このブログについての予備知識となる10冊#10 『サイレント・パルス 宇宙律との遊星的共振』
ひとりひとりの人間は、リズミックな波動で表現される純粋な情報からできている。その波動は、量子たちの無限小のヴァイブレーションからはじまって、原子、分子、細胞、器官、生体、家族、部族、民族、国家、文明、そしてそれを超えたものへと永遠にひろがる共鳴のヒエラルキーをもつのである。
G.レオナード『サイレント・パルス 宇宙率との遊星的共振』
こんにちは、お久しぶりです。
このブログについての予備知識となる10冊、というタイトルでこれまで記事を9つ書いてきましたが、これがその続きであり最後のものとなる10冊目の紹介になります。前回の記事はこちらになります。
9冊目の紹介から実に5年近くも経ってしまいましたが、これは単に続きを書くことをわたしが忘れていただけです。もっとも、そもそも最初から10冊を選んで予定していたのではなく、だいたい10冊くらいは紹介できるだろうという想定で書いていたので、この10冊目にどんな本をとりあげるかもはっきりとは決まってはいませんでした。
それから5年近くが過ぎて、最近ふとそのことに気づいたのですが、ちょうどこれからこのBLOGで書いていこうと考えていたことの取っ掛かりといえる内容が書かれた本を見つけましたので、今回これを10冊目として紹介したいと思います。
これまでこの In SPIRE では意識の覚醒について、それがわたしの身にどのようにして起きたかということや、それが起きると知覚(つまり、世界の見え方)がどう変わるのかということ、それから、そもそものところで意識とはなにか? 現実とは? といったことをさまざまに書いてきました。そのなかで悟りや非二元といった概念にも触れることで、いわゆる探求者と呼ばれる方々の知りたいことをある程度まで網羅できたかな、と思っています。
こうした話というものは、そのつもりになれば手を変え品を変え、いくらでも語ろうと思えば語ることは可能です。そのような話をもっと読みたいと考える読者の方もいらっしゃるかもしれませんし、わたしにしても日々のなかでこんな伝え方もありだなあと新たに思いつくことはしばしばです。
しかしながら、それはキリのないことで、探求者の探究にいつか終わりがくるべきであるように、教えることにもどこかで区切りがくるべきだとわたしは考えます。
そこで、今後はこれまでとはやや趣きの異なることをテーマにして新たに書いていこうと思っています。具体的には「波動や周波数といった観点からみた宇宙と人間や現象、または共感・共鳴・共振・同調」といったことや「多次元世界や次元密度、なかでもアストラル界について」などなど、です。note の記事とは違って、こちらのBLOGでは降りてきたインスピレーションを文章化しているため、この通りに書くことになるのかどうかあらかじめ保証することはできませんが、おおむねこういう方向性となるはずです。こうして挙げてみるとオカルト的な内容ばかりですが、オカルトとは「隠された」という意味ですから、その点でオカルトで間違いはありません。
意識が覚醒すると、あるいは悟りが起きると、この世界のすべてが幻想であることが自明となります。なぜ自明と言い切れるかというと、他ならぬ自己の存在からして幻想であることに気づいてしまうからです。しかしながらこれには誤解の余地があります。幻想というのは人間の通常の知覚を通して認識される二元性にもとづく世界像が実相とは異なっているという意味であって、この世界のすべてが実際には存在しない夢幻であるということではありません。これまでの記事では、このことを説明してきたつもりでいます。
さて、あらためてこの世界についてですが、夢幻ではなく確かに実存しているとは言うものの、その存在の仕方の根底からいって実にこころもとないものです。物質の基礎といえる原子の中は真空のがらんどうです。大雑把な表現にはなりますが、がらんどうをいくら寄せ集めても中身はスッカスカのはずなのに、それが鉄とか鉛といった重い物質を作り上げているというのは実に不思議なことです。また、最近では、この世界は何者かによって作られたコンピューター上のシミュレーションなのではないかという仮説もでています。細かいことはここではとりあげませんが、そのようなことを真剣に考える人がいるくらい、この世界にはどこか謎めいた面が存在しているのです。
今後わたしが書いていくのはこちらのこと、つまり、この世界がとても不思議で、かつ巧妙に作られていることについてです。これまで書いてきた意識についての話はわたしにとって自明のことでしたから、そこには推測や仮説といった要素はほとんどありませんでした(すべてが事実として正確であるとまではいいません)。しかし、これから書こうとしていることに関しては、わたしにとっても手探りであり、なにかひとつでも言い切れるようなことはないかもしれません。二元性という幻想について見破ることができたからといって全知ではありませんから、知らないことは知らないし、分からないことは分かりません。
しかしそれでも書いていこうと思うのは、率直にいって、この世でやるべきことがもう、そういうことくらいしかないからです。ですので、これはわたしの趣味の話といってもよいかもしれません。そういうものでもよろしければ、今後もおつきあいくださいませ。
なお、これから書いていくことを理解していただくためには、これまでの記事に書いてきたことをしっかりと頭に入れておいていただく必要があるでしょう。できればあらためてすべての記事を再読しておいていただくことをお勧めします。次の記事が出るのはまだ当分先のことになりそうですから、時間は十分にあると言えるでしょう。
そして、それに加えてこれから紹介する『サイレント・パルス 宇宙律との遊星的共振』もぜひお読みください。この本の内容は、これまで書いてきた内容とこれからの内容の橋渡し役的な知識の一つとなると思います。
ここから本題です
さてここからようやく本題となります。まずは、記事の冒頭に引用した文章をもういちど見ていただきます。
ひとりひとりの人間は、リズミックな波動で表現される純粋な情報からできている。その波動は、量子たちの無限小のヴァイブレーションからはじまって、原子、分子、細胞、器官、生体、家族、部族、民族、国家、文明、そしてそれを超えたものへと永遠にひろがる共鳴のヒエラルキーをもつのである。
この文章にあるとおり、この本では、人間存在の本質をその人固有のパルス(脈動)として捉えています。また、人間だけでなく、この世界のすべてのものも同じように固有のパルスをもっていて、それぞれがそれぞれのパルスを全宇宙に向けて放射しているとみなすなら、これらの放射のひとつひとつが他のすべての放射とであうことになります。
このとき、宇宙全体を三次元の動的なフィルムであるとみなすなら、そこには全宇宙の情報が刻まれた干渉縞が写りこんでいるでしょう。すなわち、宇宙は巨大なホログラムとみなすことができるというわけです。ここではホログラムについての説明はしませんが、ホログラムについては以前の記事で紹介した『投影された宇宙―ホログラフィック・ユニヴァースへの招待』という本にも詳しく書かれていますし、Wikipedia などで調べてみてもよいでしょう。
宇宙がホログラムであるのなら、この宇宙のどの一部分を切り取ってみても、その部分のなかに宇宙全体の情報が含まれているということになります。
人体は小宇宙と言われることがありますが、人間の体もまさに宇宙の一部分ですから、そこに宇宙のすべてがその大きさなりの解像度で存在しているということで、実際のところ、たとえば脳の神経細胞のつながり(シナプス)を可視化したものと、宇宙の大規模構造(グレートウォール)の想像図はほとんど見分けがつきません。
G.レオナードはこのように人間を宇宙ホログラムを構成する部分として捉えることによって、奇妙な、ある意味超自然的ともいえるいくつかの現象を説明しようと試みています。
例えば、会話を撮影したフィルムの1コマ1コマ(1秒に48コマ)を分析することで、話者が発する言葉の微小単位(短音節)と話者の体の微小な運動が完全に同調しているだけではなく、聞き手の体の微小運動も、話者に「遅れることなく」完全に同調していることがわかっている(ウィリアム・S・コンドン博士の微小分析)のですが、これなどは話者の心と体、あるいは話者と聞き手を個個別別のものであると考えた場合、どうしても説明ができないのです。
しかし、すべてが波動ないしはパルスであって、このパルスが宇宙ホログラムの干渉縞を織りなしているとするなら、見かけ上は別々のものにみえるあれやこれやもすべて、全体性の中で完璧に演じられるダンスやオーケストラであるというわけです。また、いわゆる遠隔視実験についてもこの観点から考察されていて、こちらも面白いです。
さらにレオナードは、われわれ人間はホログラムの一部分であると言う一方で、この「部分」というものはどれをとっても同じ取るに足らない部分ではない、とも説きます。
わたしの主張は単純だ。もしアイデンティティが存在しなければ――つまり、全宇宙がたんに一体として存在し、その<一体>のどの部分にも全体が反映されているだけならば、本当のちがいはどこにもなく、したがってどんな関係もありえない。そして、もしどんな関係も存在しないことになれば、どんな物体も、事件も、物質宇宙も精神宇宙もありえない。
彼がここでいうアイデンティティとは、最初にふれた人間存在の本質的なパルスのことであり、いわゆるエゴのことではありません。レオナードはそのような表現はしていませんが、魂の波長というような意味でしょう。このアイデンティティが姿を表すとき、その人は宇宙と真に一体になっていると言えます。この本では合気道家のフロー現象や元複葉機乗りとその恋人に起こった奇跡のようなシンクロニシティ、すべてがうまくいくと知っていたとおりに重要な会議を乗り切ったビジネスマンの話、デュエイン・エルギンという研究者の実験での驚くべきできごとなどを紹介しながら、そこでなにが起きているのか、そして、なぜそれが起きるのかについて考察しています。
いずれも興味深く面白いエピソードなので詳しくは本書をぜひ読んでいただきたいのですが、ここではこれらの現象に共通している要素としてレオナードが言及していることを引用します。これは先に挙げたデュエイン・エルギンの実験の部分になります。
一九七三年から一九七五年にかけて、デュエイン・エルギンという研究者がスタンフォード研究所で一連の驚くべき実験をおこなった。厳重に遮蔽された敏感な磁力計に、意志の力だけで影響を与えようという試みである。この装置は磁場の変化を測定し、自動的に紙にその変化を記録してゆく。最初の数回の実験はだいたい同じような手順にしたがった。エルギンは磁力計から数フィート離れ、しかも記録装置の見えるところにすわるか立つかし、その装置にむかってあらんかぎりの意志力をむけて、それに影響をあたえようと試みる。かれは二〇分から三〇分のあいだ努力を続けたが、針はほとんど直線を描いて動かない。成果なしである。とうとう疲れはて、腹を立てたかれはこうつぶやいた。「もうあきらめよう。」
すると、かれが明け渡したその瞬間、針は磁場の変化をしめしはじめるのである。そうした変化はけっしてささいなものではなかった。ときには、針が目盛りからはみだしてしまうことさえあったのだ。ふつうの方法でこのような結果を得るためには、地球の磁場の一、〇〇〇倍くらいは強い力が必要となる。それに、物理的な距離もエルギンの力をさまたげることはなかった。一度など、かれは数マイル離れた自宅から磁力計に強い影響力をおよぼすことができたのである。
(中略)ここで、私たちは一つのパターンがあらわれはじめているのを見る。磁力計とうまく連動しているときのエルギンの状態――それは「焦点をもった明け渡し」とでも呼べるだろう
最後にでてくる「焦点をもった明け渡し」という言葉が、この不思議な現象の数々に共通している要素になります。
明け渡しという言葉からピンと来た人は、もうかなり理解が進んでいますね。わたしの観点では、いわゆる一瞥体験やピーク体験、フロー現象、シンクロニシティや不思議なくらい物事がうまくいくという体験などはすべて、本質的にはおなじことです。
そこで起きているのは一時的にエゴが弱まり、五感を通さず直接的に(=直感的に)物事を体験するということです。このとき、わたしと物事という分離はなくなり、Aが起きたからBが起きてCになったという線形的な因果律ではなく、ただのABCというありのままの現実とわたしが一つになります。レオナードに言わせるなら、その人の真のアイデンティティであるパルスが宇宙と共鳴している、ということになるでしょうか。
この宇宙との共鳴は「焦点をもった明け渡し」があるときに起こるのではないかとレオナードは考えています。これは「エゴによる動機ではない、その人の本質的なところからくる意志によって焦点化された明け渡し」というように言い換えてもよさそうです。わたし自身の経験ではそれほど劇的なものではありませんでしたが、それでも「もっといい人間になりたい」という真のアイデンティティを求める意志と同時に人生のどん底といえる状況のなかでエゴが完全に降参する(=明け渡し)ということが確かに起きていました。
明け渡しは意図してやろうとしてもなかなかできるものではありません。ゆえに、バクティ(帰依=明け渡しの道)、ジュニャーナ(智慧の道)、カルマ(行為の道)と呼ばれる悟りに至るための3つの道のうち、バクティは一番困難な道であるとわたしは考えています。とりわけ、現代社会で暮らす人にとってバクティは事実上、ほぼほぼ不可能でしょう。
しかしながら、ジュニャーナであったと自認しているわたしにおいても、きっかけとして起きたことは明け渡しでしたし、おそらくですが、ジュニャーナやカルマのヨーガの純然たる成果として悟りが起きるという事象よりも、偶発的に起きる明け渡し(強制的な明け渡しといってもよいかもしれません)によって目覚めるケースのほうが遥かに多いのではないでしょうか。
ただ、これが今回のポイントなのですが、この本を読めば、明け渡しといってもそんなに大げさなものばかりではないということが分かるはずです。実際、この本で紹介されているエピソードのような事象は、大なり小なりほとんどの人が人生において一度は経験しているはずです。明け渡すというのはつまるところ、エゴが現実をどうこうしようとするその働きを放棄するということです。エゴにとってはエゴ自体が存在していることより大切なものはありません。
ですから、正攻法でエゴを抑えこもうとしても、それは必ず失敗します。でも、この本のエピソードなどを参考に、ピーク体験やフロー現象が起きやすい状況を作ってそこに自らを置くことによって「焦点をもった明け渡し」が偶発的に起きるように誘導することは可能です。
わたしがこれから書いていく予定の内容は、この本でレオナードがいうところのアイデンティティに目覚めていく旅でもあります。これは悟りの向こう側の話のようでもありますが、アイデンティティを体験する機会、すなわち自らのパルスを感じる経験を重ねていけば、気がついたら悟っていたということにもなるはずです。
この本の巻末には、レオナードが考案したいくつかのワークが収録されています。これらのワークの目的はもちろん、自らのパルスを体験することです。ということは、焦点をもった明け渡しを引き起こすことも狙いの一つになっていると言えるでしょう。なかでも<中心への回帰><ソフト・アイ>という最初の2つのワークはおすすめです。
とくに<ソフト・アイ>はわたしが提唱している IF (直感的フィールド)と本質的にはおなじものです。ソフト・アイになれば直感的フィールドの中にいることになりますし、直感的フィールドを展開しているときはソフト・アイになります。ポイントはどこにも焦点を置かないことです。この本のソフト・アイの解説を読んだうえでわたしの IF に関する記事を読み返すことで、さらに理解が深まるはずです。
焦点をもった明け渡しを誘うワークとしては、もっともっと簡単で単純なものとして、「めちゃくちゃ筋トレをする」とか「めちゃくちゃ走る」とかでも実はアリです。山を登る(ハードに)のもよいですし、クラブで夜通し踊るとかも結構よいでしょう。もっとも、一番大切なことは「いかなる意志を焦点とするか」です。これをお読みのみなさんがこの記事を読む動機がその意志であればよいと、わたしは思います。
それではまた次の記事でお会いしましょう。読んでくださって、ありがとうございました🙂
霊的な師(マスター)を探すことはやめましょう
ひとりのひとの透察(ヴィジョン)というものは、その翼を他のひとに貸せはしないのです。あなたがたのひとりひとりは、神の「知」のなかに独りで立たされている。同じように、ひとりひとりが、神について「知ること」、大地を「理解すること」においては、孤独でなければならないのです。
カリール・ジブラン『預言者』
またまた久しぶりの記事となってしまいました。少し前にインスピレーションがあって、記事になりそうな考えがいくつか浮かんでいるのですが、形になるのはもう少し先になりそうです。今回はそれとは別に、いま現在の世の中の様子から、ちょっとこれは書いておこうと感じたことをお話します。
政治と宗教の密接な関係というのは実は大昔からあることで、とりわけ珍しいことが起きているわけではありませんが、それでもここ最近どんどん明るみに出てきている日本の政府与党と某宗教団体のつながりには、とくにこの某団体の名前すらご存知ないような若い世代の方は、かなりショックを受けているかもしれません。
この記事ではそうした出来事について掘り下げることはしませんが、一つだけはっきりとしていることを述べておきます。それは『そのような宗教団体とその教えは、霊的な真理とはほとんどなんの関係もない』ということです。これはなにもこの団体に限った話ではなく、およそほとんどすべての宗教団体が霊的な真理を伝える代わりに特定の神やその神に指名された特定の人物とその思想を崇拝させ、信者を組織化して集金し、そのお金を使って組織をさらに拡大強化しようとしています。
そうしたことが基本的に悪いということはありません。人はなにを信じるのも自由ですから、信じたい人は信じればよいだけです。ただ、これが行き過ぎて、本人の意志に反して強制的に入信させたり、信者から法外な布施をとるというような話になれば、それは当然ながらよくありません。これはその国の法律によって行ってよいことといけないことを判定し、それによって救済されるべき人が救済されるということと、法を逸脱している団体への行政的な措置が執行されることが望まれる話であります。
さて、さきほど『そのような宗教団体とその教えは、霊的な真理とはほとんどなんの関係もない』と書きましたが、そもそも霊的な真理とはなんでしょうか?
一言でいうならそれは『分離はない』ということになります。分離はない=すべてはつながっている(一つである)=存在するすべては意識であり、意識は存在するすべてである、というように、このことはいくらでも言い換えることはできますが、話を分かりやすくするために噛み砕いて説明すると、『この宇宙、この世界のすべては一なる意識のあらわれであり、この一なる意識から分離独立したいかなるものも存在しない。したがって、見かけ上は自分の頭で考えて行動し個人として振る舞っているわたしたちの誰ひとりとして、本当の行為者(行為の主体)ではない』ということになります。
人類史において偉大なマスターと呼ばれたブッダやイエス・キリストといった人物が人々に教え伝えようとしたのはこのことでした。このことからはじまって、釈迦はさらに詳細に説明し、それを理解することによって悟りに到達するための教えを開きました。イエス・キリストは釈迦とは異なるアプローチで、独立した個人はいない=誰もがひとつである=自分も他人も同じである、というところから隣人愛を説きました。
彼らが生まれたとされる時代にはインターネットはおろか電話もテレビもなく、また人々が遠くへ移動するのも簡単ではありませんでしたから、彼らは知り得たこの真理を可能な限り多くの人に伝え、それがさらに口伝えで拡散されていく必要を感じていました。それが本来の宗教団体である教団のはじまりでした。それから2000年以上の月日が過ぎた現在、驚くべきことに釈迦やイエス・キリストの名は残っており、さらにその教えを継いでいると自認・自称する宗教団体は無数といえるほどあります。
しかしながら、そうした宗教団体のどれだけが、彼らの教えの核心となる真理を正しく伝えられているでしょうか? わたしは、そのような団体は皆無だと思います。なぜそう言えるでしょうか。それは、真理そのものはまさにシンプルであり、それを教えるためにお金をとる正当な理由はないからです。真理は普遍のものであり、誰かのものではありません。特別な人が特別な修行をして身につけられる超能力の類でもありません。さらに言えば、教えられたから理解できる(悟れる)わけでもないのが真理です。言い方は変かもしれませんが、真理というものは商材たりえないのです。
ですから、おかしな反社会的カルト教団のようなものでなくても、組織を運営していくために信者からなんらかの布施(寄付)を取っていない宗教団体というものはおよそ想像し難い時点で、そうした団体のすべてが真理とは程遠いということになります。釈迦やイエス・キリストの原始的な教団は当初はすべてボランティア的に営まれたことでしょう。しかし、そうした在り方はおそらく、彼らの没後ほどなくして失われたのではないかとわたしは想像します。
ところで、ここまでは宗教団体について書いてきましたが、これはなにも宗教団体に限ったことではありません。というよりもむしろ、宗教団体の形骸化については多くの人がすでに気づかれているでしょう。ですから、もしかしたら、宗教団体よりも自称アセンデッドマスターや自称スピリチャルカウンセラーといった体で活動している個人の方がたちが悪いかもしれません。
はっきりと言いますが、わたしが知る限りにおいて、この日本だけでなく海外も含め、書籍を出版したりYou Tubeの動画に出るなどして、スピリチュアルをテーマにして生計を立てている人たちの中に本物のマスターなど一人もいません。ちなみに、本物のマスターというのはホーキンズ博士の意識のスケールにおける意識レベル600以上、すなわち覚醒者(覚者)という意味で言っていますが、それでいえば意識レベル600はおろか、540以上(無条件の愛)の領域にありそうな人も、残念ながらわたしは知りません。
もうお分かりかと思いますが、彼らが売っているものは霊的な真理ではなく、「霊的な真理を会得(会得するようなものではないのですが……)した私というすごい人物」というイメージなんですね。イメージ商売ということでは、言ってみれば芸能人と同じです。彼らが書いている本の内容や動画で話している内容を網羅しているわけではありませんが、そんなことをしなくてもその内容が真理とは無関係なことは断言できます。なぜなら、もし彼らが本当に理解しているのであれば、その理解を「売って」「それで生計を立てよう」なんて思うはずがないからです。
また、一度それを生業にしてしまうと、継続的に収入を得るために何冊も本を続けて出したり、毎日動画を更新したりしなくてはいけなくなるはずですが、そうすればそうするほど、その内容は単に本のページを埋めるためのもの、動画の尺を確保するためのものになることでしょう。そもそも最初から真理から外れているわけですが、こうなってしまうと開き直らなければできることではないでしょう。
もっとも、彼らが本物のマスターではないからといって、彼らの存在をわたしは否定はしません。彼らは彼らで自分自身の意識レベルに即したことを話し、伝えているわけですが、そのレベルの話を聞く必要がある人もいます。そもそも霊的な道における師と弟子、あるいは教師と生徒という関係性は、互いの意識レベルによって相応に定まるものです。
すなわち、悟ったマスターや覚醒したマスターを必要とする生徒は意識レベル500以上の領域にあるでしょう。こうしたマスターが伝える内容は意識レベル300台の人にはまったく理解できないし、意識レベル400台の人は頭では理解できるかもしれませんが、頭で理解できてしまうということそれ自体が本当の理解を妨げてしまいます。こうした人たちには意識レベル500台の教師がいればおそらくそれが適切でしょう。
実際のところ、スピリチュアルを商売にしている人の意識レベルにもピンからキリまでありますが、先に述べたように、本当の理解はそれをお金に変えようという気にはさせないという点で、彼らの意識レベルの上限はおそらく400台です。もちろん、例外はあるかもしれませんが、わたしは寡聞にしてそのような人を知りません。もし本当にご自分で書いているとして、曲がりなりにも本を何冊も書ける知力があるということは、やはり意識レベル400台の可能性は高いと思います。
400台はこの日本においても、かなり高い意識レベルです。ですから、彼らが書く本や動画で話す内容は、大多数の日本人にとっては基本的に有益であり、読む価値、聞く価値のあるものといえます。ただ、それは何度も言っているとおり、本当の霊的な真理とは関係のない知識とならざるを得ません。したがって、そのあたりをどうにか誤魔化し偽っている面は否めないでしょう。それでも、読み聞きして得られるメリット・デメリットを比較すれば、意識レベル200台や300台の人(日本人の8割くらいはここに該当するはずです)にとってはメリットのほうが大きいと思われます。
しかし、この記事を読まれているあなたはおそらく、もっと高い意識レベルの領域にあると想像できます。でなければ、この記事にたどり着くことはなかなかありそうに思えません。ですから、言ってしまえばここまでの話はもしかするとただの無駄話であったかもしれませんが、それでも最後にこれだけは覚えておいてください。
わたしがこのようにBLOGを書いて無料でネットに公開しているのは、真理は誰のものでもないと考えているからです。ブッダやキリストの時代とは違って、いまはこうしてネットに公開しておけば、必要としている人なら誰でも、たやすく見つけてこれを読むことができます。このことが意味しているのは、もはやこの時代においては、霊的なマスターなど誰にとっても必要ではないということです。ですから、マスターとして振る舞っている人物がいるならそれが誰であっても、その人はちょっと真理とはズレています。
同様に、この時代にまだマスターを探し求めている探求者も、ちょっと道から逸れています。必要なのは真理に触れることであって、マスターにお目にかかってありがたい言葉を掛けてもらったり、弟子として認めてもらうことではありません。霊的なマスターを探すことはもうやめましょう、というのが今回わたしが言いたかったことです。それではまた、次の記事でお会いしましょう。
指針――日月神示の核心とカタカムナ
お久しぶりです。すでにこのブログでは、わたしが文字にして書けること、書くべきことは書きつくしたと思っています。ですので、今後はこれまでのような長い記事でなにかをお伝えするということはあまりないかもしれません(この記事自体が前回から一年以上経っています…)。
とはいえ、これまでに書いた内容について、より理解をしやすくなるための補足的なことや、あるいは応用編としてなにがしかのヒントなどは、書くべきときが来たら(思いついたら、という意味ですが)書いていこうと思っています。
今回は後者(応用編としてのヒント)として、すこし書かせていただきます。
以前『意識レベルと高める話法、語法』
というものを書きましたが、実はこの記事には、記事のタイトルとは無関係の事柄を冒頭の余談という形で意図的に挿入してありました。内容はお読みいただければよいかと思いますが、これはDMTによるセッション中に降りてきたメッセージをもとに書いたものです。要点もその記事中に箇条書きでまとめてありますので、そちらをお読みください。
また、記事中に
しかしながら今後、こうしたことに関連した記事を書くことがあるかもしれませんので、あらかじめ伏線となる情報として提示しておきたいと思います。
と断っています。いまお読みいただいているこの記事もそういうことになりますが、noteの方にも
という記事を書いており、こちらの内容も先にあげた過去記事の内容を補足補強するものとなっています。そして、このnoteの記事は日月神示を引用したものとなっていますが、今回お伝えしたいことはまさにこの日月神示に関することです。
日月神示の原文は上記のように、記号や漢数字と平仮名の混じったものとなっており、そのままでは読めません。これを降ろした岡本天明さんやそのお仲間の方々が苦心して解読して普通の日本語として読めるように翻訳されたものが、いまわたしたちが『日月神示(あるいはひふみ神示)』として読めるものです。
そのことについてはここではこれ以上触れませんが、画像を見ていただくとある記号が多用されていることに気づかれると思います。それは
というものです。これは○(丸、円)の中に、(点)があるもので、日月神示を読みこんでいくとこの記号こそが日月神示の核心であることが分かってきます。ここではその核心とはどのような意味なのかということには直接触れません。しかし、わたしが先程の過去記事やnoteの記事で伝えたかったことも、この日月神示の核心とおなじことを指しています。このことにわたし自身が最近気がついたもので、そこで今回こうして書き記すことになりました。
だからなんなのだ? ということについては、わたしの方からはなにもありません。わたしという肉体精神機構が伝えるべきことは書きつくしたとすでに述べました。ですから、今回のお話は、わたしの記事をこれまでお読みくださった方が今後もなにがしかについて探求されるであろうという仮定において、「こういうことについて考えてみてもいいかもしれませんよ」というわたしからのちょっとした提案です。
ポイントとしては『回転とその中心』ということです。万象のすべては人間の知覚においてそのように認識できるか否かに関わらず、回転しています。回転こそが物質世界の根源だとわたしは思っています。そして、回転するものがあるとき、そこには必ず中心があります。このことをどのように理解し料理されるかは、お読みくださった方次第です。
また、興味深いことにカタカムナにおいてはその原文(ウタヒ)そのものが中心に対して文字が渦巻く(=回転)かたちで記述されています。
この画像はネットで検索してみつけたものを拝借しています(他のものもそうです)が、ちょうどこの画像は第5首の
ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ
というものです。おそらくカタカムナウタヒの中でもっとも有名な一首だと思いますが、その冒頭がヒフミ(ひふみ=一二三)であることは日月神示がひふみ神示でもあることと根っこのところではつながっているとわたしは思います。
そして、マワリテメクル(マワリテメグル=廻りて巡る)という表現。ここではこのウタヒが示す内容とその意味については触れません(そうしたことも、お読みくださった方々がご自分の琴線に触れたなら調べてくださいというスタンスです)が、こちらもこの物質世界の根本原理が回転であることを示唆していると思ってもらって結構です。
さて、今回の記事はこれでおしまいです。これを知ったところで、おそらくほとんどの方には興味深い以上の意味はないかもしれません。しかし、深く研究してみるだけの価値があるということだけはわたしから保証させていただきます。
それではまた、いつになるか分かりませんが次の記事でお会いしましょう。
統合性ってどういうこと?
今回は短めのお話です。
この In SPIRE ではデヴィッド・R・ホーキンズ博士が提唱された「意識のスケール」という概念をすべての記事における基本的な知識として活用しています。この概念についてまだご存じない方は下の記事をお読みのうえ、博士の『パワーか、フォースか』をぜひお読みください。今回の記事は、この本をすでにお読みか、もしくは読んではいないが「意識のスケール」について理解はしているという方に向けて書いていますが、ご存じなくても読めるようにはなっていると思います。
「意識のスケール」では、人間の意識のレベルを0~1000までの対数で表しており、意識レベルが1上がると霊的なパワーは10倍になるそうです。霊的なパワーとは、簡単にいえば周囲や世界全体にポジティブな影響を与える力のことと言ってよいでしょう。ところで、ここでいうポジティブという言葉ですが、この「意識のスケール」の概念では意識レベル199以下をネガティブとし、200以上をポジティブと位置づけています。
つまり、意識レベル200の人は世界によい影響力を発していますが、199以下の人は世界をより悪くする方向に影響しているということになります。
そこで問題になるのは、ポジティブとはどういうことなのか? 世界や周囲に与える「よい影響」とはどういう影響なのか? ということです。つまるところ、意識レベルが高くなるとは、なにが高くなっているのか? どうなっていくと意識レベルが上がったことになるのか? ということなのですが、わたしがみる限り、案外このことが明確には理解できていない人が少なくないようです。
そこで今回はこのことについて明らかにしていきたいと思います。
まず、意識レベルが低い人を想像してみましょう。大抵の人が思い描くのは「自己中心的な人物」であるはずです。逆に、意識レベルが高い人といえば「利他的で思いやりのある人」ではないでしょうか? まったくそのとおりなのですが、しかしこれは結果的にそうなるということであって、意識レベルの本質ではありません。
ポイントは、自己中心的と利他的という性質はどこからきているのか? ということです。自己中心的な人がなぜ自己中心的なのかというと、それは「自分は世界から独立した存在である」という認識からきているのです。この認識を「分離感」といいます。分離感が強いほど、世界は個々バラバラで、自分が生きていくためには他の独立した存在からなにかを奪って得なければならないという考えに囚われています。
一方、利他的な人は「世界はひとつ」であるとか「人間はみんなつながっている」というような認識を持っています。それゆえ、自分という存在は世界や周囲との調和の中にあってこそ生きていかれるのだと理解していますから、自分がよければよいというわけにはいかず、他の人も満たされていてはじめて自分も満たされると思っています。
この利他的な人が持っている性質を「統合性」と呼んでおきましょう。すなわち、意識レベルとは「意識の統合の度合い」を数値化したものなのです。統合性が高いほど、その人の意識レベルは高く、意識レベルが下がるにつれ統合性は失われ、分離性が高まっていきます。
それでは「統合性」とは、どういう意味でしょうか? このことをもう少し掘り下げてみましょう。
自動車の運転を思い浮かべてみてください。最近はオートマ車が完全に主流ですが、オートマ車を運転するということは
- フロントガラス越しに前方に注意を払う
- 前に進み加速するためにアクセルを踏む
- 減速し停車するためにブレーキを踏む
- 方向転換や車線変更をするためにハンドルを切る
- サイドミラーやバックミラーで周囲に注意を払う
- 道を曲がるときにはウインカーを点滅させる
- 必要に応じて窓を開けたり、ラジオやオーディオを操作する
などなどといった多様な動作、操作が求められます。運転免許を取り立てのころはまだ慣れておらず、これらの一々の動作、操作に集中しながら一生懸命行ったと思います。ところが運転経歴が長くなると、こうした動作のひとつひとつは意識しなくてもできるようになります。
これは一連の動作、操作を小脳が統合することによって実現されるのですが、このときいくつもの動作、操作の連続作業であったものが、「車を運転する」というたった一つのアクションにまとめられてしまいます。このとき、多数のアクションが一つのアクションに「統合された」ということができます。
つまり、統合とは複数の要素、要因をひとつにまとめるということです。
意識レベルが低い人にとっては「自分のこと」「あいつのこと」「世の中のこと」であり、それらはすべて別々のことです。だから、「自分のこと」を満たすために「あいつのこと」が損なわれても気にしない、どうでもいいということになります。
意識レベルが高い人は「自分のこと」と「あなたのこと」をひとつにまとめて「わたしたちのこと」という風にとらえています。さらに意識レベルが高まっていくと「家族のこと」や「友人・知人を含む人間関係のこと」や「地域のこと」や「国のこと」や「世界全体のこと」というように、より大きなことの中に「自分のこと」をまとめていけるようになります。最終的に「すべてのすべて」「存在するすべて」をまとめてしまうことができたとき統合性は最高になり、そのときその人は悟っているとみなされるでしょう。
問題というものもそうです。問題はその問題のレベルでは解決できないと言われますが、それが意味するのは「問題を解決するには、その問題をふくむより大きな(高い)レベルで考えなくてはいけない」ということです。これを言い換えると、問題を解決するにはより統合性の高い観点から考える必要があるということです。
「ある問題」はそれ自体独立してあるわけではなく、必ずその背景にある事柄や、周辺にある事柄と絡み合っているはずです。したがって「ある問題」と「ある問題の背後の問題」と「ある問題の周辺の問題」を統合して、「問題の全体像」を把握することによって、はじめて「ある問題」が解決されます。
意識の統合性が高い人は、人から聞かされた話でも、それをその件そのままに受け取ることがありません。どんな事象もそれだけで独立して起こることはありませんから、必ずそれは全体性(その人にとっての全体がなにを意味しているかも意識レベル次第ですが)の中で起きていることであると認識されます。そのように認識されると、問題は問題ではなくなります。問題というものは、かならず部分を切り取ったものであるからです。
ところで前回の『意識が世界を創造する(相互入れ子構造による宇宙の多重創造論)』という記事において、地球の誕生から人類の登場までに地球上の意識がどのように進化してきたかを説明しました。
この記事における地球意識(惑星としての地球と、その表面の生物相すべてを含みます)の進化も、より高次の意識をもった生物によってそれより下の次元の世界が統合されていくという説明が可能です。動物の意識には、人間の内面世界(内的世界)を創造することはできませんが、人間の意識は地球上のすべての生物の意識世界を創造(内包)=統合することができます。そしてもちろん、地球そのものはすべての生物の意識世界を統合していますから、この地球においては地球の意識がもっとも高い意識レベルをもっていると言えます。
ところで、最近読んだ
という本に面白いことが書いてありました。
さきほど自動車の運転に関わる一連の動作を「小脳」が統合すると書きましたが、この本によれば小脳は人間の脳においては決して統合的な部位ではないそうです。順を追って説明しましょう。
まず、この本の主題である『統合情報理論』とは、「(脳に)意識が発生するためには、そこで多数の情報が統合されている必要がある」という仮説です。言い換えると「多数の情報が統合されている場所に意識が宿る」という考えになります。
著者はこの仮説を検証するために電気的な刺激を脳に与え、その刺激への反応の脳全体への拡がりを脳波で測定する機器を開発します。この機器を用いて実際に被験者の脳を借りて実験を行うのですが、それによって分かったことがなかなか興味深いです。
人間の脳全体には約1000億のニューロンが存在しているそうです。そして実は、このうちの8割にあたる800億のニューロンは小脳に存在しています。なんと、大脳(皮質-視床系)には小脳の4分の1となる200億のニューロンしか存在しないのです。ところが、小脳には意識は宿っていないと考えられています。すくなくとも、わたしたちが意識と思っているものは小脳からはあらわれていないことは、この研究以前から明らかとされていることです。
そして実験の結果、小脳においては情報は統合されていないことが明らかになりました。一方、大脳では仮説が予想する通り、情報の統合を示唆する反応が確認できたのです。すなわち、意識は大脳に宿っており、大脳に意識が宿っているのは、そこで大量の情報が処理されているだけでなく、情報が脳全体の各機能に統合されているからだということが判明しました。
単純に情報を扱える量と速度でいえば、小脳は大脳を圧倒していると言えます。そのおかげで、わたしたちは慣れてしまえば大抵のことを意識せずに行うことができます。もちろん、先の車の運転の説明で触れたように、小脳においても動作の統合は行われていますが、単に肉体を操作するための情報をひとつにまとめただけのものであり、統合の度合いでいえば大脳が行っているそれに比べると、統合とさえ呼べないレベルのことです。
このことをもとに、最近よく語られている「AI(人工知能)は意識を獲得するか」という問題について考えるなら、いま用いられているようなコンピュータ用CPUの性能をいくら高めたところでそこに意識は発生することはないと言えそうです。逆に、人間の大脳を模した、情報を統合できるタイプの演算装置とそれに適したソフトウェアが発明されれば、その行く先には超絶な知能をもった人工生命体の誕生もありえるかもしれませんね。
人間の肉体に意識が宿るためにも「統合性」が求められるわけですから、意識を獲得した人間がより進化していくための指標もまた「統合性」であるのは当然のことと言えるかもしれません。すなわち、意識とは統合へと向かって進んでいくなにかなのでしょう。
意識が世界を創造する(相互入れ子構造による宇宙の多重創造論)
前回の『真理について要点を整理する(ふたたび非二元とはなにか?)』という記事で、『存在=意識』ということを述べました。
なにかが存在しているということは、それが「認識(意識)されている」ということを同時に意味しています。
今回はこのことから、宇宙はどのようにできているのかということを考えていきたいと思います。先にお伝えしておきますと、これから述べていくことは仮説でしかありません。ただし、真理にもとづいた仮説です。真理が言葉によって完璧に説明することができない以上、宇宙の完璧なモデルを言語で表現することもまた不可能でしょう。ゆえに仮説ということになります。
しかしながら、これから提案するモデルはおそらくこれまでに誰も明確に描いたことのないものです。これを理解すれば世界の見え方が画期的に変わるだけでなく、人生における様々なできごとを読み解いたり、問題に対してどう取り組むべきかを考えるうえで非常に役立つはずです。少々難解な概念なので、細かい理論的根拠はなるべく省いてイメージで理解できるように説明していきます。
では、まず冒頭に引用した『なにかが存在しているということは、それが「認識(意識)されている」ということを同時に意味している』ということからはじめていきましょう。
まず、意識という言葉がなにをあらわしているのかについて考えておきます。意識と心は同じものとして扱われることが多いと思います。実際、日常生活のほとんどの場面では、それで問題ないでしょう。しかし、ここでは意識のことを「気づきのスクリーン」と考えてみてください。
心とは、視覚などの五感からくる情報や、思考、感情、イメージ、記憶といったものが複雑に織りなす、気づきのスクリーン上のコンテンツのことです。すなわち、心は意識のコンテンツであり、意識は心のコンテクスト(背景)ということができます。
ところで、わたしたちはこの世界を直接観ていません。わたしたちが観ているのは世界そのものではなく、感覚器官から受け取った情報をもとに脳が作り出した世界像なのです。ですから、たとえば脳の視覚を司る部位に、りんごを見たときにその部位が受け取るのと同じ情報を電気的に伝えてやると、その人は目の前に存在しないりんごを見ることができます。映画『マトリックス』の発想もこれとおなじことを説明しています。
ポイントは、脳が作り出したのはあくまで『像』であって、その像を存在させているのは意識であるということです。
また、脳は夢と現実を区別しないそうです。ですから、目を覚ましているときに経験しているこの世界が意識の上に映し出された現実であるのなら、夢の中で経験する世界もまた現実であると言えます。ただ、これについては後で詳しく述べますが、どちらにより現実感があるかといえば目を覚ましているときの現実の方ですから、こちらが現実で夢は夢だとわたしたちは考えています。
目を覚ましているときには夢の世界の現実は存在しませんが、これは夢を見ているときにはこちらの現実も存在していないことを意味しています。どちらも意識のスクリーンにあらわれた像にすぎないわけですから、両者は現実感の違いはあれどどちらも現実であり、一方の現実があらわれているときは他方の現実は存在しないということです。また、熟睡しているときには意識のスクリーンにはどんなコンテンツもありません。したがって、熟睡時にはどんな現実もありません。
現実とは、世界を経験しているということですから、夢を見ているときや熟睡時にはこの世界は消失しているということになります。逆にいうと、わたしたちは目を覚ますたびにこの世界を創造しているということです。同じように、夢を見るたびに夢の世界を創造していますが、夢の世界は毎回違いますね。似たような夢をみるときも、その世界は少しだけ違っていたりします。これも後で説明しますが、目を覚ましているときの世界がなぜ毎回、こんなにしっかりとして一貫性のある世界なのか? というところが重要なポイントです。そしてさらに、熟睡時にはどんな世界も存在しません。なぜなら熟睡時の意識は休止しているからですが、この休止中の意識の状態こそが、すべての存在の基盤です。
ようやく最初のところに戻ってきますが、これが『存在=意識』ということです。どんなものであれ、それはすべて意識の上、もしくは意識の中に創造され、存在しています。ラメッシ・バルセカールは『存在するすべては意識であり、意識は存在するすべてである』という一言で真理を指し示しましたが、それはこういう意味です。つまり、この世界、この現実は意識が創造し、意識が存在させていると同時に、この世界のすべては意識である、意識でできているということです。
ところで量子物理学によると、量子(科学の世界における物質が存在する基盤といえます)は粒子であると同時に波であるそうです。粒子である、というのは固体であるという意味で、これが物質の素といえます。波である、とは一定のパターンで伝わっていくエネルギーの状態であり一種の情報とも言えます。そして奇妙に思えることに、量子は観測されるまでは波の状態で存在し、観測されると粒子化するのだそうです。観測とは要するに「気づく」ということですから、この物質世界は科学の目でみても「気づかれることで物質的に存在している」と言えるのです。
ここまでの話は、実をいうとわたしが最初に述べるものではありませんでした。「見ているときだけ世界は存在し、見ていないときは存在していない」「つまり、わたしが死んだら世界は消えてなくなる」という話は、聞いたことがある人も少なくないと思います。それについてすこし詳しく説明したのがここまでのお話でした。本題はここから先になります。
はたして本当に、「わたしが死んだら世界は消滅する」のでしょうか? このことが説明しきれないので、この話は「もしそうだったら面白いね」という感想以上のものがなかなか語られてこなかったのでしょう。
正解はというと、「わたしが見ていないとき、わたしの世界は存在していない」ということになります。わたしが見ている世界はわたしが創造しているのですから、わたしが見ていないとき(気づいていないとき)その世界は存在していません。しかし、あなたが創造しているその世界には、他の人間や動物、植物や水や石ころが存在しています。これらはすべて意識の上に存在していると同時に意識で出来ています。ですから、それらのすべてが気づきのスクリーンを持っているということになります。
気づきのスクリーンとしての意識を持っているということは、そのスクリーン上に世界を創造できるということを意味しています。つまり、あなたの世界の住人たちもまた、それぞれのやり方でそれぞれの世界を創造しているのです。
しかし、それはおかしいと思いませんか? そうだとするなら、彼らから見たあなたは彼らが創造した世界の住人であるということですから、彼らのうちの誰かが熟睡してしまったら、あなたは消滅してしまうことになるはずですよね。しかし、あなたはおそらく自分自身が消滅するということを体験したことはないはずです。わたしにも、そのような体験はありません。では一体、これはどういうことなのでしょうか?
これを説明していくために、わたしたちが生きている舞台であるこの地球が宇宙空間に生まれるところから順を追ってみていきましょう。
0次元の気づき(0次元意識)
宇宙空間のなにもない部分は真空であると言われていますが、真空とは時空間以外になにも存在しない場所と考えてください。物質は意識の中に存在していますから、時空間とは意識そのものです。つまり、宇宙とは意識の海のようなものと言えるでしょう。気づきの対象となるコンテンツのないこの真空の状態を、気づき(意識)の次元としてはゼロ次元とします。
1次元の気づき(1次元意識)
真空の宇宙空間に、超新星爆発によって放出された重い原子が集まってきて、原始惑星としての地球が生まれました。何億年かたって、地球の表面には大きな岩や石がごろごろした陸地と、海ができました。でもまだ生命は誕生していません。陸地を作っている鉱物や海の水といったものも意識でできていますから、それ自体が存在しているという意味で1次元の気づきを持っているといえます。すなわち、この頃の地球は1次元意識の環境であったということになります。世界としては、地球意識が創造している、ただひとつの世界だけがありました。
1次元意識の環境においては、他者から気づかれるということがまだありません。ですから、量子論がいうように、この世界はまだ物質的状態と波動としての状態の重ね合わせで存在しています。可能性として存在していると言ってよいかもしれません。このときの地球を、たまたま宇宙船で通りかかった異星人が観測するときには岩石と海だけの惑星がそこに見えていますが、彼らが去ってしまうと元の可能性の状態に戻ってしまいます。
2次元の気づき(2次元意識)
やがて地球上に植物や微生物があらわれます。こうした生物は周囲の環境に気づいていますから、植物や微生物が地球上を覆い尽くした時点で、ようやく地球世界はつねに気づかれている(つねに物質的に存在している)状態になります。これを2次元の気づき、2次元意識の世界と呼びます。2次元の気づきとは、自分と世界に気づいているということですが、2次元意識の下部ではまだ明確な自己意識はなく、世界は単に世界であって、世界と他者というような区別も存在していません。したがって、ここでは地球意識による基本の世界の上に、植物や微生物の種ごとのぼんやりとした世界が折り重なっています。
やがて昆虫や両生類、爬虫類といった下等動物があらわれます。この時点で生きていくために獲物を捕らえたり、種を存続させるために交配を行うようになり、個別性が意識にあらわれていき、個体ごとに世界を認識する(=創造する)ようになっていきます。それぞれの個体が創造する世界は範囲も狭く、存在の強度も弱いのですが、彼らの世界は地球意識と植物や微生物の意識によって創造された世界(1次元意識の世界)を基盤にしているため、より安定しています。ですから、ある個体が死んでも世界は存在し続けます。また、個体数が爆発的に増えていくことで、個体同士の世界が密接し、次に重なっていきます。
世界が重なるということは、世界を共有していると言い換えることができます。地球意識と植物意識も世界を共有しているのですが、この場合は単に重なっているという感じです。これは、この地球世界の存在基盤といえます。その上で動き回る下等動物たちはまず1次元世界を存在の基盤として共有し、個体ごとに世界を創造し、かつその創造した世界の中で、他の個体と出会います。このとき本当は個体と個体が出会っているのではなく、それぞれの世界が出会っているのです。これによって、二つの世界に共通の部分が生じます。これが世界の共有です。
ある個体が熟睡しているときにも、熟睡しているその個体の世界を他の別の個体が共有していれば、熟睡している間も共有されているものは存続しています。そもそも1次元意識の世界が基盤にあるため、2次元意識のどんな個体の個別世界も完全には消滅しませんが、ほかの個体と共有されていない部分はその存在が揺らいでいるはずです。しかし下等動物が創造している世界とは地理的な情報と本能的な行動パターンなどが主ですから、失われるのは地図データがほとんどかもしれません。
たとえばある個体がとても素晴らしい餌場を見つけましたが、誰にも教えていないとします。この個体が別の個体と世界を共有していますが、別の個体はさらに別の個体とも世界を共有していて、全体としてこの地域の同じ種の動物たちがひとつの世界を共有しています。このとき、最初の個体が生きているうちは、たとえ教わらなくても他の個体もこの餌場を見つけられる可能性が高まっていますが、もし最初の個体が死んでしまったら、その餌場は誰にも知られることがないかもしれません。
やがて哺乳類などのより進化した動物たちが出現しはじめると、2次元意識の世界はより複雑に共有されていきます。共有の複雑さ、綿密さが増すほど、共有されている世界全体の存在性は確固たるものとなっていきます。これは、それぞれの世界においては現実感(リアリティ)が増していくということでもあります。
これが、夢の世界よりも目を覚ましているときの世界の方が現実に思えるということの理由です。つまり、意識が創造する世界は重なれば重なるほど、よりリアルになっていくのです。夢の世界は基本的に自分ひとりで創造しているため、現実味が乏しいのです。夢の中で空を飛べたり奇妙なことが起きたりするのは、その世界では多数の存在によって合意(=共有)された物理法則が存在しないからです。
夢の中に、目を覚ましている世界での知り合いが登場するときには普段よりも夢が鮮明に感じられることがあると思います。こういうときは、その相手の人も同じ夢を見ているかもしれません。また、とても夢とは思えないほどリアルで、なにか特別な感じのする夢を見ることもあります。これは、もしかしたら人知を超えたなんらかの存在が創造した世界に招かれたか、あるいはあなたの夢の世界にそうした存在が介入してきた可能性があります。
ここまでで、この宇宙の構造がある程度みえてきたと思います。大雑把にまとめると、地球という惑星(ほかの惑星でも同じです)では、惑星意識が創造した基盤となる世界の中に動物たちや人間がそれぞれに創造した世界が相互に入れ子になって重なりあっているということです。これを「相互入れ子構造による宇宙の多重創造論」と呼ぶことにします。ちょっと長いですが。
3次元の気づき(3次元意識)
そして、とうとう人間が出現します。人間には動物にはない意識があります。それは抽象的にものごとを認識することです。この意識によって、さまざまな概念があらわれ、それを互いに伝えあうために言語が生み出されていきます。人間はこの抽象的思考によって目の前の物理世界(2次元意識の世界)を拡張するかたちで新たな意識次元である「内面世界」を創造することができます。すなわち人間は3次元の気づきを持つ生物です。そして、人類の内面世界によって拡張された地球世界はこのときから3次元意識の世界となりました。
人間があらわれるまえに、すでに世界は確固として存在していますから、一人ひとりの人間はすでにあるこの世界の創造にわずかながら手を貸しつつ、内面における世界の拡張と共有に意識のエネルギーの大半を傾けることが可能です。
人類の内面世界は相互に共有されることによって価値観や思想、科学、芸術、制度といったさまざまなものを次々に生み出しました。やがてそれは文明と呼ばれる形でより多数の人々に共有されていきます。
内面世界そのものは距離や時間に縛られていませんし、多くの人に共有され続ける限り、物質世界とおなじように存在し続けます。時を超えて読みつがれる文学作品があるのは単に本が物質的に残っているからではなく、その作品の世界が多くの人の内面世界で共有され続けてきたからこそ、物質世界に本として残っているのです。また、遠く離れた恋人に思いが通じたりするのは、内面世界そのものの共有度合いが非常に高まっていることを意味しています。同じ世界に生きているのだから、距離に関係なく気持ちが伝わるということです。
「価値観の違い」「気があう・あわない」「住んでいる世界が違う(まさに)」「なぜかあの人とは話が通じやすい」といった類のことはすべて、個人的な内面世界の波長と共有の問題と考えてみてください。いままでなんとなく考えていたことが、より明確に理解されていくことでしょう。
個人的な内面世界は、共有する・しないをある程度意識的にコントロールすることができます。そして、人間は内面世界の共有を通じて互いに影響しあうことができます。スピリチュアルな文脈で『自分を高めることが世界に貢献する唯一の方法である』というのは、まさにこのことなのですね。自分の意識レベルを高めるということは、より高い意識レベルの世界を創造するということに他なりません。
あなたの意識レベルが高まれば、あなたがなにもしなくても、あなたと内面世界を共有している人々はその恩恵を受けられます。これが一番大切なことです。
逆にいうと、あなたの意識レベルが下がると、近しい人に悪影響を与えてしまうということでもありますから、その自覚も必要になりますけれどね。
今回の記事はこのことを明らかにすることが目的でしたので、この概念(相互入れ子構造による宇宙の多重創造論)の応用的なことは今後の記事で取り扱っていこうと思いますが、最後にもう少しだけ続きます。
4次元の気づき(4次元意識)とは?
真空状態の0次元、鉱物や水だけの状態の惑星意識である1次元、動物たちの個別創造による2次元、そして人類による3次元意識の世界についてお話してきました。このように見ていくと、次の段階すなわち4次元意識の世界とは、どのような世界になるのだろうかという興味が湧いてきます。
もしかしたら、人類が地球外に進出していくことが4次元意識ということかもしれませんし、あるいは人類が地球上で進化して、より高次の意識を獲得して、その意識による新たな世界を創造するのかもしれません。
わたしはおそらく、後者のほうだと考えています。この次元意識という概念はわたしが考えたものですが、スピリチュアルな文脈では「次元密度」という概念が以前から言われています。そして、実はこの次元意識の概念は、次元密度に対応しているのです。次元密度という概念の出自はチャネリング情報にあると思われますが、わたしの理解では次元密度とは、波動(振動数)を段階的に表現したものです。
ですから、意識の次元が上がると波動も上がる(速くなる)というように考えれば、3次元意識をもつ人間の世界を波動という観点でとらえると、第3密度の世界であるということになるかと思われます。つまり、おなじことを異なる観点で説明しています。
そういうことですから、4次元意識を獲得した人類の世界は第4密度の世界であるということになります。第4密度の世界は意識レベルでいうと500から540の「愛」の領域ですから、「愛」という概念が人類の内面世界で完全に共有されることが、4次元意識をひらく鍵になるのではないか、と想像できますね。そして、そのためには数多くの人が意識レベル500以上に成長することが不可欠ですが、そういう人が増えれば増えるほど、あとから続く人も意識レベル500を超えやすくなっていきます。これが先ほど述べた世界に貢献することの真意でもあります。
記事は以上になりますが、実はこの概念については以前の記事でもすこしだけ触れています。当時はまだ今回書いたようなことまでわたし自身が理解できておらず書けなかったため、ほのめかすだけに留めていました。個人の内面世界の仕組みについては、下記のパラレルリアリティについての記事にも詳しく書いてありますから、ぜひあわせてお読みください。それでは長文を読んでいただき、ありがとうございました。
しかしパラレルリアリティでは、人の数だけ現実があり、そして一人ひとりの現実がさらに無数に存在するということになります。ある人の現実に存在する別の人にとっても現実は無数にあるということになりますから、無数に存在する現実のさらに内側に無数の現実が入れ子になっているという複雑な構造になります。
真理について要点を整理する(ふたたび非二元とはなにか?)
この In Spire では、これまでに様々な本を読んだり色んな人に尋ねたりして真理を探求してきた人々に、直観的な理解が起こるように促すことを目的として様々な話を書いてきました。ですから基本的に想定している読者は、すでに何年もかけて知的探究やヨーガや瞑想などの肉体を用いたサーダナ(行)を積んできて「ひと通りのことは知っている」方々ですが、基本的な用語や概念にはなるべくその都度に説明を加えたり、本論的な内容に入る前に「なぜこの話をするのか」という理解をもたらす導入部を設けて、これらの記事をたまたま目にした読者にも、霊的な探求心が芽生えることを期待しています。
今回はこれまでに書いてきたことのまとめとして、そしてまだ書いていないことへの足がかりとして、真理についてさまざまな要点を整理して述べていきたいと思います。記述方法としては、根源的な真実からはじめ、わたしたちが生きているこの世界がどのように出来上がっているのか、人間とはなにか? そして悟りとは? という順序をとります。すべての人はすでに出来上がっているこの世界に唐突に放り込まれます。このため、なぜ世界がそうなっているのか、そしてなぜ自分がこうなっているのかを正しく知ることができず、誤った理解のまま人生を生きています。ここでは、このことを明確にしていきます。それでは、はじめていきましょう。
(ちなみにかなり長くなります)
現れる前
なにかがあらわれるとき、その前には「あらわれていないこと」があります。まったくなにもあらわれていないとき、顕現していないもののすべてがあります。この顕現していないもののすべて、すなわち絶対的な非顕現には、存在も非存在もありません。あるのは、存在/非存在の可能性だけです。この可能性を「気づき」と呼ぶことができますが、可能性の時点では気づきはそれ自体に気づいていません。
存在・意識・歓喜(サット・チット・アーナンダ)
気づきがそれ自体に気づくためには、対象となるものが必要です。対象となるということは「存在している」ということです。なにかが存在しているということは、それが「認識(意識)されている」ということを同時に意味しています。
すなわち『存在=意識』であり、存在とは意識のことであり、意識とは存在ということです。なお、意識とは実存ではなく観念ですから、存在するすべては観念であると言えます。
そして、非顕現の気づきにとって「存在=意識」は自らを知るための表現ですから、それ自体が非顕現である気づきにとって喜び(歓喜)です。個人的な喜びのことではありません。これは誤解されている人が多いと思います。
ヒンドゥー教でサット・チット・アーナンダと言われるのはこのことで、これがこの世界の本質です。この世界、とわたしたちが認識しているもののすべては非個人的な意識であり、意識がすべてを存在させていると同時に、存在しているすべては誰のものでもない意識なのです。
唯一の主観である「I(わたし)」
意識がその中に現象を起こすたためには「空間」と「時間」という機能が必要です。この機能によって意識というスクリーンに見かけ上、なにかが体積をもってあらわれ、それが動くことが認識可能になります。これが現象です。すべての現象は意識の中にありますが、それが意味するのは「すべての現象は非顕現である気づきによって気づかれている(認識されている)」ということです。
つまり、この世界は『非顕現の気づきという唯一の主体』によってのみ認識されているということです。それ以外に、この世界には真の主体といえるものは存在しません。そして同時に、認識されている世界のすべては認識している非顕現の気づきが顕現したものですから、「観ているものと観られているものは同じ」ということになります。
この唯一の主体こそが、「真我」と呼ばれるものであり、賢者が用いる際の「わたし」の正体です。ホーキンズ博士はこれを「I(大文字の i )」と呼んでいました。
「目は目それ自身を見ることができない」という言葉がありますが、この言葉は「真の主体はそれ自体を認識することができない」ということと「ゆえに認識される対象物は真の主体ではありえない」ということを意味しています。真の主体はそれをなんと呼ぶとしてもその名前(名前で呼べるものは対象物ですから)のものではないし、その本質を言葉で説明することもできないのです。そしてまた、わたしたち人が「これが自分だ」と思っている(認識している)もののすべては単に見かけ上そのように見えるだけの偽の主体であるということを示唆しています。このことはあとでまたとりあげます。
意識と心の違い
意識は存在とイコールですが、存在という観念はその中に「非存在」という観念を内包しています。言い換えると、「存在していないなにか」が意識の中に存在しているということです。したがって、意識は非存在を存在として無限に生み出していきます。この働きが空間と時間の中で展開されていくとき「進化」という見かけ上の現象が起こります。
すべてのものは意識ですから、石や水も意識です。意識です、という表現ではしっくりこなければ、石や水も意識のあらわれであると言ってもよいでしょう。しかし、すべてのもの(=存在)の本質は意識であるということから逸れないようにご注意ください。
さて、意識の働きによってこの世界にはさまざまなものが無限に生み出されていき、そしてその中で進化という現象が起こります。やがて惑星と呼ばれるものができ、その表面に生物が出現します。すべての生物は意識のあらわれですから、すべての生物には意識があります。しかし、すべての生物が意識を持っているという表現は誤りです。なぜなら、意識を所有するどんな実体も存在しないからです。生命が意識をもつのではなく、意識の中に生命があらわれるのです。
おさらいになりますが、意識があるということは「存在している」ということです。これを忘れないでください。
生物は進化を繰り返して、より複雑で精妙な知覚を備えた体を獲得していきます。知覚が優れた生物ほど、意識のスクリーン上にあらわれる感覚的情報の量が多くなります。この情報量がある閾値を超えるとそれは『自らが存在している感覚(存在の感覚)』となっていきます。
この『存在の感覚』こそが『心』とわたしたちが呼んでいるものです。すべての存在には意識がありますが、心を持つのはある程度高等な生物だけです。
ミツバチや渡り鳥の個体にはこのような『存在の感覚』すなわち『心』はまだほとんどありませんが、犬や猫はあきらかに自分が存在しているという感覚、すなわち心をもっています。それはたとえば犬や猫は飼い主が他の個体を自分よりも可愛がると拗ねたりすることから分かります。
この『存在の感覚』こそがあらゆる二元性のはじまりです。したがって犬や猫も二元性にとらわれていると言えますが、ここから先は人間の場合で話をすすめていきます。
非二元とはなにか?
『自分』が存在しているという認識は、『自分以外のもの』が存在しているという認識を同時に生み出します。このことで自分と世界、自分と他者(他の生物個体)という区別がなされますが、そもそも知覚というものは「あるものを認識する(意識の焦点をあてる)ために、『あるもの』と『あるもの以外』を区別する」メカニズムなのです。
このように自分と自分以外であったり、あれとあれではないこれ、熱いと熱くない(冷たい)と、物事を二方のいずれかという形で認識していくとき、そこにあらわれている性質を『二元性』といいます。
これでお分かりのように、この二元性はこの世界の本質ではなく、人間や犬猫の意識の中に心という自己存在の感覚があらわれたことによってはじまった錯覚なのです。二元性は錯覚ですから、「非」二元というのが真実なのだよ、というのが非二元という言葉の意味するところです。
すべては観念であり、観念は人を巻き込んでしまう
先に述べてきたように、この世界のすべては非顕現の気づきという真の主体が認識している対象物ですから、人間も犬も猫も認識の主体ではありません。認識の主体でないということは、行為の主体でもありませんから、『自分』というものはただの観念にすぎません。これは心もまた観念であることも意味しています。
犬猫と比べて人間の肉体にはさらに優れた知覚が備わっています。この知覚が言語を生み出しますが、言語のはじまりは「モノの名前」です。名前の本質は二元性であり、言語の本質もまた二元性です。人間は自らの名前をもっていて、違う名前をもった他の人間と言語を用いてコミュニケートします。ですから、人間は犬や猫よりもさらに深く強く、二元性に巻き込まれているといえます。
「(個人的な)わたし」という観念
犬や猫などの高等な動物には心、すなわち自分が存在しているという感覚がありますが、「わたし」という明確なアイデンティティは人間だけがもっています。言語を用いることで人間は「わたし」に様々な属性や情報をつけ加えていきます。そうして「あなたは誰ですか?」と聞かれたときに「わたしは○○という名前で、△△の者であり、□□という人生を送ってきました」というアイデンティティ(観念)が確立されていくのです。
ここで確認ですが、「あなたは誰?」と聞かれたときに思い浮かぶ「わたしは○○という名前で、△△の者であり、□□という人生を送ってきました」という答えは本当にあなたは誰? という問いの答えになっているでしょうか?
ここが肝心なので、よく考えてみてください。
実はこの答えは、あなたの肉体と心と、それらが経験してきた時間の別名に過ぎないのではありませんか?
あなたには肉体を所有している感覚がありますね? そして、その肉体が感じるさまざまな知覚情報をあなたは受け取っています。その知覚情報をもとにさまざまなことを考えて判断したり、怒ったり笑ったりする心もあなたは持っています。しかし、それらのことはすべて、意識の中で認識されている(=観念である)ということにお気づきでしょうか?
さらに整理します。あなたは肉体を認識しています。あなたは知覚を認識しています。あなたはさまざまな機能(思考、推論、判断など)とコンテンツ(印象や感情)を持った心を認識しています。
それでは、この認識している『あなた』とはなんでしょうか? 認識されている対象物は認識の主体ではあり得ないのですから、肉体や知覚情報や心は認識の主体、すなわちあなたではありません。そうすると、あなたとはなんであり、それはどこにいるのでしょうか? 本当に存在しているのでしょうか? もっと言うと、本当に『あなた』が認識しているのでしょうか?
(続きを読みになる前にここでしばし熟考してみてください)
あなたとは「あなたという観念」であり、この観念は肉体の感覚や知覚情報や心の機微といったもの(これらもすべて観念です!)とまったく同じに、意識のスクリーン上にただあらわれているのです。
ふたたび唯一の主観とはどういうことか?
すべてを観ているのは真の唯一の主体である非顕現の気づきです。つまり、あなたの肉体や知覚情報や心を認識しているのはこの非顕現の気づきなのです。あなたがあなただと認識しているすべては、実は非顕現の気づきによって「認識されているもの」であるということが真実です。真相は、観念の集合体である心の機能が「あなたという観念」を作り出し、それが心自身と肉体を操縦している主体であると錯覚させているのです。
ここからは、真の主体のことを仮に神と呼びます。もちろん真の主体とは絶対である非顕現の気づきのことですから、そこには神はおろか、他にいかなる属性も呼び名もありません。しかし言葉で説明する上であくまで方便として用いるなら「神」という言葉はむしろ分かりやすいかもしれません。
観照とは?
神はすべてを認識している唯一の主体です。神はすべてを認識していますが、認識されているすべてもまた、神からあらわれた可能性が表現されたものです。すなわち、神が神を観ているというのが、真理です。ですから、人は自分を実存するものとして認識していますが、実際には、神によって目撃されているのです。これが観照ということです。神によって、神であるわたしが観られているのです。観ているものと観られているものが同じですから、本当には、ただ「観られる」ということだけがあるのです。
直観的な理解(悟り)
このことを知的に理解することは不可能です。なぜなら、知的な理解とは、心の機能である知性を用いて行われる思考によってなされる理解だからです。神によって認識されている対象物である心や知性や思考によって、認識している主体である神を把握することはできないということです。
唯一可能なのは、ありのままをそのまま観ること、すなわち直観的な理解です。そして、この直観的な理解が起こり、意識の視座が偽りの主体である肉体と心(これを肉体精神機構と呼びます)から、神へと移動する(戻る)ことを『悟り』と呼びます。
悟りは、覚醒や目覚めと呼んでも構いませんが、直観的な理解ののち、意識の視座が完全に神の座へと定着した場合のみを悟りとし、そうでない場合と区別することも可能です。
なぜ一体化が起きるのか?
意識の視座が肉体精神機構と一体化していることは、人がこの世界で生きていき、さまざまな経験をするために必要なことです。必要なことだから、生まれてきた赤子の意識はすべて、遅かれ早かれ肉体精神機構との一体化を一度はします。そして、ほとんどの場合、その一体化は肉体精神機構が終わるとき、つまり肉体が死ぬときまで続きます。肉体が死ぬとき偽りの主体である個人的な意識(心)は肉体を去り、全体性(非顕現が顕現としてあらわれたすべて)の中に帰っていきます。しかし、意識それ自体ははじめからずっと存在し(なぜなら存在とは意識そのものだから)ており、消滅することはありません。ですから、誰も生まれていませんし、誰も死なないのです。
余談:輪廻転生、幽界、天界
余談になりますが、そもそも実存する個人などないのですから、肉体が死んだあとに天国へ行ったり地獄に堕ちたり、いずれまた生まれてくる誰かなど、いません。ですから「魂という人間の本質は不滅で、この魂が肉体の死後に天国や地獄を旅して、いずれまた肉体をもってこの世に生まれてくる」という輪廻転生の観念には誤りがあります。とはいえ、輪廻転生そのものがないということでもありません。
これにはいくつかの説明が可能ですが、簡単にいえばわたしたちがこの世と呼んでいる世界では、肉体精神機構という乗り物に非個人的な意識が一体化しているのですが、この世にはこの世の因果律が存在し、そのメカニズムの中では魂という概念なしに輪廻転生(のように見えるもの)は成立するのです。これについては以前の記事で詳しく述べていますので、まだお読みでない方はぜひ目を通してみてください。
また、天国や地獄といったものがあるかないかと言うと、そうしたものも観念としては存在しています。観念だからといっても、想像上のものに過ぎないということではありません。ここでは簡単に述べますが、非個人的な意識が一体化する乗り物は肉体だけではないということです。それを霊体と呼ぶか、あるいはアストラル体やコーザル体などと呼ぶかはそれも観念しだいなのですが、要は肉体が機能を停止したあとにも意識が一体化し続けられる媒体があれば、個人的な意識(偽の主体であり、幻想ですが)は継続することが可能です。
たとえば仮にアストラル体というものがこの世での死後に肉体から離れるとします。このアストラル体は非物質(この世でわたしたちが知覚できる素材ではない)でできているのですが、そのためアストラル体が存在しているのはこの世ではなく、アストラル界(幽界)となります。アストラル界の他に天界や神界というような世界がもしあるのなら、そこに行くにはアストラル体とはまた異なるボディが必要になるかもしれません。
そして、アストラル界や天界、神界というものがあるのなら、その世界の住人たちがいるかも知れません。仮に存在するとしても、言えることは彼らもまた、なんらかの乗り物と一体化した非個人的意識である偽りの主体、観念としての存在であるということです。
このように考えれば、この世とあの世を行き来しながら何度もの人生をこの世で経験するという、輪廻転生のシステムは存在しえます。が、何度も言っているように、これらのすべては観念であり、幻想です。この世のような精妙なシステムが観念としても存在しているのですから、同様に精妙な異世界があっても不思議ではありませんね。
しかしながら、肉体による一回の人生に比べれば遥かに長い時間を経験できるとしても、それはあくまで偽りの一時的な主体が経験していることですから、いずれ最後には必ず全体性へと帰っていくことになります。その意味で、不滅の魂というものは存在しません。ただし、アストラル体やその他の肉体以外の乗り物のことを魂と呼ぶのであれば、それはそれで問題はないと言えるでしょう。それもこれも、観念に過ぎません。
なぜ人は苦しむのか?(なぜ人生は苦しいのか?)
長い余談でした。話は戻りますが、必要なこととはいえ、肉体精神機構と一体化することによって人は自らを独立した行為の主体であると錯覚するため、自分の為したことには責任があると考え、また他者に対してもそのように考えてしまいます。本当は考えるというより、そのようになっていると自然に思われるのです。
また、自分はこの肉体だと考えているため、その肉体が病気になったり老いていくことを憂い、肉体の死を自らの消滅であると恐れます。
そのため、人生は苦しみに満ちた深刻なものになります。
実際には実体のある個人というものは存在しません(誰も生まれていませんし、誰も死にません)から、誰にもどんな責任もありません。ただ、これはその肉体に起こった行為に結果が伴わないということではありません。もしその時代の法を犯せば罪に問われるでしょうし、不摂生をすれば病気にもなるでしょう。しかし、繰り返しますが、それを苦にする個人は幻想なのです。
悟りが起きるとき、肉体精神機構との一体化は解体され(偽の主体には解体「する」ことはできません)ます。
このとき『誰も生まれてもいなければ死ぬこともないのだから、どんな責任もあるはずがない』ということが直観的に理解されるため、悟った賢者は苦しむことがありません(肉体的な苦痛はもちろんあります)。
探求をする人々は、自分は苦しみ(に満ちた人生)に束縛された存在であると考え、この束縛から開放されたいと願っています。それが悟りを求める理由です。しかしながら真実はというと、束縛されている自分というのは幻想であって、したがって開放される自分というものもありません。
起こることは、そうした幻想が打ち砕かれて、本当の自分とは、束縛からの開放を求め続けてきたこの肉体精神機構を見ていた神としての非個人的意識であったことが明らかになることです。
人生は生きるのではなく、生かされるもの
悟りが起こると、どんなことが起きても、その瞬間にその場にいる肉体精神機構に与えられた役割を適切に行うことと、やりたいことをやって生きるということになんの矛盾もなくなります。
なぜなら、人間とは全体性という神の働きの中で「生かされている」だけの存在であることが明らかになるからです。もちろん、その中で喜んだり悲しんだり考えたり遊んだり働いたりします。見かけ上は普通の人となにも変わることがありません。ただ、誤った一体化は常に見破られているので、出来事に深刻に巻き込まれていくことがなくなるのと、真実と真実でないものの区別がなされるようになるだけです。
悟った賢者は意図して他者を傷つける(肉体的にも精神的にも)ことはしなくなるでしょう。なぜなら、他者は存在しないからです。かといって、賢者がみな人類を救おうという壮大な使命を掲げたり、あるいは仙人のような生き方をするわけではありません。それどころか、そのような賢者はごくまれでしょう。ただ、基本的にみな親切で普通の人よりは思いやりがあって優しいはずです。そして、それがその賢者の肉体精神機構の役割であるのなら、人々に教えるでしょう。
以上、簡潔にまとめるつもりが長くなってしまいました。しかしながら、大切なポイントは網羅できたと思いますし、それぞれのポイントはこれ以上簡単には説明出来ない程度に噛み砕けたと思います。理想的には、これまでの記事をひと通り読んでからこの記事を読んでいただくのがベストだと思います。また、この記事を読んでから、以前の記事にあたっていただくことも悪くないでしょう。その人その人のタイミングと動機によって、どうとでも読めるようにはなっているはずです。
わたし自身も、こうしてアウトプットすることによって、さらに理解が深まりました。ありがとうございます。
意識レベルを高める話法、語法
その人から出てくる言葉は、あたりまえですがその人の意識レベルを反映しています。
意識レベルが低いということは自己中心的で、自己と他者、自己と世界の間の分離分断の度合いが大きいということです。意識レベルが高いということはより統合的、調和的で、自分と他の人をおなじ一つのものであると感じているということです。
心と体は表裏一体であるとはよく言われることです。とても嬉しいことが起こると思わずガッツポーズすることがありますね。ひどく困った状況に落ち込んだら、つい頭を抱え込みたくもなります。
これを反対にしてみるとよく分かるのですが、ガッツポーズをしながら窮地に追い込まれているところを想像してその気になってみようとしても、なかなか上手くいきません。背中を丸めて頭を抱え込んで、めちゃくちゃラッキーなことが起きて喜んでいるつもりになることも難しいでしょう。
たしかNLP(神経言語プログラミング)だったと思いますが、このことを応用して、自分の持っていきたい気分や心持ちを表現するようなポーズを体で表現することで、心の方を変えてしまうというテクニックがあります。わたし自身もビジネスマン時代にはこの技法をプレゼンテーションの前や最中によく使いましたし、新入社員の教育を任されていたときにはこのテクニックを実習に採り入れていましたが、大きな効果がありました。
さて、冒頭に書きましたが、心と体が表裏一体であるように、心と言葉も表裏一体といえます。そうわたしが言うと、なるほどそりゃそうだと思われるかもしれません。しかし、体の動きは無意識的に起こるのに対して、言葉というものはいくぶん意識的に発するものですから、実はこれは、そんなに分かりやすいことでもないのです。
わたしはTwitterを10年以上使っていますが、どんな人のツイートであれ、それ一つを読んだだけではその人の意識レベルがどれくらいかなんて、ほとんど分かりません。ある程度の期間、それなりの頻度でつぶやかれた言葉を総合すればある程度のことはもちろん推し量れます。でも、先ほど書いたように、言葉は意識的に発するものです。まして口から発せられる言葉よりもSNSに投稿される言葉はより慎重に選ばれている(そうでないことも多々ありますが)ものです。
ですから、他の人の言葉をとりあげて、心と言葉が表裏一体であるという観点からなんらかの判断をすること(つまり、その人の意識レベルが高いか低いかなど)は、わたしはおすすめしません。ですが、こと自分の発した言葉に関していうなら、それが意識的に発せられたものであれ、思わず口から出たものであれ、自分の心の中のものが反映されていると考えることは正しいと言えますし、そのつもりで観察してみれば、得られるものは多いでしょう。
そして、そうであるならば心と体のケースと同じように、言葉の方を意識的に変えてあげることで、心のあり方に影響を与えることもできると考えることができます。この考え方をうまく用いることで、意識レベルを効果的に高めることが可能になります。
これから紹介するテクニックは、以前わたし自身が実際に数年間、意識的に取り組んだものです。なぜそれを思いついたかというと、要するに、当時の自分が用いている言葉(主にTwitterに書いている文章です)がとてもエゴイスティックであることに「ふと」気づいたからです。正確な時期がちょっと思い出せないのですが、父親が死んで以降、さまざまな気づきが次々に起こるようになったので、その頃のことだと思います。
エゴイスティックな文章、あるいは自己中心的な話し方、というと具体的にはどういうものだと思いますか? 当然、その内容が自分中心であったり、上から目線な物言いだったり、あるいはやたらと攻撃的だったり批判的だったりということが想像されると思います。もちろん、それで正解なのですが、そういうものはそれこそその人の内面、つまり考え方や感じ方がそのまま出ているわけですから、これを意識的に変えるというのはなかなか難しいでしょう。思ってもないことを書けと言っているようなものですから、これは無理です。
しかしながら、こういった自己中心的な話し方、書き言葉には、その内容よりももっと分かりやすい、ある特徴があるのです。
それは一人称がやたら多いということです。単に多いだけでなく、用いなくても意味の通る言葉にまで一人称が挿入されているというところです。一人称というのはお分かりと思いますが「わたし」とか「俺」という言葉ですね。意識レベルが低い人ほど自分という概念、すなわちエゴが強大なわけですが、この「わたし」や「俺」という一人称はまさにこのエゴそのものなのです。ちょっと、例をあげてみましょう。
『アベノマスクは配布されるのも遅いし、寸法も妙に小さいし、なんだかあまりよいとは俺には思えない』
これはわたし自身が思っていることですが、例えばTwitterではこのように書かなくても
『アベノマスクは配布されるのも遅いし、寸法も妙に小さいし、なんだかあまりよいとは思えない』
と書けば、わたしがそう言っていることは誰からも明白ですから、「俺には」とあえて言う必要はどこにもないわけです。
では、こちらはどうでしょう。
『道を歩いていたら、前から歩いてきたおばさんにぶつかられて危うく怪我をするところだった』
この文章にはとくに不足はありませんね。ところが
『道を歩いていたら、前から歩いてきたおばさんがわたしにぶつかってきて、危うく怪我をさせられるところだった』
このように書く人が多いのです。ポイントは、「わたしに」という一人称の目的語が挿入されると、怪我はするものではなく、させられるものに変化することです。微妙な違いですが、どちらが自己中心的かと考えてみると結構な違いがあると思いませんか?
これでもうお分かりかと思いますが、意識レベルを高める話法、語法とは「一人称を極力用いないで話す(書く)」ということです。はじめのうちは、話し言葉よりも書き言葉から試してみるとよいでしょう。いざ一人称(とくに主語)を使わないと決めてみると、思ったことがなかなか言えないと感じることがあると思います。たいていの場合、そういうときはエゴがなにかを主張したがっています。このときに、どのように言い換えればよいかと考えるわけですが、結果として選ばれる言葉は一人称を用いたものよりも、必ず調和的、統合的なものになります。
もちろん、どうしても一人称を用いる必要がある場合もあります。その場合は普段自分が話し言葉で用いている言葉(たとえば「俺」)ではなく、「自分」という言葉を使うことをおすすめします。こうすることで、エゴの投影である「俺」ではなく、単に他の人ではなくこの言葉を発している人であるところの「自分」というニュアンスに変わります。この微妙な違いが大切なところです。よく分からないという方は、とりあえずそうしてみてください。使っているうちに、だんだん分かってくると思います。
慣れてくると、いつの間にか自分の思考の仕方が変化していることに気づかれると思います。思考の仕方がより統合的、調和的に変わるということは、それだけ意識レベルが高まったということです。目安としては最低1年くらいは続けてみてください。やっているうちに話し言葉も自然と変わっていくでしょう。
これは非常に強力なテクニックです。しかもやることはシンプルなので、やり方に迷うこともありません。瞑想やほかの行をどれだけ試してもいっこうに目覚めた感じがしないという人も、これをやれば確実に変化を感じられると思います。ぜひ実践してみてください。
ちなみに、わたしは現在はこのテクニックはあえて使っていません。ですが、これを数年行ったことで、一人称を自覚的に用いることができるようになりました。この訓練と、下記の過去記事で紹介したトレーニングは二元性を超越するために確実に効果がありますので、両方とも試してみられることをおすすめしておきます。
理論編と実践編があります。
さらに応用編です。