいるべき場所はその職場なのです。そのようにはっきりと気づいてしまうと、どこにも問題はないことが明らかになります。つまり、問題なのは「〇〇について考えてしまうこと」であって「〇〇」そのものの方ではないのです。このように、『いまここ』から心が離れ、考えても仕方のないことを延々と考え、その結果として悩んだり苦しんだりしてしまうのがエックハルト・トールのいう『人間固有の機能不全』の一例です。
この本では、『いまここ』に意識を向けると人生がどう変わっていくかを明らかにしつつ、『いまここ』に気づくためのヒントがたくさん紹介されています。この本が素晴らしいなと思うのは、非二元や悟りといった言葉に関心のない人が読んでもなるほどなるほどと面白く読める点です。わたし自身もこの本から多くを学びましたし、これからもまた読み返したいと思っています。
『タオ―老子』
加島祥造
老子の「道徳経」を現代口語風に訳したものです。この本は昔から気に入っていて、何冊も人にプレゼントしています。
わたし自身のことでいうと、老子という名前は孔子と並んで高校生のときに教科書で学んだ知識として頭に入っており、道徳経という言葉から受ける印象もあって、真理や悟りということがらとは無縁の、いわゆるモラルや処世訓を説いた哲学者というイメージを持っていました。おそらく、ほとんどの方にとっても同様かと思います。
事実、この本をはじめて読んだ(それ以前には高校生の漢語の授業で老子を少し読んだくらいです)ときには、その訳し方のテイストに惹かれてけっこうな感銘を受けたものの、肝心の『タオ』という概念については把握しそこねました。タオとは道と書きますから『人として生きる道』とでもいうような意味以上のものがあるとは、そのときは理解できなかったのです。もちろん、そのような意味もタオの概念には含まれているのですが、タオとはそんなちっぽけなものではなかったのです。
タオとは、例えば仏教における「空」やキリスト教の「神」あるいは最近のスピリチュアルな書籍にでてくる「ワンネス」といった言葉と同じように、真理を指した言葉です。タオは大らかな女性のような性質ですべてを生み出してはぐくむ根本原理であり、それは言葉では言い表せず、ただこっちにあるよと指し示すことしかできません(ゆえにそれを道といいます)。わたしが用いる「全体性」という言葉もタオと同義ですし、エックハルト・トールの「いまここにある」というのも、そのときそれがタオであると言えます。こうした言葉はけっきょく好みということになりますが、わたしは個人的にはタオという言葉がとても気に入っています。それは最初にこの訳本によって抱いたフィーリングが影響しているかもしれません。
ですから、真理を説いた書物として道徳経を読むということに関していえば、本当はどんな訳本であっても構わないと思います。逆にいうと、最初に触れるタオがこの本であってもまったくオーケーなわけです。ただ、この本は道徳経の本文を訳しただけで、特に解説のようなものはありません。むしろその点がよいのですが、この本を読んだうえで老子についてさらに学びたいのであれば、OSHOの『TAO 永遠の大河 OSHO老子を語る』シリーズをおすすめします。老子の解説本としてはもっと有名な本はいくらでもあるかと思いますが、老子と同じように覚醒した意識をもった人物が語った老子の本は、他にないかもしれません。
最後に老子道徳経の中から一つだけ言葉を引用しておきます。それは『無為自然』です。無為自然とは「なんら作為をせず、ただタオにしたがって自然でいなさい」ということです。真相は、作為をしているつもりであっても、あるいはしていないつもりであっても、実際には人は行為の主体ではありません。ですからポイントは、タオにしたがって自然でいるということになります。これはすべてを受容するということです。そして、このとき人はいまここにしっかりとあることができます。いまここにあるとき、そこには調和があります。調和とは全体性に溶けこむことです。全体性とはタオのことです。