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苦しみとはなにか? あるいはなぜドラッグは気持ちいいのか?

幸せというものはつかみどころのない概念だと思います。「幸せになりたいですか?」と聞かれて「いいえ」と答える人はあまりいないでしょう。ですが、幸せになりたいということは、実は「いまは幸せではない」という思いが前提としてあるということになります。すると「いや、そういうわけではないけれども、もっともっと幸せになりたいのですよ!」と言いたくなる人もいるかもしれません。

 

では「あなたにとって幸せとはなんですか?」と聞かれたら、あなたならなんと答えるでしょうか。人間関係に恵まれること、仕事で成功し豊かな生活を送ること、あるいは趣味の世界に浸れる暮らし、とまあ、人によっていろいろあると思います。しかしよく考えると、そういうものは幸せになるための条件であって、幸せそのものではないことが分かります。人間関係に恵まれたらわたしは幸せだ、と言っているのですが、幸せそのものがなんであるかという説明にはなっていません。

 

ではここで、幸せの反対を考えてみましょう。幸せの反対は不幸せ、つまり不幸ということになりますが、これは「幸せではない」という意味の言葉ですから、まず幸せがなんなのかが分からなくては、不幸がなんであるかも分からないですね。わたしたちは普段なんの気なしに幸せや不幸という言葉を口にしてはいますが、実のところその言葉がなにを意味しているかについてはあいまいなのです。また、ある人から見て「あの人は幸せそう」だとしても、当の本人は自分のことをものすごく不幸だと思っている、なんてことは普通によくあります。

 

幸せという概念はこのようにつかみどころがありません。かといって、幸福という概念が幻想にすぎないと言い切ってしまうのでは救いがありません。そこで、ここでは幸せということについて別の角度から探ってみたいと思います。それは苦しみとはなにか? ということです。

 

仏陀が言っていたことをわたしなりに要約するとこうなります。

 

『この世界のすべては苦である。苦とは思い通りにならぬということである。思い通りにならぬということは、誤った思いがあるということである。誤った思いとは、たとえばものごとが永遠に変わらないという誤解であり、たとえば自由意志をもった自分というものが存在しているという誤解である。そして、わたしはこの誤った思いを取り除く方法を知っている。ゆえにわたしはあなた方を苦から解放しよう』

 

その方法が八正道とよばれる教えなのですが、ここではそれについては触れません。ポイントは、なにか思い(想念、思考、思想、願望 etc...)があって、その思いの通りにならないことを苦しみと仏陀が呼んでいることです。そして、その思いとは「いまのこの楽しい状態が永遠につづくべきだ」とか「わたしの美貌が衰えることはあってはならない」などという誤解(諸行無常)や「ほんとうのところ、五感に入力された情報に自動的に反応しているにすぎないのに、あたかもそれを行っている『自分』というものがあると信じている」という誤解(諸法無我)のことであると言っています。そうすると、心をもった人間の考えることはおよそすべて苦しみであるということになります(一切皆苦)。

 

ちなみに、例えば体の痛みがあるとします。それはそれで辛いわけですが、仏陀が言う苦しみとは、痛くて辛いからこの痛みがなくなって欲しいのに痛みが引かない、という『思い』のことを指しています。人によっては痛みが好きだということもありますから、それ自体が必ずしも苦しみであるとは限らないのですね。

 

仏陀の教えが目指しているのは悟りです。悟りとは、わたしという概念もふくめて人間の世界認識が二元性という錯覚に囚われていることを見抜き、そこから完全に自由になることと言えるでしょう。逆に、悟りから遠ざかれば遠ざかるほど、こうした二元性の錯覚につよく囚われているということになります。それらは錯覚ですから、悟りから遠い人ほど、その人にとってそのように見えている世界と真実の世界のあり方とが、かけ離れているわけです。簡単にいえば、それだけ思い違いが多いということで、思い違いが多いから苦しいと感じる機会も多くなります。そのような思い違いが減っていけば、そのぶん苦しみも減っていくでしょう。仏陀は幸せになる方法を教える代わり、この苦しみを減らす方法を説いたのでした

 

ホーキンズ博士の意識レベルの概念では、分離(分裂)的であることを意識レベルが低いとみなし、統合的であることを意識レベルが高いと表現しています。そこから分かるのは、「ものごとを個々バラバラに分けて捉えれば捉えるほど、思い違いが増える」ということです。これはこうだ、あれはああだ、と細かく決めつけていけばいくほど、そのようになっていかないことばかりが現れてきて、結果として苦しいということです。裏を返せば、こうした苦しみは、心のありかたが統合的、調和的に変わっていけば自ずと減っていく、ということにもなります。そして、苦しみのもととなる思いから完全に自由になったとき、そこには静かな安らぎがあるとされています(涅槃寂静)。それが悟りの境地です。

 

ここからは余談になりますが、プロローグという記事でも述べたとおり、以前のわたしは深刻な薬物依存者でした。そのおかげでさまざまなドラッグと呼ばれるものを数多く体験したわけですが、その体験を振り返ってみて、なるほどと気づいたことがあります。

 

ここまでを読まれた方の中には「一切皆苦とはいっても、そこまでなにからなにまで苦しいとは感じてないな。自覚はないけれども、果たして実は、自分はとても苦しんでいるのだろうか?」という風に思った人もいるかもしれません。仏陀によれば、肉体を持って生きていることそれ自体が苦であるのですが、健康に暮らしている人であれば普通はそのことを苦とはまず思いませんね。

 

ですが、たとえばインフルエンザで40度近い熱を出して一週間ほど寝こむと、その時は大変に苦しいです。そして熱が下がって全快すると、健康であることの気持ちよさをひしひしと感じたりもします。頭痛に悩まされているときはとても辛いですが、鎮痛剤を飲めば嘘のように痛みが消えていきます。このときも、痛みが消えていく気持ちよさのようなものを味わいます。これがヒントです。

 

実は、快楽や快感をもたらすとされているドラッグは、強力な鎮痛剤や麻酔薬でもあるのです。

 

日本ではあまり広まっていませんが、世界的に蔓延しているドラッグの女王と呼ばれるものがヘロインです。このヘロインはケシの花からとれるアヘンを精製して作られますが、風邪薬などに咳止め成分として使用されているコデインや、がんの疼痛に処方されるモルヒネは、このヘロインとおなじオピオイド系の薬物です。わたしはヘロインは試したことがありませんが、コデインで遊んだことはあります。効いてくると独特の甘美な多幸感がやってきて恍惚となります。コデインでそうなのですから、ヘロインがどれほど強烈なものかは想像がつきます。

 

また、これも日本ではそれほどポピュラーではありませんが、コカインと呼ばれるドラッグも、これもまた系統は違いますが麻酔薬の一種です。コカインは一般的に粉末を細かく砕いて鼻から吸引(スニッフィング)しますが、しばらくすると鼻の奥から口の方に溶けたコカインが流れこんできて、舌が麻痺してきます。これも短時間ですが強い快感をあじわえます。

 

また、わたしが常習していたメタンフェタミン覚せい剤)は鎮痛剤や麻酔剤ではありませんが、肉体の倦怠感を吹き飛ばすため、多少の痛みなども感じにくくなります。よく覚せい剤をやって万能感を得て云々、といった話を聞きますが、わたし個人は万能感というのは感じたことがありません。ただし、効いているときには不安や恐怖といったものも消え去ってしまいますから、普段から自分自身に不可能感を抱いている人は、それがなくなった結果として万能感を得るのかもしれません。

 

このように、リクリエーショナルドラッグ(快感をもたらす嗜好性の強い薬物)は、『苦痛を強力に除去する結果として快感をもたらしている』のです。言いかえると『快感とはそれ自体プラスの作用として存在するのではなく、マイナス(苦痛)が回復するときの感覚である』ということです。たとえばある人の苦痛が100という数値であるとします。人間はみな苦を抱えて生きているということで、この100という数値を平均値としておきましょう。

 

このときに、仮にヘロインの鎮痛作用が80、コカインが50であるとします。この人がヘロインを打つと、苦痛は20にまで減少することになります。この人は痛みが消えてとてつもない快感を味わってはいるのですが、実のところ、それでも苦痛はまだ20あるわけです。しかし、苦痛が20という状態は100のときに比べると遥かに「いい感じ」なのです。一度シラフに戻って、今度はコカインを試します。すると今度は苦痛が50にまで下がります。これもまたいい感じですが、ヘロインのときの20よりは苦痛レベルが高いので、コカインはヘロインほどではないなあ、ということになります。

 

今度は普段の苦痛レベルが130の人がヘロインを試します。すると苦痛レベルは50になります。この人にとって苦痛レベル50の世界は「まったくいい感じ」なのですが、これは先ほどの平均的な人がコカインを味わっているときの苦痛レベルと同じです。さらに苦痛レベル200の人がヘロインをやっても苦痛レベルは120ですから、最初の平均値の人のシラフの状態の方がマシである、ということになるのです。ここから、苦痛レベルが高い人ほど、このような苦痛を取り去るドラッグに依存しやすいということも言えると思います。もちろんこれはものすごく単純化した話です。ですが、苦痛と快感の関係はこれでご理解いただけるかと思います。

 

さきほど、悟りの境地は静かな安らぎであると書きました。それは真実であると思います。この境地をいま用いている苦痛レベルであらわすと、それは極論すると0ということになります。苦痛が0なのですから、この人にはヘロインやコカインはなんの快感ももたらさないということになります。このような状態を普通の人がとつぜん体験すると、それはとてつもない快感となるでしょう。しかし、普段からこのレベルにいる賢者には、それは単なる安らぎであるのです。稀に、覚醒の段階で強烈な至福をあじわうという体験が報告されていますが、これはおそらく苦痛レベルがかなり高かった人の意識レベルが急激に高まったことによると思います。これもある期間が過ぎれば慣れてしまい、いずれは安らぎに落ち着くことになります。

 

もっとも、悟った人でも肉体に宿っている以上、微妙な苦痛はあるでしょう。お腹がすいたとか、眠たいというのも苦の一つですから、悟った人でも実際の苦痛レベルは10とか20とかであると考える方が理にかなうとわたしは思います。そうだとしても、こうした人は平均的な人がヘロインを用いてようやく感じられる安らぎの状態に普段からいるということになります。

 

ホーキンズ博士の意識レベルの数値とこの苦痛レベルは反比例すると考えてもらうとよいでしょう。博士は意識レベル540を超えると深刻な依存症から脱することができると述べていますが、ここまでのたとえで言うなら、平均的な人がコカインを用いたときの苦痛レベル50でも「かなりいい感じ」なわけです。それはつまり、ふだんの苦痛レベルが50の人にはもはやこうしたドラッグは不要ということになります。意識レベル540というのはそのように、なんらかのドラッグや嗜癖によって苦痛を除去する必要のないほど苦痛レベルが下がった状態である、と考えることができるでしょう。

 

結論を言いそびれそうになりましたが、要は、幸せがなんであるかはともかくとして、それは苦しみが少ないということと同じである、ということです。自分にとってなにが幸せであるかが分からなくても、なにが苦しいかは分かるはずです。その苦しみを減らしていくのが調和への道です。

 

追記:noteに「ハイとはなにか? そして依存とは」というノートを書きました。内容的にこの記事の補足となるので、リンクしておきます。

note.mu